プロローグ
学園都市にあるとある研究施設。既に使い捨てられたその場所には研究者の姿は愚か、資料の一つも存在していなかった。埃っぽい空気を漂わせているとおり、床や棚にはうっすらと白い埃が降り積もり、所々には蜘蛛の巣が張り巡らされている。薄暗い室内、廊下には電源の入っていない監視カメラが物言わぬレンズで訴えかけていた。少なくともここ最近は誰も入ってはいないことが容易に想像できる有り様であった。
その研究施設の奥深く。誰もいないはずのその部屋で一台のパソコンが起動した。埃の積もったそれは学園都市で一昔前に開発されたもので現在では生産中止になっているものである。ディスプレイにはヒビが入っているが、表示されるようでそこにはアルファベットと数字が無造作に並んでは消え、並んでは消えるを繰り返した。
だが、それを長くは続かない。ぴたりと画面が暗黒に包まれた。パソコンの電源が切れたのだ。それっきりパソコンの電源がつくことは無かった。
ただ画面には新たな文字が現れていた。
『幻想殺し』、『グループ』、『スクール』、『アイテム』、『デリート』、『木原』、『ドラゴン』...
...『ゲート』
と。
「マンションの家賃が払えないから追い出されただと?」
10月6日の朝。とある一室で男の呆れた声が響き渡った。朝の日差しを部屋に取り入れるためにカーテンを開いた直後に言われたその一言は、ひどく気怠げでもある。その男の格好は上下ともにジャージ、頭には自身の天然パーマと相まって、より暴れまわっている寝癖がついていた。
寝ていた彼を無理やり起こしたのは鳴り止むことのない来訪者を知らせる呼び出し音だった。一時は、寝たふりをして無視をしようと思っていたが、あまりのしつこさに遂に彼は布団から飛び出したのだ。朝っぱらからどんな嫌がらせだ、と無愛想な顔で玄関のドアを外の確認もせずに開け放った彼の目の前には、童話のマッチ売りのようにマッチが売れなくて困り果てている表情をした少女の姿があった。とりあえず部屋の中に入れた彼に少女は言い放ったのだ。
「...追い出された。...お金無い」
途方に暮れた様子で言う少女、昔ながらの大和撫子を体現したような黒髪の美少女は柵川中学の制服に身を包み、一つの旅行用バックに必要最低限の荷物だけを入れてやってきたようだ。さながらお泊まりに来たっていう身なりだが、彼女の様子からはそんな楽しそうな感じは一ミリも感じられない。
「金がないって言ったって、奨学金もらってんだろ。最低限の生活は保証されてんじゃねぇの?」
男はベランダ側の窓から差し込む太陽の光に目を細めながら問いかけた。ここ学園都市の全人口の8割は学生であることから、ある程度の生活品は安くなっている。また、毎月、学園都市に住む学生には生活費として奨学金が能力のレベルに応じて配られている。よって、ほとんどの学生が破産に追い込まれることなく、安心の上で生活できるようになっているのだが。
「...私はレベル1。...お金たくさんもらえない。...寮じゃない。...詰んだ」
少女、
「まぁ、いいや。そんで、マンションを出て行く羽目になった望琉は、これからどうするつもりだ?」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、白いコップに注いでいく。二つのコップを持ってきた男は部屋の中央にある机、一つを望琉の方にもう一つを自分のところに置いた。
「...緑茶が良かった。...けど、我慢する」
渡されたコップの中身を覗き、眉をしかめるが、男が見ていることに気付き、ぐっと中身を飲み干す。それを見て、男も一口麦茶を口に含んだ。
「...とても言辛い。...これからは...空也の家に泊まる」
聖の大胆発言にブッと男は口に入れたばかりの麦茶を吹き出した。...汚い、と少女は傍に置いてあったティッシュでお茶を吸わせて2、3メートル先にあるゴミ箱に放り投げた。だが、見事に飛距離が足りず結局、彼女が拾いに行く羽目になるのを視界の端に捉えつつ、男は先ほどの言葉の意味を理解しよとしていた。誰の家に泊まると言った?
「...天江空也。...私の目の前にいるあなた以外に誰がいる」
ビシッと男を指差し、大和撫子いや、ただのホームレス少女は獲物を見つけたハンターの目でそう宣言した。心なし晴れていた空が曇ってきたのは気のせいであると思いたい男、改め天江空也はごく自然な動作で少女から目を反らし、テーブルの上にあったリモコンで42型ハイビジョンテレビの電源をつける。なにやら朝のニュース番組のようで、女性アナウンサーが世界中で起こっているらしい学園都市への大規模デモの様子を実況していた。
最近の学園都市では、『樹形図の設計者』が破壊されたり、その樹形図の設計者の『残骸』を巡るいざこざが起こったり、つい先週の「0930事件」と内輪でいろいろとあっていたが、まさか国外にまで影響を及ぼすようになるとはな、と天江は頭の片隅でそんな風に思った。
「...無言は肯定。...泊まる」
顔を背けている天江の顔色を伺いながら、聖は隣の部屋への扉を開ける。ほとんど荷物の置かれていないその部屋は、長年使われていないのか些か生活感に欠けた部屋だった。薄暗いその部屋はカーテンが閉められているからだろう。中には一つの学習机と椅子、そして、空になっている本棚ぐらいしかない。カーテンを開けると埃が舞っているのが分かり、彼女は咳き込んでしまった。
「...空也、私は家具を要求する。...買って」
トボトボと部屋から出てきた聖は未だテレビ画面に目を向けている天江の正面、ちょうど画面を遮る形で立ち塞がり、その端正な顔立ちを近づけて言った。ふわりと香る甘い匂いが男の鼻腔をくすぐる。
「居候のくせに何言ってんだ。んなもん自分の金で買え」
しっしと、右手で払うような動作で聖の顔を遠ざける。相変わらず、テレビ画面の向こう側では暴動を抑えるために警官隊と激突するローマ市民の姿が映されていた。むっとしかめっ面になる彼女だが、向き合うような形で座り込む。背筋をピンと伸ばし、正座をしている。
「...何度も言うように...お金無い。...それに空也は...私と違ってレベル」
少女の声は途中で遮られた。キャァァァァァ、という甲高い女性の悲鳴が鳴り響いたからだ。あ、すまんと天江は自身のジャージのポケットから携帯電話を取り出す。黒のスマートフォンには、ムンクの叫びのような感じのほっぺに手を当てて口を縦に開けたはにわみたいなストラップがぶら下がっていた。画面に表示された名前には男は歓喜する。
「良かったな。お金の方は解決しそうだぞ」
にやりとあくどい笑みを浮かべて天江はスマートフォンの画面を聖に見せつける。
そこには、発信者『電話口の女』と表示されていた。
「あー、分かった。今から行く。下部組織の連中に車の手配させておいてくれ」
天江は通話終了のボタンを押し、電話を終える。
「...仕事、何?」
天江が着替えをするため、彼の部屋から追い出された聖はドア越しに語りかける。
「
着替えを終えて、部屋から出てきた天江はめんどくさそうに言った。手には小さいポーチを持っており、それを聖に渡すと玄関へ向けて歩き出す。対して、聖の方はポーチを肩からぶら下げ、足取り軽く天江に着いて行った。
「...お金...貰える。...仕事嬉しい」
ルンルン気分の聖は隣を歩く天江に仕事が終わったら買い物に行きたいと、言う事を言っていたが、彼は半分聞き流しながら、マンションの前に止められた車に乗り込む。車は白のバンで後ろには花子印刷という偽の会社の名前の看板が貼り付けられていた。運転席には下部組織の人間と思われるガラの悪い兄ちゃんが乗っている。
「今回は二人だけだから、目的地まで直行...」
天江は男に指示を飛ばすが、裾を引っ張ってきた聖がそれに待ったをかける。
「...お腹すいた、ご飯」
お腹をさすり俯く聖を見て、そういえば朝食を食べていなかったなと天江は気がついた。そうして意識してしまうと空腹感が襲ってきてしまったので道中24時間営業のコンビニエンスストアに寄ってもらうことにする。天江はそこで自分用のおにぎりを二つとミント味のガム、彼女の朝食を購入した。車の中で彼女は新発売らしいキャラメルを用いた菓子パンを口いっぱいに頬張って恍惚の表情を浮かべている。そんな彼女の様子をバックミラー越しに見ていた下部組織の兄ちゃんは果たして彼らが暗部の人間なのか信じられなかった。
「...ご飯美味しい。...幸せ」
最後の一口を口に含むのと、バンが停車するのは同時だった。天江は幸せそうな顔の聖の首根っこを掴むと開け放った車のドアから外に連れ出した。目の前にはビルとビルの間の薄暗い路地裏が伸びており、上を見上げれば布のようなもので太陽の光が入らないようにされている。
「んじゃ、サクッと倒してさっさと帰るか」
「...買い物」
腕を真上に伸ばす伸びをしながら天江は闇に踏み込んだ。
スキルアウトの一人、本田道久は荒い息を吐きながら物陰に滑り込んだ。室外機に背を預け、汗で張り付いた上着を脱ぎ捨てる。未だに流れ出る汗を不快に思いながらそれを拭き取るなどという流暢なことなどしていられなかった。自身の自慢である筋肉質な腕さえも今この場においては子供の幼稚な手のように可愛らしく見える。
早鐘を打つ鼓動が収まるのを待ちながら、本田は天を仰いだ。布と布の合間から見える空は曇り空で光が差し込むことはない。まるで自分の末路のようだと深い溜息が溢れた。
一体どこから計画が漏れたというのだ。
駒場利徳。俺たちのグループは彼らの考えに賛同し、共に戦うことを誓っていた。それが、だ。突然、駒場利徳が何者かに襲撃され死亡、彼のチームもほぼ壊滅状態に陥ってしまったことがわかった。俺たちには中途半端な数の能力者対策の機械と何を目指せばいいか迷う心だけが残された。それでも俺たちのリーダーは何とかその状態を立て直し、再び反旗を翻すために水面下で準備を始めたばかりのことだ。
あれが現れたのだ。
「畜生が...!!」
目の前で、俺たちのリーダが殺されたのだ。さぁ頑張ろうと笑顔を数秒前まで見せていたリーダの首があんなにもあっさりと...。今でも路地裏の向こうからは仲間たちの悲鳴と銃声が鳴り止むことはない。確実に死へのカウントダウンが迫っていることを嫌でも刻みつけられる。もっと遠くへ逃げなければ...。
そう思い、移動を開始しようとした矢先、ドサァっと俺の真横を何かが滑っていった。それが何なのか理解する前に、物凄い腐臭が鼻を刺激した。思わず吐き気を催し、その場にぶちまけてしまう。
うっすらと涙を浮かべた彼の瞳にはかろうじて人間と分かるモノが映った。だが、ただの死体ではない。グズグズにとろけたような腐った死体だ。これはゾンビだと言われて納得してしまうようなそんな状態とまだ責め続ける腐臭に再び、空になった胃が暴れまわる。震える足に叱咤を加え、彼は自身を奮い立たせ、何とか一歩を踏み出した直後だった。
「...何してるの?」
背中越しにかけられたその声に思わず、どこから出たかわからない小さな悲鳴が上がる。足がもつれバランスを崩した彼は顔から地面に突っ込んでしまった。ジンジンくる痛みに顔を覆いながら本田は声の主を見た。
中学生の少女だ。小さなポーチを肩からぶら下げて、黒髪を長く伸ばした少女は人畜無害な瞳でこちらを見つめている。あの化物ではなくて良かったという安心感がまず最初に起こり、次いでなぜこんな危険な場所にこんな少女がいるのかということに疑問が湧き出た。もしかしたら道に迷ってここまで来てしまったかもしれない。不思議とその少女を警戒するという選択肢は思い浮かばなかった。
「あぁ、気にしないでくれ。っと、ここにいたら危ないよ。向こうは安全だから一緒に逃げよう。」
本田は少女の手を取り、駆け出す。不思議と恐怖心は無くなっていた。早く大通りに出てこの少女を安全な場所へと返さねばということだけが頭の中を支配していた。
「ふーん。そうやってスキルアウトの不良風情が正義の味方の真似ってのは虫が良すぎんじゃねぇの?」
カツカツと地を蹴る音がやけに大きく聞こえた。闇が輪郭をかたどっていく。その男は灰色の髪を適当に整えた無造作ヘアーで、どこの制服かわからないほど改造した黒を基調とした制服に身を包んだ男だった。身長は割と高めだがガタイはガッチリとというより、軽い細マッチョといった感じだ。ただ妙に嫌な笑みと肩にのしかかる威圧感に押しつぶされそうになり、無意識に少女を握り締める本田の手が強くなった。
何としてでもこの少女は逃がさないと、そう思った本田が行動を起こそうとした直後、
「まぁ、どうでもいいか。死んでくれ」
奴が何をしたか分からない。思考はふわふわと漂い霧散するようだった。ただ俺の体は腐っていき、倒れ、意識を失った。そして、少女も腐っていく光景が見えたような気がした。
「おーい。起きろ」
時刻は午前11時。裏路地の一角で天江空也は気絶している黒髪の少女、聖望琉の肩を揺すっていた。辺り一面には腐臭が漂っており、地面には二つのグジュグジュの死体が無造作に転がっている。
「...ん。...ぅ。...おはよう」
目を覚ました聖は開口一番、そう言った。そして、首を左右に向け辺りの様子を確認し、ついで自分の制服、ボロボロになったそれを見てハァっとため息を吐いた。
「...制服。...もう使えない」
彼女は未練たらしくわずかに残った布切れをつまみ上げひらひらと自分の前に掲げる。それを見ていた天江は自身の着ていた上着を脱ぎ、少女に着せた。少女は不思議そうな顔をしているが、彼が電話をかけ始めたので、その小さな手で上着を引き寄せ、視線を地面に落とした。
「あぁ、俺だ。殲滅しておいた。証拠隠滅よろしく。あと、聖の制服の新品の準備をよろしく。はぁ、これで8回目? んなこと知るかよ」
ブチッと最後は口論になりながら一方的に彼は通話を終了した。鬱陶しそうに画面に目を向けている彼は最後に殺した相手、名前もわからない青年を見て、目をそらした。彼が正義の味方なら俺は悪人か、自嘲するが答えは帰ってこない。
「帰るぞ。望琉」
少女を一瞥し、天江は歩き出した。もうじきしたらここは元通りの路地裏へと戻るだろう。ただ、ここにあった騒がしい声はもう二度と蘇ることはない。
「...だから買い物」
男の背中を少女は追いかける。学園都市の裏の顔。深い漆黒の闇の底に這い蹲る暗部組織の一つ、『デリート』の構成員の少女、聖望琉はその背中を見つめる。今日は夕方まで買い物をして、空也を困らせてやろうと悪戯心を沸かせながら、バンに乗り込んだ。
学園都市に七人しかいないレベル5の一人、序列は第六位の天江空也。『デリート』のリーダーである彼とのこれからの生活に少女の心は踊るのだった。
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