運命の人 ―アカギ逸聞録―   作:天照院

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恋の病

 

 

 

 大雨の中、気付けば住んでいる古い1DKのアパートの二階の部屋の前にいて、薫は赤木の左手を掴んだままであった。

 

 ──あ!

 

 またも大胆な行動をしてしまった。急に恥ずかしくなった薫は慌てて手を離そうとしたが、ここで離せば赤木が行ってしまうのではないかと躊躇われた。

 

「頬の怪我をちゃんと消毒しないといけないし、そ、それに雨に濡れて風邪引くといけないから!」

 

 アパートに連れて来たのはこういう理由があってだから。自分にも言い聞かせるようにも言って、左手でアパートの鍵を取り出して部屋を開けた薫は、赤木を先に部屋に上がらせて自分は後から入り、壁にあるスイッチを押して明かりを点けた。

 ここまで赤木は抵抗も見せず、何も語らない。

 

「タオル持ってくるね」

 

 薫は入って直ぐのダイニングキッチンに赤木を待たせると、寝室にあるタンスからタオルを取り出して急いで赤木に手渡す。

 

「しげる君、風邪ひくといけないから拭いて」

 

 赤木は目線をタオルから薫へ向け、『アンタが使えよ』と渡し返そうとした。

 

「わたしはいいから。着替え用意するから中で着替えてて」

 

 ダイニングキッチンに隣接するようにあるバスルームの扉を指差して、薫はまたも寝室に急いだ。もしかしたら自分が寝室に行った隙に出て行かれるかもと。けれど赤木は、不満も漏らさずにバスルームへと入って行った。

 

「確かここに……」

 

 バスルームの扉の閉まる音に安堵しつつ、押し入れを開けて奥から紙袋を取り、中から黒色のスウェット上下を取り出す。これは、引っ越しの日に父親と妹が手伝いも兼ねて泊まりに来た事があって、父親のその時の忘れ物として押し入れにしまっておいたのである。

 

「ごめん、少し開けるね」

 

 バスルームの扉をノックして少しだけ開き、その隙間からスウェットを渡す為に腕を伸ばす。

 

「お、お父さんのなんだけど、まだ一回しか着てないし、それにちゃんと洗濯してあるから安心して」

 

 少しの間があったので、着るのを拒否されたらどうしようかと考えていたら、持っていた腕が軽くなった。薫はこれもほっとして扉を閉めると、寝室に行って自分も着替える事にした。

 早くしないと。赤木が着替え終える前に。薫は慌てた。もたもたはしてられないし、組み立て式のワードローブから服を選ぶ時間も無い。兎に角は部屋着をと、押し入れの中に置いてあるローチェストから部屋着を探すも絶望する。

 

 さ、さっちゃん……。

 

 友達の佐知が泊まりに来た時、『はあ? ダサいからこれにしな。可愛いのが良いって』と今までのは捨ててしまって、ピンクのキャミソールやネイビーのシフォンフリルのタンクトップ、下はどれもショートパンツ。佐知が選んだ部屋着しかない。

 

 ──どうしよう。こんな事になるならダサいままの方が良かった。

 

 どれも露出が高過ぎる。濡れた状態で過ごすか、この部屋着を着るかの選択が迫られたが、そんな時間は無い。赤木はもう出て来るのだ。

 

 ああ、もう。

 

 自分の部屋で濡れたままでいるのは流石に変に思われる。薫は意を決してタンクトップの方の部屋着に着替え、白のスウェットフルジップのパーカーを上に羽織った。下のショートパンツの脚の対策は、赤木がバスルームから出て来た為に間に合わなかった。

  仕方ない。濡れた髪は後で乾かすとして、今は軽く一つにまとめ上げる。

 

「サイズ、大丈夫だった?」

 

 何でも無いように装いながら寝室から顔を覗かせた薫は、目の前の衝撃に言葉を失う。

 

 しげる君のスウェット姿っ……!

 

 似合ってるか似合ってないかというより、着せて良いのかいけないかの問題。父親の丈が短かったらしく、赤木の脚が拳一つ分以上長く裾から出ている。何だか見てはいけないものを見てしまった気分だ。スウェットなんて絶対着ないであろう赤木にスウェットを着せてしまった事を、薫は申し訳なく思った。

 

「……ごめ、じゃなくて、き、着てくれてありがとう」

 

 薫はなるべくその姿を見ないように視線をずらして言った。

 

「着てたものは? 乾かさないと」

「別にいい」

「よくないよ」

 赤木の横を通ってバスルームの扉を開けた薫は、濡れて置かれた赤木のカーキーのポロシャツと濃いグレーのズボンを手に取る。ズボンは思っていたよりも濡れてはおらず、そのまま乾かせば良さそうだった。しかしシャツの方は絞れる程にビチャビチャである。

 洗濯機にと一瞬考えたが、夜で使えないし、外のベランダにある為にこの嵐じゃまた濡れてしまう。

 

「ごめんしげる君、シャツは洗って直ぐに干すね。あ、座ってて」

 

 赤木の返事も待たずにさっさと手洗いでシャツを洗って絞った薫は、先ずは壁掛けフックに逆さにしたズボンをハンガーと共に掛け、シャツをバスタオルで挟んで水気を取る。そして同じくシャツもフックに掛けて部屋干した。

 

 風当てれば早いかな?

 

 扇風機を付けて干している赤木の服に風を向けてから、『よし』と小さく呟いた薫がやっと赤木に向いた。赤木は何するでもなく、ダイニングキッチンに置かれた2人用ダイニングテーブルの椅子に腰を掛けて薫の様子を見ていた。

 

「これで乾くの早いと思うんだけど。シャツはあと少ししたらアイロンかけるね」

 

 変に明るく振る舞って、薫はなるべく早く、赤木をスウェットから解放してあげようと必死だった。キクラとの恐怖を思い出したり、それに赤木をこの部屋に連れ込むまでの事も色々考えながら、何も喋らない赤木に対して緊張もしていた。

 

「……あの、ごめんなさい」

 

 強引で嫌だったかもしれないと思うと、今更だけど羞恥心からか謝りたくなった。

 

「何が?」

「わたし考えも無しに無理矢理連れて来ちゃったし、しげる君嫌だったかもって」

「何で?」

「だって、しげる君、あの人のところへ戻ろうとしてたんでしょう? なのにわたし……」

 

 あの綺麗な女性と赤木の姿を思い出して辛くなる。薫は薬箱を棚から出してダイニングテーブルの上にそれを置くと、箱を開いて消毒液を取り出した。

 

「傷、消毒しないとね」

 

 せめて消毒でも。服はなんとか早く乾かすから、もう少しこの部屋にいるのを我慢してくれたら良いな。と思いながらもう一つの席に座って赤木の顔の傷の消毒をしようとしたら、赤木が薫を見つめて言った。

 

「あの人って?」

「……あの人は、しげる君と一緒にいた、女の人だよ」

 

 赤木はそれでやっとピンときたらしく、『ああ、あの人ね』と返す。

 

「それで、何なんだよ?」

「え?」

「その女が、俺が此処にいる理由と関係あるのか?」

「それは──」

 

 薫は赤木の問いに対し、言葉に詰まった。

 

 だって、彼女なんでしょ?

 

 喉元まで出かかって止まる。これを返して良いのか悪いのかわからない。薫は胸が痛くなって目を伏せた。

 以前、赤木に向けられた拒絶の目。『何を期待してるつもりか知らないけど、アンタの望むようなお花畑な展開にはならない』それと同じように告げられてしまったらと、恐れていたからだ。

 

「戻るか此処にいるか決めるのは、俺の意思。俺の自由だ。──嫌なら、アンタの手を振り解いてでも行きゃしない」

 

 そう、だよね。しげる君の自由だもんね。

 

 薫は赤木の言葉を聞きながらふと、考える。『嫌なら』を勝手に強調しながら聞いてはいたが、『嫌なら手を振り解いてでも』の部分に注目した。

 

「──え?」

 

 薫は伏せていた目を赤木に向けた。

 

「い、嫌、じゃなかったの?」

「別に」

 

 赤木は嫌じゃなかった。肝心な例の女性との件は何も訊けなかったが、嫌でこの部屋に居るのではないと、それを知れただけでも安心した。

 

「じゃあ、消毒するね」

 

 ひとり一喜一憂しながら傷の消毒を再開し、化膿止めの薬を塗り終えた薫は椅子から立ち上がった。

 

「あ、何か飲む? それとも食べる?」

 

 何も出さないわけにはいかないだろう。折角居てくれてるのに。台所に立ってから振り向きざまに聞けば、赤木は少しの間を置いてから答える。

 

「じゃあビール」

「ビール?」

 

 薫は暫し沈黙した。ビールといえばあのビールだろう。一度冷蔵庫を開けて見るが、飲み物は麦茶とオレンジュースだけ。そもそも未成年の薫がビールを冷蔵庫に入れて冷やしているわけがない。

 

「ごめんしげる君、実家ならお父さんが飲むからあるけど、ここにはお酒は料理酒くらいしかないよ」

 

 代わりに麦茶かオレンジュース、コーヒーなら出せる。そう薫が言うと、赤木は微妙な間を置いて吹き出した。

 

「え、え?」

「冗談に決まってるだろ」

「じょ、冗談?」

 

 可笑しそうに笑う赤木を見つめて薫の思考は吹っ飛びそうになった。まさか赤木が冗談を言って笑うなんて思いもよらなかったからだ。

 

「しげる君、冗談なんて、言うんだ?」

「俺だって冗談くらい言うさ。ハハ、悪いな、アンタをからかって」

 

 いつも口数少なく、クールで大人びた印象。薫には少し冷たい態度だったのに。目の前の笑っている赤木は、よくある年相応の青年に見える。

 

 ──しげる君って、こんなふうに笑うんだ。初めて見たかも。

 

 色々な思いで緊張していた何かがほぐれていく。赤木の意外な一面を見て、薫の心臓は高鳴った。冗談だとは思わなくて真面目に返した事の恥ずかしさもあるが、自分に冗談や笑顔を見せてくれたのがとても嬉しかった。

 

「じゃあ、ジュース? コーヒー?」

「コーヒーでいい」

「うん、わかった」

 

 笑顔の時間は短く、赤木はまたいつものクールな表情に戻る。薫はもっと見ていたかったので、少しだけそれを残念に思いながらヤカンに水を入れて火をかけた。食器棚からコーヒーカップを出し、別の棚からカメリアの近藤から貰ったコーヒー豆とコーヒーミルを取り出す。

 さて、沸くまでに豆を挽くか。調理スペースにミルを置いて豆を挽こうとした時だった。

 カサリ。スリッパを履いてはいたが、その僅かに出ている肌の部分を何かが通った。

 

 ──ん?

 

 薫は自然に足元へと目を向けた。見れば、足の数センチ横に、黒光りのデカいヤツが触覚を動かしながらそこにいるのである。

 全身に電流走る。否──、総毛立った。

 

「ぎいやあああああ!!」

 

 薫、叫ぶ。外が嵐で良くはないけど良かった。きっと今のは近所迷惑にカウントされないだろう。

 

「おい、どうし──」

 

 突然薫が悲鳴を上げたものだから、赤木は一体全体何だと椅子から立ち上がる。だか次の瞬間、何かが腹の辺りに突進するように抱きついて来た。

 

「し、し、しげるくううん!! ご、ご、ゴキブリがぁぁあ!」

 

 我を忘れてゴキブリに怯える薫が、赤木に正面から抱き付いたのだ。

 

「ゴキブリがああ、わた、わたしの足の上におお走ってえええ!!」

 

 恥じらいもへったくれもなかった。他の虫には恐怖を一切感じない薫は、ゴキブリだけを唯一嫌い、恐怖していた。ある意味キクラに迫られた時よりもずっとだ。

 

「ゴキブリ? いないけど」

「絶対いるううう!」

「落ち着けよ」

「無理イイィ!」

「薫」

「怖いいぃ────え?」

 

 落ち着けるわけがない。と思いながらも薫は、その悲鳴を一瞬で止めた。

 

「……しげる君、今、わたしの名前、呼んだ?」

 

 幻聴ではない筈だ。確か赤木が名前を呼んだのは中学生の時。あの時以来である。

 抱き締めながら顔を上げた薫はやっと自分を取り戻したが、己が今どういう状態であるのかを知って、まるで全力疾走中に壁に激突した様な衝撃を受けた。

 

「ひいいぃ! ごめんなさああ!」

「おい、待っ──」

 

 大慌て。プチパニックに陥った薫が、赤木から離れようと後ろに退がろうとしてバランスを崩す。

 

 あ、倒れる。床に頭から倒れちゃうな。

 

 その短過ぎる時間の間、意外にも頭の中は冷静になれた。床に倒れる音は騒音カウントされるか。や、でも下に住人居ないから大丈夫かも。などという事も考えたり出来た。

 

「──ん?」

 

 床に倒れた筈なのに頭をぶつけた衝撃が無い。閉じていた目を開けば、目の前には赤木の顔があった。頭をぶつけなかったのは赤木が下から手で庇ったからで、必然的に薫に覆い被さる体勢になってしまったのだ。

 お互いの鼻先すれすれで数秒間見つめ合い、沈黙。どちらが先に言葉を発するのか、一体このままどうなってしまうのだろうか。この状況に歯止めをかけるかの如く割り入ったのは、ヤカンのお湯の沸いた音である。

 

「急に暴れんな。危ないだろ」

 

 小さく息を漏らした赤木は薫から顔を背けると、ゆっくりと離れて立った。

 

「う、うん。ごめんなさい……」

 

 薫も身体を起こして立ち上がる。赤木に対して恥ずかしさと若干の気不味さを感じながら、沸き切ったヤカンの火を止めた。

 

「──で、そっからどうなったのよ?」

 

 佐知が興味津々に身を乗り出して訊く。嵐の日から後日、佐知の住んでいる家に招かれて行った時の会話である。

 

「嵐の日に部屋の中で二人きりーの、ハプニングありーの急接近? で、最後までいったの?」

「さっちゃん聞いてた?」

「うん。で、で? そこまでいったら流石にあんたのしげる君は手を出してきたんでしょ?」

「わたしの、じゃないし。それにしげる君はそんな、そんな変な事してこなかった」

 

 佐知は呆れる様に大きなため息を吐いた。

 

「それで?」

「こ、コーヒーは出したよ。あ、その前にゴキブリをしげる君が退治してくれた」

 

 気不味さから脱出すべく、取り敢えず赤木にコーヒーを出そうとはしたのだが、また件のゴキブリは姿を見せた。悲鳴をまたも上げそうになった薫は半泣きで赤木に退治を依頼するが、『放っておけばいなくなるのに』と赤木は一言。しかしそんな事を言いつつも赤木は、やれやれと退治を引き受けてくれたのだ。

 

「しげる君ゴキブリ全然平気だった。わたしが隠れてる間にさっと捕まえてさっと退治してくれたの」

「……へえ」

「だから色々お礼にもって思ったし、お腹空いてるかなって思ってご飯作ったの。簡単なのだけど。一応聞いたら『食べる』って」

 

 薫は思い出しながら嬉しそうに微笑みを浮かべた。薫が赤木に食事を出したのは二度目である。前回は食べられなくなった父親の分をお願いして食べてもらったのだが、今回は赤木の為に作った。好き嫌いも聞いてみたが『多分無い』と答えた。

 

「お肉の方が良いかなって、豚肉の生姜焼きにして出したら、そしたらしげる君、全部食べてくれたの! しげる君少食だと思ってたからわたし、今回もそうかとおも──」

「ストップ」

 

 佐知は堪えられないと、薫の口元を手で押さえた。

 

「はいはい、ご馳走様でした。ていうかあんた達何なの?」

「え、何なのって?」

「特売の醤油よりも気になる肝心な事、結局謎の美女は赤木しげるの彼女なのかどうかって話は?」

「それは……」

 

 気にはなっていたけれど、赤木に例の女性の事は聞けず仕舞いだった。

 話は嵐の夜に戻る。

 食事が終わった後、食器を洗っていた薫は赤木が煙草を吸う人間であるというのを思い出し、棚からひびの入った可愛いウサギ柄の小皿を用意した。

 

「はいどうぞ。ひび入っちゃってるし、どうせ捨てるから。吸って良いよ、煙草」

 

 出されたその小皿から薫へと、赤木は目を移動させる。

 

「嫌だろ、煙?」

「ううん。平気。お父さんが昔ベランダで吸ってるの離れて見ててね、かっこいいなって。わたしね、男の人が煙草吸ってる姿を見てるの好きなんだ。だから気にしないで」

 

 はにかんだ笑顔を見せながら薫は、扇風機の風に当てていた服の様子を見に寝室に移動した。そんな薫を横目に赤木は、ポケットに入れていたハイライトの煙草を一本取り出して口にくわえて火を付ける。

 外は未だ雨風が強く、確かめた服はまだ微妙に湿っていた。

 薫は赤木に休んでもらおうと思い、良かったらベッドを使ってほしいと声をかけた。赤木は『アンタが休め』と一度断ってきたが、薫はキッチンのダイニングテーブルで大学の講義で出された大量の課題のレポートを仕上げたいから起きてる。そう返し、赤木になんとかお願いしてベッドで休んでもらう事に成功した。

 

「おやすみなさい」

 

 赤木からは何も返ってはこなかったが、別に気にはならない。赤木とわかった日のラブホテルでの冷たい空気感や、初めてこの部屋に連れ込んだ当初の微妙な気不味さも今は全く感じられない。

 薫は寝室の明かりを消して仕切りのカーテンを閉めると、ダイニングキッチンで早速レポートにとりかかった。

 合間に休憩を入れつつ雨に耳を澄ませたり、朝になったら赤木を起こして朝食を食べるのか聞いてみようなどと考えたりしているうちに、いつの間にか朝になっていた。

 

 良かった、晴れてる。

 

 玄関の扉を開けて空を見る。昨日の嵐がまるで嘘のようである。何度か眠気には襲われたが、いつも会えない赤木が隣の寝室で寝ているかと思うと、嬉しさと恥ずかしさが合わさって不思議な気持ちになって眠れなかった。

 薫は寝室のカーテンを少し開けて様子を伺う。眠っていたらまだ寝かせた方が良いのかと迷ったが、赤木は既に起きていた。

 

「おはよう。起こしちゃった?」

「いや、自然に目が覚めた」

「そうなんだ。あ、服はもう乾いてるから着替えられるよ」

「ああ」

 

 着替えてもらおうと、仕切りのカーテンを閉める。

 

「しげる君、朝ご飯は食べる?」

「朝は食う気しない」

「そうなんだ」

 

 喉ギリギリまで出かかった。『朝ご飯はちゃんと食べなきゃ』と。家族にはいつも言っていた癖のような、習慣のような。でもこれ以上はお節介過ぎる。

 

 わたしは友達でも、ましてや彼女でもないんだから。

 

 薫は反省の意味を込めて自分の口を二度軽く叩いた。

 

「はいこれ。洗面台借りても?」

 

 スウェット姿から漸く解放された赤木は仕切りカーテンを開き、脱いだスウェット上下を薫に手渡す。

 

「うん」

 赤木がバスルームの脱衣場にある洗面台で顔を洗っているとわかった薫は、フェイスタオルを寝室にある引き出しから出すと、洗い終えた赤木にそれを渡した。

 

「しげる君、はい」

「悪いな」

 

 薫からタオルを受け取って顔を拭いた赤木は、窓から僅かに差す陽の光に目を向けて『そろそろ帰る』と言う。

 

「しげる君、昨日はありがとう!」

 

 玄関で背を向けて靴を履いている赤木に薫は頭を下げた。

 

「別に。それよりアンタ、もう少し人を警戒しろよ」

「そう、だね。人通りが少ない道は避けるようにする」

 

 赤木によってコテンパンにやられたキクラが、恥じてもう現れないとは限らない。警戒するに越したことはないし、対策も考えた方が良いかもしれない。すると赤木は言った。『アイツだけじゃない』と。

 

「前にも言っただろ。俺が悪い奴じゃないっていう保証なんてどこにも無い。良い人間のフリして近寄り、騙して隙をつき、アンタを襲うかもしれない。あんま知らねえ奴を簡単に部屋に上げんな。迂闊で無防備過ぎるんだよ」

 

 こちらを振り向いて言い放った赤木にほんの少しだけ異議を持った薫は、赤木に詰め寄る様に前に出た。

 

「し、しげる君は、わたしを騙したりなんかしてないし、襲ったりもしなかった。しげる君にとってはあの時偶然に現れただけだったかもしれないけど、わたしはとっても嬉しかった。だから信じてたの。それにわたし、別に誰彼かまわずに部屋に上げたりしてないし! 自分の部屋に男の人入れたの初めてで、ご飯作って出したのも、家族や友達のさっちゃん意外でしげる君が初めてだったし、それに! それに……」

 

 薫は顔を赤らめて顔を伏せる。赤木に向かって勢いに任せるも急に恥ずかしくなったからだ。

 

「ほんと変わらねぇ」

 

 赤木の口元には笑みが刻まれていた。笑う所あったのかなと、伏せていた薫は顔を上げて赤木を見つめる。

 

「飯は美味かったよ。アンタ料理が上手なんだな」

「えっ」

 

 赤木はまた背を向けてドアノブを回し、扉を半分だけ開けてこう言った。

 

「アンタはそれでいい。そのままで。けどオレを聖人君子みたいに思うな」

 

 それだけを言い残して赤木は出て行ってしまった。

 赤木とはまた会える、きっと。そう願って薫は、去って行く赤木の後ろ姿を目で追いながら、締め付けられて苦しくなった自身の胸を押さえた。

 

 

 

 


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