物心がついた時からだった。姉を嫌に思うのは。
常に張り詰めていた。両親が蒸発したことで、頼れる者はないと察したのか、常に強くあろうと厳格な態度を示した。
それは俺に対しても求めてくる。強くなれ、弱みを見せるな。頼れるのは姉弟だけだ。
それはとても息が詰まる。家の中で窒息しそうになるほどに。幼心に姉の言動が受け入れられなかった。
でも、所詮は子供だった俺には何もできなかった。家出することもできず、表立った反抗もできずに、ただ黙々姉が押しつけてくるものを受け止めるしかなった。
剣道を強要され、強くあることを強要され、店屋物や作り置きの惣菜を強要され、温かい料理も知らずに生きるしかなった。
姉だけではない。道場の少女も鬱陶しかった。事あるごとに男子たる者とか、勝てて当たり前だ、とかイチイチ突っかかって来る。変に反論しようものなら暴力を振るわれて会話することも拒否したくなる。無視すればそれはそれで暴力を振るってくるもので手の打ちようがなかったけど。
地獄のような生活だった。家に居ても学校にいても道場にいても息が詰まる。狭い世界のもやもやとした空気が辛かった。
地獄のような生活だった。既に過去になっている。
ターニングポイントは自称幼馴染となった篠ノ之箒に突き飛ばされたこと。階段を転がり落ちて、気がついたら病院に担ぎ込まれていた。病院で目を覚ました時は目の前におしとやかという言葉が良く似合う白衣の女性がいた。白衣の天使という言葉を聞いたことがあったけど、この人はそれがよくマッチしていた。
その人は医者だった。この病院内で傍若無人な態度を取ることができてしまうほどのエースドクターであり、病院経営者の身内らしい。
「辛そうだね。帰りたくないって顔になっているよ」
先生は俺を見るなり内心を言い当ててきた。
「君に何があったかは聞かないけどさ。辛そうです。小さいのにねぇ。幼いのに」
先生は白衣の裾を摘まんで遊びながらも俺の現状を悲観してきた。
「君に選択肢を与えましょうか。素敵な選択肢を3つほどね。心して選ぶことだ」
先生は指を3本立てて提案を挙げてくれて、俺はその中の1つを選択をした。
「見事だね。仕方がありませんが、これが結果です」
優雅な動作で運転席に収まった先生はふぅ、と疲れたように溜息を吐きだして笑った。後部座席でひっそりと見ていたが、先生はあの千冬に蹴られたというのに痛みを感じさせずにエンジンをかけるのだから、いかに先生がその手のことに鈍いかが分かる。
先生と暮らしてけっこう経つから分かるが、先生は直接的な痛みには鈍感な人だ。その代りに人の精神的な痛みに関しては敏感な人でもある。敏感であるが故に俺は先生の側にいれることになったのだ。
「失敗したのか。うん、先生の言う通りだ。仕方がない」
自分でもびっくりするほど平坦な声が出てきた。それほどまでに執着はなかった。それが答えということになる。自分では執着しているつもりだっただけに内心で驚きを隠せなかった。
先生は後部座席の俺を振り返ると微笑んだ。内心がバレてしまったな。さすが先生だ。ずっと昔から心の内が悟られなかったことがない。先生にはなんでもお見通しだ。
かなわないなぁ、と思わず笑みがこぼれてくる。既に千冬が去った後の公園は静かなもので、車のエンジン音だけが響き渡るに留まっていた。
「元々はぶっ壊すために始めたことなのにさぁ。失敗したのに全然悔しくない。なんでだろう」
「さぁね。私としては成功はしていたと思うけどね。確かにぶっ壊れた。完膚無きまでぶっ壊してやりましたよ。ただ、壊せば直る。どんな形であってもね。それを失念していただけだよ」
「感謝してるよ。あの時の先生の提案がなければ俺はおかしくなっていたかもしれない」
「感謝されることかな。私の出した提案は、君をただ治療して帰すか、君を別の何かと入れ替えるか、死んでもらうことにするかの3つだけですよ。その中で君は2番目を選択しただけ。それに対し、私は替え玉を用意して織斑千冬に渡しただけ。織斑千冬さんは納得して替え玉の織斑一夏くんを持って帰って今日まで育てたという結果です。そして君は私の横に居るだけ」
先生の提案が俺の人生を大きく変えたのは間違いない。こんな心健やかに生きていられているなんて想像もできなかった。あの提案がなかったら、ただ何も感動することなく、人形の様にあるだけで終わっていただろう。
背もたれに上体を預けて、先生は紙パックのコーヒー牛乳をストローでチューチュー吸っている。
「うん。美味しくないね。2度と買わないでおくよ。新発売というポップに騙されたみたいだね」
先生は新発売という言葉に弱い。新発売の飲料を見ればついつい手を出してしまうそうだ。本人が言うには「私の悪い癖」らしい。
「織斑千冬は偽物と知って今まであの少年くんを育ててきたわけだけど。恐いね。孤独を恐れる人間は形振り構わない。まぁ、気にならないならいいのかな」
「いいんじゃない。俺にはもう関係ない話だし。全然悲しくも悔しくもないし」
「おいおい。君が始めたことだろう。復讐したいってさ。だから協力したのさ。わざわざいけない薬まで調合して、少年くんを頭痛で悩ませてあげて、織斑千冬の心を痛めつけるようにしてさ」
「というか。あの織斑一夏はどこから持ってきたんだ?」
「企業秘密。いくら親しい君にだって教えることは憚れる。ひとまず言えるのは攫ってきたわけじゃないってことだけ。まぁ、結果オーライだ。少年くんは幸せな日々を過ごしてきたんだからさ。恨まれる筋合いはありません」
悪びれもしない先生はあくまでも善意で動いているのだから質が悪い。誰かのための一途な善意だ。その他のことなんて一切考えてないエゴの塊のような善意の為の犠牲者はあの織斑一夏だったのだ。織斑千冬に捧げられた生贄。俺が思っていたのと違って仲良くやっていたみたいだけど。
背もたれに背中を預けて一息つく。あの織斑一夏は俺の時とは違ってきちんと愛されていたらしい。剣道を強要されることもなく暖かみのない飯を食わされ続けることもなかった。幼馴染の篠ノ之箒にも暴力を振るわれることもなかったそうだ。
俺とは違う生き方だ。同じ織斑一夏という名前を押しつけられた者同士でありながらも、扱われ方には雲泥の差がある。それが入れ替わりによって生じた変化であることは明白である。
俺はそれを羨ましいとは思わない。何故なら俺は俺で幸せな日々を手に入れているからだ。羨ましがるような生活なんて送ってないのだ。
「さて、用事も済んだことだし。我が家へと帰りましょう。行くぞ、ジェファーソンくん」
先生はそういうなり車を発進させた。ゆっくりと速度感の一切感じられない低速走行で街中を突っ切っていく。懐かしき風景は遠ざかって行き、今の俺の生きる場所である病院へと向かっていくのだ。