あと1時間もすれば日が昇る。また朝がやってくる。ずっと気にすることのなかった朝の訪れが恐い。変わってしまうかもしれない1日が心臓を麻痺させてしまいそうだ。
だけど、そのまま逃げ出すことなんてできるはずもない。IS学園から逃げ出して、弾のところへ逃げ出して、弾に背中を押されてしまった以上は立ち向かうしかない。
何に立ち向かうのかなんて分からない。千冬姉さんかもしれないし、自分自身かもしれないし。とにかく何かに立ち向かわなくてはならない。
夜の町を歩いていく。千冬姉さんのいるであろうIS学園に戻ろうにも足がない。無我夢中で飛び出して弾の家まで来れたのは交通機関がまだ生きていたからだ。時間帯を考えると今派何も利用することもできないのでIS学園には戻れない。
暫く歩みを進めると、たどり着いたのは少し前まで当たり前のように帰ってきていた自宅だった。
全ての始まり。記憶がなかったボクの帰る場所。あの病院から連れ出されてたどり着いた家はいまだに変わりない姿を見せてくれる。ずっと暮らしてきた場所の変わらなさが羨ましい。その不変を分けて欲しくなる。
だけど、今はその家も多少の変化を見せている。家に明かりが漏れ出しているのだ。誰もいないはずの家に。こんな時間帯にも関わらずだ。
睡眠を欲している脳みそが警鐘を鳴らしている。考えが纏まらない中でも危険信号を発して遠ざかるように忠告していた。居ないはずの家にいるのは何者か。盗人とでも言うのか。しかし、盗人がいるにしては不用心だ。暗がりの中で盗みを働くのじゃないか。あんなに煌々と光を焚いて、それもこんな暗がりの中で。疑ってくださいと言っているようなものだ。
でもそんなものがなんだ。たとえ盗人がいたとしても今のボクなら抑えられる。灰式の存在がボクを一時的でも強くしてくれる。IS戦は駄目だけど、あの家を荒らす奴なら話は別だ。
息を潜めて戸口へと近づき、まずは試しにとドアノブを回す。するとあっけなく扉が開き、家の主の片割れを招き入れてくれた。盗人の理論は知りもしないけど、こういう時は下手な侵入を防ぐために扉の鍵はかけておくんじゃないだろうか。
盗人新人か、なんて余計なことを考えて玄関をぐるりと見渡せば、足元には見知ったブーツが綺麗に置かれていた。どっからどうみても千冬姉さんのブーツだった。
となると電気がついているのは千冬姉さんが家に帰ってきているからだ。どうして家に帰ってきているのかは分からないけど。
そう思っていると不意にズボンのポケットの重みを思い出した。携帯電話を突っ込んだままだと今更に思い出してしまった。そういえばケータイが僅かに震えていた気がする。
何故か妙に気になってケータイを開くと千冬姉さんからのメールが届いていた。内容は「家にいるから」という簡素なもの。だけど、それは千冬姉さんがボクが来るであろうことを期待していることが分かる。
ドキドキとしてくる心臓を胸の上から押さえつけて深呼吸をする。思ってもみなかったところでの千冬姉さんとの対面に緊張が段々と上がってきた。
逃げ出したい気分になってきた。千冬姉さんと対面する勇気も度胸もない身にはこの状況は辛い。だけど千冬姉さんのことだからボクが家に入ってきたことなんて既に気配で感じ取っているはずだ。逃げ出せるはずもない。
ゆっくりとリビングまでの道のりを歩いていく。深呼吸を何度も行って心の平静に努めようとするけど1歩進むごとに背筋が寒くなってきた。
リビングと廊下を隔てる扉を開けると、IS学園に入る前に見てきた景色が当たり前のように飛び込んできた。かつてはこの光景が当たり前だったんだ。
果たして千冬姉さんはリビングに置かれたテーブルについていた。ボクが部屋に入って来るなり少し驚いた顔をしながらも「おかえり」と声をかけてくれた。これもかつては当たり前の光景だった。
「た――」
――だいま、なんて言っていいんだろうか。喉から出かかった言葉は最初の1つで引っかかる。普段口にしている単語を吐きだすことすらできない。
千冬姉さんの顔を直視することもできずに俯いたままテーブルを挟んだ向かい側に座る。
視線は感じる。だけど不愉快の視線じゃない気がしないでもない。
ボクは何も話せずに沈黙する。真実の追求なんて探偵染みたカッコイイことなんてできるはずもなく、このまま何もなく停滞した状況で過ぎ去ってくれればいい、なんて臆病の嵐に身を委ねてしまっていた。
アナログの壁掛け時計の針が動く音だけがリビングに響き渡る中で、呼吸すら忘れた2人はきっと出来過ぎたマネキンとでしか映らないだろう。外面だけを見れば作り物でしかないが、ボクの中では沢山の恐怖と不安が渦を巻いて蠢いている。向かいの千冬姉さんの内心も読み取れずに、自分の中の何かも理解できていないちっぽけな人間だ。
チラリと視線だけを真向かいに移せば、ちょうど千冬姉さんと視線がぶつかりあった。1度視線が交われば互いに逸らすこともできずに見つめ合う。いつの間にか顔さえも向きあっていることにも気がつかずに千冬姉さんを見つめていた。不思議だった。千冬姉さんの瞳にはいつもと何ら変わりがないんだから。
「夜遅くに無断外出するな。心配したぞ」
かける言葉も変わらない。常にボクを思い遣ってくれる優しい言葉だ。
「……ごめん」
謝るしかなかった。何に対して謝っているのかも分からないけれど謝るしかなかった。
「……私もお前に謝ることがある」
冷静な声音だ。冷静でありつつもどこか不安を滲ませている声に、ボクはいまだに視線を逸らせずにいた。
「私は初めてお前に会った時から知っていた」
何をとは聞かない。ボクが偽物の織斑一夏であったことに決まっている。愛すべき存在ではなかったことに決まっている。
ならどうしてあんなに愛してくれたんだろう。
一瞬浮かび上がった疑問。
「お前が血の繋がった本当の弟でないことを」
知っていて見捨てなかった。それはどうして。疑問が形を変えて膨らみ出した。
「でもそれでよかった。私はまだ独りじゃないんだって。孤独じゃないだって」
意味が分からない。なんでボクが居ると孤独じゃないの。だって、千冬姉さんの周りには人がいるよ。千冬姉さんを尊敬したりする人が。
「実の両親に見捨てられ、気がついたら実の弟すらも居なくなってしまった。憎まれ口を叩きながらも周囲は家族の愛が溢れていた。それなのに私にはそれがない。束の奴でさえ家族に愛されていたのに、私は両親どころか弟にまで捨てられてしまった。孤独になってしまった」
「千冬姉さんは孤独じゃないよ」
「いいや孤独だった」
「だって、ボクの見てきた千冬姉さんは本当に幸せそうだったよ。そんな人が孤独なわけない。独りぼっちなわけないでしょ」
「私が幸せそうに見えたのはお前が居てくれたからだ。一夏、お前が居てくれなければ私は今頃孤独に耐えられずに潰れていたよ」
千冬姉さんが目を伏せた。
「私は言われているほどには強くはないよ。自分のことばかりしか考えてこなかった。両親に見捨てられて焦っていたんだろうさ。もう一夏しかいない、なんてな。それで一夏のことなんて一切も考えずに……ただ残された家族を手放したくないという想いだけを押しつけていただけ。だからこそ一夏はいなくなった。本当は誰のせいでもなかった。私自身が招いたことなのだろう。お前を巻き込んでしまったというわけさ」
再び視線を向けてきた千冬姉さんの頬に1粒の涙が滑り落ちていく。たった1粒だけ。それだけしかなかった。
小さな涙を見る。ツーっと滑り落ちていく涙が千冬姉さんの顎へと流れ、ポタリとテーブルの上へと落ちてしまった。テーブルの表面にぶつかって控え目に飛散していった。
心が震える。千冬姉さんが泣くのを見たのは初めてだ。もしかしたらずっと見てきているものかもしれないけど、今のボクには初めてに見えた。あの強くて頼りになる千冬姉さんが泣いたのだ。1滴の涙でしかなかったけど、それでも泣いたんだ。
「千冬……姉さん」
ずっと守ってくれていた。ずっと想っていてくれた。それをボクは勝手に偽物だから捨てられると怯えていた。弾が謝ってこい、なんて言うのが分かる。
悪いのはボクだ。甘えておいて、ちょっとしたことで取り乱して逃げ出したんだ。
「ご……ごめんなさい」
何をすればいいのか分からない。千冬姉さんの吐露に対して気の利いた言葉も用意できない。弾の言う謝罪の言葉も陳腐なものしか出てこない。
でも謝りたかった。
自分で壊しかけた関係をやり直したかった。
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「ごめんなさい……千冬姉さん」
「それから……ありがとう、千冬姉さん」
朝がやってくる。閉め切られたカーテンから陽光が僅かに差し込んでくる。
千冬姉さんは椅子から立ち上がると、カーテンを開けて日の光を取り入れる。光を受けた千冬姉さんの黒髪がキラキラと輝いて見えた。ボクの姉さんは綺麗だった。
まる1日眠っていない身でありながらも千冬姉さんの姿だけはぼやけることなくはっきりと見ることができてしまうのは、ボクがやはり千冬姉さんのことが好きだからだろう。
リビングの風景が全てぼやけて映る中で、千冬姉さんの輪郭はしっかりと映り続けている。
その千冬姉さんが朝日を背にして振り返る。やっぱりとても綺麗だ。
千冬姉さんが口を開く。瞳は涙で溢れていた。だけどこぼれることはなく、泣くのを我慢しているように見えた。朝陽に当てられたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ボクは眠りかけている思考をなんとか叩き起こして千冬姉さんの顔を見る。どんな言葉も聞き漏らすまい。どんな言葉であってもだ。
「一夏……私を独りにしないでくれ」
千冬姉さんが両腕を広げた。ダムが決壊したかのように涙が溢れ出るのを見た。
ボクも自分の中で何かが決壊するのを聞いた。
日曜日の正午。
いかがお過ごしでしょうか、と問われればいままでずっと眠っていましたと怠惰な生活を告白しなければならない。それを恥ずべきこととするか、自身の自由さを高らかと謳うかは人それぞれ。
起きた時にはぬくもりに包まれていた。夏特有の暑い日差しを受ける中での確かなぬくもりを感じて、ボクは再び眠りに苛まれてしまった。このまま眠り続けたいと思わせるのは新しい幸せと確かな安心を手にいれることができたからかもしれない。
ボクを抱きしめて離さないでいてくれるのは千冬姉さんだ。一緒に地べたに座り込んでボクをぎゅっと抱きしめて眠りこける千冬姉さんの顔は何も不安なことがないとばかりに穏やかだ。
眠っているのにその腕はボクを離すまいとしている。それはボクの不安をこれでもかと打ち砕いてくれる。おかげで安心していられる。
ボクは織斑一夏ではなかった。偽物で紛い物で贋作だ。
でも、それだけではなかった。
価値のある偽物だったんだ。千冬姉さんが求めてくれた。救ってくれた。それだけで十分じゃないか。本当のボクが何者かなんてそこまで重要じゃなくなった。偽物でもいいや。偽物の織斑一夏でも。
血の繋がりはないけれど。千冬姉さんとボクは姉弟だ。義姉弟ではあるけれど。ボクと千冬姉さんの繋がりは血なんて義務的な繋がりじゃないってことなんだ。
「そういえば、今日は臨海学校の為に千冬姉さんと水着を買いに行く日だった」
さぁ、千冬姉さんを起こさなくちゃ。