大内家。
百済王の第3王子の末裔だと主張するその家の動向がはっきりしてくるのは、源平合戦の頃の当主だった大内周防権介弘盛からで、平家討伐を進める源氏に協力して、源平最後の戦いは隣の長門の端の壇之浦で行われ、鎌倉時代になると周防守護に近い扱いを受けた。
弘盛から満盛、弘成、弘貞、弘家、重弘、弘幸とあまり大きな事はなく過ごしてきたが、弘幸の時に後の南朝の方についた事から尊氏らと対立する。だが、弘幸の子・弘世は逆に隣の周防を占領した状態で将軍家と和した事から、防長2ヶ国の守護職に任じられる。
だが、その弘世と九州に行っている
「じゃが
話すのは、その義満の孫の孫の孫である義昭。
「応永の乱と呼ばれる大乱を経て、義弘殿は堺で武運つたなく討死。しかも死ぬことを覚悟して、自身の葬儀と四十九日法要を済ませてからじゃ。
一緒に挙兵していた了俊殿も降伏して、鹿苑院様に剥奪された九州探題の代わりに与えられた遠江と駿河の守護職を返上した」
読んでいるのは、自宅から勝手に暇潰しのために取ってきて、だが船内では読むことは無かった足利家の西国方面を中心とした歴史書。
「義弘殿と一緒にいた弟の弘茂殿は許され、残った周防と長門の守護職を手に故郷に帰ったのじゃ」
しかし、その防長を守っていた義弘の弟・盛見と対立して、弘茂はあえなく長門・
幕府も了俊の後任の九州探題の救援のために、やむなく盛見の家督継承を認め、更にその後の働きから豊前守護職を与える。その盛見は筑前も任されるが、それを巡って大友持直と戦い、筑前で討死してしまう。
盛見の死後、義弘の遺児である持世と持盛の兄弟が争い、持世がこれに勝つ。だが、この持世も不幸な死を迎える。
「嘉吉元年6月24日。赤松満祐が鹿苑院様の孫である
語るのは、大内家の現当主の大内義隆。
大内家の事を二条尹房が来たときに初めて聞いたというぐらい知らない良晴に抱えられながら勉強していた義昭を見て、評定の間を提供して、自分も先祖の歴史を話し始めた。
「亡くなられる時、満祐の討伐を遺言にしたほどです」
持世の跡を継いだのは、父・盛見が討たれた時11歳だった教弘である。山名宗全の養女を妻とする彼は、周防の東隣の安芸へ向けて進出していき、武田家の傘下だった毛利
跡を継いだ政弘は、日明・日朝貿易を巡って対立していた細川家に対抗するため、応仁の乱では
そして、その政弘の子が義隆の父でもある義興である。義興は細川家に将軍を廃された
「そして、私が当主となりました」
穏やかな文化人、という雰囲気を持つ彼だが、その一方で主に尼子家と北九州を相手に戦ってきた猛者でもある。
特に北九州での戦いでは、肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め渋川氏を事実上の滅亡に追い込み、肥前の少弐家も下した。
だが、その義隆を変える事があった。