翌年4月1日
山城&近江&若狭・
丹波、阿波、そして播磨でほぼ同時にあった戦いと、その前の将軍の何度目かの近江落ち以降、畿内一帯では平穏を保っていた。
しかし、畿内の周りでは、足利家ら反三好家と三好家が小競り合いを続け、それは特に京と朽木家の間において顕著で、他とは逆に三好家が攻勢に出ていた。後に国道367号線のトンネルが近くを通り京まで伸びる断層帯の名前の後ろ半分にもなる花折峠を中心にして、である。
六角義賢や名目上の主家である浅井久政らの援助は得れているものの、いざ反抗しようとしたら手際よく撤退し徐々に北上するため苛々は日増しに募り、特に朽木家を中心に冷静さが欠けていった。
「大分減りましたね」
その日の未明、何時ものように下京の本陣で忍からの報告書を受け取った久秀は、この冬空の中で行われた戦いがもたらした結果を見て、満足そうな笑みを浮かべてから、隣の中年の武将に渡す。
長慶に登用されて主に畿内の文官をしていた、久秀に並ぶ三好家中の出世頭と言える岩成主税助友通は、武勇よりかは報告書などを読むのが得意だと自負しているし、実際に久秀以上にその報告書の中身を理解でき満足そうに頷く。
「いよいよ、ですな」
「ええ。いよいよ、です」
2人の笑みは悪人の笑みだった。
そして同じ頃、同じような笑みを浮かべている者達が、近江を挟んだ若狭の東側にいた。
「
3ヶ月に渡り動き回った頼次と対等の位置で話し合っているのは、少し東に行けば朝倉家が治める越前との国境がある城の城主であり、彼女と連動して若狭国中を動き回った男である。
真冬の北陸や山間を歩き回った頼次とその従者に全幅の信頼関係を寄せる事になった彼は、彼女が頷いたのを見てから、傍らに控えていた者に告げる。
それから三刻後。
若狭武田家現当主である武田義統が、居城を出て、隠居しながら大きな影響力を持つ前当主にして
直後、若狭の東西の重臣の家である
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4月2日
若狭・
主人公
ここで、若狭国の事を整理してみる。
志摩半島などに並ぶリアス式というギザギザした海岸を持つ若狭湾と野坂山地などの山に南北を、朝倉家が稀に見る平和な時代を築く越前国と一色家の支配がようやく安定してきた丹後国を東西を挟まれた若狭は、漁業や塩が主な産業である。
そこを治めるのは、今は甲斐武田家の分家の安芸武田家の分家である若狭武田家であるが、元は一色家だった。義満を真似た義教の命で力を持っていた一色家討伐の実行役を担った武田家が代わって任ぜられ、将軍家や細川家と共に動くことにより安泰してきた。
「ですけど、その細川家が衰退した」
「ああ。その細川家に相変わらずついていこうとしているのが、俺の爺ちゃんだ。共倒れする必要は無いのに」
とは、若狭武田家の正当な現当主でいらっしゃる武田大膳大夫義
「俺がちちうえの唯一の子供の孫八郎だ! 怖いーーんにゃにゃ!?」
『………………』
「誰かたすけろー!」
頬をスリスリしただけなのに騒がれ、私が近付こうとすると警戒する。でも、お菓子をあげるときはそれが薄れるのでそこを狙って……。
「宗矩」
「んっ?」
「一緒に歩こ?」
くっ! この光景のためなら……。
「頼次様。続きは?」
そして氏清は、袖を引っ張りながら見上げないで! 私が再稼働した後の表情を見てるけど!
「ごほんごほん。……そして、内紛で衰退した細川家を支援する信豊殿と不戦の
峠の頂上に達し、眼下に今は敦賀と総称される町並みを見下ろせる事が出来る。
若狭湾の南東のはしっこにある
「この越前を治める朝倉左衛門督義景殿です」
朝倉家は但馬に起源を持つ
斯波家は足利家の有力一門であり、かつ細川家と畠山家と並び交替で管領に任ぜられる家柄だったが、応仁の乱の一因になって大幅に衰退。本領の越前は朝倉家に、遠江は今川家に、そして本家筋が生き残れたのは尾張だけという惨状になった。
南北のお隣さんだったのね、と変な所で感心した私は、尾張の未来を知っているので、心の中で合掌をしておいた。
「確かここは朝倉家一門の敦賀郡司が治めてるんだよな?」
「正解です」
「へへへ……ってきやすく撫でるな!」
「きやすく無かったらよろしいのですか?」
「むっ! ……むむむっ!?」
ああもう! 脳筋を元の所に返したら愛でよう! 公約として掲げよう!