3月20日 夕方
越後・魚沼郡 坂戸城
群馬県沼田市を過ぎると、上越線は利根川の東岸を進み、その利根川が山間へ消えていくと長いトンネルに入る。
大阪城に程近い所で産まれ、鎌倉に程近い所でガス自殺した、昭和の文豪の有名な一節で知られる清水トンネルを抜けた鉄路を、湯沢を過ぎた頃から1本の川が寄り添ってくる。
それが、川中島を形作った千曲川が名前を変えた信濃川に合流するまで上越線に寄り添う魚野川であり、坂戸城はその川を挟んで三国街道を見下ろせる位置にある山城である。
この季節、スキー場が乱立するほどの豪雪地帯である山からの雪解け水で魚野川は濁っていたが、城下に集う7000の越後の武士達の心は晴れやかだった。
「ついに、この国を出る」
「関東は雪が滅多に降らないらしい」
「雪に苦しむ事が無くなるのう」
口々に男達はそう漏らし、越後の長きにわたる内乱を終わらせた少女に思いを馳せた。
最近は「人らしくなった」という噂が出ているその少女は、坂戸城の本丸で軍議を開いていた。
「北条氏康は、上総から河越城を経由して松山城に入ったようですね」
「松山城か。倉賀野や本庄なら俺様が電光石火で攻めてたんだけどな」
「去年の厩橋城の戦いがよほど聞いてるのでしょう。がっちりと城を固めています」
越後守護の越後上杉家の筆頭家臣である長尾家の1つであり、交通の要衝である坂戸城を治める上田長尾家の現在の当主である長尾政景。
公然と白き少女を狙っていたが、最近は妻一筋になることを宣言した彼は、直江大和守景綱の報告に唸る。
味方なら心強く、敵なら鬱陶しいことこの上ない勇将である政景が唸った事から、軍議は再び静まり返るかに思われた。
「方針は決まってる」
しかし、その前に白き少女であり、越後という白き国の女王になった長尾景虎が口を開く。
「龍は虎を追い掛けるだけ」
赤い瞳の少女のその言葉に、雪国の男達は獰猛な笑みを一様に浮かべた。
中国で天上界の皇帝である天帝に仕えているとされる白い鱗の龍を、鎌倉から帰ってきてから、彼女は自称し始め、白兎と可愛い? 呼び名で呼んでいた男達は、姫武将の時の彼女をそう呼び始めた。
相良良晴から『甲斐の虎』武田晴信と共に、自分が『越後の龍』と呼ばれている事を知り、彼もその通称を気に入っているという理由から彼女は言い始めたのだが、それを知るのは彼女を含めて数人のみである。
「兎は封印か?」
兎のぬいぐるみを持っている宇佐美定満がニヤニヤしながら景虎に問う。
「今は月の出番ではなく太陽の出番。だから龍の出番」
対して、景虎は今までに無い返しをして、宇佐美は呆けた。
ぬいぐるみをポイッとせずに彼を黙らせた事に満足した彼女は、親しい者ならわかる満足げな空気を出しながら宣言する。
「今
彼女の宣言に、しばらく越後の男達の動きは固まった。
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3月20日 夕暮れ
武蔵・横見郡 松山城
長尾政景らの動きがようやく回復した頃、松山城の本丸に『相模の虎』こと北条氏康は、義妹である相模・玉縄城主の北条綱成、実妹で名家・大石家の養子になり今は武蔵・油井城主である油井
彼女が主催する軍議の内用は、もちろん遂に動いた長尾景虎という龍に対してである。
彼女が越後兵7000と共に坂戸城に寄りそこで軍議を開いている事は既に掴んでいて、一部しか確保できていない上野に明日にも来るのは確実と言える情勢だった。
そんな中で、彼女は実戦よりも関東管領・上杉憲政、関白・近衛前久、そして自称古河公方の足利藤氏という御輿を担ぐ龍に、自分達の家臣がどれだけ寝返るか考えていた。
「やっぱり一戦すべきだよ!」
と声高に主張するのは、主に上野方面の攻勢を担当していた北条陸奥守氏照。
おっとりとした瞳と銀色の髪、それに横笛を垂らすための紐を首にかけ、見た目は文化人のような少女だが、実際は綱成と一、二を争う北条家内の武闘派である。
今の彼女は第2次国府台の戦いに参戦出来ず、雪と凶作で下野にも攻めれず、陸奥の外交担当なので文通していた伊達輝宗の手紙はのほほんとしているしで、フラストレーションが限界までたまり、容易に近付けない状態だった。
「どこでも良いから一戦して、相手の実力をはかる! 必要だよ!?」
最もらしい事を言ってるが、信濃という広い国をほぼ制圧しようとしている武田晴信と対等に渡り合い、他の戦いでは負けなしである長尾景虎の実力は、既に北条軍は理解していた。
ただ戦いたいだけの氏照に、この場では唯一彼女に命じれる氏康が溜め息をついてから言おうとした時だった。
バタバタと、この城の城主である上田朝直の注進が、礼法を無視して部屋の中に入ってきた。
「久留里城より報告! 相良殿が城を落としました!」
普段なら吉報だが、この時のこの場ではある意味では悲報だった。
「行きたいー!!」
氏照が最後の手段である『駄々をこねる』に移ったのである。
妹がここまで来たら誰にも止められない事を何度も実感している氏康は、頭を何度も揉んでから、ある条件付きで彼女の主張を許した。
それを聞いた氏照は意気揚々とその『条件』を待ち、相模灘の更に内海に注ぐ利根川を使って少女と共に来た少年が夜中に来たとき、氏康も起きるほどの歓声をあげた。