3月23日 昼
武蔵・児玉郡 金窪城の南
北条 氏康
何もないたんなる平野。
そうなれば、相良が久留里で起こした事前の変化も出来ず、出来るとすれば戦闘の最中だろう。
けれども、こっちも向こうも大軍かつ寄せ集めだ。だからこれといった大規模な動きも出来ず、平押しが主となるはず。
けど…………。
「怖いかの」
「……」
そう、私は怖いんだと思う。
康元を殺させ、三郎の心を壊した少女。本当は彼女のせいでは無いというのはわかってるけど、それを呼び起こしたのは彼女なのだ。
だけども、長尾軍には彼らと父上を殺させた男がいる。
「逃げない。逃げる訳にはいかない」
北条家の長として。
関東の盟主として。
背中を見せる訳にはいかない。
「それじゃあ儂も行くぞ」
お世話になりっぱなしの幻庵が本陣を去っていき、私は目を閉じ、大きく深呼吸する。
全ての体の震えが止まったのを実感してから、私は目を開け、軍配を上げる。
「攻撃、開始」
見ててね、父上。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
3月23日 昼
今日2つ目の戦場
神流川を背にするのは長尾軍であり、その『九曜巴』の旗印を倒すべく、龍の鱗をモチーフにした家紋を持つ北条家が動き始める。
その攻め手の総大将である藤田氏邦は、副将の北条氏照と共に、心に復讐心を宿しつつ前進し、やがて最前線がぶつかる。
兵の数に劣る長尾軍先鋒は、朝の戦いの仕返しを狙う彼女達の部隊に徐々に押されていくが、戦闘が始まってから30分経った頃に状況が変わった。
「現れたぞー!!」
その大声が響き渡ったのは、北条軍の方からであり、足軽達がその意味を素早く理解出来た。北条軍は一様に早すぎると思い、大体は恐れた。
攻める勢いが徐々に削がれていた長尾軍は、この場面での白龍の参戦に士気が上がり、再び勢いが戻ってくる。
「白龍! 勝負だ!」
戦場の中には色々な髪の者達がいるが、その中でも長尾景虎の赤い瞳と白い髪は際立っていた。
その白龍に一騎打ちを挑んだのは、銀色の髪の少女の北条氏照。肩で切り揃えられた髪が、彼女の後を追って跳ね光る。
自分より少し下ぐらいの少女からの挑戦に景虎も応じ、自身の武である愛刀・姫鶴一文字を構え直す。
少しの沈黙の後。
白と銀が交差し、赤が飛ぶ。
「弱点、無しだね」
北条氏照、落馬。
右足の太股から血を流す彼女が、ゆっくりと落馬していき、北条軍に動揺が、長尾軍に歓喜が波のように広がる。
そして、この一騎打ちから完全に状況は変わり、長尾軍の攻勢が再開する。
となると、北条軍の手は1つ。
「撤退!」
傷口が広がりすぎない内に撤退し、態勢を立て直すのが得策であろうし、氏康はそれを選んだ。
その撤退のための殿を任されたのが、氏邦の義姉妹である と我らが相良良晴だった。2人と法螺貝の音が鳴り響き、それを待っていた者達は後退を始める。
「見てねえなと思ってたが、まさか殿も引き受けれるとはな!」
数は減ってるが午前と同じく先鋒をしている長尾政景は、笑顔で槍を振るう大男とまた戦いながら叫ぶ。
「おうよ! 相良様のこの部隊は、まるちな戦いが行けるのよ!」
「まるちってなんだよ!」
「知らん!」
「おい!」
普通の戦から奇襲、撤退戦の殿まで色々な所で動く相良良晴率いる相良衆は、氏照の旗本たちと力を合わせつつ、長尾軍の攻勢をしのいでいく。
後方にいた氏康率いる主力が槍襖を構える列の手前まで来た所で、長尾軍も追撃をあきらめ、弓矢に注意しつつ退く。
相良良晴の所に、1本の強烈な弓矢が飛んできたのはその時だった。
良晴がなんとか乗りこなしている馬の顔より手前で矢を掴んだ梅千代は、それに巻かれた高級そうな紙とそれに書かれた宛て先を見て、罠に警戒しつつ開ける。
文は読まず、紙を見渡して針などが無いのを確認し、匂いも嗅いでから、不思議そうな表情で見下ろす主に紙を丁寧に渡す。
「…………」
相良衆につけられた風魔の警戒度が増しているのを何となく感じながら読んだ良晴は、宛名が無いその手紙を見て、ゆっくりと眉をひそめる。
そして、額を揉んだ彼は、手紙を畳み、ポケットに入れようとして甲冑には無いことに気付き、胸の中に入れる。
「…………」
『…………』
良晴は何もしゃべらず、彼の旗本も何もしゃべらない。
両隣の部隊の者達が思わず相良衆の方を見るほど、戦後の戦場とは思えない沈黙がそこにあった。
それは、相良良晴が本陣に呼ばれて動くまで続き、彼が帰ってくるまでは小話が続いていた。
「氏康さんから……どうした?」
「いえ、なんでもないです!」
「?」
帰ってきた良晴は、氏康から命じられたおおむね変わっていない命令を下知する。
それに相良衆500人が応じた直後、後半戦の後半戦が始まる。
「景虎さま」
北条軍の動きーーさっきの殿を除く全軍の投入を見て、前衛の長尾軍と後衛の上州軍の間の本陣にいた兼続が、目を閉じ空気を感じている景虎を呼ぶ。
呼ばれた彼女は、赤い瞳で目の前の戦場を見た後、采配を振るう。
「よーし、行くぞ!」
『おう!』
上州軍出撃の命に、去年の戦いで北条軍が囲んでいた城の片方である
しかし、景虎の命で積極的に動き始めたのは箕輪衆や上野国内の上杉家の者達であり、ほとんどは鈍かった。
「どうします、か?」
兼続は、義父や政景と懸念していた通りになった事に眉をひそめながら、主に問おうとして言葉を詰まらせた。
風になびく白髪、細くそして輝く赤い瞳、そして端がつり上がった唇。
有り
彼女は笑っていた。