鎌倉公方。
元は鎌倉の足利家の自称であり、室町幕府にとっての公式の名前は『関東管領』で、それを補佐する上杉家は単に『執事』と呼ばれていたが、次第にその意味合いが変わっていき、一般的には今のようになった。
その公方の2代目が足利氏満であり、彼は従兄弟の義満に対して挙兵するが、上杉憲春が自刃して諌めたために断念する。しかし、挙兵の事は義満の耳にも伝わり、彼は弁明せざるを得なくなる。義満が将軍独裁を進めている間に、氏満も関東の親幕府派や南朝方の武家などを攻撃していく。
1390年に伊勢と濃尾の守護を兼任し頼次の直系の祖先には……あたらない土岐康行を討伐し、翌年には山城・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・美作・備後・出雲・安芸・紀伊と一族で11ヶ国の守護を勤めていた山名家を内紛に乗じて討った義満は、更に翌年の1392年に2つの事をする。
1つが、氏満に奥州と羽州を任せた事であり。
もう1つが、南北朝時代を終わらした事だ。
下はどうでもいいとして、上は義満が観応の擾乱以来機能しなくなった奥州管領の代わりに、その役目を氏満に押し付けた事になる。
なぜ関東10ヶ国に奥羽が加わったのにも関わらず押し付けた事になるのかというと、それは観応の擾乱前夜まで時を戻さなければならない。
矛盾ばっかりの建武政権がたて、後に堺の近くの石津で戦死する北畠顕家が任じられた陸奥将軍府に対抗するために顕家戦死後に石塔義房が奥州総大将になる。彼はしっかりと仕事を果たすが、逆にそれで尊氏に「奥州藤原家みたいにしようとしてるんじゃね?」と疑われ、1345年に尊氏派の畠山国氏と
「もう我慢できん! 高師直を滅ぼしたる!」
1350年、
翌年には、奥州にも喧嘩の波は伝わり、国氏は貞家に攻められて自害する。その内乱をついて北畠が伸びてくる中、貞家も死に、解任させられた石塔義房もでしゃばってくる。更に斯波家兼も奥州管領に任命されて下向する事により、管領を名乗る奴等が4人も出てくる事態になる。
結果的には、家兼優位に内乱は終わるのだが、4人は支持を取り付けるため賄賂……この時代では様々な権利を各地の有力武士に約束する。そのため、彼らの力が強力になる。
「それじゃあ弟たちに任せよ」
そう考えたのが、氏満の嫡男である満兼だった。
1399年、弟の満直を
一方、満兼に対抗するために1400年に斯波家兼の孫の大崎詮持が奥州探題という役職に任命される。しかし、すでに各国人達の支配が確立していたので、ほとんど名ばかりであり、大崎家も地元の統治に専念する。
そして1522年、伊達
「よーし、自立してやるぞ!!」
天文の乱と言われる内乱は晴宗が勝つが、彼に味方した芦名家や最上家は勢力を盛り返し、独立してしまう。
その後遺症の後始末をせっせとしているのが、晴宗の子である輝宗であり、関東や西国が忙しなく動いている頃、祖父の隠居領の1つの伊具郡を攻めていた。
今はJAXAの実験・開発施設がある角田市と史実では梵天丸の初陣の場である金山城がある丸森町を含む伊具郡だが、輝宗はそこを相馬家と争っていた。
「ようやく終わったゆえ」
前夜。
輝宗は自分の遠縁の女性を妻に持つ相馬盛胤と、伊達家が制圧した伊具郡を返してもらう和議を交わした。祖父が隠居領としたもう1つの郡である宇多郡は割譲するので、あちらにとっても良い内容だろう。
和議を仲介してくれた祖父の末娘の子にあたる田村清顕の使者をもてなした輝宗はそう呟き、近くを流れる阿武隈川の河岸で休憩する。
「伊達殿! 伊達殿!」
本城がある米沢に思いを馳せていた時、1人の男が馬を走らせてやって来る。
もちろん輝宗の周りの護衛がそれを止めたが、少しすると通されていく事になる。
「お主は蘆名家の」
一目見て輝宗がわかるほどに会津と米沢を往復している使者は、隠居中で蘆名家の実権を握る蘆名止々斎からの書状を手渡す。
服がはりつく程に汗をたらす使者から、一片も濡れていないその書状を受け取りその中身を見た輝宗の表情が、刻一刻と真剣なものになってくる。
「梵天丸を呼ぶゆえ」
一言。
彼は、天才と思っている愛娘を呼ばした。
氏満が滅ぼしていった家の1つが小山家。
上杉禅秀が鎮圧に派遣されたのが伊達政宗の乱。
伊達政宗と結託した大崎詮持を滅ぼしたのが白河結城満朝。
満直の自害の切っ掛けになったのが結城合戦。
という繋がりがあります。