2月16日 夜
和泉・大鳥郡 堺
今井 宗久
わいらは、どうやら遠い東の国から来はった人らを、まだまだ過小に評価しとったようです。
明との貿易の中で重要かつ邪魔な家であった大内家を滅ぼしはった陶隆房ら反乱軍を、毛利家という安芸の一部は聞いたことのあった家の協力で、平清盛が社殿を造営した厳島神社の近くで自害に追い込んだ。
それを早船で耳に入れた時、西国での大きな動きを巡って納屋衆は会議を続けておった。
「鎌倉の蛮族は、平家を滅ぼした源氏についていき、その源氏を滅ぼして実権を握りはった。
清盛さんゆかりの地で滅ぼすっちゅうのは、また俺達が天下を手中に収めるっちゅう意志の現れや無かろうか」
納屋衆の足利家や上級公家と
私の家は近江源氏、つまり六角家の出身ですが、大和で産まれたわいにとっては、別に特定の武家に思い入れは無かったのですが、彼らにはありました。
「北条家? 承久の乱で京を燃やした北条家の事か?」
東国の武家の中でも、北条家という名前は、悪い意味で京や堺で有名でした。
鎌倉時代、京の都を後鳥羽院を隠岐という島国の島国に流した乱の時に燃やし、鎌倉という片田舎にこの日ノ本の中心を移したので不評やったのです。
都を京に戻した足利家とは違うその家からの交易の申し込みに、ほとんどの納屋衆は感情的には嫌でしたが、関東という堺にとって未開の地との交易というのを商人の心が諦めるわけもなく、わいらは交易を認めました。
「初めまして。相良殿は山口への出航準備に忙しいため、私が代役を勤める事になりました。
申し遅れましたが、私は御館様の実弟の1人である北条 と申します」
明や南蛮船にも劣らない大きさの舟を初めて作り、現役の摂政などと共に初航海を成功させた舟に乗ってたのは北条一族の者でした。
足利家でも使者をたてるだけなのに、一門衆の者を躊躇なく送ってきた北条氏康という虎の評価を改めながら、わいらはその若者と商談に取り掛かりました。
そして、米ぐらいしか無いだろうとわいも思ってた関東の中身は、相良良晴という少年の到来によって大きく変わってはりました。
「伊豆の金山と、大規模な木綿栽培。これらの西国への輸出を、北条家は堺の皆様に任せたいと思っています」
金山と木綿。
それは、わいらにとって安定供給を渇望する代物でした。
片や、石見は大内はんと尼子はんが争い、生野も周りの小さな家同士が争っとる金山。片や、河内では三好はんと畠山はんが争い、三河は衰退しまくっとる木綿。
その2つが、少し遠いながらも外洋なので瀬戸内より海賊が少ない所を横断して、安定的にやって来るのやから、その利益はとんでもない物です。
「北条家との交易の契りを結ぶ、でよろしいな?」
わいの言葉に、首を横に振るあほうはおりませんでした。
そして、その直後の相良殿の西国での動きっぷりです。町民は戦いを語り草にしてはりますが、わいら商人はその前の南蛮・博多・島津それぞれとの交易の契りに注目しました。
何故なら、その3つの所への北条家の輸出品の項目に金と木綿がありませんでしたからです。
「北条家は誠実さを見せた。これを裏切る事は、商人を名乗る資格は無いこと」
相良殿に博多まで連れていってくれた利休が、堺に帰ってきた直後に納屋衆に改めて言いはりましたが、それは百も承知の事です。
それでも一部には、相良殿ではなく北条家をまだ疑ってはる者もおりましたが、それはこの三好家と畠山家の戦の中で霧散しました。
「
相良殿がいた大内家の義興、足利義維の堺公方、そして今回の三好家と武家はどれも商人の町であるこの堺を下に見てました。
俺以下の武力ぐらいしか持てず、商人だから対立しあってるのに、同等に扱うか? という感じでしょうが、わいらはそれに反論出来ませんでした。
せやけど、相良殿はわいらを同等に見て、そして扱い、三好軍の敗走兵を勝ち馬に乗らせたのです。
「納屋衆一同、改めて北条家との交易を約束します。その証として、この茶器をお納めください」
「ありがとう。もしかすると今川家とか武田家も交ざるかもしれないけど、そこは許してな」
「! なんと、ほんまですか!?」
「お、おう」
東海道一の弓取りの今川家と、信濃をほぼ制圧した金山を持つ武田家。
この2家とも交易が出来る可能性があるというのは、それもまた莫大な利益が待ち構えている事を意味する。
堺市外の戦い。
奇襲による敗戦により大和衆は壊滅し、ほとんどが故郷に逃げ帰る。
しかし、北条軍の追撃を受けた筒井順政などの筒井家や、彼らを守ろうとした島家などは捕らえられた。
戦後、三好軍の大和制圧の担当である松永久秀の使者として、マルチな才能を持つ土岐頼次が堺に派遣される。