9月17日
駿遠
休息の間に充分力を蓄えた武田軍は、一気に2つの川に沿って今川領である駿州と遠州へと侵攻する。
まず西側の天龍川沿いに進んでいるのは、後継者の可能性を自身が起こした反乱で無くなったので「気楽になったような」武田義信あらため勝頼が率いる軍勢で、豊川にずれれば三河へと向かえるが、ひたすら天龍川沿いに下っていく。
その侵攻に今川氏真はすぐに防衛を命じるが、その天龍川の途中にあり
元より勝頼は信玄と争いあえるほどの知勇の持ち主なので、目の前の防衛網の一角が崩れるとそれを広げるのは簡単だった。
「河口部でございます」
「……そう」
勝頼にとっては最初ぐらいしか手応えが無かったが、信玄と一時的ながらも渡り合えた彼女に遠江の者達は戦々恐々していて、彼女の一挙一動に注目していた。
だから、だろう。彼女が最初に発した命令に、征服したての割にかなり早く遠江衆は動き回る。
「名指しか」
「な、名指しです」
その勝頼の命令は遠江に展開しようとしていた松平家の忍の耳にも入り、彼らを通して三河は吉田城へと伝えられる。
駿遠に派遣されている相良良晴を捕らえよ、という命令を見てその良晴は落ち着きながら、元康は少し怯えながら呟く。
「ど、どうされますか?」
「海は……湊が無いよな?」
「どこも小さいです……」
「……だったら前に辿った道で東に行くしか無いだろうな。それより北は遠回りすぎるし」
「前に辿った道……ってええっ!?」
元康が声を出して驚いている一方で、評定の間の端に控えていた松平信康と長松の兄妹の2人もかろうじて声を出さずに驚く。
上杉家から北条家へ変わる時に2人に加えて真田昌幸とも辿った道を、ほとんどの途中が今度は(事実上の)敵国の状態で通ると良晴は言っているのだ。
「だ、大丈夫なのですか?」
「まあ、
ひそひそとしながら自分が優位に立てる場所に向かうのが、自分の戦法になってるな。それを今更ながら自覚した相良良晴は苦笑いを深めるだけだったが、待つ者や見送る者にとっては気が気でない事だ。
当然の如く自分と供回りだけで行こうとした良晴に、元康は服部半蔵から借りて出す。
「城下から出るのは、不審がられないように朝にする」
「わかりました。お腹が空いてたら戦は出来ないですし をどうぞ!」
「ありがとう」
後は寝るだけ、という時になった夜遅く、1人の少女が吉田城にやって来た事で、良晴が考えていた豊川・天龍川経由の考えは無くなる。
「お久しぶりです!
「直政!」
井伊直政。
西遠江、三河とも近い所に城と領土がある井伊家の姫武将が、単身で武田家と敵かどうか微妙な元康に会いに来た。
「井伊家は武田家についたのでは?」
「まあ、周りに味方がいませんでしたから。いきなり三河守様に助けを求めても迷惑でしょうし」
「なるほど。では今日は?」
「私
「「「達?」」」
同じ具合に小首を傾げた3人とその他を、直政は門前まで連れていく。
そこにいたのは、井伊家の旗印の者だけではなく、様々な家の旗印があった。
「自己紹介どうぞ!」
「では拙者から。高天神城の遠江小笠原家の小笠原氏助でございます」
「曳馬城主飯尾《いのお》連竜が次男の飯尾正宅でございます」
「武田家が出てきましたが、この先どうなるかはわかりません。松平家、武田家、今川家の三つ巴になるかもしれません。ですので、お世話になっても宜しいでしょうか?」
「……わかりました! これからよろしくお願いします!」
「「「はい!」」」
そんな彼女達が、短期間でなんとか集めてきたのが遠江はもちろん武田の兵から聞いた甲信の事だった。
つまり、武田勝頼が通った伊那路でも遠江でも大きな乱取りは行われず、武田家に入った時間が長ければ長いほど領民の武田家への思い入れは高く、それ故に外からの者への視線は命じられていたら厳しいだろう……という、その伊那路を通ろうとした良晴にとっては嫌な情報を。
「……だったら木曽路しかないか。豊川から出れる道ってあったか?」
「あるのはあるのですが、山間で時期が時期なので難しいでしょう」
元康からもしもの後継者に指名されている松平信康の返答に、良晴は少し考え込み、更に迂回するが北回りよりかはましな道筋を辿る事を決める。
18日朝、相良良晴ら一行は吉田城を出て、松平家の者達と共に西へと向かう。
そして。
相良良晴は出会う。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
9月18日
尾張・那古野城
攻められて向かい撃つよりかは、自分で時機を決めれる攻めていく方を選び、それによって相手を誘き寄せて勝つ。
その手法を織田信秀が採用したのは、ある内向きの理由もあった。
「ふむ。階級別でわけるとこれぐらいとなるか。意外と少ないな」
「ですな。やはり今川家との決戦というのは、何時もより腰を動かしたのでしょう」
「されど、積極的なのと消極的なのは別れるもの。それすらも分けているとは、さすが成り上がろうとする者ですな」
城内で隠居を宣言した織田信秀と、同時に隠居した平手政秀は1枚の絵図を見せながら話していた。
そこに書かれていたのは、桶狭間には直接的には参加しなかったが、この絵図を自身の仕官のための材料として差し出してきた者が集めた情報だった。
自分達の家臣に確かめさせ実際にその通りだという報告を受けた信秀は、その者とついていた者達の仕官を認めている。
「同時には無理だろうな」
「ですな。はっきりしている清洲と岩倉は反対ですから、ちと難しいです」
尾張国内、というよりは織田家中の反乱分子の存在を浮かび上がらせたのは良いが、南北の両方にある事から迷っていた。
迷う彼らの部屋を遠慮なく開け放ったのは、織田弾正忠家の家督を幸せな形で継いだ信奈だった。
「姫様! また着崩して!」
「それどころじゃないわ平手! すごい客が東からやって来たのよ! 来なさい!」
信秀と政秀は、信奈の「すごい客」を見た直後、天啓を得たと感じた。
「はじめまして。北条
「私と同じ上総介を名乗っているのが気にくわないけど良い奴よ!
「「猿?」」
「入ってきなさい!」
「へい!」
良晴に次いで入ってきたのは真新しい鎧兜に身を包んだ男で、信秀と政秀にとっては『絵図を献上した男』だった。
仕官が叶って喜んでいた那古野城下で良晴に再会し、信奈から下された命令である買い出しを済ませつつも良晴を信奈の所に誘導した男は自分の新しい名前を平伏しながら勢いよく名乗る。
「ご隠居様より仕官が叶い、
卑下されているだろう渾名を使うよう請いつつ、それに対する印象で本名をご隠居様に覚えさせる考えか……と政秀が内心で驚く横で、布団に寝ている信秀は力強い目で頷く。
そして『猿』こと木下藤吉郎が考案し、織田信奈が修正を加え、織田信秀の許可を得た作戦は、相良良晴の風魔……ではなく藤吉郎が尾張国内の動向を調べるために借金してまで雇った川並衆によって東へと運ばれる。
「はわわ! 凄い作戦です!」
「大胆かつ繊細にです」
「……信秀でなくとも桶狭間で勝てたかもしれませんね」
受け取った松平元康は、書状に書かれていた利点を家臣に説明して、家臣達からも賛同を得る。
そして19日、早速その作戦は実行に移される事になる。まずは、織田信奈が岩倉に向かうという形で。