5月8日
信濃・ 郡 妻女山
直江兼続
政虎さまから養父の大和守様に主が移り、数日が経ちました。
しかし、状況はあまり変わらず、北条家の次期後継者が戦場にやって来たぐらいです。
「父上」
「ん、兼続ですか。どうしました?」
「手伝える事は無いかなと」
「んー、そうですね……。では、書状の整理をお願いできますか?」
「わかりました」
孤児になって放浪していた私を拾ってくださり、あまつさえ後継者として育ててもらっている父上の仕事を手伝える事は、政虎さまに次いでの幸福です。
父上から言われた通り、書状を整理していくと、戦の常道であり、ですが政虎さまはあまり好きではない内容の文書が混じっていました。
宛先は、信州の武田信玄に降伏した者達で、その返信の内容は十人十色です。その中でも異彩を放っていたのがあり、私もそれに目が止まりました。
「美濃の具合が事細かに、ですか」
「ええ。蝮は六角家と手を結び、土岐は三好家と手を結び、美濃国内ではぱらぱらと虫が湧いているようですね」
「徐々に体力を削り、六角家と合わせての戦を起こさないため、ですか」
「ええ。常道ですが、それ故に駆逐が難しい代物です。土岐家を応援する三好家の本気さが窺えますね」
そして、その情報を教えてきた『両濃の沼田』は、まだ武田信玄に対して面従腹背のようで、主のライバルであるはずの上杉家に求められた情報を事細かに送ってきている。
武田信玄は「残る信濃は川中島だけ!」と豪語しているが、その中身は中々安定していないよう。
「政虎さまが謀略に許可して下さる御方なら、もう少しやりやすいですけど……」
「そのような御方ではないから、父上も含めた私達が政虎さまについてきている、のでしょう?」
「中々上手くいかないものです」
政虎さまと武田信玄。
最初は、政虎さまは村上義清などの言葉で「義に反する者」という評価だけだったが、最初の布施、そして次の
3回目は、政虎さまの高野山への出奔騒動に越後が混乱している間に武田軍は攻撃を再開し、政虎さまが雪が溶けた春頃に出陣されました。
父親からの猛烈なしごきによって才能を培った武田信玄に、天性の戦の才能をもつ政虎さまは共感を覚えられ、川中島の北側にある上野原で武田軍主力とぶつかった時、いなかった事にしょんぼりしていました。
「そのままだったら、この戦いもまた違った物に……」
「何か言いましたか?」
「いえ、なにも」
そう、そのままだったら、もし政虎さまが北条家による鎌倉公方再開に興味を持たれなかったら、どうなっていただろうか。
政景さまは、表情が豊かになられた政虎を見て、ぽつりと「より人らしくなったな」と呟いていました。そして、私に気付いてそっぽを向きながら「お前もな」とも。
そして、その言葉に私は政虎さまを見つめながら実は視線をそらしていた事に気付ぬ事が出来ました。つまりは『義の為のみじゃなく自分の為に動く政虎さまも素敵』という事です。
そして、今の政虎さまの自分の為の事と言えば、あの御方の事でしょう。2月の上洛の事を聞いて、推測は確信に変わりました。
「後は……」
後は、政虎さまの心の中にあの時から巣食う毘沙門天を引きずり下ろすために本気の戦で政虎さまが負けられる事。
もう、後戻りは出来ません。あの御方と武田信玄、そして北条の跡継ぎがどのように動くか、です。
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5月8日
信濃・川中島
後の越後の中心となる所へと流れ出る千曲川に槍ヶ岳を源とする犀川が合流する所を東端とし、山々の間を抜けた犀川が形作った扇状地の扇端を西端とする三角地帯。
2つの川の洪水の度にその流れは変わるので、その度に範囲も違ってくるその辺りが川中島と呼ばれるようにしたのは、明確な名前をつけたかった武田信玄だった。
元は京から見て、信濃
「お館様」
その彼女に大きな影響を与えた隻眼の軍師がやって来たのは、この日の昼過ぎの事である。
しばらく目を閉じて考えていた信玄だったが、重い口調でその作戦の実行許可を出す。
「少し、外に出る」
「はっ」
そして、信玄が久しぶりに太陽が出ている時間帯に海津城下に出た頃。
相良良晴と北条氏良は、まだまだ賑わう市の中で買い物をしていた。
約1ヶ月半ぶりの投稿です。リアルが忙しなく、今後も今までよりかは緩くなりますが続きますので不定期更新となりますがよろしくお願いいたします。