比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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11. 比企谷八幡は若者に翻弄される

 

放課後、俺はいつも通り奉仕部へと足を運んだ。

部室には定位置でいつも通り読書をする雪乃の姿があった。

 

互いに軽めの挨拶を済ませると、俺は雪乃の対面の指定席に座り、これまたいつも通りに畳まれた新聞を開く。同時に携帯端末で株の運用成績チェックを開始した。

 

暫くすると、雪乃は不意に立ち上がり、紅茶を淹れ始めた。

 

結衣はまだ来ていないようだが、今日は海美のための定例勉強会もない。

部室にはコポコポと注がれる湯の音が響き、少しの間を置いて紅茶の豊潤な香りが広がった。今日は、久々に落ち着いて放課後の時間を過ごせそうだ。

 

「比企谷君、よかったらどうぞ」

相変わらず画面から目を離さずに携帯をいじっていた俺の背後から、雪乃が声をかけてきた。わざわざ俺にも茶を淹れてくれたようだ。

 

「え?あ、悪い。サンキューな」

机に茶を置いた雪乃に少しだけ見惚れながら礼を述べる。

直ぐに席に戻るかと思った雪乃は、俺の斜め後ろの位置から動かなかった。

どうやら俺の携帯の画面を見て固まっているようだった。

 

「ごめんなさい。覗き見るつもりは全くなかったのだけれど・・・あなた、こんな大金どうしたの?」

画面には俺の運用口座の残高が表示されていた。金額はざっと70万円程度。

 

「雪ノ下建設のご令嬢にゃ、大した額じゃないだろ」

実際、30代になった俺の1ヶ月の給料にも満たない。

加えて、常に仕事で億単位の金を動かしていた俺にとってはハナクソのような金額だ。

雪乃に対しては少し意地悪な言い方になってしまったが、そんな潜在的な意識から、自然とそんなセリフがこぼれた。

 

「バカにしないで頂戴。こう見えても社会的な常識は持ち合わせているわ。高校生のお小遣いにしては明らかに異常な金額であることくらいわかるわ」

ムッとしながら雪乃はそう切り返した。

 

 

――高校生にしては異常

最近雪乃が何かにつけて俺にぶつける言葉だ。

 

彼女には俺の経歴を正直に伝えるべきではないか。

身近な人間が俺に疑いの目を向ければ向けるほど、そんな考えが浮かぶ。

 

俺は、少なくとも俺が特別な感情を抱いている三人の女性に対して、自分が未来から戻ってきたことを何時までも隠し通そうとは思っていない。

むしろ、いつか全てを説明した上で、自分も新しい道を模索すべきではないかと考えている。

雪乃が今の俺を異常と考えるのであれば、実は俺が33歳だという話も意外にすんなりと受け入れられるかもしれない。

 

だが、本当にそれでいいのか。

自分の過去を説明するということは、雪乃・結衣・沙希の三人に対して、自分が抱いてきた特別な感情を曝け出すことに他ならない。

 

得体のしれない男から突然、

 

「俺たちは昔付き合っていた」

「何年も忘れられない程好きだ」

「同じくらい大切な相手が他にも2人いる」

 

等と聞かされて、警戒心や猜疑心を抱かずにその言分を聞き入れる女性はまずいないだろう。

下手をすれば、今までに再構築してきた雪乃・結衣との関係の一切を失い、今後、沙希に近づく機会も永遠に失う可能性が有る。

 

嘘の上に成り立っている今の見せかけの関係に何の価値があるのか。

大切なものなど何も持っていなかった昔の俺なら、そう考えただろう。

だが今の俺には、彼女達との繋がりを自ら断つような真似はどうしても出来なかった。

結局は、3人にとっての「謎多きヒーロー」を目指すのが正解かもしれない。

毎回そんな結論に落ち着いている。

 

 

「・・・すまん。悪意があったわけじゃないんだ。確かに小遣いにしちゃ大金かもな。別に金に困ってるわけでもないんだ。正直、ゲームのスコアを競うような感覚で投資してる感じだな」

俺は適当な言葉でお茶を濁した。

 

「あなた、運用はいつから始めたの?」

雪乃は俺の暴言をさして気にする様子も見せずに、質問で言葉を返してくる。

 

「奉仕部に入った位の時期だな。まだ日は浅い」

 

「まだ始めて数ヶ月じゃない・・・下世話な質問だけれども、どの位の元手で始めたのかしら?」

 

――今日はずいぶん突っ込んだ質問をしてくるな

 

雪乃の視線を受けて一瞬肩に力が入るが、すぐにそれを緩めた。

自分の心境を考えれば、雪乃が俺に興味を示してくれている現状は俺にとって好都合だ。

 

「5万前後だ。自分の全財産を注込んだぞ」

俺は素直に本当のことを伝えた。

 

「大したものね。そんなに面白いのなら、私も始めてみようかしら」

 

「・・・やめとけ。儲かる儲からないは別として、凝り性のお前が始めたら投資のこと以外考えられなくなるぞ。奉仕部を株式投資部に改名するのはさすがにちょっとな・・・」

 

会社の部門みたいな名前になっちまうし。

 

「そうかしら。謎の多い誰かさんの思考を学ぶには調度良い機会かと思ったのだけれど・・・それなら、あなたに私のお金も一緒に運用してもらおうかしら。」

 

そう言った雪乃は、何か悪戯でも思いついた子供の様な笑みを浮かべていた。

 

「マジで言ってんの、それ?」

 

雪乃の意図が分からない。別に遊ぶ金が欲しいという訳でもないだろう。

ちょっとした冗談かと思っていると、雪乃は自分のカバンから財布を取り出し、現ナマを俺に差し出した。

 

「そうよ。このお金はあなたに預けるわ。これは奉仕部員として、私からあなたへの信頼の証」

 

――財布から簡単に万札を出す女子高生も、全然普通じゃねぇと思うんだがな

そう思いながら机に置かれた万札を眺める。

 

「・・・で、何か要求があるんだろ?」

 

俺は現金には手を触れずにそう聞き返えした。

 

「そうね。投資家に対する情報開示義務は果たしてもらうわ。定期的に売買のログと、運用残高を提出してもらえれば結構よ」

 

なるほど、要するに俺の投資行動を監視するための餌ということか。信頼の証とは正反対じゃねぇかよ。

ってか、お前は失言・暴言は吐いても虚言は言わないんじゃねぇのか。

ここまであからさまな嘘は虚言とは言わないってか。

 

しかし、どうするべきか。

 

別に俺は雪乃に自分の投資行動を知られることに対し、特段の抵抗は感じない。

むしろ共通の話題が増えるのであれば俺にとっても喜ばしいことだ。

なにより俺には、自分の手でファンドを立ち上げて運用するという、金融マンとしての一つの独立の形を手にする事に対する憧れのようなものがあった。

 

問題は、雪乃の提案が実は違法行為であるということだ。

本来、人の運用を受託することが出来るのは認可を持つ法人のみ。個人が家族や知人の運用を請け負うのは、金融商品取引法で禁止されている仮名・借名取引に当る。

これは名義貸しによるマネーロンダリングや脱税行為を防止するためのルールだが、流石の雪乃もこんなマニアックな金融法務の知識は持ち合わせていないのだろう。

 

 

「・・・まぁ人の金を運用するってのは確かに魅力的な案ではあるな。自己資金でやるのとは違う緊張感があるからな」

 

「あら、抵抗するかと思ったのに、意外な反応ね」

 

「葛藤ならあったぞ。一瞬だがな」

 

 

法律とは、自らと他者の権利を同時に守るために利用されるべきものだ。

雪乃からの受託はマネロンが目的ではないし、俺には納税の意思もある。

俺の行動は他者の利益を害するものではなく、表面上違法行為に見えても、立法目的に立ち返れば実はそうでないことが明確だ。

 

俺は頭の中で、車の通らない交差点の赤信号を渡るための(屁)理屈を、一瞬のうちに練り上げていた。

 

――高々数十万、数百万の個人の運用益が動いたところで、名義貸しの事実が発覚するはずがない。

 

――万一発覚したとしても、高校生なら「知らなかった」で十分許される。

 

――そもそも仮名・借名取引に刑事罰はない。

 

こんな悪魔の囁きは、俺にはこれっぽっちも聞こえていない。

これっぽっちもだ。

 

 

「俺の運用資金にプールして一緒に運用するからな。出資比率に応じて運用益を配当する。それでいいか?」

 

「それで構わないわ」

 

「・・・部員のよしみだ。元本保証はしてやんよ」

 

 

そう言って、俺は雪乃の金に手を付けた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

「やっはろー!今日は依頼人を連れてきたよ!」

 

雪乃とのやり取りの後15分ほど経った後だろうか。部室のドアが勢いよく開かれると、いつもより若干テンションの高い結衣が入ってきた。

その結衣の後ろに、隠れるようにして立つ戸塚の姿があった。

 

「あ、比企谷君!あれ、どうしてここに?」

俺の姿を見て驚の声を上げる。

 

「戸塚・・・・俺はここの部員だ。なんか困ったことでもあったのか?」

 

質問を投げ返した俺に対し、先に口を開いたのは結衣だった。

 

「いや~ほら、あたしも奉仕部の一員じゃん?だからちょっと働こうと思ってさ。そしたら彩ちゃんがちょっと困ってる風だったから連れてきたの」

 

 

――ああ、テニスの特訓だったか。そんな依頼もあったな。

 

 

結衣のセリフから記憶を辿る。

雪乃に散々しごかれた挙句、三浦・葉山と何故かテニスで勝負するハメになったあの件だ。

 

思い返せば、俺の人生において、ことテニスに関してはろくな思い出がない。

 

社会人になった後も、会社のレクリエーションイベントとか言って、週末に槇村さんに連れ出されたことがあった。

恋人のいない宮田さんのために、槇村さんが女性社員を集めて週末テニスを企画したものに無理やり巻き込まれたのだ。

 

俺と宮田さんはテニスコートに着くなり各々壁打ちを始め、槇村さんに大いに呆れられた。ちなみに、この時から俺と宮田さんに対する不名誉あだ名集に、「ボッチ師弟コンビ」が加わったのだ。

 

ちなみに後日、このテニスイベントを上司命令の休日出勤扱いにして残業代申請をしたら、槇村さんに書類の束で頭を叩かれた。

 

 

 

「・・・ウチのテニス部って、すっごく弱いんだ。人数も少ないし、三年が引退したらもっと弱くなると思う。・・・僕が上手くなれば皆一緒に頑張ってくれるんじゃないかと思って」

 

思い出に耽っていると、戸塚が依頼内容を口にし始めた。

 

「要するに、あなたを鍛えればいいのね」

 

「どうやって鍛えるの?」

雪乃の言葉に質問を返す結衣。

雪乃のことだ、どうせ答えは決まっている。

 

「全員死ぬまで走らせてから、死ぬまで素振り、死ぬまで練習・・・かしら」

 

 

出たよ、雪乃式。

だがすまんな、戸塚。お前を助けてやりたくない訳じゃないが、俺は非効率なやり方が嫌いだ。

お前よりも下手くそな俺や結衣が練習に付き合っても、あまり意味がない。

 

「まぁ、ちょっと待て。」

皆の会話を遮る。自然と視線が自分に集まった。

 

「まず、戸塚。お前の目的をはっきりさせよう。お前は自分が上手くなりたいのか、部員のレベルの底上げを図りたいのか、どっちだ?」

 

「それは彼自身が言っていたじゃない。彼が上手くなれば皆が頑張ってくれるって」

戸塚が口を開く前に、雪乃が俺に意見した。

 

「・・・残念だが、戸塚が上手くなっても、テニス部のレベルが上がるとは限らんだろ。現に奉仕部を見てみろ。ここの部長はお前だが、その他部員はアホの由比ヶ浜と、ボッチの俺だけ。お前が活動を頑張っただけで、俺と由比ヶ浜のレベルが上がると思うか?」

 

「ちょっと、ヒッキー!アホってなんだし!」

 

「・・・その卑屈さは嫌味にしか聞こえないわ」

騒ぎながら俺を非難する結衣と、目を細めて俺を睨みつける雪乃。

 

「まぁ、上手い例えじゃなかったかもしれんがそういうことだ。戸塚の掲げた2つの目標は、片方が成功すればもう片方も自然に達成できるというものじゃない」

 

「・・・やっぱりそうなのかな」

戸塚が申し訳なさそうな上目使いでそう呟いた。その表情を見ると何故か罪悪感が込み上げてくる。

ってか、あんまこっち見んな。・・・惚れちまうだろ。

久しぶりに戸塚に対して抱いた邪念を振り払うように、俺は言葉を続ける。

 

「まぁ、戸塚が両方を目指すってんならそれはそれで結構なことだ。だが今の奉仕部は海美や材木座の依頼にもOn Goingで取組中だ。決して普段暇にしているわけじゃない。時間は有限だ。俺達がサポートする分野にプライオリティーを付けるべきだ」

 

俺が言い終えると、雪乃は苦々しそうな表情を浮かべつつも、一応納得した様子を見せていた。

結衣は相変わらず、突然アホ呼ばわりされたことに対し、憤慨しているようだ。

 

「・・・確かに比企谷君の言う通りかも。皆には、どうやったら部のレベルの底上げが図れるか、一緒に考えてもらえるかな?自分の練習は自分で何とかするから」

 

「あなたがそれでいいのなら、そうするわ」

 

こうして、雪乃が奉仕部部長として戸塚の依頼を正式に受諾した。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

その日、戸塚は一先ずテニス部の練習へと戻って行った。

戸塚がいなくなった部室で、俺達3人の対策会議が始まった。

 

「今のテニス部に足りないのは何かしら。二人の考えを聞かせてもらえると有難いのだけれど」

雪乃が会議を仕切りつつ、俺と結衣に質問を投げた。

 

「う~ん。彩ちゃんの話を聞く限り、やっぱりやる気とか練習量とかの問題かな?」

 

「・・・そうだな」

雪乃の質問に俺は全力で思考を巡らせる。

 

 

 

――いいか比企谷。プロジェクト投資のポイントは、「人を見ること」だ。

 

俺は槇村さんの下に引抜かれた初日の出来事を思い出していた。

 

「・・・人っすか?」

何言ってるんだ、槇村さんは?

ドラマじゃあるまいし、人間を見て投資判断をするなんて余りに非現実的だ。

社員が熱いハートを持ってるだけで金融機関が金を付けられるのなら、こんなに楽な仕事はないだろう。

 

「金融市場を相手にトレーディングをやっていたお前が第一に信じるのは、上場企業が開示する公開情報と、市場の価格・取引高といったデータだろう」

 

「・・・まぁそうですね」

 

「いいか。プロジェクトには取引市場も無ければ公開情報もない。お前が拠り所としてきたデータが殆どないんだ。じゃあ何を信じるかって話だ」

 

「それで、人ですか?」

 

「そうだ。プロジェクトを主導する人間・チームの、能力・熱意・経験・カリスマ、こういった定性情報を総合的に判断して、こいつはプロジェクトを完遂させられる人物だと自分が確信できるかどうかが全てだ。確かに収益予想とか経済環境とか、プロジェクト投資にも分析しなきゃならんデータは山のようにある。だが、こんな定量情報は最後には自分の投資判断を正当化するための理屈付けに過ぎなくなる」

 

「・・・イメージが涌かないっす」

 

「ま、案件をこなせばそのうちわかるようになるさ」

 

俺がこの時の槇村さんの言葉を真に理解したのは、中国のプロジェクトで劉さんに出会った時だった。

実際に投資実行には漕ぎ付けられなかったが、あのプロジェクトは劉さんがいたからこそ、ファンド化の話が持ち上がったものだった。

主導していたのが劉さんでなかったら、俺も自分の投資判断にあそこまでの自信は持てなかっただろう。

 

 

 

「・・・人・・・タレントか」

俺は劉さんの顔を思い浮かべながら無意識にそう呟いた。

 

「タレント?芸能人がどうして必要なの?」

俺の呟きに対し、結衣が反応した。

 

「そっちのタレントじゃない。人材って意味だ。テニス部にはリーダーとなる人材がいない」

 

部員をまとめ上げ、目標を共有させて、皆を練習に掻き立てるようなカリスマ性のある人物。

戸塚はそのお人好しな性格で人望は厚いだろう。だが、それがカリスマに繋がるかと言えば、微妙なところだ。

実力もあり、人を動かす力を備える人間、言ってみればサッカー部の葉山の様な存在がテニス部にはいないのだ。

 

「なるほど。確かに部を引っ張っていくような人間がいれば、部員も練習に前向きになるわ。でも、だからこそ戸塚君は自分がリーダーに相応しい人間になれるように強くなりたいと望んだのではなくて?」

 

「そうだよ!結局彩ちゃんの特訓に付き合う意外に方法はないじゃん」

 

「いや、酷な言い方だが戸塚の性格じゃ、そういう役割は無理だ。あいつは中間管理職の鏡みたいな優しい性格だからな。恐らくあいつが一番力を発揮できるのは、リーダーの補佐をしながらグループの和を保つようなポジションだろ」

 

「・・・確かに。彼のことはよく知らないけど、そんな雰囲気があるわね」

俺の意見に雪乃が同調した。

 

「でもでも、じゃあどうするのさ?」

結衣の質問で議論は振り出しに戻る。

 

「部内にいないなら、外から連れてくるしかないだろうな。・・・テニスの実力があり、カリスマ性もあって、他の部活にも入っていない時間のある奴。そんな条件に合致する人間がいればの話だが」

 

「「「・・・」」」

 

一瞬の沈黙が流れた直後、結衣が「頭に電球が浮かびました」とばかりに身を乗り出して口を開いた。

 

「あ、あたし、心当たりあるかも!優美子なんて適任じゃない?」

 

「優美子って、あなた達のクラスの三浦優美子さんのこと?」

 

「そうそう!中学の時、女テニで県選抜に選ばれたくらいだし」

 

「確かに俺が言った条件には合うけどよ。そもそも三浦は女子じゃねぇか。リーダーを必要としてんのは男子テニス部だぞ」

 

「ヒッキー知らないの?ウチのテニス部は男子も女子も人数が少ないから、普段一緒に練習してるんだよ。それに優美子はそこらの男子よりもぜんぜん強いんだから!」

 

そ、そうだったのか。それは自分の知らない事実だった。

 

「あたし、明日優美子に相談してみるよ!」

 

テンションの上がった結衣の言葉でその日の奉仕部打ち合わせは締めくくられた。

 

 

 

部活終了後、俺は自転車を引きながらテニスコートを訪れた。

もう日が暮れ始めている。どの部活も活動を切り上げて皆帰宅している頃だ。

俺も真直ぐ家に帰ろうと思っていたのだが、なんとなくテニス部の様子が気になった。

 

コートサイドでは案の定、戸塚が一人、居残り練習の壁打ちに励んでいた。

ボールマシンもないような弱小部では、一人でできる自主練なんて、素振りや壁打ち位しかないのだろう。

 

「・・・さっそく頑張ってるな」

俺は戸塚に声をかけた。

 

「比企谷君!・・・部員のことは奉仕部の皆が協力してくれるし、自分でもフォームを身に付ける位は出来るかなと思ってね」

 

戸塚の足元には、開いたまま置かれているテニスの教本が置かれている。

イラストや写真のイメージを、実際に体に覚えこませようと必死に練習していたようだ。

 

何が戸塚をここまで突き動かしているのだろう。俺には知る余地もない。

俺には泥臭い熱血青春物語の良さは、正直今一つ分からない。

だが、一人必死に練習をする戸塚の姿勢には、確かに俺の心を動かすに足る何かがあるのを感じた。

 

「・・・戸塚、コート入れよ。打ち返し練習のボール出し位なら付き合ってやる」

 

「本当!?比企谷君、ありがとう!」

 

こうして俺達は周りが真っ暗になるまで練習を続けた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

高校生トレーダー比企谷八幡の朝は早い。

元々社会人をやっていた時も、7時頃には出社し、業務開始時間前にマーケットや主要ニュースの確認を済ませていた。

 

今朝も誰もいない教室で一人、缶コーヒーを片手に新聞に目を通し、携帯端末で時差のある海外マーケットの動向を確認した後、大まかな売買のストラテジーを立てる。

ニュースと自分のマクロ知識から注目セクターをピックアップした後、めぼしい個社の税務情報等を分析していく。

 

そんな作業を行っていると、何時の間にかクラスメートが登校し、教室が賑やかになっていく。

 

 

「ちょっと朝からしつこいよ、結衣!あーし、そういう泥臭いのもうゴメンだって言ってんじゃん!」

 

 

不意に、不機嫌そうな声を上げた女子が一名。

言うまでもなく三浦だった。彼女の目前には、怒られて委縮してしまったような結衣の姿があった。

クラスメートの視線が自然と集まる。

 

 

――ああ、やっぱりダメか

 

大方、昨日公言した通り、三浦にテニス部に入部するよう頼み込んだのだろう。

 

"あの時の三浦"は、昼休みにグループの人間を連れ、「自分もテニスがしたい」等とワガママを抜かして戸塚が練習するコートに乱入してきた。

それから察するに、三浦はテニス自体は嫌いではないはずだ。だが、高校に入ってから部活に入らなかったのには、何か理由がありそうだ。

 

それを聞きださなきゃ交渉の土台にも上がれない、そんな気がする。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

昼休み。

俺はベストプレイスで早めの飯を食い終わった。

少し前の時間から、辺りにはテニスボールが跳ね返る音が響いている。

どうやら戸塚が昼休みの練習を始めたようだ。

 

「やれやれ・・・・」

 

親父臭い言葉を吐きながら立ち上がり、テニスコートへと向かった。

昨日と同じくボール打ちのサポートを名乗り出ると、戸塚は嬉しそうな顔で俺をコートに迎え入れた。

 

「ところでお前、飯はちゃんと食ったのか?」

 

「あ、うん。おにぎりを持ってきて、コートに来る前に歩きながら食べちゃった」

 

「・・・・」

 

「どうしたの?」

 

「なんか、男子運動部員みたいなその豪快さは意外だな」

 

「からかわないでよ、もう!僕男の子だよ!」

 

こんな会話を交わしながら俺達はテニスコートに入って行った。

 

ネットを挟んで俺と戸塚が対峙する。

俺の足元にはボール籠が置かれている。俺は何球かボールを拾うと、一球ずつ戸塚のいるコートサイドへボールを打ち込んだ。

戸塚はその球を的確にこちらのコートエリアへ打ち返す。俺は軌道を変えながら次々にボールを打込んだ。

定位置からボールを打込む俺に対して、戸塚はコート内を縦横無尽に走り回りながら打ち返している。数分続けると、戸塚は肩で息をし出した。

 

「大丈夫か戸塚?そろそろ・・・」

 

俺が休憩を提案しようとした時だった。

 

コートサイドのフェンスに手をかけ、こちらの様子を見ている人影に気づく。

 

目が合うと、その人物は、俺が声をかける前に言葉を発した。

 

「・・・あんたたち、何で昼休みにまで練習なんかしてるワケ?」

 

「三浦さん・・・」

 

フェンスへと歩みよったのは。戸塚だった。

今日は葉山を含め、他の取り巻き連中がいない。三浦一人で行動するのを見るのは珍しい気がする。

 

三浦の表情はどことなく暗かった。そして、こうつぶやいた。

 

「・・・ちょっと見てたけどさ、戸塚。あんた全然ダメじゃん。大して上手くもないのに何そんな一生懸命になってんの?」

 

 

 

――この女!

 

俺は熱血が嫌いだ。人に頑張りを強要するのは青春でも何でもない偽善だ。

だが、人の努力に冷や水を浴びせるような人間はもっと嫌いだ。

 

過去のあの時、俺は言いようのないムカつきを覚えながらテニス勝負の提案を飲んだ。

テニス勝負は争いごとを好まない葉山が場を丸く収めるために提案したものだった。

俺は当時、その提案を飲んだものの、試合中、自分でもよく分からない不快感をずっと抱えていた。

今なら分かる。この不快感は、強くなろうと努力する戸塚の意向を無視し、軽視したことに対する俺なりの不満の表れだったのだ。

 

俺も戸塚の想いを完全に把握しているわけじゃない。ただ、テニス部を強くしたい、自分も上手くなりたいという気持ちは本物だと認識している。

 

 

「三浦、テメェ・・・」

 

「ヒキオの分際で、何睨み効かせてくれてんの?てか、キモいんですけど」

 

「キモい言うな、傷付くだろうが。お前が由比ヶ浜からの依頼を断ったことをとやかく言うつもりはない。だが、戸塚の頑張りを嘲笑うってんなら、俺にも考えがある」

 

「はっ、考えって何?ウザ!ってか、あーし別にあんたなんかに話しかけてないんですけど」

 

「こっちにゃ用があんだよ。つっても一言だけだがな。"邪魔すんじゃねェよ"・・・テメェはいつも通り教室で、いつものメンバーと上っ面の友達ごっこでもしてな」

 

「なっ!?こんのヒキオのくせに!!」

 

売り言葉に買い言葉。俺と三浦の間に、どんどん険悪な空気が蓄積されていく。

会話のキャッチボールを重ねる度、自分の口調が乱暴になっていく。

 

我ながら大人気ないとは思う。だが今の三浦の態度には無性に腹が立った。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って二人とも!喧嘩しないでよ!」

 

そんな俺たちの仲裁に入ったのはやはり戸塚だった。

 

「・・・三浦さん、何で僕が必死になって練習しているかって聞いたよね?」

遠慮がちに戸塚が口を開いた。

 

「聞いたけど・・・」

 

「三浦さん、中学最後の試合、覚えてる?県選抜の大会に出てたよね」

 

「!?」

 

三浦はその言葉に驚いたように目を見開いた。

 

 

「おい、戸塚。そりゃどういう・・・」

俺には何が何だかさっぱり分からない。

分かるのは、三浦の纏う雰囲気が、戸塚の一言で大きく変わったということだ。

 

「三浦さん、あの試合で負けて泣いてたよね。コートに突っ伏して、大きな声で泣いてた。僕、あの試合見てたんだ。女子なのにすっごくレベルが高い接戦だったから、今でも覚えてる」

 

「ちょっ、止めてよ!何が言いたいし!?」

三浦はバツが悪そうな顔をして、慌てて戸塚の話を遮ろうとする。

 

「三浦さんがテニスを辞めた理由、僕は知らないよ。でも、あの時試合後に泣いてる姿を含めて、僕は三浦さんが羨ましいと思った」

 

「「ハァ?」」

 

俺も三浦も、戸塚の言葉に思わず同じ反応をした。

言葉が被ったことに気付いた三浦は、不機嫌そうに舌打ちした。

その態度に俺も苛立ち、「ケッ」と悪態を付きそっぽを向く。

 

「・・・この前の大会、ウチの高校から出た選手、一人も勝てなかったんだ。僕も一回戦で負けた」

 

「だからそれが何だってのさ!」

 

三浦の言葉は段々と、戸塚に対しても棘棘しさが増してきている。

 

戸塚はそんな三浦の苛立ちを、自嘲的な笑みで受け流すと更に言葉を続けた。

 

「僕たち皆負けたけど、誰も泣かなかった。しょうがないよね、って言って笑ってた。悔しいとすら思ってなかった。だって、悔しがるほど練習もしてないし、負けて当然だって皆が思ってたから」

 

「・・・戸塚、お前」

 

戸塚が奉仕部に依頼を持ち込んだ理由がなんとなく伝わってくる。

戸塚は、何も背負わないで、ただ時を過ごすような今の部活の環境を変えたいのだ。

 

だが、三浦はそんな戸塚の考え方に対し、異を唱えた。

 

「負けて悔しい思いをしなくていいならそれでいいじゃん?下手に足掻いて、夢見て一生懸命やったって、上には上がいるって思い知らされて終わるだけ。そんなの時間の無駄じゃん」

 

「・・・そうかもね。きっとすっごく悔しいんだろね。クールな三浦さんがあんなに顔をぐちゃぐちゃにして泣いたくらいだし」

 

「ちょっ、あんた!!」

 

「お、おい戸塚」

 

いきなり三浦をおちょくるような発言をした戸塚に焦り、言葉を止めようとする。

だが、戸塚の目には強い光が宿っていた。

俺も三浦も何も言うことが出来なかった。

 

「でも僕はもう嫌なんだ!自分達が出来ること、やるべきことをしないで、負けてもヘラヘラしているような自分が!」

 

「「・・・・」」

 

「僕は勝ちたい。勝つためにテニスをしたい。全てを賭けて練習して、負けたらどんなに悔しいか、今の僕には想像もつかないよ。でも、このまま時間を過ごしたら、僕は絶対に後悔する。そんなの嫌なんだ!」

 

戸塚の叫びに近い独白を聞いた俺も三浦は、話すべき言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 

 

 

 

 

「彩ちゃん、やっぱりオットコトノ子だね!青春してるね~!」

 

不意に後ろから声を掛けられる。

そこには雪乃と結衣の二人が立っていた。

 

 

――なんつうか、なんか軽すぎだろ、結衣

 

俺は心の中で突っ込みを入れながらも、二人の登場に感謝した。

きっとこのままでは間が持たなかった。

 

 

「それにしても比企谷君、これはどういうことかしら?」

 

「・・・どういうことって、何が?」

いきなり俺に対する詰問を始める雪乃。俺は焦りながらそう返した。

 

「戸塚君個人の練習は奉仕部では請け負わないと言ったのはあなたでしょう?それを一人で抜け駆けするように練習に付き合って、一体、どういうつもりかしら?」

 

「い、いや、それは、その、戸塚の熱意に突き動かされたっていうか・・・スマン」

 

「まったく・・・で、三浦優美子さん、だったかしら」

 

「な、何よ?」

 

「ウチの部員二人が迷惑を掛けたようね。代わりに謝罪するわ」

 

今度は雪乃が三浦に話しかける。

結衣は「部員二人って、何であたしまで入ってるし!?」と憤慨している様子だ。

 

「べ、別に迷惑じゃないけど・・・・あーしも言い過ぎたって言うか・・・」

どうやら三浦は正面を切って謝られると、それ以上悪態を付けなくなる真直ぐな性格らしい。

何やらモゴモゴと言いながら俯いている。

 

「申し訳ないのだけれど、先ほどのやり取り、私たちも聞かせてもらったわ」

「ごめんね、優美子」

 

「ちょっと、それはもう忘れてよ!」

三浦が恥ずかしそうに大声を出す。

 

「そうね。でもその前に、もう一度改めてお願いするわ。どうかあなたにテニス部の指導を頼めないかしら」

 

「あ、あーしは・・・」

 

「三浦さん、あなた先言ったわね。一生懸命やっても、上には上がいると思い知らされて終わるだけだと。・・・あなたも挫折を知っている人間だわ。でもだからこそ戸塚君の言葉が心に響いたのではなくて?」

 

「そんなの、あんたに何でわかんのさ!?」

 

「私もつい最近、挫折を味わったからよ。誰にも負けないと思っていた勉強で、1年生の留学生にまるで歯が立たなかったの。そんな私を立ち直らせたのは、その、真に遺憾ながらこの男だったのだけれど・・・」

 

雪乃はそう言いながらジト目で俺に対して視線を向け、片手で頭を抱えて見せた。

三浦はあからさまに「ゲェ」っといった表情を浮かべている。

 

 

「・・・悪かったな。俺で」

 

「とにかく、私も全てを投げ出してしまっていても不思議ではなかったわ。でも今は、そうしなくて良かったと思っている」

 

「あたしもさ!この前優美子がおいしいって言ってくれたクッキー、作れるようになったのは、実はヒッキーのおかげなんだ。最初は酷い出来だったけど、諦めないで練習を続けたの」

 

「結衣・・・だからそれと何の関係が・・・」

 

「優美子、あたしたちと遊んでる時でも、たまにすっごく寂しそうな顔をすることあるの、何でだろうなってずっと思ってたんだ。あれ、テニスがしたかったからじゃないの?」

 

 

 

――なるほどな

結衣の指摘で全てが繋がった気がした。

過去の俺の高校生活で、テニスを辞めた三浦が、戸塚の練習に茶々を入れるようにコートに乱入してきたこと。今回、一人でテニスコートまで様子を見に来たこと。

クラスの中心グループにいても、どこか表面的にしか見えなかった三浦と周りの人間との関係性。

どれもこれも全て、中学時代の挫折で一度は諦めたテニスを、心の底では捨て切れなかったからだ。

 

 

「・・・少しだけ考えさせて」

 

三浦はそう言って、一人教室へと戻っていった。

 

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

「いや~、良かったね!優美子がテニス部に入るって言ってくれて!」

 

「そうね、彼女程周りを引張る力がある人間なら、テニス部も大いに活気付きそうだわ。彼女以外の経験者も何人か入部したそうよ」

 

翌週、俺たちは部室で雑談しながら今回の依頼について振り返っていた。

 

 

三浦がテニス部への入部を決めた後、遠めに見ていて、三浦と葉山たちの関係にも僅かながら変化が見られた。

三浦は元々お世辞にも遠慮がちとは言えない性格だったが、それに輪をかけて直球的な言い方をするようになった。

今ではあの葉山に対しても全く遠慮しない物言いをする位だ。これによって、今までどこか表面的だったコミュニケーションが少しだけ変わったように思えた。

 

あのグループにいる葉山・戸部、大岡、大和は皆運動部員だ。葉山たちサッカー部は国立を狙うとも言っていた。

テニスを再開したことで、三浦の心の奥底にあった、友人への引目のようなものが無くなったためだろう。

 

 

 

俺はあの後、三浦に対する暴言を謝罪した。

三浦は大して気にする様子も見せず、それを受け入れた。

あいつにも自分なりに、グループの表面的な人間関係というものに自覚があったためだろう。

 

 

 

「今回もどこかの誰かさんが裏で暗躍していたおかげなのかしら・・・」

そう言いながら、雪乃は俺を怪しむような視線を向けた。

 

「・・・勘弁してくれ、雪ノ下。今回俺は本当に何もしていない。お前たちがあの場に来てくれなかったら、あの喧嘩が原因で俺が由比ヶ浜の計画を台無しにしてたところだ」

 

 

俺もまだまだだ。

いつだったか、平塚先生が俺たちを見て「若さか・・・」、とぼやいていたのを思い出した。

 

――その気持ち、痛いほどわかりますよ、先生

俺は恩師に対する同調の念を心に浮かべた。

 

 

 

ともあれ、戸塚の件はこれで一件落着だ。

 

俺の記憶が正しければ、そろそろ沙希が無茶なバイトを始めて、大志とのトラブルを引起す頃だ。

あいつは俺にとって、結衣や雪乃と同じく、特別な存在だ。

俺が沙希にしてやれることは何なのか、しっかりと考えておかねばならない。

 

そんな風に思いながら、この日、窓の外からテニスの練習に励む戸塚や三浦の姿をボーっと眺めて過ごした。

 

 

 

 

 

 


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