「おはよう、亮!」
昨夜のことを考えながら朝の海岸沿いを登校していると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、空さん」
「空でいいって、どうしたの?元気ない?」
「ちょっと寝られなくてね」
帰ってからも剣に伝わる感覚が忘れられず、朝方になってようやく少し寝られた。
「新しい環境に慣れるのって大変だものね」
近いような遠いような言葉。
そう、慣れなければいけないのだ。
「あのさ、今日の放課後って空いてる?」
隣を歩く空が、僕の顔を覗き込みながら聞いてくる。
昨日はあまり意識しなかったが、空も随分と整った顔をしている。
「どこか部活を覗こうかと思ってた」
「あ、そうなのね。そのあとでいいんだけど」
「空いてるよ」
夕飯を食べるくらいしか予定はない。
「じゃあ、光子郎の家で亮君の歓迎会しようと思うんだけど」
「え、僕の?」
驚きだ。
「ヒカリちゃんや他の人にも声かけてあるからさ、新しい選ばれし子供として、歓迎したいなって」
一緒に冒険をした彼らの絆はきっと深いものがあるのだろう。
「いいのかな」
僕は彼ら違い、デジモンを倒さなくてはならない。
「もちろん!記憶がないって、大変なことも出てくるでしょ。そんな時に頼れる仲間になれたらいいなって」
「ありがとう」
なんとか笑顔を作り、そう答えるので精一杯だった。
「小テストを返すぞ」
どうやらこのクラスでは連日で数学の授業があるらしい。
一人ずつ昨日の小テストが返されていく。
「次、桜井」
「はい」
特に気負いもなく、前へ出ていく。
「なかなか優秀じゃないか」
採点された用紙には100点の文字。
4問ほどの二次関数の問題だったが、どうやら解き方に間違いはなかったようだ。
ありがとうございます。と言って席に戻ると、隣から太一が覗き込んできた。
「あの先生が褒めるの珍しいんだ、って満点じゃん」
「たまたまだよ」
「そのたまたまの半分でも俺に分けてくれよ…」
『八神』
名前を呼ばれて前に出ていく太一の足取りは重く、顔はこわばっている。
「ちゃんとやってこい」
そういって丸めたプリントで頭を叩かれていた。
「だからいわんこっちゃない」
空もため息をついている。
暗い面持ちで太一は帰ってきた。
「やべぇ」
「何点なの?」
「亮の点数に100を掛けて、20を足して400を引いて、0をかける」
「つまりゼロね」
空が鋭く突っ込んでいる。
「空はどうなんだよ」
「私は85点」
「ちぇ、優等生ばっかだ」
「この辺はやるかやらないかだと思うよ?」
パターンを覚えるしかないのではないか。少なくとも僕は覚えている手法を使っただけだから、特別なひらめきが必要な問題ではないのだろう。
「そこをできるのがすごいんだって」
「そこをやらないのがダメなんじゃない」
空は相変わらず厳しい意見。
「よし、俺は亮に教えてもらう」
「仕方ないなぁ…まず、ノートは取りなよ」
机の上に教科書しか出ていない太一に向かって僕はため息交じりに言った。
「今日はサッカー部だろ?」
という太一の誘いを断り切れず、僕は持ってきた体操着に着替えてグラウンドに立っていた。
「まずはパスからだな、俺とやろう」
太一は2年生の中でも中心選手らしく、新入部員に交じった僕の指導を買って出ていた。
太一から説明を受けた後、インサイドパスを繰り返す。
「初めての動きじゃないな、でも経験者かどうかは怪しいな」
「そうだろうね、なんだか体の動きがぎこちないし」
思い通りに足は動くのだが、いまいち完成系の動きをイメージできない。
「これから思い出すってこともあるし、よし、この後の紅白戦に出てみよう」
「え?」
急に紅白戦に出ろと言われても困る。
ルールは分かっても各ポジションの動きまでは理解していなかったらしく、中学生からサッカーをやっていたであろう人々と渡り合える気がしない。
「大丈夫だって、この時期は新入生の素の能力を見たいだけだから、テクニックとかは後から努力すればなんとでもなるんだよ」
その考えを勉強にも生かしたらどうだろう。
「分かったよ、言っておくけど期待しないでね」
こうして、僕は強引にも新入生チームのFWを務めることになってしまった。
「桜井さん!」
経験者らしき1年生のMFから、ボール渡ってくる。
左サイドを任された僕の前には、相手チームとなった太一がいる。
ボールを右足でトラップし、正面から太一と向き合う形になる。
教室では眠そうな太一の目つきが、今は恐ろしいほど鋭い。
サッカーの事だけを考えて生きている、という空の言葉はあながち間違っていない。
素人の小細工など太一には通用しないだろう。
今のボールポジションはハーフラインより3メートルほど進んだ位置、中央のMFと右FWが前に出ようとしているものの、ここで太一を突破しなければ、得点に結びつけるのは厳しい。
とすれば、太一の左右どちらかを抜け、味方にパスを送る必要がある。
僕の不安なパス力を考えれば、僕から右を抜くのが正攻法だろう。
しかしそんなことは太一もお見通しだろう。
どうするか。
僕は勢いよく走り出す。
それに合わせて太一も前に出てくる。
左足でドリブルしながら適切な距離を見極める。
秘策というほどではないが、さっきのパスで気づいたことがあった。
太一との距離が2メートルを切ったところで、僕は左足でボールを触り、思い切り体を右に傾ける。
それに合わせて太一も左に動こうとする。
その瞬間、僕は右足でボールに触れ、そのまま左足の踵でボールを後ろに蹴る。
「バックパス!」
そこへ先ほどパスをくれた後輩が勢いよく走りこんでくる。
僕の左側をトップスピードで駆け抜ける。
体勢が整わない太一は追いつけるはずもなく、後輩は敵陣に切り込んでいき、右サイドのFWのパスを出した。
「結局あれが唯一のチャンスだったな」
紅白戦後、グラウンドの端に座って水を飲んでいる僕の下に、太一がやってきた。
「正面切って勝負するべきだったかな」
苦笑いしながら言ってみると、太一はにやりと笑った。
「いいや、判断は正しかったと思うぜ、あの一年生の動きは確かに良かった。素人だからてっきり勝負してくると思っていた俺が甘かったよ」
「勝てるわけないじゃないか、初心者に」
「プレーで勝てても、戦術で負けることもあるんだ、少なくとも亮は俺より冷静だったさ、俺もまだまだだ」
そういって自分も水を飲む。
「どうだった、楽しかっただろ?」
「まぁね」
体を動かし、試合や練習をしている間、昨日の出来事を考える暇はなかった。
「なんだか悩んでるみたいだったからさ」
何気なくかけられた言葉に、僕は水を飲むのをやめて太一を見た。
「気づいてたの?」
「なんとなくな、大体、自分が誰だか分からない中で悩まない奴の方がおかしい」
「それもそうか」
「でも、それだけでもないだろ?亮の場合」
「…」
政府の一員としてデジモンを倒している、など言えるわけがない。
「もし俺とかヒカリとか、言える奴が一人でもできたら、一人で考えずに言えよ?」
「…ありがとう」
時期が来たら、言える日が来るのだろうか。
でも、こうして自分の事を気にかけてくれる人がいることは、本当にありがたかった。
だからなおさら、僕は太一やヒカリちゃんを守りたい。
「今日はこのあと丈やタケルも来るらしいし、きっと楽しくなるぜ」
そういって、太一はグラウンドに戻っていった。
「あ、お兄ちゃーん、桜井さーん!」
部活を終え、軽くシャワーを浴びてから光子郎君の家に向かう途中で、制服姿のヒカリちゃんと、初めて見る男子に会った。
「おう、ヒカリ、タケル」
「久しぶりですね、太一さん。それにそちらは」
男子の方が僕を見た。ヒカリちゃんと同い年くらいだろうか、整った、人好きのする顔だちをしている。
「ああ、桜井亮だ。今日の主役」
太一が説明してくれた。
タケル君も少しは聞いていたようで、さして驚く様子もなく右手を差し出して握手を求めてきた。
「よろしくお願いします、亮さん」
「こちらこそ」
「ところで、昨日ヒカリちゃんの家に行ったっていうのは本当ですか?」
穏やかな笑みで、そんなことを言ってきた。
「あ、あぁ」
「タケル君何聞いてるの」
ヒカリちゃんが若干焦ったように言うと、タケル君は何か察したように笑った。
「いや、うらやましいなと思いまして」
「なんだ、タケルも遊びにこればいいじゃないか」
太一がそう言った。
「そうですね、今度遊びに行きます」
その後は簡単な自己紹介などをしながら、(と言っても僕はもっぱら聞く側になるのだけれど)光子郎君の住むマンションに向かった。
「いらっしゃい、みなさん」
学校からは少し離れたマンションの7階が、光子郎君の家だった。
てっきり家族で暮らしている思ったのだが。
「この家全部、一人で住んでるの?」
僕はあまりの部屋の広さに驚愕の声を上げていた。
僕の中の常識が、高校生にしてこの部屋の広さはおかしいと語りかけている。
「桜井さん?自分の家も大概だと思いますよ?」
ヒカリちゃんが隣でそんなことを言う。
「確かにそうだけれど・・・一体どんなお金持ちならこんな家に子供一人で住まわせられるんだろう」
「知り合いの企業に協力しまして、そのお礼でいくらかまとまった報酬をもらって、そのお金で事務所兼自宅として借りているんです」
恐るべき、選ばれし子供。
「ほら、桜井さん、固まってないで入りましょう」
ヒカリちゃんに引っ張られる形で、リビングに案内された。
「ようこそ!桜井亮君」
そんな垂れ幕が壁にかけられていて、大きなテーブルの上には色とりどりのお菓子が並べられていた。
「すご…」
僕は驚くばかりで、それを見て他の選ばれし子供たちは笑っていた。
「僕は城戸丈、君や太一より一つ上になるんだ、よろしくね」
そういって眼鏡をかけた優し気な少年が声をかけてきた。
「あとはミミちゃんなんだけど、彼女は今海外にいて、今回は参加できないのよ」
空がそう言って、携帯の写真を見せてくれる。
そこにはいかにも元気そうな、華やかな少女が満面の笑みを浮かべている。
「この8人が、最初にデジタルワールドに旅した時のメンバーだ」
壁にもたれかかっていたヤマトが、そう言ってみんなの方を見た。
「あらためて、桜井亮君、これからよろしくね!」
空の合図とともに、みんながクラッカーを鳴らす。
「誕生日会みたいですね」
ヒカリちゃんが笑いながら隣でつぶやいた。
「あ、今日って4月18日だよね?」
僕が思い出したようにそういうと、丈さんがそうだね、と答えてくれた。
「戸籍上では本当に誕生日だ」
「うっそ!」
「まじかよ!ちょうどいいじゃん!」
「それはすごい偶然ですね!ピザを取りましょう!」
「光子郎さん、これ以上増やすんですか?」
「いいじゃないかタケル、派手にやろうぜ」
「兄さんまで」
「ヤマト、ハッピーバースデイだ、ギター弾いてくれよ」
「俺はベースだって、ギターは持ってないんだよ」
「似たようなもんだろ」
「違うっての、何度言ったら分かるんだよ」
「まぁ、太一に芸術は…ねぇ」
「なんだよ」
急ににぎやかになる面々。
やはりここにいるみんなの絆はとても強く、温かいものだと感じる。
「桜井さんも、もう一員なんですよ?」
いたずらっぽく、ヒカリちゃんがささやきかけてくる。
はっとした僕がヒカリちゃんを見ると、彼女はコップを配りにテーブルの方へ行ってしまった。
得体のしれない僕をこんなにも温かく迎えてくれる彼らの、本当の意味で一員になれたらいいと、ポケットの中のデジヴァイスを握りながら、僕は思った。
「よく食った~」
「ほんとにお兄ちゃんは食べ過ぎ。主役の桜井さんより食べてたじゃない」
「いや、僕はあんなに食べられないよ」
帰り道、僕と八神兄妹は夜の海岸線をぶらぶら歩いていた。
「片付けまかせちゃって良かったのかな」
あの後、予定のあるらしいヤマトと空とタケル君は先に帰り、光子郎君と丈さんが後片付けをしてくれるという事だった。
「お客さんなんだから大丈夫ですよ、私とお兄ちゃんの方が本当は片付けなきゃいけないんですから」
「誰かが亮を送っていって、それがヒカリなのは納得できるけど、なんで俺まで返されてるんだ」
「お兄ちゃんがいると散らかるから」
「ひどくないか?」
「想像はつくけど」
「亮までかよ」
「二日で見破られてるよ、お兄ちゃん」
太一はふてくされたように石を蹴り、僕とヒカリちゃんはそれを見て笑っていた。
そんな中、僕の携帯が鳴った。
「ちょっとごめん」
「ん?誰から?」
「政府の人、多分戸籍の登録の関係じゃないかな」
微妙に嘘をつき、二人から少し離れたところで電話を取る。
『災害発生だ、場所は大手町の建設中のビルだ、すでに人払いはできている。昨日のようにパソコンも用意できた、そちら側から移動できるか』
昨日発見したゲートを開く能力を使って、素早く向こうのゲートに向かうことになっている。
「パソコンは持っています」
『なるべくゲートを通る前に、対処しろ』
「分かりました」
一旦電話を切り、二人の元に戻る。
「ごめん、少し用事ができちゃって、先に帰ってて」
「先にって…一人で帰れるのかよ」
「お役人さんに送ってもらうから大丈夫だよ、ごめんね」
太一はそれなら、と言って納得したようだ。
「桜井さん」
ヒカリちゃんは何かを見透かすような目で僕を見ている。
「危ないことじゃないんですよね、この前みたいなデジモンを相手にしたり」
「そんなんじゃないよ、明日までに作らなきゃいけない資料があるみたいで、そのための検査らしい」
「…分かりました」
--Gate open
二人から十分離れた場所で僕はパソコンを開いた。
この場所なら人通りも少なそうだし、帰りもこのパソコンを使えるだろう。
「行こう」
こうして今夜も、彼女たちのために嘘をつきながら、僕は戦う。