5月17日
相模・小田原城
「そう言えば、あなたが上杉謙信に捕まった戦いの時の将軍様からの『返事』を覚えているかしら?」
そう氏康が良晴に語りかけたのは、相越同盟や良晴関連の事務仕事が一段落ついた時で、梅雨の中の蒸し暑さででた汗を手拭いで拭いた後だった。
氏康の命令で彼女と北条家の事務方と同じ事務仕事をしていた良晴は、筆を止め、微かに鳴る風鈴を少し見てから思い出す。
「ああ、あれか。5つの」
「それよ」
壱 余は上杉輝虎に遠回りをせずに直接、関東を制していく事を命じる
弐 偏緯を無くす、という事はこれまでも、これからも無いことであり、そのような事は出来ない
参 伊達良宗に対してはその名乗りを認めず、同じ音だが『義宗』と名乗る事を命じる。これに従わない場合は、伊達家への奥州探題などの任を解し、代わりに蘆名家にその役職を任ずる
肆 北条家はその一族の誰かを上洛させよ。さすれば、伊豆・相模・武蔵の守護に任ずる。
伍 鎌倉御所の主については、共に武士であるので、戦で決着をつける事を望む。なお、戦とは野戦でも攻城戦でもどちらでも良い
「ーーの中の第4項をするわよ」
つまり、北条氏康の上洛。
そのいきなりの宣言に事務方の武将達はざわつくが、良晴はそれに含まれた大きな意味がすぐわかり、自分を見る彼女を見返す。
「だったら俺もついていくぜ」
「京では顔が知られているし当然よ。後、根來と博多に行って、武力と財力も更に高めるわ。……事務長」
「はっ」
「その間の内政は任せたわよ?」
「ははぁ!!」
氏康の上洛は、その日の内には小田原に、翌日の内には北条家の領土に、翌々日の内には同盟国にしれわたり、それぞれの反応を見せる事になる。
その中でも、北条家の3人の少女は一緒に氏康に詰め寄るが、しかし「将軍様には誰でいくか伝えてあるから」とにべもなく断られる。
「……可能性あり?」
「かもしれない」
「さすが相良良晴ね」
そんなひそひそ話があったと言うが、真相はわからない。
とにもかくにも、1週間ほどで準備は終わり、24日、しとしとと降るなかで
夏の南風にうまく乗った定期船は、雨にはあったが嵐には遭う事はなく「ましな」船旅となる。航海に慣れた者にとっては、だが。
「……怒られねえか?」
「怒る道義は無いし大丈夫だよ……多分」
「おい」
初めての船旅の氏康は、出航してからすぐに酔い、奥に引っ込んだが、色々と彼女の従者達もなるべく酔わない方法を探した。
そして、その結果が、安らかに寝ている氏康と、戸惑う良晴と、一様に視線を逸らした従者達だった。
逃げるように従者が去っていった後、良晴は溜め息をつき、観音開きの木の小窓から梅雨の中休みの青空を見上げる。
「……お父様」
厠に行こうとするとそう弱々しく呟かれ服を掴んでくるので簡単に行くことも出来ず、行った後は手を握ってきた。
久しぶりにぐっすり寝入った氏康が起きたのは、甲板の
動き始めた感覚は、嗅ぎなれた船と潮の匂いの他に薄いながらも悪くない匂いがある事、騒がしい声がいつも以上だという事、地面が波打っていない事、最後に心地良い下からの暖かみを感じた。
「……ここは?」
「起きた?」
呟いた一人言に応える声があっても、その声が相良良晴の声であっても、そしてそれが上から聞こえても、寝ぼけている氏康の頭が大きく動く事は無かった。
代わりに、氏康は暖かみの上で頭を動かして、音源の方を見上げる。
「……良晴?」
「お、おう」
予想だにしてなかった反応に戸惑う良晴をよそに、氏康は細い目を柔らかくして、口元も柔らかくなる。そして、おもむろに自身の右腕をあげ、彼の頬に手を当てる。
「ありがとう、良晴。北条家のために、私達姉妹のために色々と尽くしてくれて」
「俺はーー」
「全ての実を拾おうとして皆を掻き回してしまっている、って言いたいのよね? それは違うわ。妹達も、鎌倉の親子も、千利休も、関東や他の所の武将達も、あなたに助けられて、その助けられた命を懸命に一生懸命長らえようとしている。歴史の強制力みたいなのがあっても、生きようとしている。あなたに教えられたから。言葉で、行動で、そして気持ちで。私もその1人なのよ?」
「……頭か」
「ええ。仕事の量が減っていくのに比例して発作の頻度も減っていっているし、最近どうしてか増えてきた頭関連の漢方薬を飲んでからは心なしか強さは弱まったわ」
「そうか」
互いに笑いあった2人の瞳は柔らかく、熱がこもりはじめていた。
「……箱根で良晴が言った事おぼえてる?」
「……ああ」
恥ずかしい事を言った事を思い出した良晴は、顔ごと視線をそらそうとするが氏康の細い親指が、反対側を挟んできたのでかなわなかった。
「その気持ちは今でも変わらない?」
「勿論。氏康は1人の女の子さ」
今度はなるべく彼女を見ながら言うと、彼女から視線をそらされた良晴だが、彼自身も頭が熱くなりそれどころではなかった。
氏康が左腕ものばしてきたのは幾ばくも経っていない時で、良晴は抵抗する事は無かった。そして、彼女の両手の力の向きに従い、首を、腰を曲げていく。
氏康の赤らんだ顔は、良晴の顔で光を遮られたが、彼女は静かに目を閉じた。
そして。
「着きました……ぜ?」
「「…………」」
その後の事は、書くまでもないだろう。
簡潔に言えば、氏康はずっと寝惚けていて何も覚えていない事になり、良晴は茶化されながら荷下ろしを手伝う。
「なんであんな事をっ!」
そんな事を小声で叫んでいる少女がいたとか、いなかったとか。