「困った…」
高台にある公園のベンチからは真っ青な海と、人工の島にそびえたつビルが見える。
心地よい温かな風から、季節が春であることがなんとなく分かった。
「ここは…東京だよな…」
人工埠頭の建物には見覚えがあるような気がする、もしかしたら行った事があるのかもしれない。
海鳥が頭上を飛んでいく。
日の高さからしても、まだ午前中のはずである。
公衆トイレの鏡で見た自分の顔は、どう見ても学生で、周りからは週末の賑わいは感じられないし、学校に行っていなければおかしい。
はっきり言って、何が何だか分からなかった。
目を覚ました時には知らないビルの屋上で寝ていて、訳が分からないまま一時間ほど彷徨ってこの公園にたどり着いた。
昨日までの記憶が全くない。
それどころか、反射的に出てくるような物の名前は覚えていても、自分に関する事について考えると、頭の前の方がひどく痛んで、息が苦しくなる。
それでもパニック状態にならなかったのは、もともとの楽天的な性格によるものなのか、それとも思い出さなくていい、とどこかで考えているからなのか。
「すいませーん、帽子とってもらえますかー」
不意に声をかけられ振り向くと、少し強い風に乗って、自分の座るベンチの方に、白い帽子が舞って来た。
これは急いてジャンプしないと、このまま海に落ちてしまうかもしれない。
そう思った僕は、ベンチに足をかけ、思い切りジャンプをして帽子の端を掴んだ。
「よかった」
膝を使って着地の衝撃を和らげながら、先ほどの声の主を探す。
「ありがとうございます!」
声の主は中学生くらいだろうか、年齢の割には落ち着いた印象を受ける少女が駆け寄ってきた。
ジーンズに薄手のTシャツを重ね着したラフな中にもきれいな印象の格好には、白い帽子はよく似合いそうだ。
「いえいえ、どうぞ」
汚れがないか確かめて帽子を持った腕を伸ばし、それを彼女がつかんだ瞬間、それは起きた。
「大丈夫ですか?!」
頭の上から声が聞こえる。
「あれ、僕は」
薄目を開けると、左下に地面があった。
なんで寝ているんだ、僕は。
「大丈夫ですか?今、救急車を呼びますから!」
少女は慌てた様子で携帯を取り出しているようだ。
またしても何が起こったか分からないけれど、意識ははっきりしている。
いっそこのまま病院に行くのが良いのだろうか。
「いや、大丈夫、たぶん」
「急に倒れる人が大丈夫なわけないです」
起き上がって顔や服についている土と草を払う。
彼女は携帯に指をかけて本気で救急車を呼ぶか迷っているようだった。
「ガラケー」
その携帯の形が今時珍しい気がして(反射的にそう思っただけで、根拠は思い出せない)、思わず口に出てしまった。
「なんて言いました?」
「いや、今時珍しいタイプの携帯だと思って」
そういうと少女は不思議そうに首を傾げた。その動作に合わせてショートカットの髪が揺れた。
「これ、先週変えたばかりの最新機種なんですけど」
やっぱり、自分に関すること以外でも僕の頭はどうかしているらしい。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「体的には、まったく」
「あ、ひょっとして月島総合高校の人ですか?」
これは全く聞き覚えがない。
しかし、記憶がありません。なんて初対面の人に言われたら完全に不審者扱いになってしまう。
適当なことを言って立ち去るに越したことはない。
「ああ、実は今日は振替で」
「やっぱり、そうなんですか、私も兄も振替でお休みなんです」
よくわからないけれど、ひとまず月島総合高校ということにしておいて、立ち去ろう。
「そうだ、用事を思い出した。今度は帽子を吹き飛ばされないようにね」
そう言って踵を返した僕のポケットから、何か硬いものが落ちた。
淡い水色の握りこぶしほどの大きさの機械のようだ。
「なんだこれ、さっきは持ってなかったぞ」
かがんで拾うと、意外と軽い。そして中央のディスプレイをはじめとして、大きな亀裂が幾つも入っている。
「デジヴァイス」
「え?」
目線を上げると、先ほどの少女が驚いた顔つきでこちらを見ていた。
「やっぱり月島高校っていうのは嘘だったんですね」
「カマをかけてたのか…」
先ほどの公園から少し離れたところにある喫茶店で、僕と少女は向かい合っていた。
少女の名は八神ヒカリと言い、この近くの中学校に通っているらしい。
一方の僕は名前も素性も分からないことを、正直に話した。
「信じちゃうんだ」
「それを持っている人に縁があって、よく不思議なことが起こるんです」
テーブルの上には先ほどの機械が置かれている。
「デジヴァイス、だっけ。何に使う機械なんだろう」
「無理もないですが、本当に知らないんですね。これは、デジタルワールドと言って、この世界とは違うもう一つの世界の道具なんです」
デジタルワールド、聞き覚えがあるようなないような。
「あなたが持ち主かどうかは分からないんですが、記憶がないことと、デジヴァイスが無関係には思えないんです」
このおかしな機械によって記憶がなくなっているなら、勘弁してほしい。
「でも、どうしたらいいんだろう、僕は。現にこうしてお金もなくて中学生にコーヒーをおごってもらっているし」
「それは別にいいですよ、帽子のお礼ってことにしておいてください。でも、記憶を探すためにどう動くか、考えなきゃいけませんね」
そういって真剣に考え込んでしまう。
「やっぱり病院に行くかな、それとも警察か」
思い出すにせよ何にせよ、生きていくために名前ぐらいは思い出さなくてはならない。
さっきから頭に違和感があるし病院が先だろうか。
「病院がいいかもしれませんね、ここからは少し距離があるので、電車で行きましょう」
そういって伝票をもって立ち上がるヒカリちゃん。
「え?ついてきてくれるんですか?」
「当たり前です、そんな状態の人を放っておけるほど、冷たくありません」
「何から何まですいません…」
二人分の切符を買ってきたヒカリちゃんに深く頭を下げる。
「もう、気にしないでください」
こうして、記憶のない僕は八神ヒカリという少女と出会った。