罫線上の絆   作:yoruha

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4、机上同盟

 

 

 

 

 

 噂は、新聞部が情報を入手し吟味するまでに掛かった時間と、同じくらいの早さで走り回った。いや、更に早い速度で広まっていた。ひとたび加速のついた噂は止まるということを知らなかった。

 三奈子が話題の小説を入手した時点で、すでに噂は足を止め、大きく成長する段階に入っていた。これはまずい。リリアンかわら版で急いで記事にしなければ。いくら試験勉強で忙しいからといって、情報収集をおろそかにしていては築山三奈子の名が廃る。

 話題は生ものであり、情報は早さが生命だった。

 そして噂の中心は、最も生徒たちが求めている人物のこと。すなわち、ロサ・ギガンティアだというのである。

 これを逃すことなどできやしない。そんなことは決まっていた。コスモス文庫。須加星。いばらの森。さてさて内容は――と読んでみた。ん、と思った。

 読み進めているうちに、冷や汗が、一筋たらりと三奈子の額を流れ落ちる。

 そして読み終わった。落ち着くために息を吸い込んで、吐きだして、また内容に目を通す。三奈子は慌てていた。記憶にある、一年前のロサ・ギガンティアと酷似していた。

 試験勉強など脇に置いて、こちらに専念しなければならないと思った。すでに出遅れ気味なことは承知してはいるが、それでも放置するわけにはいかなかった。

 誰が書いたのか。それは確信できない。証拠がなければ記事にするわけにはいかない。

 そうして三奈子は去年のある出来事を思い出す。クリスマスの直前だっただろうか。新聞部で記事の担当だったとき。たしかに、これに似た話を聞いたのだ。

 あのときは記事にすることを梢に止められた。その判断は、いまのロサ・ギガンティアを見ると、やはりお姉さまが正しかったのだと三奈子は思考する。

 いばらの森を書いたのは、ロサ・ギガンティア本人だろうか。それとも、違うのだろうか。少し前、黄薔薇革命と題して記事を書いた。そのおかげで、山百合会幹部たちや先生たちにこっぴどく絞られた経験が頭をよぎる。

 あれはやりすぎたと三奈子も思っているのだ。その反省の記憶は、一年前、佐藤聖さまのことを記事にしようとして、お姉さまに諫められたことまで思い出してしまう。

 タブー。

 噂。

 三奈子が知る、あのころ聞いた噂はすべてが真実だった。書くわけにはいかなかった。あのころのロサ・ギガンティアを知っている人間は、その話をすることを禁忌とした。端から見ていても痛々しかったという、そのころの姿を忘れようと。

 しかし。

 書きたい。書いちゃいけない。書きたい。みんなが知りたいことがそこにあるのに、書けないなどということがあっていいのだろうか。いや良くない。決してそんなことは許されるべきではない。

 矛盾する思考の狭間で、三奈子は迷っていた。理性がブレーキを利かせている状態だった。今日を逃せば、もう間に合わない。話題の最中に記事を刷ることはできなければ意味がないのだ。多くの生徒の手にリリアンかわら版を行き渡らせるには、それ相応に印刷の時間が必要なのである。

 この小説が出版されたのがロサ・ギガンティアの手によるものだとすれば、そのへんの事情を山百合会の関係者は知っていそうだと考える。

 特に口を割りそうな可能性のある一年生、つまり祐巳に聞き込みをすることにした。手頃な人物を狙うのは、情報収集の常套手段であった。

 三奈子が廊下にて協力を求めると、知らないという答えが返ってきた。しかもロサ・ギガンティア当人に邪魔をされた。ついでとばかりにプレッシャーもかけられてしまった。

 この流れは直撃取材としては完全に失敗である。余計なツッコミまで頂いてしまっては、もう手も足も出ない。

 運に見放されているような気さえした。

 証拠もなく記事にするわけにもいかないし、でも書きたいし。ああ困った。どうにもこうにも身動きがとれないのは辛い。

 仕方ないからと、三奈子は部室で会議を開くことにした。話を聞きに行っているあいだに部員は集まっているはずだ。やはり、この噂をみすみす見過ごすようなことはできない。三奈子は自分自身のために、この記事にこだわっていた。

 ドアを開くと、注目を一気に集める羽目になった。

 同級生の佳也子さんが、開口一番、

「部長、どうしましょう」

 どうしましょう、が口癖な佳也子は、とりあえず放置する。

「ええと、ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 部員に挨拶を交わしながら、三奈子は視線を動かしていった。真美の前で止まって、目を合わせた。

「ねえ、白薔薇事件のことなのだけど」

 三奈子が勝手に命名したのだが、真美も理解したらしくすぐさま反応が返ってきた。

「お姉さま、話題の本は」

「持っているわよ」

「では、このことを記事にします?」

 前置きのひとつも入れて欲しいものだったが、ずばずば言うのは真美らしい。何より先に本題を切り出されてしまった。しかたなく三奈子は本音を漏らす。

「私は、記事にしたいわね」

「私は反対です」

 と、すぐ真美が言ってくる。まったく、一筋縄ではいかない妹である。

「いま記事にするには、取材が十分じゃないのは分かっているはずです」

「それでも今書かないと記事が、スクープが腐るわよ!」

「これを書いた人物が、実際にロサ・ギガンティアだという確固たる証拠はまったくありません。別人と考えたほうが自然ですし」

「真美、この内容は読んだのよね」

「はい」

「どう思ったのかしら。違和感無かった?」

「ロサ・ギガンティアに抱いていたイメージとそれほど乖離していません。ですが、この筆者の方はロサ・ギガンティアとは違う方かと。二年生の方々に先ほど教えていただきましたが、それでも、たぶん無関係のような気がしますし」

「……」

「……」

 沈黙で、机を挟んでにらみ合う姉妹。新聞部以外では、こんな姉妹のやりとりは、あまり見かけない光景であろう。世の中には枕を投げつける妹もいるから、特に不思議でもない。部員は見慣れたもので、すでに観戦モードに入っていた。

「……今日はいつもより一段と激しくやってるわねー」

「部長が不利でしょう」

「そうかしら」

「ええ、いつも通りに。さ、取材行って来ましょう」

「あっと、担当分の記事はどうしたのよ。締め切りは昨日のやつ」

「知香さんこそ、何も書くことがないから、ってコラムを書いてくるって仰ってませんでしたか。たしか今日が締め切りの。チェックした覚えがないのですけれど」

「ああ、どうしましょう……三奈子さんも真美さんも……」

「あのう、そこでおろおろしてないで、佳也子さんは一年生の取材に同行してあげてくださいません?」

「え、あ、じゃあちょっとおいとまさせていただきますね」

「佳也子さま、先に廊下に出てますから」

「で、白薔薇事件はどうしましょう。三奈子さまと真美さんが、なにやら膠着状態になっていらしゃいますが」

「放っておきましょう」

「よろしいんでしょうか」

「ええ、お二人とも自分の担当記事はとうに書き上げてますから。好きにやらせておいて……それより知香さん、コラムは」

「うふふ」

「いや、うふふじゃなくてですね」

 こちら側とあちら側では、空気の温度がまったくと言って良いほど違っていた。

 三奈子たちの姉妹げんかにも似た意見の応酬が始まってから、まったりと自分の仕事をするわけにもいかず、所在なさげにひとり、またひとりと出ていった。

 出ていった最後の一人、佳也子さんがドアを閉めた音に、静かに入ってきた誰かの足音が重なった。そのとき緊張状態が崩れた。先に口を開いたのは三奈子のほうだった。

「証拠がこれであれば、噂は的を射ているのではなくて?」

「憶測で記事は書かないのが鉄則では」

「それは原則よ。噂は噂として載せればいいの」

「しかし、この場合、状況次第によってはロサ・ギガンティアに迷惑がかかります」

 三奈子の方が先に、言葉に詰まった。

 真美とこういった形の口論になってしまっては、三奈子には勝った覚えがただの一度もなかった。真美は毎回正論ばかり吐くし、揚げ足取りがやたらと上手いのだ。どうにも姉としての威厳が失われている気がするのだが、ここで退くわけにはいかない。

「――すでに、先方は迷惑してると思いますけど」

 嘆息つきで真美が付け加えてきた。その声に含まれたものに気づいて、三奈子は弱気な相づちをうってしまう。

「そう、でしょうけど」

「ロサ・ギガンティアご本人に、きっぱりと否定されていたじゃないですか」

「……な、なぜそれを」

 祐巳に協力を求めてる最中、指導室から出てきた聖に釘を刺された瞬間のことだ。三奈子の渋面を見るも、真美はだめ押ししてきた。

「生徒指導室で、盗み聞きしようと耳を押しつけていらっしゃるお姉さまの姿を、見るつもりは無かったのですが、遠目に見えてしまったので、僭越ながら、私は近寄ることもせず、他人のフリをさせていただきました」

 一言一句を強調された。ひどい妹もあったものである。

「――そこから見てたの」

「はい」

「くっ」

 負けた。

 理屈で押し切られた。いや、理屈というわけではないのだが、とにかく記事として載せるわけにいかない理由を明言されてしまった。

 本人がきっぱりと否定してしまった以上、もはや記事にしても求心力は薄れている。これだけの話題性のあるニュースに新聞部が関わらないというのは、三奈子個人としてはともかく、部長の立場としては納得できなかった。

 どうにかならないの。

 そう声を張り上げようとした刹那、背後から呆れたような声が掛かった。

「いいかげんになさいな、三奈子」

「……」

 三奈子が振り返ると、そこには先代部長である梢の姿があった。三年生になって部長を引退してから以降、確かに他の三年生よりも顔を出す比率は高いけれど。なぜ、このタイミングで来てしまうのか。

 三奈子の愕然とした顔。ちょっと泣きそう。

「お、お姉さま。なぜここに」

「一週間前にも来たじゃないの。それに、元新聞部なんだから別に構わないと思うのだけれど……三奈子は何か不満?」

「そんなことは、ありませんけど」

「それに、どうしたのよ。私に来られると何か不都合なことでもあるのかしら。可愛らしいお顔と、頭のしっぽがひねくれてるわよ。……あ、真美ちゃん、ごきげんよう」

「ごきげんよう、梢さま」

「なにやら二人が楽しそうだったから、お話に割り込むのが躊躇われてしまったのだけれど……邪魔をしてしまったのならごめんなさいね」

 お姉さまには、三奈子といえど頭が上がらない。

 本来、こういうものが普通の姉妹の姿のはずなのだ。なのに真美といえば可愛げも欠片もなく三奈子に牙をむいてくるのであった。三奈子はそう考えてしまい、腹立たしさが不意に湧き出す。

 リリアンは上下関係が厳しいのである。間違っていることにまで、盲目的に従う必要はないとしても。

「いえ、助かりました」

「というかお姉さま、私たちのどこが楽しそうに見えたのでしょうか」

「まるで昔の三奈子を見ているようだったのよね」

 梢の言葉に、三奈子は過剰に反応してしまった。

「そ、そんなことありませんっ」

 強がる三奈子。しかし、これが何より失敗だった。

「あらあら……でも、そんなことはあります。自分の意志を貫く、という姿勢のことを言っているのよ。それともなあに、三奈子は真美ちゃんほど頑固じゃないとか、仕事に熱心に取り組んでいないとか、才能がないとか自分で思っているのかしら。そんなことはないわよね? 私の妹ですものね? ええ、あるわけがないに決まっているわよね?」

 自己完結されてしまった。しかも非常に返答に困る発言だ。半年ほど前に梢のことを真美に紹介してからというもの、どうもやりにくさが増した気がする。

 真美が、小さな声で質問した。

「私、頑固でしょうか」

「そうね。三奈子と同じくらいには」

 真美の質問にも、さらりと答えている梢。三奈子はこの時点で敗北を悟った。ここから形勢が逆転する可能性は、万に一つもなかった。

 この負けは、記事の不掲載が決定したことを意味する。

「そうですか」

 そして、そう言われても怒らない真美。嫌な感じに通じ合っているふたりだった。三奈子は自分の姉と妹を見て、形容しがたい気分を味わっていた。

「真美ちゃん、ほら」

「……えっと、梢さま?」

「三奈子を見てごらんなさい」

「あ」

 なんだというのか。三奈子を見ると、梢がやけに楽しそうに微笑んだ。真美は目を丸くしている。ふたりの視線が向かう先は、三奈子の顔に集中していた。

「お姉さまっ」

「三奈子、嫉妬しなくても真美ちゃんを取ったりしないから大丈夫よ」

「はい?」

「あら、自分で気づいてなかったの? こっちをあんなうらめしそうな目で見るんだもの。よっぽど真美ちゃんのことが好きなのねえ」

「えっと、梢さま」

「なにかしら真美ちゃん。ああ、そう言われちゃうとやっぱり恥ずかしいのかしら? とっても初々しいのね。うぅん、そんなところも三奈子と似てるわね。そう思わない?」

「そういうことではなく」

「三奈子は素直じゃないから、あまり口に出して言わないかもしれないけれど――大丈夫よ。ちゃんと愛されてますからね。ほら、この顔を見れば一目瞭然」

 たじろぐ三奈子。

「いえ、そういうことでもなくてっ」

「あら、これも違った? では何かしら」

 考え込みそうになる梢に、真美がぽつりと考えを告げた。

「私ではなく、梢さまを取られると思って、なのでは」

「……」

「……」

「そういうことだったの? 三奈子」

「え、いや、聞かれましても」

「まあ」

 まあ、で梢の動きが止まった。しょぼんとした雰囲気に切り替わる。つかつかと足音を立てて近寄ってきた。梢は何も言わないで、三奈子の背後に回った。

 ポニーテールを触られ、三奈子はされるがまま言葉を待つしかなかった。

「……じゃあ、私のこと嫌いなのかしら?」

「いいえ、嫌いなわけが」

 微笑まれた。何かたくらんでいそうな笑みだった。

「良かったわ。なら真美ちゃんのこと、好き?」

「はぁ」

「好きなのよね?」

「ええと、その、妹ですから」

「そんな理由は認めませんからね。私は真美ちゃんのことを、あなたが好きかどうか聞いているのよ。ちゃんと質問に答えなさいな。それともなに? 妹じゃなければ好きじゃないから、っていう意味? まさか、そんなことは無いでしょう?」

「嫌いだったら妹になどしませんっ」

 耳元でささやかれて、悲鳴のように叫ぶ。もがいているが、三奈子は逃げられない。

「もう一声欲しいわ。こう、もうちょっとうきうきしながら声に出してくれないかしら」

「はい、真美のことは好きです! ……ああもう、これでよろしいですか、お姉さま」

 完全に姉のペースに巻き込まれているのは自覚している。

 だが、三奈子はこの姉に逆らえないのであった。いつの間にか部員たちの姿はどこにもなかった。巻き込まれるのが嫌だったのだろう、とようやく思い至った。

 つまり、ふたりは逃げ遅れたのだ。特に三奈子は。

 そして今更分かっても、もう遅かった。

「よろしい」

 ぽんぽん、とかるく頭を叩かれた。梢に完全に子供扱いされている。

「それでお姉さま、……今日はどういうご用で」

「三奈子の顔を見に来ようかと思って。ほら、ここのところ、あなたったら試験勉強で忙しいとかで教室に会いにも来てくれないんだもの。寂しかったのよね」

「……う、でも」

「でも、じゃないの。いい? 私が部長を引退してからこっち、三奈子といつでも一緒にいるというのはできなくなっているんだから、どちらかが積極的に行動に移さなければならないのよ。分かる? 分かるわよね? そう、分かればいいの」

「それは分かりますけれど」

 言い返せなかった。すでに気持ちで負けているのだ。

「なら話は早いじゃないの。姉と妹は仲良くしないとだめでしょ。はい、三奈子はさっさと手を出して。ほら、ここ」

「え」

「真美ちゃんも」

「梢さま」

 握らされて、握手。

「よし。ここ。仲直りはこれでよし。……いいわね?」

 顔を見合わせる。

 すでに三奈子は完膚無きまでに毒気を抜かれていたし、真美は事態が流れるままにしようと思っていたから問題はなかった。そもそも梢にはふたりとも逆らえそうになかった。

「それでいいの。ええ、ふたりとも素直で大変よろしい」

「根本的な問題が解決してませんっ」

 三奈子が噛みつく。が、次の真美の言葉で、困ったような顔になった。

「どうしてそんなにこだわるのでしょうか」

 言い返せない三奈子。

「ほらほら三奈子。もう、おやめなさい。あんまり気にしてるのは体に悪いわよ? そんなことだから、このしっぽがぴょこぴょこ揺れるのよ」

 また手を伸ばして、遊ばれそうになった。

「それは関係ないですっ」

 三奈子はなんとか逃げた。距離を取って真美を盾にすると、梢はほほをふくらませた。

「ええっ、てっきり……三奈子はこの髪型で健康状態を測っていると思っていたのに。なんて妹なのっ。私の思いやりを返しなさいっ」

「……お姉さま」

「冗談に決まってるでしょ。三奈子ったら、そんな泣きそうな顔しないの」

「してませんっ」

「ほんと、素直じゃないんだから」

「お姉さまっ!」

 真美の後ろで叫んでいる三奈子に、梢は優しい声で語りかける。

「まあ、一年前のことがあるからって、そんなに気にしなくても良いのよ」

「――っ! ……気にしてなんか、いません」

「なら……いいけど。納得がいかない?」

「いいえ」

「そうかしら。本当に?」

「はい。大丈夫ですわ」

 目を細めて、まじまじと三奈子を見ている梢。

 憮然とした表情でそっぽを向いた妹に、梢は近づいて、包み込むように抱きしめた。

「……止めてもらえて良かったわね」

「お、お姉さま!」

 顔を真っ赤にして抜け出そうとする。

「ふふふ」

「ああもう、私、ちょっと取材に行って来ますからっ。どうぞ真美とごゆっくり!」

 怒ったように見えるが、その実、拗ねた声だった。梢から離れた三奈子は、乱暴にドアを開いた。慌てながら廊下へと出ていく。ドアの向こう側で乱れた足音が遠ざかっていった。

「行ってらっしゃい」

「あ、お姉さま、行ってらっしゃいませ」

 開け放たれたドアが、ゆっくりと閉まった。大きな音がした。

 戻ってくる様子は無かった。

「逃げたわね」

 と、梢。

 三奈子に対してはあまり遠慮せずつっこみを入れる真美でも、三奈子のお姉さまに立ち向かうだけの勇気はなかった。そもそも反抗する理由もないわけで。

 梢とふたりきりになってしまって、何を言って良いやらと困る。

「最近、どう?」

「ロサ・ギガンティア関連の噂を記事にするかしないかで部長と私がもめている以外、特にこれといって問題もなく、おおむね普通です」

「分かりやすい返答、ありがとう」

「でも、お姉さまがまだ諦めてらっしゃらないような気が」

「ううん、おそらく大丈夫でしょうね。三奈子も記事にしない方がいいってことは自分で理解しているはずだから。少し、昔のことがあるから意地を張っているだけなのよ」

「昔のこと?」

 真美の訝しげな表情には反応せず、梢は別の話題を振った。

「……ところで次の部長は、やっぱり真美ちゃんかしら」

「おそらく、そうです」

「即答ね」

「いえ、誰もやりたがっていないようなので。順当にいけば私みたいです」

「あらあら。まあ、真美ちゃんが一番似合ってるような気はするわねー」

「そんなことは」

「あるわよ。三奈子みたいに強引じゃないし、今すぐ変わっても大丈夫じゃない?」

「お姉さまは、まあ、確かに強引ですけど」

「否定しないのね」

「だって強引ですし」

「……ふうん」

 表情を見て、何やら思案する梢。

「真美ちゃんって、わりとミーハーだったりする?」

「ミーハーかどうかは、よく分かりませんけど」

「言い方が悪かったわね。何かに惚れ込むタイプじゃないかしら?」

「ええと」

「具体的に言うと、ある一定のものに対して憧れを持っているのに、素直に接することができないような」

「それって、すごく抽象的です」

「でも、私の言いたいことは分かったんでしょう」

「多少は」

 感心したようにうなずいた。

「意外。三奈子のこと、尊敬してたりするんだ」

「尊敬とは少し違いますけど……分かります?」

「これでも三奈子のお姉さまですから」

 にやり。

「本人はまったく気づいてないと思うわよ」

「できれば」

「言わないわよ。安心して」

 これまでは梢が三奈子の手綱を握っていたから、あまり問題起きなかったのだろうな、と真美は思った。

「うん。分かるわよ」

「梢さまも?」

「きっと、自分に無い部分を持っている人間に対して、無条件で惹かれるようなものなのでしょうね」

「でも、私たちの場合は、そういうのじゃなくて――」

 真美の言葉の後半を、梢が引き継いだ。

「――でも、姉妹になったじゃない。もしかしたら三奈子より、むしろ私と似ているのかもしれないわね」

「はあ」

「他の姉妹とは自分たちが何か違うって思ってる?」

「少しは」

「まあ、みんな千差万別。いろいろな関係があるから一概にはいえないものよ。山百合会の連中……もとい、方々なんか極端もいいところよね。だから面白いのだけど」

「あの方たちのも、素敵な関係だと思いますけど」

「ふふっ、別に否定してるんじゃないわよ。ああいうのを見ていると、自分たちみたいなのもアリなんだって思わない?」

「まあ」

「……さっきの話、気になる?」

「無論です。気にならないわけがないじゃないですか」

「そう。じゃあ、話してあげましょうか」

「よろしいんですか?」

「次期部長にも聞いてもらおうかと思って」

 そんなふうにいって、笑った。

 優しげに、口を開く。

「たしか一年ほど前のことよ。ロサ・ギガンティアが髪を切るその少し前……聖さんがブゥトンだったときに、三奈子がひとつ、記事を書こうとしてね」

「はあ」

「いろいろあって、それを書くか書かないかで喧嘩したのよ」

「三奈子さまと梢さまが、ですか」

「そ」

「どうして」

 梢は、長い髪をかきあげて、うーん、と考え込んだ。どう言って良いのか迷っている。真美は顔を伏せた梢が話し始めるのをじっと待っていた。

 しばらくすると、梢は真美の顔を見つめた。

「――ひとが苦しんでいることを、書いてしまうことがいいのか悪いのか。……読者がどんなに知りたくても、書いちゃいけないことってあるじゃない? そういうことを書こうとしていた三奈子を叱りとばしちゃったのよ」

「はい」

「そのとき、読者が求めたものは分かっていたわ。噂は噂以上のものではなかったし、内情を知っているひとは、みんな黙っていたから。新聞部も多少は分かってはいたけれど、そのときメインで記事を担当していた三奈子には書かせなかった」

「書かせなかった、って」

「部長だった私が止めたのよ。誰かが傷つくと分かっていて書くべきではないと判断したわ。少なくとも、読者のために記事を書くのであればね」

「……読者が求めていても?」

「だって、うちの新聞部はリリアンのみんなのために、リリアンかわら版を発行してるのだから。傷つけることが分かっていて、それを広めるような真似はしてはいけない。でしょう?」

「はい」

 ついと遠い目をした。

 梢は、細い腕を近くの机に伸ばす。指先で表面に付いた小さな傷に触れた。

 落書きだろうか、真美からは遠くてはっきりとしないが、傷は数個の文字が刻み込まれたもののようだった。

「この言葉、私が一年生だったときにはもうあったから、最初に刻みこまれたのはそれより前になるわね。新聞部もけっこう歴史が長いみたい。机に文字を彫り込むみたいな、お茶目な人間がいても別におかしくはないし。こういうのって、普通の学校みたくていいわよね。リリアンじゃ、あんまり机に落書きする子っていないじゃない?」

「そういうものでしょうか」

「そういうものです。真美ちゃんも、そのうちやっちゃいなさい。きっと良い思い出になるわよ。バレなければの話だけど」

「バレたら怒られるじゃないですか」

「元部長が許可するからいいのいいの。……まあ、冗談はこのくらいにして。それでね、私が三奈子を叱ったときのことなんだけれど――」

 

 

 ――三奈子は、梢を呆然と見上げていた。

 思えば、それが梢が三奈子を叱りつけた最初で最後のことだった。いつだって梢は優しくて、三奈子はそれに甘えていたから。

 だから放心して、視線が定まらなかったのだ。信じられない、と。

 あまりのことに三奈子は息をすることすら忘れて、ひたすら目の前の梢を見ていた。見つめ返してくる瞳は、責めているようには思えない。しかし、梢の強い視線は変わりなく三奈子を突き刺していた。

 不意に、三奈子の目から涙がこぼれた。

 いつのまにかあふれ出して、知らないうちに頬を濡らした。

 ふたりで黙ったまま、見つめ合っていた。

 三奈子は泣いていたから、梢の顔が歪んで見えて、なぜか微笑みながらも、梢までが泣いているように思えた。

 梢と三奈子の他には、誰の姿もない。あたりはひどく静かだった。もう校舎に人は残っていないだろう。部室の窓から覗ける景色はやけに薄暗く、寂しかった。

 梢がゆっくりと口を開いた。

 悲しげに、辛そうに、震える声を隠そうともせず、ただ真摯な瞳で。

「新聞部の人間はね、全員がひとつの目的のために戦う仲間なの。リリアンのみんなを喜ばせるために、楽しんでもらうために、真実を書くの。だから力を惜しまずにがんばれるんでしょう? 違う? ねえ、聞かせて。あなたは何のために記事を書いているの? あなたは、これまで、何のために記事を書いてきたの?」

「……それは読者のためで、みんなが、求めているもの……を」

 鳴き声混じりの、途切れ途切れの三奈子の言葉。

「なら、誰も求めないものは書かないの? たとえば読者が望まないものが、真実だったとしたら――あなたは何も考えずに嘘を書くの? 嘘を書いて、三奈子は満足なの?」

「……でもっ、じゃあ……じゃあ、どうしたらよろしいんですか……」

「それはあなたが考えなさい。私たちは、新聞部のみんなは、あなたを信頼してる」

 三奈子は目を伏せた。

「部長は、私が間違っていると……?」

「いいえ」

 息を呑んで、顔を上げて、三奈子は声を出した。

「ならっ」

「でもね三奈子、他人が立ち入るべきでないことも確かにあるでしょう? 記者は、常に自分の良心に問いかけていないと、いつか必ず誰かを傷つけてしまう。そんな立場なのよ。読者のためだというのなら、読者に喜んでもらうことは、決して言い訳にはしてはいけないの」

「わ、私は……」

「そうやって間違えないように、そして止めるために私たちはいるのよ。ひとりで何かをやるほど難しいことはないわ。どんな人間でもひとりでは辛いから。どれほど完璧な人間でも、ひとりでは魔が差すこともあるから。でもね――」

 三奈子を抱きしめて、優しく、伝えた。

 手を握りしめてあげると、求めるように力がこもった。

 ゆっくりと、手のひらを開かせて、ロザリオを渡す。

「――誰かが支えてくれれば、一緒にいれば、そして助け合っていったなら、どんなことでもできるのよ。姉妹になりましょう? 私は、あなたを妹にしたい」

「梢さま……」

「違うでしょう? さあ、言ってごらんなさい」

「お姉さま……お姉さまぁっ――」

 

 

「――とまあ、こんなことがあったわけね」

「……あの三奈子さまが」

「驚いた? ねえ、驚いたでしょ?」

「そんな楽しげに聞かれると返答に困ります」

「ま、けっこう意地っ張りな子だものね。泣いてるところなんてそのとき初めてみちゃったんだけど、それがもう可愛いったら。つい、ロザリオ渡しちゃったわよ」

「……つい、で渡されたんですか」

「私も、それまでは妹なんて持たないとばかり思っていたのよねえ。でも、これは、って思う相手を見つけちゃったから」

「……それで、仲間?」

「そ。後ろからついてくるんじゃなくて、一緒に横を歩ける仲間。そもそも、妹にするにしたって、三奈子は我が強いから大変だったのよ。手が掛かるのなんのって」

「分かります」

「やっぱり分かる?」

「心底痛感してます」

 梢は声をあげて笑った。しかし手を握りしめ、でも、と頭を振った。

「でも――そこが可愛いのよ」

 力説された。真美は頷くわけにもいかず、次の言葉を待った。

「あの子、よく無茶もするけど、根はいい子だから……」

「それは、よく知ってます」

「それならいいの。真美ちゃん、三奈子が暴走しそうになったら徹底的に、ね」

 微笑みながら、そんなことを言われてしまう。なんだかんだいって、さすが新聞部の元部長らしい迫力だった。よく、分かっている。

「ああ、そうそう」

 振り返れば、当たり前のことを言うような笑顔があった。

 なんでもない言い方で、うっかり聞き流してしまいそうなくらいに気楽な声。

「真美ちゃんって、なんだかんだいって三奈子と似てるのよね。あの子が一年生のときも、そんなふうに悩んでたから」

「は」

 予想外の言葉で、驚いた。

「んー、なんていえばいいのかしら。何か求めているものに対して、自信や、冷静だとか、打算だとか、そういうのをなんにも考えなかったら、あなた達に残るのは結局は情熱なのよ。他に理由なんていらなくて、ただ手探りで不器用に動いてるみたいな感じよね。三奈子と真美ちゃんは、根っこの部分が似ているのよ」

「それは」

「でも、似てるってことは違うということなんだものね。ふたりは違うから、三奈子が簡単に乗り越えられたことが、真美ちゃんには難しくて。でも真美ちゃんがまるで悩みもしないことで、三奈子はつまづくのかもしれない。まあ、惹かれ合って繋がった姉妹って、わりとそういうところがあるんだけど。三奈子って、周りから見られているほど強くはないから」

「否定はできないです」

 真美は肯定したくなかったから、こんな言い方になった。梢は満足げに笑った。

「素直なお返事、たいへんよろしい。真美ちゃんの方が三奈子より強いわよね。きっと」

「いえ。お姉さまの方が強いと思います」

「ふふ。あの子の場合は、融通が利かないっていうの」

「……融通?」

「そ。強引さのわりに、上手くことを運べない」

「確かに」

 そう考えれば、その通りではあった。

「真美ちゃんは融通が利くから、あんな無茶はしないでしょうけれど」

「それも、そうですけれど」

「ときには、器用なだけじゃダメなこともある」

 梢の穏やかな声は、それゆえに鋭く胸に突き刺さった。ひどく残酷な言葉だった。聞きたくなんてなかった。けれど真美は、大人しく耳を傾けざるを得ない。

 分かっているのだ。気づいているのだ。三奈子と真美の距離が、いつまでも平行線をたどるまま、まるで近づいていない理由など。

 どちらも、最初に定めた線を越えては踏み越えようとしない。踏み込めない。新聞部の部長と、その戦力という関係性は、未だに有効だった。

 ノイズが真美の思考をかき乱した。

「どんなに言葉を尽くしても、伝わらないことってあるでしょう? でも、言葉にしなくたって伝わることもあるのよね。三奈子は誤解されやすいけれど、あの子の書く記事って、ちゃんと読めば読者のために努力していることは、きっと誰かに分かってもらえる。真美ちゃんが分かってくれたみたいにね」

「私は、でも」

 確かに、最初に三奈子の書いた記事を読んだとき、これが求めているものなのだ――真美はそう思った。三奈子と出会ったとき、言葉を交わして、勧誘されて、部室に行って。

 そして、求められていると思った。それだけで初めは満足だった。

 求めること。求められること。互いに何を考えているかなんて、分からない。誰も他人の思考など覗けない。

 ならば、何のために真美はいるのだ。三奈子の傍に居る理由は、真美にあるのか。

 あの情熱に、真美の存在はは必要だろうか?

 何分か前に梢の発した言葉は、ごく僅かだが間違っている。

 真美は三奈子より強いわけではない。思い悩む内容を誰かにはき出すような人間ではないから、他人には分からないだけなのだ。

 三奈子以上に、孤独に耐えられない。

 隙の無さはそれを隠すためのものだった。三奈子は真美のことで悩んだりはしない。しかし真美は三奈子のことで考え込む。

 その事実を、梢は知らない。

 三奈子にロザリオを渡されたとき、真美はただ嬉しかった。そして真美が強くなろうと思った瞬間でもあった。

 真美は、三奈子のようになりたかった。三奈子の記事を読んで、このひとを越えたいと考えた。

 ふたりを分かつ一本の線。その線に形は無くとも、未だ、真美と三奈子の間に横たわったままだった。

 踏み越えることは本当に容易いというのに、真美は翻弄され続けている。

 何のために。

 答えのでない問いかけに煩悶する真美を見透かすように、梢は告げる。 

「情熱が誰かを傷つけてしまうこともあるから、それを止めるために仲間がいるのよ。三奈子はワガママだから、そういうのが顕著なのよ」

「情熱、ですか」

「想いって言い換えてもいいかもしれない。想いは自分の内側ではなくて、外側の何か、誰かに向かうものだから。記事に想いを込めれば、それは強い意志で作られることになる。でも、やっぱり記事が人に見せるものである以上、誰かに影響を与えるものなのよね」

「はい」

「それを、私たちはときどき忘れてしまいそうになる。相手がいることを意識していれば決して書くべきではないことだって、何かの拍子に書いてしまうかもしれないわ。昔、三奈子がやろうとしたことみたいに」

 真美は、疑問を口に出した。

 ずっと感じていたことだったが、問うためには勇気が必要だった。

「お姉さまは、周りに誰もいないように感じていた、と?」

「そういう感覚が希薄なのかもしれないわね。私が止めなかったら、きっとあのときだって三奈子は書いていたでしょうから」

 梢の答えで、真美はひとつの手がかりを掴んだ気がした。

 三奈子が求めていることは、真美が求めているものとは違うものなのだ。互い違いのパズルのピースのように、違うからこそ意味がある。

 真美の表情に、梢はさらに続けた。

 グラン・スールとして、一番下の妹へと何かを託すかの如く。

「たとえば、真実ってものは見方で変わることもあるのよね」

「そうでしょうか」

「そうよ。事実はひとつかもしれないけれど、ひとのこころなんてものはころころ変わるものだし、測るための基準なんてないんだから。プラスにとるか、マイナスにとるか、強いか弱いかで見え方も違ってくる、それくらいの違いしかないの」

「記事は、事実を書くことが基本だと思います」

「でも面白くするために脚色することはあるわ。問題にならないなら、いくら虚構が混ざっていたところでかまわない――とまで言わないけどね」

 梢は、あえてそう言ったのだ。三奈子のやったことを指しているのだと分かってしまって、真美からは、かばうような言葉も出せない。

 間違いは、間違いとして指摘しなければならなくて。そして、受け入れるだけが優しさではなかった。

「何かあったら、支えてあげて」

「はい」

「前だけ見てるぶん、三奈子は足踏み外しやすいから。何かしでかすかも知れない。そのときどうするかは、あなた次第よ」

「はい」

 真美の返事を聞き届けると、たおやかに振り返り、梢は部室から出ていった。

 室内に残った静寂に、真美は黙考する。

 無音のさなか、優しさだけが、残り香のように漂っていた。

 

 

 

 三奈子は記事に出来なかったことが悔しかったが、それ以上に安堵もした。

 梢の言うとおり、確かに真美が止めてくれて助かった。あのまま記事にしてしまいたい欲求があったからだ。

 しかし三奈子自身、友人が傷ついた事件が脳裏に浮かんで、その先の行動をする気にはならなかった。誰かを傷つけるのは、胸が強く痛む。

 この件については、それから後、真美は何も言ってこなかった。

 結果的に文句を言われる行為を三奈子は出来なかったのだ。だから当然なのだが、しつこく追求してくると思っていたため、拍子抜けだったのである。

 変わりなく接してくる真美に対し、三奈子も特に攻撃的になったりはしない。つまりはいつも通りの会話を交わすに留まったのであった。

 他の部員たちが担当分を仕上げたので、三奈子ひとりで残ってチェック作業を進めていた。これが終わったら早く帰るつもりだった。

 窓の外は、風がびゅうびゅうと吹きすさんでいる。寒そうなことこの上ない。嘆息して、手早く明日印刷できるものと修正が必要なものを分けていく。

 一段落したところで、思いも掛けない人物が新聞部の戸を叩いた。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう。新聞部になんのごよ――」

 何のご用でしょうか、と聞きかけて硬直する。

「――って、あ、あの。シスター・上村、何か」

「あら、あなたは築山三奈子さんね。用も無いのに訪ねてはいけないのかしら」

「そんなことはありませんけど……」

 目の前にした学園長に、内心、びくびくしていたりする三奈子。

 何かやってしまっただろうか。記憶にある限り、最近は問題になりそうなことはやっていない。やっていないはず。やっていないと思う、のだが。

 学園長の出方を窺う。余計なことを言ってしまわないように気を付けないと。

「そんなにおびえなくても、たいしたことじゃないから大丈夫ですよ。ただ、コスモス文庫を出している宮廷社の電話番号を、あなたならお知りではないかと思いまして」

「いばらの森の件、ですか?」

「そのとおりです」

「電話番号ですね……あの、いまその本はお持ちでしょうか」

「はい、一応。買ってきていただいたものですけど」

「それでは、ええと、このあたりに編集部への連絡先が載っていたかと」

 本を借りて、ぱらぱらとめくる。目当てのページを見つけると、開いたまま学園長へと差し出した。

「……ああ、本当ですね。わたくしったら、こんなところにあったのも気づかなかったなんて……これは失礼しました。お手数おかけしてすみませんね、三奈子さん」

 何のために、そんなことを聞いたのか。三奈子の頭の中で想像がぐるぐると渦を巻いて、ひとつの結論をはじき出した。

「あの、失礼ながらお聞きしてもよろしいでしょうか」

「ええ、かまいませんよ」

「これを書いた人物に何かお心当たりでも?」

「そうですね。まあ、それをいまから確かめてみようかと思っているんですよ」

 懐かしむように、語った。

「それでは、三奈子さん、ごきげんよう」

「あ、はい。ごきげんよう」

 シスター・上村は柔和な笑みを浮かべて、ドアから静かに出ていった。その後ろ姿を見送る三奈子。そして、あっ、と気づいた。

 それは数日後、祐巳が気づくことと同じことだったけれど。今はまだ誰も知らない、いばらの森の、登場人物たちの未来。

 茨が守った小さな蕾が、いつしか大きな花を咲かせたような、奇蹟とすら思える出来事。

 しかし、三奈子はそのことを記事にすることはなかった。

 

 

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