相良良晴←ヤンデレ   作:コーレア

216 / 256
第186話 過去の話

7月2日 夜

豊後・大分郡

 

 史実では『姓氏対立()()』として知られる小原鑑元らの反乱のそもそもの始まりは、大友家が九州にやって来た頃から始まる。

 

 大友家は鎌倉幕府の創設者・源頼朝の落(いん)と主張しているが、その実は藤原家の末裔であり、足跡がはっきりとしてくるのは近藤能成(よしなり)の息子からである。

 最初は領地の古庄の姓を名乗り、次いで父親の姓の近藤を名乗り、伯母の夫だった中原 の猶子になった能直(よしなお)の母親、能成の妻・利根局さんは、領地の近くの波多野家の出身だった。丹波の一族で有名な波多野家の故郷は相模国西部であり、利根局さんの一族はその中でも相模国足柄上郡大友荘(神奈川県小田原市)を領していて、能直は大友という家名を名乗る事で落ち着く。

 中原家と波多野家。両家とも鎌倉幕府にとって重要な家であり、前者の中原親能(ちかよし)は幕府と公家の間を繋げた。また信濃にいた一族は、頼朝と天下を競いあう源義仲を支える樋口兼光・今井兼平兄弟であり、彼らの姉妹は義経の室になって巴御前と名乗る。

 その2つの家と繋がっていた彼は、源頼朝に寵愛され、彼に後の少弐家(九州北西部)島津家(九州南部)と同じく九州の南朝勢力や元平家勢力の監視のために九州北東部を任される。

 

 能直の孫・頼康の時に豊後に下向し、元寇での戦いで活躍し、地盤を固くする。その後、鎌倉幕府滅亡の時には足利方に属して鎌倉幕府の九州支部(鎮西探題)を滅ぼし、室町幕府が派遣した今川了俊などの九州支部(九州探題)とは一定の距離を置きつつ、九州進出をはかる大内家と凌ぎを削りあう。

 その中で大友家は、他の家も行っていたように在地の家に養子として一族の者を出したりして芽を広めていくわけだが、その一門衆などを『同紋衆』として扱い、他の在地の家々を『他紋衆』として扱った。そして、両者を同じくらい家老として取り扱う事で、対立を歴代当主は抑えてきた。

 しかし、義鎮はそれを変えてしまう。というより、変えざるをえなかったというのが正しいだろう。

 

 彼女に、そして大友家に深い傷を残した二階崩れの変。同紋衆と他紋衆の対立と次期当主を巡る争いの成れの果てに、現当主・義鑑が襲われるまでに至ったと()()()事件。

 その変によって継ぎたくなかった家督を継ぐことになったか弱き少女は、九州の修羅もあるがその後始末に追われる事になる。

 この時、少女にとって父親や異母弟が殺された直後、信用できるのは同紋衆と他紋衆のどちらだろうか? 答えは言わずもがな、だろう。

 

 そして、彼女はそれを続けてしまう。

 いや、続けざるを得なくなる。

 

「二階崩れの変の真実を知ってしまったから」

 

 動かす事が出来なくなり、そして今を招いてしまった。

 

「……真実?」

「うん。もしかしたら一族も家臣も信じられなくなるかもしれないけど聞く?」

「…………聞く。聞いてみせる」

「ありがとう」

 

 大友義鎮は、聡明な彼女は話し始める。

 

「私は父上に嫌われていたと思っていた。けど、実際は大友家の当主である父上がそうせざるを得なかった。同紋衆と他紋衆の対立、自分の弟との対立、そして大内家との関係から」

 

 義鎮の父・義鑑政権の時、家老衆という閣僚は同紋衆4人と他紋衆2人の6人によって構成されていたが、実際は同紋衆の中の1人・田口鑑親(あきちか)は他紋衆として扱われていた。これは、事あるごとに大友家と対立する大家・田原家の分家だったからだ。

 義鑑を含めた7人で構成されていた頃、仇敵だった大内義隆が月山富田城の戦いで尼子義久に敗れ、養子として寵愛していた土佐の一条兼冬の子である晴持を亡くすという事態が起きる。

 大内家はそれから武断派と文治派の暗闘と対立が激しくなっていくが、大友家でも義隆の跡継ぎを巡って蠢く。具体的には義隆の妹との間に産まれた長子・塩法師丸を肥後の菊池家に、塩乙丸の同母弟である塩乙丸を大内義隆に、そして他紋衆の田原家との間に産まれた塩市丸を大友家に、という形を。

 その形に持っていくよう主導したのが家老衆の中の同紋衆であり、実際に塩乙丸は大内家に『大友晴英』として猶子として出されるが、義尊(よしたか)が産まれた事で戻ってくる。しかし、赤子は亡くなる可能性が高く大内家に戻る可能性は充分にあった。

 だが、この頃になって家老衆にある疑念が湧いてくる。菊池家を継いだ義鑑の弟・義武が、大内義隆と手を組み、大友家の家督を狙って挙兵した過去を考慮して、である。

 

「大友家の塩市丸と、菊池家の私。2人が手を組み、大友家を滅ぼしてくるんじゃないか……という疑念をね」

「……勝手すぎるだろ」

「けど、成長した貴女が聡明で、塩市丸殿が貴女を慕っている……という事実があった」

「そう。自分で自分の首を知らない間に絞めていたの」

 

 それを憂慮した義鑑は、この計画を他の家に漏らさないためにも話していなかった家老衆の中の他紋衆の者達に、全ての計画について相談するが、彼らはすぐに当主が考えている可能性にぶち当たり大反対する。

 その大反対の動きを「既に動き始めている事に反対するとは逆心ありだな」と動いたのが、家老衆の中の同紋衆の筆頭ともいえる入田親誠だった。彼は、同じ同紋衆()の田口鑑親と共に3人を討つ。

 しかしその田口鑑親が乱心し、当主・義鑑や塩乙丸、そしてその生母を殺してしまう。

 

「……なんでだ?」

「田口家は田原家の分家。田原家は府内と豊前の間の国東(くにさき)半島や水軍を持っている大きな家で、たびたび大友家にも反旗を翻してきた家だったから、父上も格は同紋衆としてても、扱いは他紋衆でしていたみたい。そんな田原一族の鑑親が、他紋衆の者達を討った」

「次は濡れ衣を被さられる自分かもしれない、と思った訳ね」

「ええ。田口鑑親は死に際に叫んだらしいわ。先手を討ったのだ、と」

 

 その二階崩れの変の真相に氏康や晴信はやりきれない表情を浮かべるが、もっと酷い表情になったのが良晴だった。

 

「討つ者も、討たるる者も、(もろ)ともに……如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)

 

 彼が呟いたのは、義鑑の妹婿であり、彼と同じく家臣によって死に追い込まれた大内義隆の辞世の句である。

 その句に義鎮と晴信はすぐに気付くが、氏康はわからない。しかし、良晴はそれを気にせずに話を続ける。

 

「彼は……大内義隆は、義鑑さんに同盟を提案していた。自分の家の内部対立をも煽りにきた尼子家と、さっきまでの毛利家のような全面戦争に踏み切るための同盟を」

 

 しかし、義鑑はそれに答える手紙を出した後に、自邸にて殺される。

 だが、義鑑から義隆に書状は渡り、その文面は義隆から良晴に口で引き継がれ、良晴は義鎮に話す。義鑑の心情を。

 

「私は馬鹿な親だった。母親を早くに亡くした塩法師丸の孤独感に気付かなかった。嫡子は嫡子であり、それをひるがえすという事は家の衰退に繋がるという事も。私は九州統一へ邁進する。その間に尼子家を滅ぼしておけよ? とな」

 

 その言葉に義鎮は籠の中で泣き崩れ、晴信は氏康の背中に顔をつけ、その氏康は静かに夜空を見上げる。

 

 時は平等に動いていく。

 塩法師丸あらため大友義鎮は、乱の後片付けとして粛清を迫られ、塩市丸派の筆頭であった入田などを誅する。

 一方、大寧寺の変という違う形から塩乙丸は再び大内家の者として派遣され、しかし毛利元就によって戻され、そこで死を迎える。

 

「ちなみに。塩乙丸の護衛を担当したのが、毛利家側から村上水軍で……」

「大友家からは田原水軍、か」

 

 また、塩乙丸こと大内晴英と共に周防に渡った監視役兼護衛の1人が、大友家の分家である一萬田家の者だった。

 

「一萬田家の者も二階崩れの変に加担していたから誅したけど、彼は……一萬田親宗はある家を継いでたから除外していた。

 筑後に根を張り、前々代の当主は御家騒動で実家を出て、急きょ継いだ弟は子を残す事なく二階崩れの変の前に死んだ高橋家を」

「まさか……」

「ええ。今は筑後国御笠郡の岩屋城主として、高橋鑑種を名乗っているわ」

 

 それに、と義鎮は続ける。

 

「高橋家は貴女の家と繋がってるでしょ?」

「……やっぱりあの高橋家なのね」

「ええ」

 

 御家騒動で実家を出た筑後高橋家当主・高種は上洛し、足利義尚に仕える。彼が六角家征伐中に没すると、外祖父である畠山政長によって伊豆に下向するがその主・足利政知は病没し、そして堀越公方家は、幕府の思いを汲んだ伊勢盛時によって滅ぼされる。

 盛時は高種を家臣として迎え入れ、自分の養女を嫁がせた。北条氏綱は、高橋の長男を北条家に迎え入れ北条の姓を名乗らせる。

 

「北条綱高。国府台にもいたでしょ?」

「……赤備えの人、か」

 

 話はまだ続く。今回の内乱へと。




 大寧寺の変から厳島の戦いまで、史実通りなら4年空いていて、大内義長(大友晴英)の自害もさらに2年空いていたはずだった。
 しかし、相良良晴は毛利隆元を介して1週間ほどで全てを終わらせ、義長は実家に帰る事になった。対して、歴史の修正力も負けず劣らず大内義隆、陶隆房、相良 、そして大内義長(大友晴英)と変とその後始末で命を失った者を(ことごと)く同じように殺す。だが、修正力をもってしても起こせなかった事があった。
 それが、史実では姓氏対立事件として知られる大内義長(大友晴英)自害の前年に起きた事件だった。それを、経験していない義鎮は当然語れないし、知らない良晴……それに頼次も語れない。であるのでこの後書きに書かせてもらう。

 それが起きた頃、大友家の対岸の山陽地方では厳島の戦いで陶隆房を討った毛利元就が西へ西へ触手を伸ばし、周防は今の周南の辺りまで深く侵攻していた。
 対して、母親を早くに亡くし、大友家当主であった父親と腹違いとはいえ弟を変により亡くした義鎮は、彼を見過ごそうとするはずが無かった。
 大切な弟を助けるために義鎮は府内に軍の集結を命じ、府内の東の佐賀関半島を領する佐伯家の水軍や地上で戦う者達が集った。

 しかし、それから1日も経たない内に彼らは反乱軍となり、義鎮は府内を追われる。
 そして、その反乱軍は纏まりきらない内に各個撃破されていく。

 府内で挙兵した本庄統綱、中村長直、賀来惟重らは豊後国内で討ち取られた。
 府内の港で挙兵した佐伯惟教の水軍は、田原水軍など他の大友水軍に攻められ、対岸の伊予の西園寺家に逃げる。
 そして、肥後北部で挙兵した肥後守護代役の小原鑑元は、府内よりも早く挙兵を知られた高橋鑑種率いる大友軍に()()()城を攻められ、最後は城外に討って出て散っていった。

 変ではなく姓氏対立()()とされているこの内乱は、同紋衆と他紋衆の対立の成れの果てと言われているが、敗れた彼らの素性はこうである。
 府内で挙兵した3人は、大友家と共に九州にやって来た一族ではあるが本庄家は他紋衆、中村家は水軍、賀来は豊後に代々いた大神一族の末裔になっていて同紋衆として扱われていなかった。そして、佐伯惟教は大神一族の宗家であり、小原鑑元は大神家分家の阿南家の更に分家の男である。そして両者は、二階崩れの変の直後に挙兵した義鑑の弟・菊池義武を打ち払い、小原は肥後に大きな権力を有すると同時に義武を監視していた。
 だから、生け贄に小原鑑元も佐伯惟教も選ばれ、一方は討死して、一方は九州より外に逃げた。

 そして大内義長は、義鎮に毛利元就が「大友晴英として」返すと提案してきた事で義鎮は諦めざるを得なくなる。
 何故なら父親と異母弟は家督争いの末に殺され、おじは肥後で反乱を起こし、粛清をしてきたのだから。

 ちなみに、である。
 龍造寺隆信に返り討ちにあった大友親貞は、大友家にとって因縁深い肥後にいた菊池《大友》義武の息子と言われている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。