9月7日
「私というより武田家としては、反乱の鎮圧を手伝ってくれるんだったらこの条件は賛成したいな」
率直に自分と自分の家の考えを言ったのはもちろん武田晴信であり、越後の男達に睨まれてもどこ吹く風のように受け流す。
信越同盟の条件の1つであり上杉家にとっては関東進出の橋頭堡になる上州は、そもそも箱根で更新された三国同盟の中では東西で北条と武田が分割するはずになっていた。だが、氏康は信越同盟を知らぬ振りして、晴信に三国同盟を前提にした申し入れをしてきたのだ。
その事を別々の使者で送ってきた事を察した晴信だが、彼女にとっては『これから』のためにも上杉家とは安定しておきたい。北条家とは、どっちにしても
一方、天正壬午の乱から小田原攻めまでの顛末を知っている良晴は、上州の完全領有によって真田家を追い出したいという目論みがあることを察し、しかし輝虎との関係からなんとも言えない気持ちになった。
「こっちとしては反対だな」
上杉家を代表して言ったのが長尾政景で、晴信は彼に突っかかる。
「人質を返すだけだろ?」
「その人質の1人が、いまや越後にいなくてはならない者の1人になったからな」
あからさまに良晴の方を見ながら政景は答え、越後の者達は大きく頷く事で同調し、微かに輝虎の顔が赤くなる。
そんな輝虎と、小さく眉を下げ苦痛の表情を浮かべる良晴の2人を見て、晴信は言う。
「だったら、上州は自力でとってもらう事になるぞ?」
「……ええ。ただし邪魔はしないでね?」
「勿論。恋する乙女を邪魔したら怖いしな」
「…………」
更に顔が赤らみ、越後の男達はにやける。
それを見て1つ息をついた晴信は、海津城攻めの簡単な軍議の後に良晴を呼んだ。
「良い秋風だ」
長野盆地を見下ろせる櫓の上に、あからさまな越後の兵達の視線を感じながら2人はのぼる。
3ヶ国で蠢く悲劇など関係ない満天の星空と九日月、そして微かな人家の光でおぼろ気に輪郭だけが浮かんでいる盆地を晴信は無言で見下ろし、良晴はそれを邪魔せず柱に寄りかかって目を伏せていた。
「川中島の戦い」
ようやく会話が始まったのは、登って10分経った頃だった。
「未来でもそう呼ばれているのか?」
「……言ったか?」
「うちの忍は優秀さ」
「……歩き巫女がいたな」
「正解。それで? 答えの方は?」
答える前に良晴は、晴信と同じように城の建物からは見えないように立つ。つまり、彼女の横に。
「そう呼ばれてるよ。5回にわたる戦いを引っくるめて」
「……5回目もあるのか?」
「ああ。けど、4回目のような本格的なのにはならないよ。俺の推測だけど、その対陣中に2人の間で約束が出来たんだろうな」
「今のような形にか?」
「それは違うと思う。武田家は上野を攻めてるしな」
「詳しいな」
「地元だしな」
ふむ、と晴信は少し考える。
「だから北条家に惚れられた訳だな」
「……利用しようとしてるだけだよ」
「あの氏康にも惚れられてるのにか?」
「……彼女は無いさ」
「彼女は、か」
しまったというような良晴と、してやったというような晴信。その2人の間の空気には、ピリピリしたものは無かった。
「……あたしがなんでここまで川中島に執着したかわかるか?」
「…………戦略的な要衝だからというのは勿論だけど、たぶん最初の戦いで輝虎とにらみ合い、そこであいつと会って、あいつに巣食う毘沙門天を引きずり下ろそうとしている、からだろう?」
「やっぱりわかるんだな、深くに辿り着いている者として。まあ、相良の方に軍配が上がっているからこそだろうけどな」
「俺は隙間から出ていた手を引っ張りだそうとしているだけさ。1回目で実力を見極め、2回目で善光寺を寝返らせて挑発して、3回目で恐らく最《・》初《・》の《・》一騎打ちをして、4回目で本気で挑もうとしてたし」
「……未来知識か?」
「リアル……今の時代の方が、ちゃんとした情報の道筋ならより正確に伝わっているはずだよ。甲州はすぐ近くにあるしな」
「なるほどな」
上に置いていた肘を浮かせ、晴信は今度は天を真っ直ぐ見上げるように仰向けの体を支えさせる。
「武田と上杉の争いは終わるだろう。けれども、今度は相良を巡って北条と上杉の争いがそのぶん激化する。武田は関わらないように
「……何時でも。けど、輝虎と一緒に来るなよ?」
「そうなれば古河の馬鹿が増長するだけだからやらないよ。そもそも、上州はその馬鹿と輝虎とを寸断するために攻め始めたしな」
「……けど真田家が予想以上に頑張ったから、引くに引けなくなってしまったという訳か?」
「…………武田の軍師にならないか? 種馬でも良い」
「やだよ。ややこしくなるだろ? それに晴信さんは、軍事ではなく内政好きなはずだしな。この戦に勝って過激な奴等を一掃したらしてみたらどうだ?」
「……金山とか堤防からか?」
「ああ。本気度はどっちも凄いからな。輝虎に対してもそうだけど、晴信さんは困っている人を見つけたら手を出したくなる善人だから、今度は一番楽しい内政にな」
「……そんな事を言ってくれたのは初めてだよ」
晴信の目付きが柔らかくなるが相良は気付かない。
「友達が言ってたけど、戦とは外交の延長線上らしい。だから、戦が日常茶飯事な今がおかしいし、内政をやりまくりたいっていうのは普通な事なんだ」
「……時代を、この時代の常識を変えなければならないのか?」
「ああ」
そして、晴信は気付いてしまう。
自分を見る良晴の瞳が、一気に悲しそうな物になったのを。
「……私は上洛戦を挑むが途中で死する、か」
「っ」
「鉄面皮も名将の武器の1つだぞ? けど、そっか。死んでしまうんだなあ」
自分が今まで戦う目的としていた孤独な少女は相良良晴に救われ、次の戦う目的は死への道となる。それを理解してしまった名将は、目を閉じて体を地に預けようとする。
その半回転しようとした体をすぐにおさえる暖かみがあって、けれども今度は力を入れようとする。
「っ!」
ドシン!
耳元で感じた細い息と、前の方で何かにぶつかる音。
「馬鹿野郎」
その叱責は、父親のように冷たさだけではなく。
「あんたは1人じゃない。祭り上げられた義信もあんたの事を思っているだろうし、仁科盛信も諏訪勝頼もあんたの事を思って守ろうとしている。四天王も真田家も小山田家も穴山家も、あんたの事を
神様のように扱われ、何時からか幼女と猫ぐらいしか触れる事を許されなかった体にとっては、もっと預けたくなる暖かさがあった。
「じゃあ、じゃあどうすれば良いの?」
だから、だろう。素の武田勝千代晴信どころか、厳しすぎた父親の前で封じ込みいつの間にか皆の前でも封じ込めていた『武田勝千代』が出てきた。
「
「……武田家を守ってくれ」
そして、その『勝千代』に良晴は誠意を持って答える。
「このままの拡大路線だと、あんたの次を継ぐことになる勝頼ちゃんの時代に滅んでしまうから」
未来を教えられ。
「ばかぁ。こんなとこで伝えるなぁ」
晴信は決壊して、勝千代だけになった。
そして、彼女は泣きながら考える。考えてしまう。
私の義妹の勝頼が後を継いで滅んでしまうのならば。
「さがら……よしはる」
子供を産めば変わるのではないか、と。