武田家が史実と外れて西上野から撤退したのは事実である。真田家が撤退したのも、また事実である。
では質問。
元武田家の者達は西上野の者達の去就はどうするか? という話である。
三国峠を越えて利根川沿いに進む上杉軍は、沼田城といった利根川より東の者達を臣従させているが、利根川より西は武田家の勢力があり通り道でもない事からあまり関わってこなかった。
しかし、その元武田家の西上野が北条氏康に転ずる事になると、確実に攻めてくる。それは逆も然りである。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
しんしんと何時ものように積もった雪が解けてきた3月、上杉謙信は半年ぶりに、しかしすっかり馴染みある土地になってきた上野国に足を踏み入れ、対北条の最前線である
その城主であり元守護代の 長尾 と西上野の者達への誘降工作をしている
「混乱に次ぐ混乱だったからかしら?」
「恐らくは。今は誰が一番強いかというのを判断しかねている者かと」
少し考え込む仕草をした謙信だが、すぐに「やるしかないか」と横を見ながら呟き立ち上がる。
「軍勢を整える」
「…はっ」
「
「勿論でございます」
頭を下げた高広は、謙信とその一行が城主の部屋から出ていくのを頭を下げつつ感じながら、やはり……と思う。
「相当に
気持ちを口にしたのは、部下たちに護衛の準備の指示を出してから戻った私室で、彼女の頭の中には1人の少年の事が思い浮かんでいた。
武田義信の乱を経て漸く落ち着いたと言っても良い彼は関白・近衛前久に刀と字の、茶人・千利休に茶の、河田長親に計算の勉強をさせられつつ、内政も手伝ってくれた。つまり、自身が北条家にしていた事を、仇敵の上杉家にした。
『北条家に届けてほしい』
春日山城を「後悔からの執念で」監視しているらしい風魔から自分に送られてきたその書状を、高広は見てない振りをしつつも北条家に送り、北条氏康の許可状を春日山城へ送った。
それに対する反応は早く、北条家とその同盟者のみにぐらいしか広まっていなかった正規本が越後や上野全土にも急に広まり始め、佐渡島の本間家からは金が獲れたという報告が来て、防寒具も農民まで異様な広がりを見せ、簡単な洪水対策も同様だ。
年が明けると、それらはどうやら相良良晴が上杉家に教えているらしいという間違っていない噂も
だが、高広は見ている。
『俺は今までもこれからも北条家の家臣だ。それが揺らげば、俺は俺でなくなる』
という真摯なその文を。
だから、高広はこの政策が上杉家のためにではなく越後・上野のためにしている事がわかっていた。
だが、1度今の武田信玄に通じて反乱を起こすも鎮圧された時に見て高広が永遠の臣従の誓いをたてた謙信は、それに気付く事は無かった。
『良晴を頼む』
主流の血筋の姉妹から玉藻前の討伐後に言われたその言葉を、その時の高広はわからなかったが、今の高広ならわかる。
「本当に心を許したなら、あんな影は無いだろうな」
西上野の者達の様々な表情を見てきた高広はそう呟き、何かを決心した表情で私室を出る。
相良良晴の事を考えていた彼女は、1つの異変に気付かなかった。
赤い瞳に天井から見下ろされていた事に。
「伊香保にね」
「はい」
「では動きましょうか」
「はっ」
来た道を戻り、ある角で左に上杉謙信ら一行は曲がる。
榛名山の北麓にある伊香保温泉は、武田軍が西上野に侵攻して『掃除』をしている時に偶然見つけた温泉で、晴信によって甲信の温泉と同じく箱根式の温泉街が取り入れられた。
だが、その武田軍が次に大挙してやって来る事はなく逆に退いてしまったので、上杉家の命により地元民に開かれる事になった。
そして、この日はその上杉家の主が来る事になり、地元民達は外から見守るだけである。
「良い宿ね」
「ありがとうございます」
いわゆる銭湯とそれに付属し観光客や山伏が使う旅館も今日だけは貸し切りで、番頭の使い達も開業して一番の緊張の面持ちである。
一方、謙信は良晴が絵を描き職人達が実現させた上質な絹のコートを脱ぎ、薪ストーブによって暖かくなっている部屋で一息つく。
「良晴も」
「ああ」
そして、促した良晴が座布団の上に座ってから、謙信は自然に彼の膝の上に座り体を預ける。
「固くなる事は無くなった?」
「そりゃあ1ヶ月してたらな」
良晴に頭を撫でられ始めると、謙信は赤い瞳を柔らかく細め、彼の左手を自分の膝の上に寄せて自分の手を乗せる。
ここ最近では何時もの事になったその態勢で、今日は越後ではなく上野の緑と白のコントラストを見下ろす。
「決着をつける」
呟く。
「貴方と寄り添うために」
はっきりと。
「貴方と接吻するために」
芯の通った声で。
「毘沙門天様を下ろす為に」
けれども。
「…………」
愛しの人からの返事はなく。
「…………」
沈黙が覆った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
望月と灯籠の灯りが照らすだけの女湯の露天風呂に、3人の少女がいた。
「謙信様、今宵でしょうか?」
問い掛けたのは直江兼続。
「……恐らく」
答えたのは上杉謙信。
「…………」
それを見るのは北条高広。
「今宵動いて、明日にはわかる。厩橋はそんな『空気』だった」
「どこを攻めるにしても、武蔵の北部や東部といった所で、氏邦や氏照も出る事になる」
「そこを攻める。武蔵の
「そうしてまずは武蔵を、ですね」
そう話し合う根っからの主従達を高広は見るが、やがて彼女は心の中で溜め息をついた。
「高広?」
「はっ」
「……何もないわ。後詰めよろしくね」
「はっ」
そして、男湯では。
「なかなか固いな、お前も」
「そうか?」
相良良晴と長尾政景が話していた。
「
「それが一番不思議なんだよな」
まあ、東北の関ヶ原が関わってるかもしれないが……と内心で呟く良晴。
「越後の男達からの人気も高いし、後はお前だけなんだがな」
「……それでも俺は北条家さ」
「愛を押し付けられないからか?」
「…………」
「正直に言って、あいつの執着ぶりは異常だ。四六時中引っ付き、外へ出る時は手を繋ぎ、添い寝もする。ご飯も自分で作り、和歌も近衛様からならう。視線は気付いてるか?」
「……俺が1人の時のか?」
「ああ。他の者達は気付いてないが、あいつは例え敗れたとしても離そうとしないだろう。最悪、包囲網に築いたりして来るぞ?」
「だろうな。けど、まずは帰らないといけない」
「……応援はしないぞ?」
「ご自由に」