天江空也は木原円周のいる研究施設の前に止められていた、偽装用として花子家具の看板をつけられた白のバンに通話しながら乗り込んだ。おそらく電話口の女によって手配されたその車にはいつもの顔なじみの下部組織の兄ちゃんが運転席に座っている。彼はドアが閉まるのを確認すると車を発進させた。
「出かけてるとこ悪いな、望琉。メールで送った通り緊急の仕事だ。そっちには下部組織の連中が車を手配してるはずだから、第十八学区の素粒子工学研究所まで来い」
『...分かった。...残念だけど...仕事なら仕方ない』
スマートフォンのスピーカーから聞こえてる聖望琉の声は名残惜しさを感じさせる弱々しいものだが、あえて天江は声をかけることも憐れむこともせず無言で電話を切った。スマートフォンを座席に放り投げ、車に積まれていた携帯食料を取り出す。スティックタイプのそれはひと袋三本入りで、一食分の栄養カロリーが補えるものとしてCMで紹介されていた。
プレーン味と書かれたそれを口に放り込み、味気ないなと思いながら咀嚼し、機械的に胃に押し込む。それだけでは満腹にはならないが、今から死ぬかもしれない戦地へ向かうのだ。満腹になって気が緩むよりも、空腹を感じてでも緊張感を持ったほうが生存確率は圧倒的に上がる。
もっとも初めから死ぬつもりも無い、と天江は笑う。既に『デリート』の構成員である斉藤莉奈と那須亮太は第五学区のウィルス保管センターの制圧に動いている。ここへの敵からの襲撃はダミーである可能性が濃厚だが、仮に本命と当たっても彼女らに任せておけば死体となって帰って来ることはないだろう。
それに第十八学区の素粒子工学研究所の制圧には天江一人で対応しないといけないが、それが終われば聖望琉が合流する。『デリート』のキーである彼女を常にそばに置くことは戦略の幅が広がることに繋がる。その後は、電話口の女から送られて来る場所を虱潰しに行けば、いずれ一方通行をはじめとする超能力者達に出会えるはずだ。
その間に『デリート』の構成員の一人、二人はリタイアするかもしれないが別に構わない。天江空也にとって聖望琉以外は代用の効く消耗品だ。替えならいつでも用意出来る。彼女らには彼女らなりの暗部にいる理由があり、目的があるし、それは天江も持っているので互いに利用しあっているに過ぎない。
「そろそろか」
天江は窓から見えてきた素粒子工学研究所を見て呟く。スマートフォンを手に取り、彼は笑う。獣のような獰猛な瞳を宿して。
浜面仕上は路上駐車した盗難車の運転席にいた。かつては武装組織『スキルアウト』の一員として駒場利徳らと路地裏を支配していたが、つい先週、駒場利徳は死に、その代わりにリーダーを任されたが、そこでの初めての作戦が失敗し、今では学園都市の暗部での下働きを行うことになっていた。これはその仕事の一つで、学園都市の暗部組織、不穏分子の削除、抹消を目的とした『アイテム』の下部組織として雑用権運転手をやっている。
第十八学区の霧ケ丘女学院の近くにいた彼は目の前の建物を見た。素粒子工学研究所と呼ばれている四角い建物は半壊していく。
「うわぁ...」
粉塵とともに傾いていくコンクリートの建物を見た彼は呻き声を上げた。中には研究所を襲撃した『スクール』とその迎撃を行うレベル5の一人、麦野沈利を含む『アイテム』の二つの組織が激突している。かつて駒場利徳を含んだ彼らは、レベル5と戦って勝つつもりでいた。しかし、今、目の前で行われている光景を見ていると昔の自分が馬鹿に見えてきていた。
圧倒的すぎる。次元が違いすぎた。
「チッ...」
無意味な舌打ちが誰もいない車内に響き渡る。無駄だと分かっていてもせずにはいられなかった。苛立つ心を落ち着けるため、気分を変えるべく車外に降りようとドアノブに手をかけたその時だ。
「何だ?」
浜面は半壊していく研究所の前に急停車した白のバンを見た。花子家具の看板をつけられたその車はどう考えてもこの場に違和感を与えている。ただし、そこから出てきた灰色の髪の男を見た瞬間、それは違和感ではなくなった。
あの男はヤバイ。浜面仕上は直感でそう感じた。
そうこの感じは初めて麦野沈利に出会った時と似ている。暗部特有の言葉には表しづらい身の毛もよだつ感じは、間違いなくあの男が隠すことなく放っていた。そして何より、格が違うと思った。
素直にあの男が怖い。浜面仕上は呼吸さえ忘れたかのようにドアノブにかけた手を離すことさえできずそこで硬直していた。外から見たら上半身は丸見えなのだが、ここでしゃがむなんて空気を震わせるようなことをすれば間違いなく気づかれてしまうという極限の緊張感が彼を襲う。嫌な汗が額から流れた。
視線は男から離れない。離せない。ただ、彼にとって唯一の幸福はその男が一度も浜面仕上の方を見なかったからだろう。ゆっくりと、いや実際にはほんの数秒のことだが男が研究所へと入ると同時、浜面仕上は腰が抜けたかのように背もたれに背を預け、安堵の息を漏らした。
その違和感に最初に気がついたのは『アイテム』の構成員フレンダだった。金髪碧眼の少女は煙の上がる建物内部の向こうで『スクール』と戦っている麦野沈利や絹旗最愛らを後方から支援していたが故に、建物の天井を支える柱に現在進行形でヒビが入っていくことに気がついた。それも複数の柱が同様に同時進行で、まるで、内部の骨組みとなっている鉄の柱が無くなっているかのような状況に、声を上げた。
「麦野、上!!」
フレンダの声に秋物の明るい色の半袖コートを着込んだ女、麦野沈利は上を向いた。戦闘中によそ見をするなど愚かなことだが、フレンダの切羽詰った声に危機感を感じたのだ。それと同時、複数の柱が折れ、コンクリートの天井が落下してきた。
「...」
麦野沈利は焦ることなく、近くにいた『アイテム』の構成員、滝壺理后の首根っこを引っ掴み、自分のところへ引き寄せた。そして、右手を上にかざし、光線を放つ。ズバァという効果音と共に、真っ白で不健康な光の筋がコンクリートの壁を消失させる。
7人のレベル5の第4位、麦野沈利。その能力は『原子崩し』。その力は本来『粒子』又は『波形』のどちらかの性質を状況に応じて示す電子を、その二つの中間である『曖昧なまま』の状態に固定し、強制的に操ることを基準としている。そうすることで対象物にぶつかった時に、どちらの性質でもない『曖昧なまま』の状態はその場に『留まろう』としてしまう効力によって擬似的な壁となり、それは絶大な破壊力を生み出す。
『スクール』の人間がやったのか、と麦野沈利は推測する。だが、垣根帝督を含めた『スクール』の構成員は誰一人、逃げるような動作はしていなかったはずだ。現に、目の前には『スクール』の構成員らしき土星の輪のようなごつい機械製のヘッドギアを被った男が瓦礫の下で血を流して倒れている。こちらの被害も重大で、粉塵が上がっているせいでフレンダの姿は見えず、先程まで近くで戦っていた絹旗最愛の姿も見当たらない。
その時、麦野は背筋に嫌な汗を感じた。天井が落ちたことでより濃くなった粉塵から人影が迫ってくるのを確認できたのだ。その数は1人。近くにいた滝壺理后の首根っこを掴んだまま、麦野沈利は迷うことなく、『原子崩し』をそいつめがけて放った。シュゥっとあたり一面に焦げ臭い匂いが広がる。
「おいおい、挨拶がわりに光線ぶっぱなすなんてなかなかいい趣味してんじゃねぇか。殺されてぇのか、第4位、麦野沈利」
それは地の底から響くような殺意のこもった声だった。その声の方向、粉塵が晴れていくそこを麦野沈利は見た。太い樹木が、さながらシェルターのようにドーム状に何かを包んでいる。樹木の表面は焦げており、そこから熱気が放たれていた。麦野沈利は突然現れた植物ごときで、破壊力なら第3位の『超電磁砲』を上回るその攻撃を防いだことに眉をしかめた。
その植物が一瞬で枯れてしまう。そして、中から男が現れた。無造作に整えられた灰色の髪に、どこの学校なのか判別できないほど改造された黒を基調とした制服。学園都市に存在を隠蔽された第6位、天江空也だ。
「何驚いてやがんだ? これは『木原』の作った改造植物だよ。第1位のベクトルを用いた力の分解を極限にまで高めて出来たものとか言ってやがったな、まぁ、効果はあるみたいだからどうでもいいんだが」
天江空也は麦野沈利へと歩を進める。途中、通り道の途中で、何も考えもせず道端の虫を踏むように『スクール』のヘッドギアを被った男の頭を踏み潰した。何の躊躇いもせずにやってのけたその行動に麦野沈利は同じ闇の世界の住人かと、内心ため息を吐く。彼女としては第2位の垣根帝督を相手に散々煮え湯を飲まされてきたのに、突然現れた天江の相手など鬱陶しい以外の何者でもない。
(もう一発撃って、敵の能力を確かめるか)
今度は粉塵が消えている視界の晴れ渡った状態で再び、麦野沈利は『原子崩し』を放った。真っ白な光線が天江へと一直線に進む最中、彼はポケットから取り出した種を地面に無造作に捨てる。そして、彼はレベル5の『終着地点』を使用した。これは微生物が有機物を無機物に分解することの強化版のようなもので、その結果として腐らせたり、先ほどの柱を折るように柱の骨組み部分の鉄筋のみを分解することができる。
つまりは地面を建物の床ごと分解、腐らせて腐葉土のようにして、植物の成長を無理やり促進させることも可能なのだ。最も、『木原』によって作られた改造植物でなければ、麦野の攻撃を一瞬で防ぐほどの速さで成長は行われないので、他の植物ではもう少し時間がかかってしまう。
先程と同様に二発目の『原子崩し』を防いだ天江空也は麦野沈利を見据える。昨日出会った時は嫌な印象があったのだが、今はそんなものは感じない。
「んじゃ、守ってばっかてのもつまんないんで、サクッと始末してやる」
天江空也はそう言って、にやりと笑う。
「五体満足で脳みそ溶かされるのと、四肢を腐り落とされるのどっちがいい?」
聖望琉が素粒子工学研究所にたどり着いたのは、電話を受けてから30分後のことだった。研究所の前にはいつも『デリート』に手配される白のバンのみが、コンクリートの瓦礫が積もっていて山のようになっているが、おそらく研究所の玄関だと思われる場所に停車されていた。
建物は半壊し、入口の真横には砲弾でも打ち込んだかのような大穴が壁に開けられていた。空気中には埃と砂が舞っており、それが彼女の黒髪に付着するがそんなことを気にすることなく中へと入っていく。彼女が歩くたびに肩から下げた小さなポーチが跳ねた。
中も外と同様に瓦礫が床一面に散らばっていて、上を見上げれば快晴の空を仰ぎ見ることができる。天井がなくなっていたその研究所はそこで激闘が繰り広げられていたことを意味していた。そして、今は物音一つせず、生きた人間は一人もいないもぬけの殻となっているのかもしれない。現に、聖の歩く途中には頭を潰された人間の死体が瓦礫の下に埋もれている。
「...誰も...いない」
天江からの連絡を受けてここに来た聖は携帯電話を取り出し、天江に電話をかけた。数秒の間を置いて、僅かなバイブ音を確認する。その音源を探るように慎重に彼女は進んでいく。そして、聖は見つけた。
「...空也、死にかけ。...何があったの?」
瓦礫に背を預けるようにして座っている天江空也がそこにいた。手は力なく垂れ下がっており、足は伸ばされている。口から血を吐いており、横腹はポッカリと齧り取られたように抉り取られていた。その傷口の周辺は僅かに『腐って』いる。 隣には気絶したフレンダの姿があった。こちらは手足が腐った状態で辛うじて生きているものの、まともな戦闘はできないだろう。
天江空也はあの後、瓦礫の下に潜んでいた垣根帝督の奇襲にあい、ボコボコにされていた。それはもう、一方的にだ。垣根帝督の能力は、天江空也の分解し腐らせる力の効果を全く受け付けていなかった。天江は自分の肉体を腐らせて、トカゲの尻尾のように切り離すことで、致命傷こそ逃れていたものの、しばらくは動けない状態に陥っていた。そのおかげで麦野沈利にも逃げられてしまう。垣根帝督が、彼の死を確認せずに研究所を後にしたのは不幸中の幸いだった。その戦いの途中で、遠目から様子を伺っていたフレンダを『終着地点』で強襲し、人質として捉えることができていたのも、幸運と言えるだろう。
彼は喋ることも辛いのか、無言で聖の持つポーチと自分の持つショルダーバックを指し示す。
「...分かった。...今は、薬が大事」
彼女は天江の持っていたショルダーバックから注射器を取り出す。その注射器の表面には『Maid in Ensyu』という意味の奇怪な記号が刻まれており、中には無色透明な液体が入っていた。中に詰まっていた緩衝材のおかげで、破損しているものは無い。それを天江の右の手のひらに載せる。
「...演算はそこまで必要ない。...単純」
やってみて、と聖は言う。
どの能力者も能力を使用するときは、少なからず『演算』をしている。能力の強度が高いほどそれを扱う演算はより複雑なものへと変化していく。それはレベル5の天江空也も同様で普段何気なく使っている能力は無意識下での演算が可能で、そこからさらに一歩、複雑な能力を使用するときは意識した上で演算を行う必要がある。現状のように瀕死の状態で、演算をするとなると複雑なものはもちろん不可能に近いし、普段無意識でやっていることさえ、何らかのミスをしてしまうかもしれない。
もしもミスをしてしまうと、それは一瞬で能力の暴走へと繋がり、自分自身を傷つけることになるかもしれない。下手をしたら頭の中の回路がショートを起こすかのように今後一切の能力の使用ができなくなるという可能性も否定はできないのだ。
危うい賭け。失敗は許されない。だが、唐突に左手を聖望琉に握られた。小さくて儚い手。だが、その手は力強く彼の手を握っていた。
「...お姉ちゃんとの...『約束』...果たすため」
聖のその言葉に天江の中の迷いは一切なくなった。ただ、今この瞬間を乗り切るために、能力を行使する。
ある人間は天江空也のことをこう評した。
『愛する者のためなら、その行為がどんなに愚かなことでも、迷うことなくやってのける馬鹿な男』
と。
大量の演算が頭の中を磨り潰すのような感覚が彼を襲う。幾重にも重なり合う数式が次から次へと滝のように流れ込んでくる。だが、プレス機に掛けられたような圧迫感で意識が朦朧となる中、彼は『答え』を見つけた。
注射器の中の無色透明な液体が褐色に染まっていく。それはつまり、能力の成功を意味するものだった。
「...後は任せて」
聖望琉は優しく天江空也に囁く。彼女の持つポーチから一粒の錠剤を取り出し、彼の口の中に無理やり押し込む。その錠剤はあの『冥土帰し』が作り出したもので、普段は暴走した能力者の力を押さえ込めるのに使われるものだった。だが、その錠剤は彼が飲むことで別の効果を発揮する。それは天江空也の『終着地点』で体内に含んだその薬の成分を分解し、その体内で新たな化学反応を起こさせることで飛躍的に再生能力を高めることができるのだ。
だが、先ほどの演算とは比べ物にならないほどの複雑な演算を行う必要がある。その錠剤の必要な部分だけを分解し、それと同時に決められた分量を化学反応させる必要があるのだ。必要な成分はそれぞれ違うし、分解されていく速さも違う。極小の穴に目隠しをした状態で糸を通すようなものだ。繊細なその作業は普段の天江空也ならともかく、今の瀕死な彼には到底できるわけのないものだった。
だから代わりに、聖望琉というレベル1の少女が行うのだ。
彼女の能力はレベル1の『
ただし、天江空也が木原円周の影響を受けて『木原』と関わったように、聖望琉もまた『木原』と関わる天江空也と関わっているのだ。『木原』は不可能を可能にする。そこに被検体の人権などは存在しないが。
天江の口に錠剤を押し込んだ聖望琉が次にとった行動は単純なものだった。褐色の液体が入った注射器を自分の腕に刺したのだ。その液体が完全に彼女の体に入った時、異変が起こった。
「...痛い。痛い痛い痛い痛い痛いよ!!」
体中を襲う激痛に少女は悲鳴を上げる。と、同時、聖望琉は泣きながら笑った。
通称『擬似強度増加薬品』。聖望琉が打った薬の名前だ。木原円周が独自の科学でつくり上げた薬品で、対象の脳に急激な負荷をかけることで数分の間だが、能力の強度を強制的に跳ね上げさせるものだ。いわゆるドーピングのようなもので無色透明な状態で使えば、強制的にレベル5相当にまで跳ね上がるが、能力使用後に今後一切の能力は使えなくなり、脳にかなりの負荷がかかる影響で、エピソード記憶、手続き記憶、意味記憶のうちのいずれかを失うことになる。仮に、無理やりにでも能力を使おうとすると、脳は耐え切れずに脳神経が焼き切れ、廃人になってしまう。
だが、天江空也の『終着地点』で液体中の成分を発酵させることにより、レベル4相当と効果は薄れるが、脳への負担を極力減らした安全な状態で使用することができる。ただし、本来の『能力調整』のデメリットとして、他者の能力を乗っ取るだけでなく相手の痛覚を共有してしまうため、彼女への負担は大きなものとなっていた。
「...分かってる。...今、助けるから」
聖は天江空也のAIM拡散力場を乗っ取り、レベル4になった『能力調整』を使う。レベル4相当になった彼女は相手の能力の出力、威力を最大からゼロまで自在に操ることができる。
痛みに抗いながら、多大な演算を聖望琉が代わりに受け持ちながら、天江空也の治療を慎重に行っていった。
彼女が安堵の息を漏らしたのは、それから数分後のことだった。