5月17日 良晴が来る少し前
相模・足柄郡元箱根 旅館 女湯
北条 氏康
再度の3つの家の当主会談。
前のようにあれこれ準備をしてあの寺に行ったのではなく、武田信玄からの申し入れを発端としてとんとん拍子で決まっていき、私はその名目故に城から出された会談。
幻庵おじさまや綱成がすすめてきたから何時もの日常を止めて、今日を過ごした。松千代も私が筆や紙に触れさせないように細心の注意を払っていたからか、元服してから始めてそれらに触れない日々を過ごした。
城からお祖父様が眠られるお寺、そしてこの宿に来るまでは手綱を握っていたけど、戦時じゃなかったからか思いの外軽い心に慣れた時は吃驚《びっくり》した。
そして、相良が連れてきた少女に宿に着いてから気付いて、どれだけ何時も張りつめていたか実感させられた。
「妹、か」
金沢文庫からやって来た花倉綱元は、異母妹と話した後、私の部屋にやって来て、あの時以来に話をした。妹の成長を純粋に喜び、妹の未来を純粋に心配し、そして年上として私に「妹ともっと触れあいなさい」と言ってきた。
普通の私ならば怒る所だけど、不思議にそんな感情は湧いてこずに、無意識に首を縦に振っていた。
そして、綱元が去り、綱成は武田家の武将の1人で北条家とも関わりが深い小山田家の所に行って、小太郎や女中は外にいるから、期せずして広い部屋に1人だけになった後、長らく無かった感情がやって来た。
「まだ子供なんだなあ」
なるべく凹凸が少ないように削られた石に寄りかかりながら、右下がかけている月と満天の星達が静かに佇む夜空を見上げる。
まだ子供だから、蒙古斑も消えないし、胸も綱成みたいに大きくならないし、幻庵や綱成からまだまだ心配されるのだろう。
それを再確認させられた私は、心の中でありがとうと呟いてから、1人だけのお湯から出ようと立ち上がる。
「えっ?」
けど、1歩進むより先に、向かって右側の木の板の1つが前兆なしに開けられ、そこから猿顔の少年が出てくる。
「…………」
「…………」
固まり、すぐに自分の今を思い出し、入った時以上の早さで歩いて、遠くに置いていた呼び鈴を持つ。
「待った待った! 事故だよ事故!」
「あら、この風呂場に猿がいるわね」
「久しぶりに悪い意味で言われた! じゃなくて! 男湯に入ろうとしたら、この通路がーー」
バタン!
弁明しようとして前に出てきた相良の後ろで、女湯から見れば外開きの扉が勢いよく閉まるが、その時に私はしっかりと見た。
「武田信玄」
「……あれ、ばれた?」
「赤髪でこんなことをするのはあんたしかいないでしょうが」
「…………私は北条ーー」
「相良、白龍と挟撃ーー」
「ごめんっ! って、あっ!?」
ドシン、という鈍い音が響き、人が転がる音もする。
「信玄さん! 大丈夫か!?」
「……私は大丈夫だけど、どけてた巨石が転がってきちゃった」
「……えっ?」
「それじゃ、また明日!」
そして、奥へと走り去る音。
だから、私は元々1つしかない脱衣室へと続く扉の方を見るけど、そこでは「よし!」という聞き覚えのある声が聞こえてきて、そして誰かが走ってやって来る音。
「綱成! つっかえ棒はーー」
「あれ、信玄じゃん。どうしたの?」
「戻して戻して!」
「えっ? ちょ、ちょっと止めてよ! せっかく千代に気付かれないようにしたのに、くっ! 力強い!」
「東が全部敵にーーああっ!」
「あっ!」
また、重いのが倒れる音が響き、わずかに扉が軋む。
「…………これって結構重いよな」
「……重いわよ。何人かの男手が必要な程に」
さて、綱成は……というより女の子は知ってるはずよね。着替えを見られるのは、どれほど嫌なのかを。
「…………逃げよう」
「うん」
そして、2つの走り去る音。
「……えーと」
信玄には冬の芦ノ湖に入らせる、綱成には小田原・鎌倉の小太郎付きの往復武装まらそんをやらすことを決めた直後、今まで固まっていた相良が口を開く。
「小太郎」
「ここに」
「どっちもどかせなさい」
「はっ」
先に小太郎に命令を出してから、ずっと巨石で塞がれた方を見つめている相良に命じる。
「耳を塞いで、目を瞑って、風呂に入っておきなさい」
「は、はい!」
まったく……。
体を洗い、体の汚れを落としていくと、心無しか重たい何かが落ちていくような感じがした。まあ、怒りは和らぐ事はないけど。
手っ取り早く洗った私は、横目で動きを確認していた相良の近くまで入り、足軽並みの片腕をどける。
「洗ってきなさい。こっちを見たら……」
「わかってるよ」
蒸し風呂だけだったこの時代の温泉の概念を変えた相良は、信用されてねえなあと呟きながらも、いそいそと自分も体を洗う。
美濃を追われた土岐の小娘から教えられ、北条家と三好家の交易の品目の中に勝手に入れていた無患子《むくろじ》の種を粉末にした物で体を洗い、綱成が時おり鍛えさせているらしい相良の体は綺麗になる。
「入ってもいい……んだよな?」
「見なければね」
「だから見ねえよ」
私が浸かっている所とは遠くで音が響く。そこからの何個もの波紋が私の所に来るまでに、相良の口が開く。
「政虎と出会った鎌倉以来だな、2人きりっていうのは」
「……口説いてる気?」
「まさか。あれから、色々と苦労をかけまくってるからここで謝っておかないと駄目だと思ってな」
「そうね。鎌倉府の仕事を押し付けられ、二元体制の構築を任され、三好家だけではなく博多や島津との交易を任され、公家との付き合いも押し付けられたものね。あなたが来るまでより倍以上の仕事はしてるわ」
「うわあ……本当にーー」
謝る時だけでも、前を向こうと相良が振り返り、私と相対する事になったのを見て固まる。
「そのままでいいわよ、私も首まで浸かってるし」
「……わかった。じゃあ改めて、本当に済まないな、何時も迷惑をかけてしまって」
「…………まあ、鎌倉の方も交易の方もそれぞれ馴れてきているらしいし、皆の笑顔も増えたしね」
「……意外と高評価?」
「計算が出来たらね」
「それは勘弁」
綱成や松千代が言っているように、相良の瞳は純粋だ。済まなさそうな感情だけが、私に伝わってきている。
「後、ありがとうね。北条家の未来を教えてくれて」
滅亡する未来を知っている一族を前にして、彼が喋っている時、彼の瞳はちょっと突いたら崩れそうなぐらい脆《もろ》かった。
急な私からのお礼に相良は首を傾げているが、左右に小刻みに動いている瞳が嘘を如実に語っている。
「お館様、全て復旧しました」
「わかったわ」
近くの石に置いていた布を左手で持って、一応相良には体が見えないように立ち上がり、歩こうとする。
「あれ?」
けれども、前に出した右足の感触はなく、視界が黒くなる。
「氏康!」
相良の叫び声が聞こえたけど、体を石で支えようとした左手は空しく空回りして、体がゆっくりと倒れていくのがわかった。
……来ると思っていた熱い水は顔にやってこず、代わりに心地いい暖かさと固い感触がそこにあった。
「お館様!」
「くっ」
小太郎の声が少し遠くから聞こえるのはわかるけど、なぜ相良の声が真上から……?
肌色と透明の水面が覆っていた視界を上げると、そこには苦悶の表情を浮かべる彼の顔があった。
「大丈夫ですか!」
「氏康……さんは……貧血だ。のぼせてるかもしれない」
「相良殿は!?」
「背中を、打っただけだよ」
小太郎と相良の会話を聞いて、ようやく自分が彼に抱き抱えられているというのがわかった。
彼の右手は私の両脇の下を、彼の左手は私の腰の方をしっかりと持ち、離さないという意志を彼の暖かみと一緒に感じた。
「氏康も、大丈夫か?」
「え、ええ」
少し苦しそうな息づかいと一緒に、相良の声が耳元で聞こえ、お湯の中に入っているのにぞわぞわとした。
「小太郎さん、頼む」
「はい」
相良が両手をどけて、小太郎が黒装束を濡らしながら私の脇を持ち、まだ動けない私を相良に見せないように立ち上がらせる。
相良も顔をしかめながら動こうとするのが横目で見えたけど、どうやら異常は無さそうだ。
「よっこいしょ、と」
声を出しながら、相良は背中をぶつけた石の上に腰を下ろし、大きく息をつく。
「巨石の方もどけましたのでそちらからお上がりください」
「わかった」
ようやく私の足に力が戻り、自分の体を布で包みながら女湯の脱衣室へと歩く。
けれども、その途中の事だった。
いきなりそよ風から少し強い風になる。
重点的には押さえていなかった布の下側が浮き上がった。
「……蒙古斑?」
少し驚いたような相良の声が聞こえ、私は瞬く間に怒りに近い感情に覆われながら振り向く。
そして、秘密にするように! と注意しようとしたけど、私は相良の表情を見てその開きかけた口が止まる。
「そっか、俺よりまだ年下だったんだっけ」
急造されただろう男湯の脱衣室からの扉に帰ろうとしていた相良は、思いの外近くにいて、その彼が微笑みながら近付いてくるのを止める事は出来なかった。
「いつもありがとうな」
頭に久しぶりに感じる暖かさがきて、私は目を細めてしまう。
「相良殿?」
「…あっ」
暖かさが、消える。
「すまん、ついしてしまった…………氏康?」
「な、なにかしら?」
「いや、大丈夫か?」
彼が、のぞきこんでくる。
それだけなのに、自分でも吃驚するほど顔が赤くなり、思わずあらぬ方向に顔を向く。
「だ、大丈夫よ。心配しなくても、私は強いんだから」
「けど、氏康も女の子だ。大大名の成り上がりの北条家の当主、っていう重い重い重荷を背負っている女の子だよ。だから、心配するさ」
「…………そう」
……本当に、相良という男は。
「まあ、甘えたくなったら甘えろよ?」
「はいはい」
……本当に無意識よね?
「んっ?」
……無意識ね。