永正の乱。
一般的には
しかし、越後のそれは山内上杉家も大いに関係してくるので、良晴と景虎が話した事よりも先に山内上杉家の事を話さなければいけない。
「そもそも、上杉家がこの関東に権勢を誇ったのは、初代足利将軍でいらっしゃる
頼重殿の3男であり等持院様の母方の叔父にあたる上杉憲房殿は京都四条河原の戦いにおいて等持院様を逃がすため戦死しました。その憲房殿の次男の憲藤殿が禅秀に繋がる犬懸上杉家になり、長男の憲顕殿がこの山ノ内に住み始めた事から山ノ内家になります」
小町綱久の話を聴く6人。
その位置取りは、今までより若干変わっていた。
「憲顕殿は長年にわたり鎌倉府を支えていき、関東管領の職を上杉家が繋いでいく地盤を築いていきます。死後、関東管領は4男の憲春殿が、山内上杉家の家督は5男の憲方殿が継ぎます。
しかし、憲春殿は第2代鎌倉公方の足利氏満を諫言するために切腹したため、管領職も憲方殿が継ぎます。その憲方殿は晩年まで管領職を勤められ、更に次代に移りますがそこで色々とありました」
今までは左から義重、良晴、良氏、氏康、六代、そして景虎という順番だった。
「まず憲方殿の長男の憲孝殿は別の流れの上杉家を継がれ、次男の房方殿は越後守護になります。房方殿は、犬懸上杉禅秀の乱で禅秀討伐に活躍しました。この2人の兄が別々の家を継いでいた事もあり、山内上杉家の家督を継いだのは3男の憲定殿でした。
一方で憲方殿死後の管領職は犬懸上杉家出身で禅秀の父の朝宗殿が継ぎ、その次が憲定殿になります。それより前に大内義弘に呼応しようとした
しかしその禅秀が
だが、3回目にして左から義重、六代、景虎、良晴、良氏、そして氏康と変わったのだ。
「その憲基殿の弟が
「はい」
自分の曾祖父の祖父の事を笑顔で自分の正体は知らない小町に聞く義重の隣では、六代が話始めた頃から横からほとばしる殺気に震えていたが、体裁は保とうとなるべくおさえていたため気付かれてはいなかった。
「憲基殿は若くして亡くなった事から子供はおらず、自分の従弟の憲実殿に家督を譲ります。その憲実殿は越後守護の房方殿の3男であり、管領職も継いだ憲実殿は、永享の乱でやむなく主君と対立してしまい、主君が幕府からの圧力により切腹させられた後に隠居して、
また憲実殿は、主君を自害に追い込んでしまった自責から自分の息子に家督を継がせる事を良しとせず、弟の清方殿に家督を譲ります。その清方殿は子供がいない内に没したため、山内上杉家の家臣の1人である長尾景仲殿は、憲実殿の長男の憲忠殿に家督と管領職を継がせます。
父親に義絶させられた憲忠殿は父親の危惧通りに鎌倉公方として復活した
殺された憲忠の跡は、扇谷家の所で書いたように京都にいた房顕が継ぎ、実権は憲忠の義父にあたる扇谷上杉持朝が握る。
新たな管領になった房顕は関東で戦うが公方によく敗れ、子供を作っていない内に陣中で没し、清方の孫、越後守護・上杉房定の次男の顕定が継ぎ、享徳の乱を終わらせ、長享の乱を始めて扇谷家をおさえる事に成功する。
そして、長享の乱の頃から仲良くなっていた古河公方家の親子対立の仲介をして、足利政氏の弟を養子に迎えるなど関係の修復をしていたが、その最中に越後から凶報が舞い込む。
「越後の守護代である長尾為景が、顕定殿の弟にあたり
「…………ちーー」
父上、と言おうとした景虎の口を、それを予想していた良晴が冷静に塞ぐ。
氏康と良晴を含む小田原からの家臣一行、という認識の小町は、その良晴の奇行に首を傾げるが、良晴の隣の良氏の殺気が跳ね上がったので「触らぬ神に祟りなし」と判断して、話を続ける。
「弟を殺した敵を討とうと顕定殿は越後に入りますが、あえなく為景に討たれ、憲定殿が養子に迎えていた自分の又従兄弟の憲房殿と
これは憲房殿が勝ちますが、実子の憲政殿と晴氏様の弟の
最後に、小町が礼をして話は終わる。
最後に山内上杉家の屋敷跡に線香を供えてから、小町と別れて、更に北へと向かう。その先には、綱成が先に帰った玉縄城があり、その近くに長尾氏の故郷がある。