良晴が来た年の10月1日
上野・群馬郡 厩橋城城下
上野は山内上杉家の領土だったわけだが、殆どの当主は同族や公方と争い続けたため実効支配は出来ず、その土地それぞれの武将達が発達した。
しかし、その武将達にとっても、室町将軍が直接の任命権を持ち関東に大きな影響力を持つ上杉家は重要な主君であり、伊豆からの成り上がり者である北条家の傘下になる気はさらさら無かった。
だが、その山内上杉家の現役の当主である上杉憲政が遂に越後に落ち延びると、最後まで抗っていた者達も北条家に下った。
を誓う彼らにこの頃舞い込んできたのが、憲政からの軒猿を介しての書状であり、まだ不慣れな風魔はそれを捉える事は出来なかった。
「箕輪の様子はどうかしら?」
そして、上野国内で大きな勢力がある長野家の反乱に、北条氏康は自ら出陣した。
面従腹背が出来る勢力である長野家を徹底的に攻めれば後は山賊達だけ、とこの時の北条軍は上から下までそう考えていた。
「まだ固いですが、幻庵様によると『あと1週間同じ調子で攻めれば落ちますのう』との事です」
「そっ」
小太郎は、珍しく主が上機嫌だと気付いていたが、もちろん口に出すことは無く本陣から去る。
下野では那須家に不穏な空気があり、それに宇都宮家や佐竹家が目を向けている。古河の公方達は大人しく、房総は凶作で動けない。それは、憲政が落ち延びた越後でもそうで容易に出れない。
そんな敵達の様子も見てから、珍しく1回の小田原評定だけでこの反乱鎮圧という名の上野制圧が行われる事になった。
「上州は武田も狙ってるらしいぞ」
「いや、武田は北条家と共に越後との共同戦線を目指してるらしい」
「その為の三国同盟か? 北条家は関東、今川は東海道、武田は東山道という具合に」
「それが専らの噂だが、甲斐の虎は越後も狙ってるらしい」
「雪しか無い所をか?」
城の包囲担当の武将達もそんな世間話が毎日出来るほどののんびりとした戦が終わったのは、この日の昼間の事だった。
発端は、上越の国境に北条方で最も近い宮野城と、その城と氏康の義弟で綱成の実弟・沼田康元が詰める沼田城の間にある
小太郎は汚れた2人の服を見て、すぐに厩橋城攻めの時の風魔の動きを決める会議を中断させた。
「どうした?」
「両城に軒猿でございます!」
「軒猿、だと?」
「はっ! 奴等は我らを襲い、同時に宮野城では
軒猿と狼煙。その2つが合わさった結果は、容易に理解出来た。
しかし、この時の小太郎には『まさかこんな時期に来るはずが無い』という常識が頭にあったので、下した決断は『風魔の増援による確認・反撃』と『主君への報告』だった。
沼田城攻めの一部が割かれ、薄暗い森の中に消えていった彼らを見送った小太郎は氏康にありのままを報告する。
「軒猿? ……警告でしょ」
「ですね」
小太郎の報告を総大将の氏康と、副将の藤田氏邦はそう一蹴して、上野の分割の話を再開する。
そういう予測は小太郎もしていたので、大人しく下がり、しかし念のためにすぐに動けるようにはしておく。
また、箕輪城下の北条幻庵と北条氏照も氏康らと同じ結論になった。
「小太郎様!」
しかし、彼らはすぐにその決断を後悔する事になる。
「宮野城落城でございます!」
その悲報が小太郎、次いで氏康の所にやって来た頃、上越を結ぶ街道沿いの城では、風魔やそこにいた北条方の者達が悲劇にあっていた。
名胡桃城では、その城を築き精通している沼田家の分家が北条家を襲い始める。
沼田城では、軒猿と沼田康元の近習達の激闘が始まる。
利根川と吾妻川の合流地点に突き出す舌状の台地にある白井城では、北条に下っていた長尾憲景自身が刀を振るいながら北条家を攻める。
「無事に進んでいますね」
白井城に上がる煙を見上げながら、直江大和守は満足そうに呟いた。
彼が自分の主君で、名胡桃城を落としたばかりの長尾景虎に報告したのはそれからすぐの事だった。
「出陣」
そして、その日の夜には、越後軍8000人は沼田城を攻め始める。
対して、若き武将であり、姉の七光りでこの城を任されたのだと考える康元は、内憂を抱えつつも籠城を決める。
その康元の決断を見ていたのが、氏康の異母妹であり箱根の早雲寺にいた少女・北条三郎だった。