梅雨。どうして梅の雨と書くのだろうか。
たぶん誰しもが一度は思ったことかもしれない。
別に梅が降ってくるわけでもないし、たまに口に入ってしまった雨粒が顔を歪めるほど酸っぱいわけでもない。というか味なんて特にしない。
前に一度辞書で調べたときに何かしらが書いてあった気がするがよく覚えていない。
まあ梅雨は嫌いじゃない。好きでもないが、俺は別にアウトドア派の人じゃないし、むしろ家を出なくていい理由とか言い訳にもなる。あまりにも湿気が凄いと文庫本がふにゃふにゃしてしまうのはどうにかしてほしい。
そう言えば秒速○センチメートルの監督の人が作った言の葉○庭ってアニメーションも良かったな。あれを見るとどうしてか雨が好きになってしまいそうになる。俺も今度から雨が降ったら大学をサボってしまおうか。
「今週から梅雨入りだってさ。私は雨好きじゃないんだよねー。ジメジメってしてるっていうかさー」
雨が好きじゃないという割にはいかにもお気に入りの傘をどこか楽しそうにくるくると回している。
まあお気に入りの傘があると雨の日も悪くない気もするのはわかる。
気に入った傘を買った次の日の朝はどこかで雨を祈ってしまっている自分がいる。
「そうだなー」
「比企谷はあれだよね、別に家から出ないから関係よねー。なにそれ引きこもり?ウケる」
「いや、別にウケないから」
こいつは本当に幸せなやつだな。そんなことでウケるんだからさぞ人生が楽しいのであろう。
世界中の人々がみんな折本みたいに簡単にウケるのなら世界は平和になるだろう。
「そういえばさ、ちゃんと栗原バリスタのマイカップ持ってきた?」
「ああ、持ってきた」
「比企谷ってそういうのちゃんと真剣に選んでたから意外だったなぁ」
妹から教育されてますからね。
まあ普段から栗原バリスタにはお世話になっているし、真剣に選んだとしても普段の恩を返すには足りないだろう。
人間、返せる時に返すことが一番である。
「そう言えばさ、昨日葵ちゃんとちょっとだけ二人きりだったんでしょ?なに話してたの?あ、もしかして葵ちゃんのこと口説いてたりして。ウケる」
「二人きりだったというか、単に二人きりにさせられたんだけどな。折本が迷ったせいで」
青峰も全く可哀想である。
普通に考えてもみろ、いきなり友達がどっか行っちゃってついこの間知り合ったばかりの男と部屋で二人きりだぞ?しかも相手は目と根性が腐っていると評判のこの俺だぞ?絶対危機を感じる。
…なんか自分で言ってて悲しくなってきた…
「あの後さ、帰ってから葵ちゃんからライン来てて、『比企谷さんの淹れてくれた珈琲美味しかったです〜』って来てたよ」
「まあ、客に出せるものなんて珈琲くらいしか出せなかったからな」
来るなら来るとそう言ってほしいよ全く。男の一人暮らしはいろいろあるんだから…
たまたま掃除してたから良かったけど。
「私も比企谷の淹れた珈琲飲みたいなー」
「じゃあシフト休みの日にでもクレマに来ればいいだろ?」
折本は遊んでばかりだからたまにはクレマでゆっくり過ごすのもいいとは思うのだが。
「それじゃお店の味じゃん。比企谷ブレンドが飲みたいの私は!」
「確かにお店の味は栗原バリスタが豆を選んでブレンドしているが、俺は市販の豆を使っているだけだ。欠陥豆は取っているが、別にブレンドしているわけじゃない。それに俺がブレンドをするにはまだ早いんだよ、知識も経験も足りない」
折本は喫茶店で働いている割に珈琲についての知識や興味が薄い。まあそれは仕方のないことではあるが、働いているのだからもう少しは勉強してほしい。
「…そういうことを言いたかったんじゃないんだけど、まーいっか」
どこかそっぽを向いてボソッとつぶやく折本。
基本サバサバしたやつだが普通にいじけたりだとか、そういう感情も見ることが増えた。
まあ大学が一緒でバイト先も一緒なのだからそれはまあ当然なのだろう。
「でも今度比企谷ん家行くときがあったら飲ませてね、珈琲」
「はいはい」
そう何度も人を家に入れるつもりがないのだが…
それにほら、あれじゃん?女の子を家に連れ込んだら妹が突然来てたとかありそうじゃん?俺、小町にカギ渡してあるし。しかもあいつ、何の連絡もなしに来るからな。
「愛する小町からのサプライズだよ‼︎あ、今の小町的にポイント高い!」とか言うし。まあ別に可愛いから許す。
気がつくとクレマは目の前だった。
いつもは暖かな光がクレマの看板を暖めていてくれているのだが、そんな光は分厚そうな雲に埋もれている。
雨の匂いが薄っすらと漂い始めていて、俺も傘を持ってこればよかったと後悔した。帰る頃に降っていないといいのだが。
「比企谷ー?」
「何だ?」
傘を振り回していた折本が俺の方へ振り返った。
「栗原バリスタ、喜んでくれるといいね」
「まあ、そうだな。折角定休日潰して買いに行ったんだしな」
「なにそれ〜」
折本との今の関係が、俺は割と気に入っている。
だがこれは俺が奉仕部にいたからこそ今もこうしてあるのだろう。
折本がクレマに入るのを見て俺も後に続いた。
「降ってきちゃったね。雨」
「葵〜私傘持ってきてないから帰るとき入れて〜」
「相合傘だね」
しとしとと降り始め、店内のBGMを打ち消していく。不思議とそれがどこか心地良くて思わず窓を見つめてた。
横では栗原バリスタがエスプレッソマシンを弄っている。
極細挽きから粗挽きに。
「店長さん、なにをしているんですか?」
青峰は栗原バリスタのことを店長さんと呼ぶ。バリスタというのがしっくりとこないからだろうか。
「今私がしているのは挽く豆の細かさを調整しているんだ。どうしてそんなことをしないといけないんだったかな折本君?」
「ええ〜?確か、挽いた豆は細ければ細い程空気中の水分を含んでしまうから?だっけ?」
苦し紛れではあるが間違ってはいない。正解というわけにもいかないが、さんかくくらいはもらえるだろう。
「惜しいな。では比企谷君、折本君の補足をしたまえ」
「吸収したものをそのまま使ってしまうと雑味が出てしまうからです。だから雨の日や湿気が多い日には少し粗めに設定して味を調整している。…これでいいですか?」
一色と青峰は意外そうな顔で俺を見つめている。
…なんだよその顔は。
しかも青峰もなんか俺に対して失礼じゃないですかね?まあいいけど。
「まあそれで正解といったところだ」
「さっすが比企谷!」
まあこれに関してはマンガで読んだこともあったためよく覚えていた。
たまたま正解できただけに過ぎないが、まああれだな、悪い気はしない。
ふと、由比ヶ浜や雪ノ下はどんな反応をするのだろうと思ってしまった。由比ヶ浜はアホな顔をして俺を普通に褒めそうだとか、雪ノ下はこんなときでもさらっと罵倒することを忘れないだろうとか、そんなある種未練があるような。
雨は今も降り続け、一色と青峰は日が暮れるであろう時間までクレマで話し続けた。
店を出た後も雨は休むことなく降り続けていた。止む気配など一向になく、傘を持っていない俺は傘を買って帰るか止むのを待つかのどちらかになった。
止まない雨はないとは言うけれど、こと梅雨に限ってはそう言ってはいられないだろう。むしろ止んでしまったらそれは梅雨ではなくただの雨だ。
そんなどうでもいいことを考えながら最寄りのコンビニへと向かう。
一歩一歩進む度に靴下が湿っていくのがわかる。
珈琲の様に雑味が出るわけではないが水虫でも湧いて出てくるのでないかと嫌になる。
コンビニに着き傘とあったかいマッカンを二本買ってすぐに出た。ビショビショとはいかないまでも服や髪が少し濡れてなんとなく寒い。
マッカンを飲みながら15分程で着く家へと歩く。
もう一本は自分へのご褒美ということにして買った。なにそれ残業終わりのOLみたい。
雨のせいか視界が悪く、いつもはよく見える長い歩道や街路樹は短くて少なく見えた。
向こうから中学生か高校生か、傘もささずに歩く女の子いた。制服は雫が滴り落ちるほど濡れて、羽織っているブレザーがどうにか透けているであろうシャツを隠していた。
そしてなぜ俺がそんな子を凝視とはいかないまでも見てしまったのかというと、俺はおそらく知っているのだ、この子を。
クリスマスの行動イベント以降会った覚えはないがきっとそうなのだ。
三年たった今もその大人びた雰囲気は纏っていて、濡れた長い黒髪には綺麗だとすら思ってしまった。
今、どうして彼女が雨に打たれながらここにいるのか、なにかあるのではないかと考えながら彼女の前で立ち止まった。
「…」
俺は何をどう声をかけていいのかもわからないまま、そして彼女も立ち止まった。
目が合い、彼女は目を見開いた。それから少し悲しそうな顔をした。
「…あ、」
「……」
「…マッカン飲む?」
微かに当たった彼女の手は冷たかった。
「…八幡、これ、なに?」
風呂から出てきたルミルミは俺がとりあえず貸したTシャツの裾を掴みそう聞いてきた。
「なにって、『ℹ︎❤︎千葉』Tシャツだけど?」
はぁぁ、と小さくため息をついたルミルミは髪を乾かしに行った。
帰り道に留美と会いどうしようか迷った挙句、とりあえず風邪を引かないように風呂に入れるために俺の家に連れて帰った。
帰り道には一言も喋らず、ただマッカンを飲んでいた。
さっき喋ったのが第一声だった。
このまま喋ってくれなかったらどうしようかと思ったが、風呂に入って少しは落ち着いたらしい。
終始無言の女子中学生をどうにかするなんてことはぼっちの俺には無理だっただろう。
「ルミルミ、髪乾かしたらとりあえず家まで送るから…」
乾かす手を止め、俺を睨みつけるルミルミ。
…すみませんちょっと怖いんですけど…
「八幡キモい。…留美って呼んで」
再び髪を乾かし始める留美。
女子中学生に男物のTシャツは少し大きかったのか、ドライヤーを持っていない方の肩が少しずり下がっていて少しエロい。と言っても小町もよくこんな格好をしていたのでそこまでドギマギはせずに済んだ。
ふともう一度ドライヤーを止め留美は俯いた。
「…帰りたくない」
ぽつりと、留美は独り言の様に言った。