7月5日 暁
越後・蒲原郡
連合軍
撤退戦において重要な事。それは、それをしようとするものの士気が高いだけではなく、それを維持するというのもある。
後に『蒲原の退き口』と呼ばれる伊達・北条・佐竹連合軍による撤退戦の場合、その士気が上がったのは2つの原因がある。
「ほっほっほっ。この老将の出番ですな」
闇夜に紛れて近付いてきた最強の矛に対する削られる盾として一番に立候補したのは、鬼庭左月斉良直という老将だった。
天文の乱を戦ったその男は、各地を歴代の主の為に転戦し、この戦の前には輝宗から良宗を任された。それに答えようという訳で、良宗もより多くの兵をつけることを条件に、それを承諾した。
「じゃあ、北条家代表として俺も残ろう」
2つ目の士気が上がる原因になったのは、良直に関する軍議の間、ずっと風魔から輝虎を中心とする報告を見ていた相良良晴だった。
それにいち早く反応し引き止めようとしたのは彼の隣に座っていた北条氏照だが、良晴は彼女に自分が感じた事を小さく言う。
「狙いは俺だ。俺を捕らえるまで、恐らく突撃を止めないだろうからその分みんなが傷付く」
「……相良は、どうなの?」
「自惚れだけど、俺は彼女に好かれているから恐らく殺されはしない。だから、その内に帰ってくるさ」
「…………絶対にっ、帰ってきなさいよ?」
「もちろん」
良宗は良直の時以上に粘るが、自分の頭を撫でる良晴の袖を掴んで米沢を訪れる事を約束させてから、彼の提案に賛同する。
そして、けんにょ達が帰宅するに合わせて、連合軍はその巨体を動かし始める。
「では、行きますかの」
「ああ」
越後平野は一度大雨が降れば信濃川や阿賀野川といった大河も溢れる所なので、必然的に湿地帯になる。だが、越後と同じような雪国に生きる伊達軍は、その障害から防ぐ術を知っているし、それを効率的に壊すやり方も知っている。
だから、危険な距離より外の時から撤退を始めた連合軍もそれを追い掛ける越後軍も、平野部よりかは次の所で雌雄が決するだろうと見ていた。
「後何隊だ!?」
「後3、いえ2隊です!」
揚北衆を恫喝していたもう片方の軍も、彼らからの反撃に注意しつつ本隊と合流し、荒川が作り上げた渓谷に入っていく。
それの入り口辺りにある平林城に詰める良直と良晴は、撤退完了の報告を今か今かと待っていた。
「完了!」「撤退!」
かん、まで聞こえた時点で良直は大声をあげ、短距離走のスタート前の選手のようにうずうずしていた足軽達は一目散に峡谷へ走る。
それを見て更に加速した越後軍の前に平林城を過ぎた直後に見えたのは、拘束されていた色部勝長とその家臣達で、彼らの吸収に少しだけ時間を浪費する。
その分、目的地である越後と会津の国境に到達した者がより増える事になったが、元より越後軍にとって興味は無かった。
「出来るか?」
「……だめです。どうしても残ります」
1万人規模のおいかけっこは昼前には佳境を迎え、越羽国境の手前にある数日前に攻め落としたばかりの上関城の下において、良直と良晴は最後の決断に迫られていた。
すでに鬼はすぐ手前まで来ているが、伊達軍最後の大きな部隊の最後尾がまだ城下を抜けきれていなかった。
「ここで戦うしかねえか」
「です、な」
追いつかれる、と判断した2人は有志500人で越後軍4000人をなるべくとどめるべく布陣していく。
「見えた」
後に『上関城下の戦い』と称される戦は、輝虎の呟きと同時に放たれた伊達軍殿部隊の弓矢から始まった。
弱い雨ぐらいの矢の雨に、あらかじめ自分の仕事を任され輝虎のすぐ後ろについていた宇佐美定満は越後軍を止めて防御体制に入らせる。
「そう来るかっ!」
そして、輝虎と彼女についていける者達はそのまま駆ける。
良直は悪寒を感じつつも、弓矢部隊には第2射の準備を命じ槍部隊の後ろから射つことを命じる。命懸けの彼らもすぐにそれに応え、2射目を放つが、その頃には輝虎達の姿がはっきりと見える所まで近づいてきていた。
『わー!!』
そして、山から雪辱を晴らさんとする揚北衆の有志達が、地元民だけが知る山道を使ってやって来る。
まんまとやられたと直感した良晴は叫ぶ。
「与一!」
「っ…!」
一瞬だけ躊躇う様子を見せた与一だが、良晴に逆らう事は出来ず、すぐさま馬上の老将に飛びかかる。
「伊達軍! お前達も走れ!」
突然味方に気絶させられた大将を見て戸惑った伊達軍だが、良晴のその叫びの意味を悟った彼らは、最前線に良直と共にいた良晴の前に出ようとするが、黒装束の者達が立ち塞がる。
「必ず、帰ってくる」
馬上から降りた良晴は、その馬を近くの風魔に預け、暑苦しい兜も彼に預ける。
「上杉輝虎!」
有無を言わせる暇もなく、良晴は大声を上げる。
「俺は降伏する! だから伊達軍と会津は見逃してくれ!」
伊達軍も、越後軍も。
矢を放とうとした者も、山を駆け下りていた者も。
戦場にいた者達は、兜を脱いで立つ少年に馬から降りた少女が近付く光景を見届けた。
「やっと、やっと、また会えた」
鎌倉で出会い、神流川で刃を交え、川中島で一言ずつだけ言葉を交わしただけの2人は関川の地で出会う。
少女は無防備にさっきまでの敵である少年に抱きつき、そしてゆっくりとだが抱き締め返してくれた彼の顔を見上げ、赤らんでいると自分でもわかる顔を近付けーー。