宇都宮家の祖先が藤原宗円である事は書いたが、彼の次男である中原宗房は、豊前に地頭として出張し、そこで根を下ろす。
その宗房の孫の孫の子供である頼房に子供が出来なかったため、本家の次男坊だった冬綱を養子に迎える。この冬綱の代に南北朝の争乱が起き、彼は九州では優勢だった南朝についたため、足利将軍家が最終的に勝つと没落していき、やがて大内家に従うようになる。
この冬綱の末裔・豊前宇都宮家がやがて城井家と名乗り、この時の城井家当主が第15代の城井長房である。
「城井常陸介長房、小倉色紙を持って参りました!」
小倉百人一首は、そもそもは平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した藤原北家
頼綱は、自身の
「嵯峨野の別荘の襖の装飾のために、
と。
それに応じた定家が、飛鳥時代から今までの優れた和歌を厳選して、年代順に色紙にしたためて送った。
その色紙の一部は、頼綱の子孫達にも受け継がれ、それを宇都宮家の分家である城井家が持ってたという訳である。
「おお!」
そんな歴史を佐竹家に鞍替えした下野宇都宮家の家臣であり良晴に同行していた者から聞いた義昭は、その色紙の原本を見たい! と良晴に言ったのだ。
ジャンク船『小田原号かっこ仮』の現地の頭領である良晴は、義昭に「あまり家臣に無理難題は押し付けないように」と約束させてから、寄港していた港から大内家に速達便を送って、伊予宇都宮家の大洲城下への寄り道の許可と、豊前宇都宮家=城井家に無いか聞いてくれるよう頼んだのだ。
戦いで我が子を亡くしてから文化人になっていた義隆は、良晴からのその頼みにすぐに応じて、しかも破格の値段で海賊に長房を豊前から伊予へ送るようにしたのである。
「こちらで御座います」
長房は、自分が当主をしている
その長房が、苦い表情を浮かべてる同族の傍らで古びた色紙を差し出し、義昭に膝をバンバン叩かれた良晴が杖なしで彼に近付く。
「そっとだぞ」
「わかっておる!」
良晴に下ろされた義昭が、割れ物に触れるかのように少し手を震わせながら『小倉色紙』を手に持つ。
良晴にとってはやっと読める程度まで学べた崩し字が更に崩れた300年前に書かれた字を、すっかり小倉百人一首にはまった義昭が目を輝かせながら見る。
その色紙を手放したのは、それから10分ぐらい経った後で、ハッとした表情を浮かべた義昭は、大袈裟に咳をしてから、平伏したままの長房を見下ろしながら願いがないか聞く。
「1つあります!」
「なんじゃ?」
「豊前の城井家とこの伊予の宇都宮家の共通の祖先である下野の宇都宮家の今の当主である広綱様は、家臣の反抗にあい、佐竹家の協力でようやく落ち着くという、幼少ながら苦難の人生を歩んでいます。
ついては、広綱様に足利将軍家ならびに朝廷から正式な下野守の官位を叙任してほしい所存で御座います!」
義昭が良晴を見上げ、良晴は義重から広綱の苦労は聞いたことがあるので頷く。
「良いぞ! 兄者に提案してみる!」
「ありがとうございます!」
「長房と豊綱にも感状を出そう!」
『! ありがとうございます!』
良いのかよ、と思う良晴だが、3人とも嬉しそうなのでここは黙る事にする。
肱川を2人と一緒に下り、長浜に止まっていたジャンク船に長房と一緒に乗る。周防灘の対岸にある
正式な主賓である摂政・二条尹房、予期せぬ乗客である足利義昭、ジャンク船の船長である相良良晴、そして献上品を良晴がガン見していた後輩のルイス・フロイスから受け取ったフランシスコ・ザビエルが順番に降りていく。
「お待ちしておりました」
その港で待っていたのは、独自の菱の家紋が書かれた旗をかかげる大内家の当主・大内従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従義隆。
お歯黒など化粧はしてないが、公家の正式な衣装であり尹房も現在進行形で着ている
毛利元就より前にも凄い戦国武将はいたんだな、と実感した良晴は一行が山口へ向かっていくのを見送ってから、ジャンク船を出港させる。
「待ち合わせ出来たか?」
「うん」
港で受け取った手紙を抱き締めながら、利休は笑顔で頷いた。
*天正16年、城井家の当主である朝房、彼の父親の鎮《しげ》房、朝房の祖父・長房が、大友家にかわって豊後の主になった黒田官兵衛に攻められ殺されます。
これは本領安堵を勝ち取るために城井家が豊臣家に反旗を翻した事が主因ですが、一説には秀吉から求められた小倉百人一首の色紙の引き渡しを拒否したからだとも言われています。