頃合いですので、欧州も進めていきましょう
陛下の憂鬱 1
春は、もうすぐ夏に変わろうとしている。そんな、心地良い晴れた朝は、ここメインランド島にもやって来る。
メインランド島に停泊する艦隊、その庁舎の一室の扉が、軽やかにノックされた。
「陛下、朝でございます」
穏やかな女性の声だ。ゆったりとしたドレスに身を包む彼女は、部屋の中から返事が来るのを待っている。しかし、部屋の主はいまだ起きていないらしく、一分待っても返事は来なかった。
「陛下、失礼いたします」
彼女―――ウォースパイトは、そう一言断って、遠慮がちに部屋の扉を開いた。建付けはよく、扉はすんなりと開くことができた。
広い部屋は綺麗な造りだが、物は多くない。壁際にドレッサーとタンス、机。部屋の中央には天蓋付きのベッドが置かれている。その布団の中で、部屋の主は幸せそうな表情で眠っていた。
―――愛らしい寝顔。
ウォースパイトは一瞬頬を綻ばせて、ベッドへと歩み寄った。掛布団に包まる彼女に手を添え、軽く揺すりながら呼びかけてみる。
「陛下、もう朝でございますよ」
それでも、彼女の反応はあまりよくない。少しもぞもぞとやると、サラサラの髪を揺らしたくらいだ。
「陛下、起きてくださいませ」
ウォースパイトはもう一度、今度は少し強く、揺すってみる。それでも、彼女の反応は変わらなかった。どころか、拗ねたようにツイッとそっぽを向き、
「・・・優しくしてくれないと、イヤ」
ギリギリ聞き取れる程度の小声で、そう呟いた。
―――もう、陛下は。
あまりに可愛らしいその仕種に、ウォースパイトは苦笑する。それから体を前に傾け、彼女に覆い被さるようにして、その耳元に唇を寄せる。
「陛下、朝でございますよ。起きていただかないと、」
恥じらいの間があった。
「・・・悪戯、してしまいますよ」
ガバッ。突然、沈黙を保っていた布団が舞い上がり、二本のしなやかな腕が伸びる。一瞬の出来事に、ウォースパイトはなす術なく、腕に絡めとられて引き寄せられる。
唇に柔らかな感触があった。漏れ出る吐息は甘やかで、ほのかに鼻孔をくすぐる。一瞬にして思考が蕩けるほどの破壊力に、ウォースパイトは抗う術を知らなかった。
やがて、唇が離れる。小さな喘ぎが、ウォースパイトの口から漏れた。
ベッドから体を起こし、ウォースパイトの首に手を回したままの体勢で、すぐ目の前の彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。
「悪戯とは、このことかしら」
熱くなった頬を隠すこともかなわず、ウォースパイトは苦笑する。
「陛下は意地悪でございます」
「あなたにだけよ」
彼女の笑顔は益々大きくなった。
「おはよう、ウォースパイト」
「おはようございます、フッド陛下」
彼女―――ウォースパイトの主であり、スカパ・フローに停泊する艦隊の旗艦であるフッドは、今朝も笑顔で、そう言うのだった。
*
ウォースパイトに髪を梳いてもらうのは心地いい。毎朝決まって起こしに来る彼女は、ドレッサーの前に腰掛けたフッドの後ろで、長い錦糸のような髪に櫛を通していた。その様子を、フッドは鏡越しに眺めている。
「陛下の髪は、櫛通りがとてもよろしいですね」
腕を丁寧に動かすウォースパイトが、鏡の中のフッドにそう言った。褒められるのは満更でもない。
「手入れには特に気を遣っているから」
貴女に褒められたかったから、というのは今は黙っておこうか。
ウォースパイトが髪を梳いてくれている間、手持無沙汰になったフッドは、両の手の爪を整え始める。艦隊を預かるものとして、常に身だしなみには細心の注意を払っていた。
「ねえ、ウォースパイト。今日の予定は何だったかしら」
一通り髪を梳き終わった後、今度は衣装を着替える。就寝用のラフなドレスを脱がしにかかりながら、ウォースパイトは淀みなく答えた。
「本日は、第一艦隊から来客がございます」
途端、フッドの口調が、それまでと打って変わった冷淡なものになる。この艦隊の代表として、イギリス本国艦隊や政府と渡り合うときの、すべてを睥睨する細い眼差し。最近は、『女王』という仇名の前に『氷の』という形容詞が付けられるようになっているという。
「そう。今日だったのね」
―――折角の朝が、興醒めだわ。
そんな感想は、胸の奥底に仕舞い込む。あらわになった柔肌に服を纏わせながら、ウォースパイトが不安げに言った。
「陛下、どうかご無理だけはなさらないでください」
心配性な彼女らしい言葉に、フッドは微笑む。彼女に心配されるのは、嬉しくもあり、またもっとしっかりしなければとも思う。どこかむず痒いというのが正直なところだ。
「無理なんてしてないわ。ウォースパイトは心配性ね」
「・・・それならば、よろしいのですが」
ウォースパイトの困り顔が浮かぶようだった。
部屋をノックする音がしたのは、そんな時だ。ウォースパイトとはまた違ったリズムで扉が叩かれ、続くように少女の声が掛けられる。
「失礼します、陛下」
「開いているわ。どうぞ入って」
フッドが勧めると、ゆっくり扉が開かれる。その向こうから現れた駆逐艦娘は、室内の二人に一礼すると、容姿に似合わぬ落ち着いた声で言った。
「おはようございます、陛下」
「おはよう、ヴァンパイア」
ヴァンパイアと呼ばれた彼女は、着替え中の二人を見遣って尋ねる。
「まだ、お仕度中でしたか」
「いいの。もうそろそろ終わるわ」
そうですか。フッドが微笑めば、彼女も小さく笑って応える。駆逐艦娘の中では特に落ち着いた性格であるが、別に可愛げがないとかそういうことはなかった。
「朝食の準備が整いました」
「そう。ありがとう」
今朝も楽しみだわ。食事についてはお世辞にもおいしいと言えないイギリスだが、海軍ではそんなことはない。フッドに着いてくることを選んでくれた艦隊のシェフは、その腕を遺憾なく発揮して、毎日おいしい食事を彼女たちに提供してくれていた。
「先に行ってらっしゃい。私とウォースパイトも、すぐに向かうから」
フッドは、他の艦隊所属艦娘たちとは別の席で食事をとる。最高指揮官である彼女が、和気藹々と他の艦娘たちと食事をとることはできない。食事を共にするのは、ウォースパイトを筆頭とした『侍従隊』の面々くらいである。それも、全員が一堂に会することはまずない。
ヴァンパイアも侍従隊の一員だ。しかし駆逐艦娘は姉妹艦が多く、実際彼女の姉や妹も何名かこの艦隊に所属している。フッドは、基本的に姉妹たちと食事をとるよう、彼女に言っていた。
このご時世だ。いつ、姉妹との別れが訪れてもおかしくない。同型艦はいないフッドだが、姉妹を失った者の悲しみは、誰よりも理解できるつもりだった。
「・・・それでは、先に行っています」
逡巡の後、ヴァンパイアが一礼して、フッドの部屋を後にした。
「はい、終わりました」
それから少しして、ウォースパイトが言った。普段着となっている、軽装の白いドレス。デザインはウォースパイトの着ているものに似ているが、各部の意匠はフッドのオリジナルだ。
「ありがとう。それでは、早く行きましょうか。冷めてしまっては、料理長に悪いわ」
穏やかに言ったフッドは、ウォースパイトを連れだって私室を後にする。長い廊下を食堂へ向かうにつれ、温かな香りが漂い始めた。
◇
第一艦隊―――イギリス本国艦隊第一艦隊の艦艇と提督が、スカパ・フローに入港したのは、午後になってからだ。
応接間となっている、まるで宮殿の広間のような一室。部屋の中央に置かれた、やはり装飾の豪華な大きい机を挟んで、二つの勢力が向かい合っている。片方は、イギリス海軍の服をかっちりと着こなす、若い将校たち。もう片方は、可憐なドレスで着飾った、美しき女性たち。端から見れば、何とも不思議な光景だ。
まず、口を開いたのは、第一艦隊から来た将校の方だ。少将を示す徽章を着けており、彼が艦隊の代表であることは明白だった。フッドには、彼に見覚えがある。
「お初にお目にかかります。一週間前より、第一艦隊の指揮を預かりました、ジェームズ・サマヴィル少将です」
一切の皮肉のこもらない、紳士的な挨拶だ。だがフッドは、彼の全く笑っていない目をまっすぐに見据えて、わずかな微笑と共に言い放った。
「初めてではないでしょう?」
言外に込めた、「忘れたとは言わせない」という意味を、彼は感じてくれたらしい。そういう意味では聡明と言えた。
「憶えておいででしたか」
「忘れるはずがないわ」
横柄とも取れるその言動に、サマヴィルの横に控える将校がいきり立つ。しかしそれを、サマヴィルは片手だけで制した。
「その通りでした。これはご無礼を」
サマヴィルは、かつてフッドが本国艦隊に所属していた際、同じ艦隊で参謀をやっていた人間だった。フッドと直接的な関わりはなかったが、彼女が忘れるはずもない。
あの日―――『スエズの悲劇』と呼ばれる事件の際も、彼は艦隊司令部の一員として、旗艦の“ウォースパイト”に乗り込んでいたのだから。
「無駄な挨拶は結構です。前任者は、とにかく前振りが長くて」
「自分も同感です。それでは、早速本題に」
そう言って、サマヴィルはファイリングされた書類一式を二つ、フッドの方へと差し出す。
「今後とも、貴女方へ燃弾の供給を怠らないことを保障する書類です。上に問い合わせたところ、今まで正式な書類を交わしたことがないと聞いたもので」
結成当初、タンカーを襲撃しての燃弾獲得も辞さないとしていたフッドたちに、イギリス政府は作戦への協力を条件にして、安定した燃弾の補給を約束していた。しかし、フッドたちを独立した組織と見做さなかったイギリス政府とは、これまで正式な書類を交わしたことがなかった。
フッド個人としては、こんなものに然したる意味はない。が、艦隊全体のことを考えれば、非常にありがたい話であった。
「これは、私たちを“独立した艦隊”であるとイギリス政府が認めた、そう解釈していいのかしら?」
「はい。構いません」
サマヴィルは即答した。フッドもまた、微笑を湛えたまま満足げに頷く。
「次の書類ですが、こちらは近々実施予定の、欧州連合艦隊合同作戦の内容です」
先の書類よりも幾分か厚みのあるもう一つの書類を、サマヴィルは示した。
「作戦への参加をお願いしたい。内容をご精査の上、近日中に色好いご返答を」
「その必要はないわ」
サマヴィルの言葉を、フッドは意図的に切った。差し出された書類を取り上げ、微笑みのまま宣言する。
「今ここで読みます」
サマヴィルが怪訝な表情になる。今日初めて見られた変化だ。フッドはそれを気に留めることなく、分厚い書類の読破にかかる。
厚さはあるが、内容は簡潔に纏められており、読み進めるのは早い。最後まで読み切るのに、精査と質問の時間も含めて、三十分とかからなかった。
「用件はわかりました。いいでしょう、私たちも艦隊を出します」
フッドの返答を聞いたサマヴィルは、恭しく礼をする。
「感謝します」
「ただし、この作戦要綱に誤述、または欠損があった場合、私たちは貴女方との協力を、今後一切致しません」
それともう一つ。フッドは今日一番の笑みを浮かべて、こう付け加えた。
「私たちの戦力は、私たちの指揮系統の下で動かします。もちろん、この私の指揮の下で」
自ら出撃する。フッドはそう宣言した。
これに一番驚いたのは、他でもないウォースパイトであった。フッドの横で、わずかな衣擦れの音がする。しかし、それ以上の反応を、彼女は理性で抑えていた。
―――ごめんなさいね、ウォースパイト。
彼女の願いを裏切る行為だとはわかっている。だがそれでも、私がやらなければならないのだ。艦娘の未来のために、やらなければならないことなのだ。
サマヴィルもまた、じっとフッドを見つめていた。それから小さく頷いて、
「承知いたしました」
了承の意を示した。
『地中海解放作戦』。ジブラルタル沖の敵艦隊によって、半年もの間封鎖されていた海域。その内部には、この半年のうちに急成長を遂げながらも、外海へと出ることの叶わないイタリア艦隊がいる。欧州連合最後の参加艦隊。その開放が目的だ。そして当然、これはスエズ運河再解放作戦への布石となる。
欧州は動きだした。今まさに変わろうとしているのだ。たった一人の、艦娘によって。
ということで、今回はフッドとウォースパイトの百合百合回となりました
戦闘を期待してくださった皆さん、すみません。地中海解放戦は、近々投稿予定です
それではまたお会いしましょう!