比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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18. 比企谷八幡は再びすれ違う

 

 

「…皆すまんな、休日に付き合わせちまって」

 

劉さんに呼び出された俺たち奉仕部の四人は、船橋のショッピングモールで待ち合わせをしていた。

「別に…暇だったし」

俺の言葉にそうぶっきらぼうに返したのは沙希だった。

「そうね」「…あたしも」

雪乃も結衣も沙希の言葉に相槌を打つ。

「…そうか。ありがとな」

「ヒッキーどうしたの?なんか、今日はらしくないね」

「劉さんのお兄さんが来るから、緊張しているのではないかしら?」

「…かもな」

 

これは正直な心境だった。

劉さんは俺の恩人である。だが、お互いあのタイミングで死んだ身だ。

この世界にいる劉さんの精神が俺と同様、あの世界からタイムリープしてきたのかどうかは分からない。

そんな彼との再会を前に、俺は柄にもなく緊張感を覚えていた。

「誤解、もう解けたんでしょ?それでも向こうからランチに誘ってきたんだから、そんなに心配する必要ないんじゃない?」

沙希が気遣うような口調でそう言った。

俺はこの日が来る前に、何とか海美本人の誤解を解くことに成功していた。

――そんな事だろうと思いました。比企谷さんの友人が中国語を勉強したいなら、私も手伝いますと伝えてください。

海美の反応はこんな具合だった。

俺は材木座の名こそ出さなかったが、あの時の自分の発言の意図を真摯かつ丁寧に海美に説明した。

場合によっては本格的に嫌われる可能性も覚悟していたのだが、拍子抜けするくらい大人びた海美の対応で、俺の方が逆に反応に困る程だった。

「…その、なんだ。俺が悪いんだし、怒ってもいいんだぞ」

「怒ってませんよ。比企谷さんには本当に感謝してるんです…ちょっとだけ残念ですけど、正直ホッとしました」

海美は少しだけ恥ずかしそうに微笑んでそう言った。

“俺の友人”という人物が材木座であることは、海美も百も承知だっただろう。

それでも奴の中国語の指導を買って出てくれるというのだ。これは俺と材木座の友情を気にかけての提案に違いあるまい。

己の失策を、たかだか15-6歳の少女、それも直接迷惑を掛けた相手に尻拭いさせることになってしまったことを、俺は大いに恥じた。

あと数分もすれば海美が劉さんを連れてこの場にやってくる。

既に当の本人の誤解は解けているため、大きな問題は起きないと思うが、あの劉さんが相手では、油断はできない。最低でも三人には絶対に嫌な想いをさせるようなことが無いよう、場を治めなければならない。

俺は身が引き締まる思いで、2人がやって来るのを待った。

 

☆ ☆ ☆

 

「皆さんもう来てたんですね!今日は兄の我儘で急に呼び出してしまってすみません!」

四人でモールのエントランスにて劉兄妹を待つこと10分、少し離れた場所から海美が大きめの声を出し、小走りで近寄ってきた。

「まだ待ち合わせ時間の前だから、慌てる必要はないわよ」

雪乃が微笑みながら海美にそう声をかけた。

と同時に、海美を追って後ろから歩いてきた青年が、海美の肩に手を置いて俺たちを見回した。

――来たか!

短めの髪に、スッと通った鼻筋、鋭い眼元、均整の取れた身体つき、そして身に纏うオーラ。若干若いが、俺の知る上海市副市長、劉藍天そのものだった。

「いやぁ皆さん、こんにちは。初めまして、海美の兄の劉藍天です」

「…初めまして。奉仕部で海美さんとは仲良くさせてもらってます。総武高校2年の雪ノ下です」

雪乃が奉仕を代表して挨拶をした。続く形で結衣、沙希が簡単に自己紹介を行っていく。

「海美の友人は美人ばかりですね」

劉さんは雪乃たち一人一人を順に目で追いながら軽めの口調でそう言った。そして俺の顔に視線を移して、一瞬だけ目を細め、口を開いた。

「…という事は、あなたがヒキタニさんですね」

その鋭い視線を受けて、俺の背中を冷たい汗が伝り落ちた。

今、目の前にいる劉さんは、俺の事を覚えているのだろうか。

そんな事を思いながら、俺は用意しておいた謝罪の言葉を述べる。

「…初めまして。先日は海美さんにご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

「いやいや、こちらこそ早とちりしてしまってすみませんね」

劉さんはそう言いながら俺の顔をじっと覗き込むように観察している様子だった。

俺は、上海で初めて対面した時と同じような感覚に陥る。

「…あの、俺の顔に何か付いてますか?それとも…どこかでお会いしてたとか?」

俺から視線を外さない劉さんに対し質問を投げかけ、反応を伺った。

「これは失礼。あんなに慌てた海美を見たのは久しぶりでしたので、相手はどんな人なのかとずっと気になってたんですよ。いや〜あれは見ものでした」

ヘラヘラと笑いながらそう言う劉さんの後ろで、海美の顔が見る見る紅潮していった。

そんな兄妹のやり取りを見て、自分の肩の力が少しばかり抜けた。

今の劉さんの反応だけでは、彼が俺と同様、あの事故からタイムリープしてきたのかどうかは到底分からない。だが、少なくとも俺を疑念の目で見ていない様子が伺われた。

「…しかし…なるほど、そう言う事でしたか。ヒキタニさんも大変だったでしょう?」

改めて俺たちを四人の顔を見回して劉さんはニヤニヤしながらそう言った。

「何がですか?」

「あれ?勘違いですかね?てっきりヒキタニさんはこちらの美女3名のどなたかとお付合いされてるのかと思ったんですが…」

その言葉に雪乃、結衣、沙希がビクッと反応を示す。

――どんだけ人間観察得意なんだよ、この人は…

一旦は解いた警戒心が再び一気に高まり、握っていた拳にぐっと力が入った。

「…そんなに警戒しないで下さい。ほんの冗談ですから」

「…はぁ…あ、いや、ホントにすみませんでした。恨まれるのも覚悟で来たので」

「とんでもない…ヒキタニさんに義兄と呼んでもらえるチャンスは小さいかもしれませんが、気が変わればいつでもそう呼んでください」

劉さんはワザとらしく笑いながらそう言った。

その言葉に俺は固くなった体を更に硬直させた。

「ちょっとお兄ちゃん、やめてよ!」

海美は顔を赤くして抗議しながら、兄の背中をポカスカと叩いた。

「…ははは、では立ち話はこの辺で切り上げて、早速昼にしましょう。皆さん、中華でいいですか?一応予約しときましたので」

そう言って、劉さんは俺たちを先導しながらモール内のレストランへ向かって歩き出した。

 

「…海美ちゃんのお兄さんって、すっごいイケメンだね…あはは」

劉さんの数歩後ろを着いて行くと、結衣が全員の顔色を伺いながら、小声でそう言った。俺と劉さんのせいで微妙になった雰囲気を変えるため、何か話題を振ろうと健気に気を配るその姿に、俺は申し訳なさを覚えた。

「確かに、仮に並んで歩いたら憐れに思える位の差があるわね、ヒキタニ君?」

雪乃が涼しい顔でそれにかぶせた。言葉は相変わらずキツイが、こういう時に普段と何も変わらない態度で接してもらえるのは正直有難かった。

「おい…お前までヒキタニ呼ばわりか。それにそこまで差があるか?こう見えて俺だってな…」

俺は雪乃のフリに合わせて軽口を叩いた。

「現実はしっかり受け止めなくてはダメよ?それに、義兄が美男というのは貴方にも自慢になるのではなくて?」

「そのネタでイジるのは勘弁してくれ…それに、男の価値は顔だけで決まらねぇんだよ」

「男の価値ね…ちなみにアンタの言う、顔以外の基準って何?」

今度は沙希が俺の言葉に反応して質問を返してきた。

「え?そりゃ…金とか権力とか?」

俺はあまり深く考えずに、適当に思いついた価値基準を口にする。

「「「サイテー(ね)(だ)」」」

軽蔑を含んだ三人の声が綺麗に重なる。

そして、一瞬の間を置いて、俺は30代になってもその両方で劉さんに完全に劣っていたという事実に気付き、1人静かに凹んだ。

☆ ☆ ☆

「ここです。私も海美も、日本の中華料理の味はあまり慣れないんですが、ここの広東料理はお勧めなんです」

劉さんは一軒の中華料理屋の店舗の前で止まると俺たちにそう告げ、店員に座席の予約を確認すると、先に中へと入っていった。

「…日本の中華に慣れないって、どういうことなんだろ?」

劉さんの後に続き店の門をくぐる途中、結衣はそんな疑問を口にした。

「日本人だって、海外の”なんちゃって和食レストラン”は受け入れられないだろ」

俺は自分の実体験に照らし合わせて、劉さんの言葉の意味を説明した。

「なるほど」

「いや、海外なんて行ったことないから分かんないし」

「あ、あたしも…アハハ」

俺の言葉の意味を理解したのは海外経験豊富な雪乃だけだった。

沙希はジト目でそう呟くと、結衣もそれに同調する。

「とにかく、日本の中華は本場とは殆ど別モンだって話だ…ラーメン餃子半チャーハン定食とか、中国人は”バカにしてんのか”って思うらしいからな」

用意された座席に座りながら、俺は話を続けた。

「ふふ、私達からしたら全部主食ですもんね。…比企谷さん、私、まだ行ったことないんですけど、神戸や横浜の中華街には中国人向きの中華料理店があるんでしょうか」

適当に全員分の注文を取り終えた海美が会話に参加し、そう尋ねてきた。

「あれはどっちかって言うと日本人向けの観光地だと思った方がいいな。…新宿とか池袋みたいな場所の方が意外と本格的な店が多いぞ」

海美の質問にそう答えると、劉さんは嬉しそうに目を細めた。

「ヒキタニさんは中国に造詣が深そうですね?中国語もだいぶお上手とか?」

「…いや、まぁ。お二人の日本語には到底及びませんが」

「そんなこと無いでしょう…将来移民されてはどうです?」

「すいません、本当に勘弁してください」

これは何かのネタフリなのだろうか。微笑みながらそう言う劉さんの目は、怪しく光っていた。

俺は、上海で同じようなやり取りをしたことを思い出した。

過去に照らし合わせると、劉さんの発言全ての意図が気になって仕方なくなるが、正直、思考の読み合いでこの人物に勝てる気がしない。

とにかく気負ば気負う程自分が不利になるだけだ。平常心だけは保たねばならない。

「お兄ちゃん…いい加減にして」

海美が劉さんに釘を刺すが、劉さんは全く気にも掛けないと言った様子で受け流していた。

いつの間にか、いくつかの料理がテーブルへ運ばれていた。

結衣が隣の席で、小さな蒸籠に入った半透明の蒸餃子や小籠包を見て、目を輝かせている。

「…海美は劉さんと同じ北京の大学に進学する予定らしいですけど、劉さんは中国に戻ったら何をされるつもりなんですか?」

俺は無理やり話題を変えて、劉さんに話しかけた。

探り合いで勝てないのなら、真っ向からぶつかる他ないだろう。

目の前の点心を、皮を破かないように丁寧に結衣達に取分けてやりながら、俺は劉さんの反応を待った。

「そうですね。私は政治家を目指そうと思ってますよ」

世界を変える。その為に政治家になった。あの日、劉さんはそう言った。

やっぱりこの人が目指すものは変わらないのだろう。嬉々として夢を語る劉さんを思い出し、俺はそんな彼を少しだけ羨ましく思った。

「…政治家」

家庭の事情で、何か思うところがあるのだろうか、雪乃が劉さんの言葉に反応し、暗い顔をした。

「おや、雪ノ下さんは政治家はお嫌いですか?」

「い、いえ。私の父も、政治家なので…と言っても県議委員ですが」

間髪入れずに劉さんから尋ねられた雪乃は、若干慌てながらそう答えた。

「そうだったんですか。機会があれば色々とお話を伺いたいですね。中国と日本では政治の制度は全く違いますが、過去の成田問題や県内の経済格差等、千葉の県政1つとってみても、我々が学ぶべきものは多いですから」

この人、千葉でそんなことも勉強していたのか。

俺は劉さんに感心しながら、小籠包に手を伸ばす。

「私は父の仕事について詳しい事は何も知らないんです…議員の他に建設会社も運営していて、家には殆どいないので…それに私はどちらかというと政治より、今は金融に興味を持っています」

雪乃はそう言いながら遠慮がちに俺に視線を送った。

「ブハッ!熱!あっつ!」

俺は突然の雪乃の発言に驚いたせいで、小籠包の汁で舌先を火傷してしまった。

「ヒッキーのバカ…」

「バカじゃないの…」

結衣と沙希がそんな俺を冷たい目で見ながらそう呟いた。

「…ははは。そう言えば、海美から聞いていますよ。ヒキタニさんは高校生にもかかわらず投資をしているとか?その道に興味があるんですか?」

俺がずっと待っていた質問だった。核心を突くにはこの会話の流れしかない。

俺は覚悟を決めて口を開いた。

「…まぁそうっすね。俺の知り合いに何人かいるんです…"世界を変えたい"なんてことを言う人間が」

俺の言葉に雪乃がピクリと反応を示す。劉さんも目を細めた。

「俺には、そんな大それた目標に掲げる勇気も能力もありません。金融という虚業に興味を持っていること自体、自分が影の存在で満足している証拠ですから…だが、俺はそんな夢を持ってる人を金の力で支えたい。そう思ってます」

「…くっくくく…ははは!」

俺の言葉を聞いて、劉さんが突然笑い出した。

「お兄ちゃん!?急にどうしたの」

兄の異変を心配するように海美がそう尋ねる。

「いや~、今日は本当にヒキタニさんに会えて良かったです…実は、私もそんな大それたことを考えてる人間の一人なのでね」

劉さんの言葉に、俺は肩の力が抜けるのを感じた。

雪乃は「え?」という顔で劉さんを見ている。

「この場では多くは語りませんが…いつか、ヒキタニさんとは大きな舞台で一緒に仕事ができる気がします」

「そっすか…そん時はお手柔らかにお願いします」

「ええ、是非」

正直な所、俺は劉さんの反応に落胆とも安堵ともつかない微妙な感情を抱いた。

彼の反応からは、彼が俺と同じ未来人なのかどうかはやはり分からなかった。

劉さんは今、俺の目の前で、「世界を変えたい」と考えていることを認めた。

仮に彼が未来人であり、彼も俺が未来から来たことを探っているのであれば、わざわざこんな発言はしないだろう。いや、もしかすると、それを逆手に取った上での発言かもしれない。とにかく、深く考えだせば切りがない。

ただ、劉さんの言葉を聞いて、俺の心境には若干の変化が生じた。

この時代に戻り、沙希の学費の件や、武智社長とのやり取りの中で形になり出した俺の金融マンとしての職業観を、劉さんが再びこの場で認めてくれただけで、俺は不思議な満足感を覚えることができた。

ぶっちゃけると、劉さんについて、しっかりと情報を探っておきたいという気持ちが失せてしまった。

「…えへへ」

不意に横に座る結衣が嬉しそうに笑った。

「どうした由比ヶ浜?」

俺は小声で結衣に尋ねた。

 

「…よく分からないけど、ヒッキーが元気になって良かったなって。朝からちょっと辛そうな顔してたし」

「お前…」

思いがけない結衣の言葉が俺の心にグッと刺さり込む。結衣のこういう所に俺は惚れたのだと再認識させられる。

「「…これが女子力か(なのね)」」

沙希と雪乃はそんな俺たちのやり取りを見て、若干の悔しさを滲ませながら、感心したようにそう呟いた。

「…女子力…辞書にない日本語ですけど、今のやり取りで意味が理解出来ました」

沙希と雪乃の発言に苦笑いを浮かべながら、海美がそう言った。

☆ ☆ ☆

「あ~!すっごく美味しかったね!ゆきのん、サキサキ!」

満面の笑みでそう言う結衣の前には、高々と積まれた飲茶の蒸籠が置かれていた。

確かに劉さんの言う通り、この店の料理は本格的だった。

しかし、結衣の食欲には驚かされた。ひょっとして、あのバストを維持する為にはこの位栄養を摂り続ける必要があるのだろうか。これでしっかり腰はくびれているのだから、本当に不思議だ。

「そうね」

雪乃は短くそう呟き結衣に同意する。が、その視線は結衣の胸にあった。

きっと今、俺と同じようなことを考えているに違いない。

「あたし、こんなの初めて食べたよ。今度、家族を連れて来よっかな」

沙希も料理の味に感動したようだ。実に家族思いな彼女らしい発言だった。

「…ご満足いただけたようで何よりです。じゃあ皆さん、今日はそろそろお開きとしましょうか。私は会計を済ませておくので、お先にどうぞ」

「それは流石に申し訳ないです。奉仕部の分は俺が出しますから、一緒にレジに行きましょう」

劉さんの申し出に対する申し訳なさを感じ、俺は異を唱えた。

「それではお誘いした意味がなくなってしまいますよ。今日は海美がお世話になってるお礼なんです。ここは私にもたせて下さい」

「…わかりました。じゃあお言葉に甘えさせていただきます。有難うございます」

「とんでもない」

予定調和的な会話だが、社会人として失礼のないよう、最低限の確認は行った。

俺たちは先に店舗を出て劉さんを待つことにした。

☆ ☆ ☆

「ねぇねぇ、皆んなこの後どうする?…海美ちゃんは?」

店舗の前で結衣が皆に話を振った。

「私は兄と一緒に真直ぐ帰ります。兄を知り合いに合わせるのって、いつも精神的に疲れるんですよね…」

実際にかなり疲弊した表情で海美はそう呟いた。

海美は今日、兄を立てて、料理の注文を取りつつ茶を注いで回り、俺や劉さんとの話題に乗れなかったメンバーに別途話を振る等、周囲へかなり気を配っていた。

それだけでも世間知らずな新卒社会人を遥かに上回る獅子奮迅の働きであった。だが彼女はそれに加え、突拍子のない劉さんの発言を可能な限りコントロールするよう、常に彼の発言とその周囲の反応も気にしていた。

――小町には到底真似できない芸当だな

俺は海美に同情的な視線を投げかける。結衣や沙希も乾いた笑いを浮かべていた。

「…ゆきのんとサキサキはどうする?」

結衣は海美に申し訳なさげにしながら雪乃と沙希に同じ質問をした。

「そうね、私は…」

「あれ?雪乃ちゃん?」

雪乃が答えようとした瞬間、10メートル程離れた場所から女性の声がした。

声の主の方向を見ると、そこには俺の見知った女性の姿があった。

「…姉さん」

雪乃がそう呟いた。

雪乃によく似た整った顔立ちをしたその女性は、雪乃の姉、雪ノ下陽乃その人だった。

雪乃の視線に気付いたその女性は、俺たちのもとへ駆け寄ってきた。

「やっぱり雪乃ちゃんだった~!どうも、雪乃ちゃんの姉、陽乃で〜す」

ニコニコと笑顔を振りまきながらその場にいた俺たちに挨拶する。

「…どうも」

俺は昔からこの人が苦手だ。最後に会ったのはいつだっただろうか。

あれは確か、消息を絶った雪乃を探して、2人の実家を訪れた時だった。正直、思い出すのも辛い。

「あれれ〜ひょっとして君は雪乃ちゃんの彼氏かな?」

軽めに会釈した俺の姿を見ると、雪乃を肘で小突きながらそう言った。

「…あんた、今日は厄日なんじゃないの?」

そんな様子を見ていた沙希が、半ば同情するようにそう呟く。

「…かもな」

俺は冷めた声でそう沙希に返した。

「あの、違います!わたしたち、三人ともゆきのんと同じ部活の友達なんです!ヒッキーは…誰とも付き合ってません…」

俺の代わりに結衣がそう答える。最後は消えそうな声だった。

「へぇ〜そうなんだ…ヒッキー君?変な名前だね」

「…比企谷です。雪乃さんにはいつもお世話になってます」

今更この人とどんな会話を交わせばいいのか、俺には分からない。

一先ず、社交辞令として、俺はそう答えた。

「そっか、それでヒッキー君なのね。面白〜い」

「…あの、そろそろいいかしら、姉さん?私たちは忙しいのだけれど」

「え〜?雪乃ちゃんの意地悪〜」

陽乃さんが俺のアダ名に納得した所で、雪乃が迷惑そうにしながら、立ち去るよう要求した。しかし、この様子ではこの人が素直に帰ることは無いだろう。

――しかし、面倒な人に会っちまったな。

心の中で大きなため息をつく。

ふとレストランの入り口を見ると、ちょうど会計を済ませた劉さんが出てくる所だった。

「あれ、皆さんまだこちらにいらっしゃったんですか?…おや?こちらの方は?」

案の定、劉さんは陽乃さんの存在に気付き話しかけた。

「どうも〜雪乃の姉の陽乃で〜す…って、あれ?うちの大学の留学生じゃないですか?」

陽乃さんの意外な反応に俺は驚いた。会話から察するに親しいわけではなさそうだが、陽乃さんが劉さんのことを知っていたなんて、前の人生では知りもしなかった。

「ああ、これは失礼、同学の方ですか。私、劉藍天といいます。皆さんにはこちらの妹がお世話になってます」

「姉さん、劉さんの事を知っているの?」

雪乃も驚いたように、姉に事実確認をする。

「まぁね。いろんな学部の講義に顔を出してる謎の留学生…直接話したのは今日が初めてだけどね」

「いやあ、講義の盗み聞きが噂になってるとは、お恥ずかしい。専門は国際政治経済学なんですけど、色々興味が尽きなくて」

講義の盗み聞き…ね。そもそも日本の大学なんて、講義に出もしない学生ばかりなのだ。外から学生が1人紛れ込んだ所で、問題になることも無いだろう。

――大成する人間の根底にあるのは、こういう貪欲さとな生真面目さなんだろうな

ぼんやりとそんなことを考えた。

「そりゃぁ、劉さんがカッコよくてキャンパスでも目立つからですよ〜でも理系の私たちの講義なんか聞いて、面白いんですか?」

「何事も経験ですから」

劉さんは愛想笑いを浮かべながら陽乃さんにそう返す。

「へぇ…とにかく今後ともよろしくお願いしますね!」

陽乃さんもそれに対して失礼の無い最低限の返事を返し、話を切り上げた。

愛想は崩していないが、あまり質問しない所を見ると、どうやら劉さんに対し、大した興味は抱いていないことが窺われる。

そして横目で俺をチラリと見る。一瞬彼女の目元が動き、ニヤリといった表情を浮かべたかと思うと、すぐさま元の笑顔に戻って口を開いた。

「…ところで、雪乃ちゃん…比企谷君と早く付き合えるといいね」

――ああ、この人、こういう人だった

何が目的かは分からないが、大方、雪乃の反応を見て笑うつもりだろう。俺はどうはぐらかし、フォローするかを考えながら、雪乃へ視線を移した。

「…そうね。だから姉さんには邪魔しないでもらえると助かるわ」

――反論しねぇのかよ

予想外の雪乃の反応に俺は絶句する。これ以上無駄な詮索されるのを避けるために、相手に合わせて軽く頷いて見せただけのようにも見えるが、いずれにせよ、これは陽乃さんも予想外だろう。

「「ちょっ!?」」

結衣も沙希も雪乃の言葉に驚きの反応を示した。

「あれれ。私、雪乃ちゃんに嫌われるようなことしちゃったかな?」

陽乃さんはそう言っておどけて見せた。雪乃が俺のことをどう思っているか、には最早興味が無さそうだ。ある意味助かるのだが、それはそれで少しばかり寂しい気がした。

「昔から私を嫌っているのは姉さんの方でしょう?」

雪乃はそう答えると、姉を睨みつけた。その言葉はかなり棘を含んでいた。

雪乃の言葉で、場の雰囲気がガラリと変わったのを感じ取り、気の優しい海美や結衣が目に見えて狼狽え出した。

「そんなこと全然無いんだけどな〜 ま、いっか。じゃあ私はそろそろ行くよ。たまには実家に顔出してよね。雪乃ちゃんのことで気を揉んでる母さん、宥めるの大変なんだから。…そうそう、私、この後大学の友達に会うから、帰るなら車使って良いからね」

陽乃さんは雪乃の言葉簡単に受け流すと、そう言って手をヒラヒラさせながらその場から立ち去っていった。

☆ ☆ ☆

「…雪ノ下。あんた、大丈夫?」

意外にも、一番先に雪乃に気遣いの言葉をかけたのは沙希だった。

「大丈夫よ。みっともない所を見せてしまったわね。劉さんに比企谷君、川崎さんの所も兄弟姉妹仲は良いのに、家はどうしてこうなのかしら」

大丈夫と応えたものの、雪乃の声は暗い。喋りながら俯いてしまった。

「ゆきのん…」

「…確かに、雪ノ下さんのお姉さんは少し変わっているようですね。TPOで”顔”を使い分けるのは私も一緒ですが…素顔の彼女は中々手強そうだ…ねぇ、ヒキタニさん?」

劉さんが陽乃さんに対し抱いた人物評価を口にし、俺に同意を求める。

「…まぁ、そうっすね」

その言葉に素直に頷いてみせる。ただ、俺からしたら、何を考えてるのかわからない人物であるという点は、劉さんとそんなに変わらないわけではあるのだが。

「「「素顔?」」」

結衣、沙希、海美は劉さんの発した素顔という単語がピンと来なかったようで、不思議そうな表情を浮かべている。

「驚いたわ。あれだけの会話で見抜いてしまう人がいるなんて…確かにあれは姉の外面。昔から家の仕事柄、姉はパーティや挨拶回りに連れ回されていたのよ。その結果出来たのがあの仮面。…でも、どうやってそれに気付いたのかしら?」

雪乃は先程の姉の明るい立ち振る舞いが、仮初めの姿である事を皆に説明する。それと同時に、俺と劉さんに対し、自身の中で湧いた疑問を問いかけた。

「ヒキタニさんに視線を移した時に一瞬見せた表情…笑ってましたけど、それまで私へ向いていた愛想笑いと全然違うものでしたからね」

――やっぱ、よく見てんな、この人

劉さんの観察眼に感心しながら、俺も自分の感想を述べる。

「…顔立ちはお前に似てるのに、笑った顔は全然似てないんだよな。俺はそれに違和感覚えた」

昔、初めて陽乃さんに会った時も俺は彼女の外面に気付き、雪乃と似たような会話を交わした事を思い出した。

明るくて、誰にでも気軽に話しかけてくれる、モテない男の理想のような女性。だが理想は理想であって現実じゃない。だから嘘臭い。俺のような人間にも普通に話しかけてくれる彼女の姿を以って、強化外骨格のような外面と評した気がする。

今思えば、当時の俺の思考は過度に卑屈だった気がするが、高校生にしては鋭い観察眼だろう。

「しかし、お姉さんが言われた、”気を揉む母親を宥める”という表現は気になりますね。雪ノ下さんはひょっとして、家庭環境にお悩みでも?」

俺の言葉に被せるように、今度は劉さんが雪乃に質問を投げかけた。

「母は何でも思い通りに決めないと気が済まない人だから…私の1人暮らしも、奉仕部の部長をしている件もあまり快く思われていないんです」

「あんた、成績学年トップなのにそんなことで親に干渉されてんの?」

雪乃の返事に、沙希が驚きの表情を浮かべながらそう呟いた。

「簡単ではないのよ。家柄、とでも言うのかしら。とにかく母は、私にも姉にも、雪ノ下家の恥とならないような生き方をする事を求めているわ。姉は上手く折り合いを付けているようだけれど、私は…姉のように器用ではないから」

雪乃の独白を聞きながら、俺は過去を思い出した。

雪乃は俺の前から姿を消した。そして、親の決めた相手と結婚した。これも、その家柄というのが関係しているのだろうか。

そんな考えが頭を過ると、自分の心の底にドス黒い感情が渦巻く。

「…お前の出生にケチつける訳じゃないがな…たかが土建屋・田舎議員が〝家柄に恥じない生き方”なんてのは、ちょっとお高く止まりすぎじゃねぇのか」

苛立ちを募らせながら俺はそう吐き棄てた。

たかが土建屋、たかが田舎議員。

就職以来、世界を股にかけ多額の金を動かす仕事をしてきた俺からすれば、スケールの小さな話である。だが、当時の俺は、そんな小さなしがらみすら断ち切ることも出来ずに、誰よりも大切だった彼女を失ったのだ。無力だった自分に無性に腹が立った。

「…そうね。貴方のような人間なら、そんな風に考えても不思議ではないわ」

雪乃はそう自嘲的に笑う。

「ヒッキー、そんな言い方…」

結衣が俺の暴言を諌めるように、弱々しく呟いた。

「…すまん。事情も知らずに言い過ぎた。俺はただ…お前に後悔するような人生を送って欲しくないだけだ」

雪乃の表情を見て、俺は失言を訂正する。

しかし、後悔しない人生を送れる人がこの世にどれだけいるというのだろう。俺自身の人生が、後悔の連続であったと言うのに、これ程無責任な言葉もないだろう。

それにさっきの俺の発言…結局、あの時俺との関係よりも家の事情を優先させた雪乃を、感情に任せて責め立てただけじゃないか。

 

――くそっ、情けねえ

急に自分が薄っぺらい人間になったような気がして、虚しさを感じた。

「私は自分より優秀な人間の後を追うしか能の無い人間だわ…そもそも後悔なんてする資格もないのかもしれない」

雪乃の呟きに俺は更に顔を顰める。

俺や劉さんのような存在は、雪乃にとって、姉に代わり指針を示す存在足り得ると、勝手に自惚れていたことを自覚させられる。

現実には、必死でもがく彼女の自尊心を傷付け、自嘲癖を植え付けただけなのではないかと、大きな不安を感じた。

「…ごめんなさい、やっぱり今日は先に帰るわ」

そう暗い顔で言った雪乃に対し、その場にいる誰も言葉をかけることが出来なかった。

 

暗い空気がその場の全員を支配する。

俺たちは皆、無言でエントランスへ向かって歩き出した。

モールの入り口には、陽乃さんが言った通り、雪ノ下家の専属車が待機していた。

「…さようなら」

そう言い残して、雪乃は車に乗り込んだ。

バタンとドアが閉まると、あっという間に車は動き出し、そのまま見えなくなった。

 

「じゃあ…私たちも…サキサキ、途中まで一緒に行こ?」

「そうだね」

流石に遊びに行く雰囲気で無くなってしまった。

結衣と沙希もそのまま帰宅することを選んだ。海美と劉さんにぺこりと頭を下げると、二人とも駅の方角へと歩いて行った。

 

 

「なんだか、大変なことになっちゃいましたね。ごめんなさい」

モールの入り口に残された俺と劉兄妹の3人。

不意に海美が謝罪の言葉を口にした。

「いや、海美が謝る理由は何も無いだろ。俺が無神経な事をあいつに言っちまったせいだ…」

せっかく食事に招待してくれたのに、それをぶち壊してしまったのだ。

改めて、劉さんと海美に対する申し訳なさを感じた。

「…困った事があったらいつでも言ってください。年上として相談くらいには乗れると思いますよ」

「すみません。ありがとうございます」

俺は、劉さんの気遣いの言葉に素直に礼を述べた。

「…それにしても運転手付きの高級車とは、少し驚かされました…建設会社で地方議員…中国なら不正蓄財が真っ先に疑われるような組み合わせですよね」

――!?

冗談めかして言った劉さんのやや不謹慎な言葉に、俺はハッとさせられた。

どうして今まで疑問にも思わなかったのだろう。高級車に専属ドライバー、高校生の娘の1人暮らしのためのマンション購入…雪乃の家の羽振りの良さは正直言って、今の不景気な世の中から見ればはっきり言って異常だ。

正直、俺は未だにあいつの実家の事はほとんど何も知らない。だが、様々な仮定を組み合わせることで、家庭の状況を推測することは不可能ではない。

雪ノ下家の世帯収入はその一例だ。

東証1部に上場する建設会社は、年間売上が兆単位のスーパーゼネコンから、年間売上100億円強程度の準大手まで大小様々。地方の未上場建設会社が東証1部上場企業よりも規模が大きいというケースは、絶対に無いとは言い切れないが、可能性としては低い。従って、雪ノ下建設が中堅建設会社であれば、年間売上高は数十億円程度と予想される。

今の日本において、建設業界は過当競争で利益率の低迷が著しい。大手でなければ、黒字が出れば御の字、純利益率が数%あれば良い方だと聞く。とすれば、雪ノ下建設の年間純利益は多くて1億円に届くかどうかといった水準だろう。更に、会社経営で純利益の全てを配当に回せるかと言えば、答えはノーである。銀行借入をするために、利益を留保して資本の厚みを維持する必要もある。つまり、雪ノ下家が建設会社の経営・配当により得られる収入は、どれだけ多く見積もっても、年間1億円に満たない水準となる。これに父親の県議としての給与が上乗せされるが、これは多くて1千万円程度だろう。

世帯年収1億円弱といえば、世間一般に見ればかなり裕福な部類だ。だが、30代の俺がその年の業績によっては億単位の給料を貰っていたように、サラリーマン家庭には絶対に越えられない壁かと言われれば、決してそうではない。

 

そして、人を雇用するには、労働者に支払う給与以外にも、税金・年金等、雇用主側は甚大なコストを負担する必要がある。果たして、サラリーマンでも手の届く収入水準の世帯が、娘たちのために専属運転手を雇うだろうか。仮にそうであれば収支のミスマッチを疑わざるを得ない。

「…ヒキタニさん?急に難しい顔をして、どうされました?」

「…あ、いえ、すみません。劉さんの言葉で、あいつの実家の不正蓄財の可能性が頭を過ぎったんですけど…やっぱり俺の考え過ぎですね」

そうだ。世帯収入の試算はあくまでも仮定に基づく推定上の数字に過ぎない。前提が間違っている可能性もあるし、そもそも、建設会社の経営以外にも、金融資産の配当や不動産の家賃収入等、別の収入源があってもおかしくは無いのだ。

「いえ、根拠も無しに、雪ノ下さんのご家庭を揶揄するようなことを口にしたのは私です。完全に失言でしたね。申し訳ありません」

「そんなことは無いです…大事な人間を守るには、色んな事が起こる可能性を認識して、事態に備えることが重要ですから…参考になりました」

ひょっとしたら、雪乃の家庭の問題を探る糸口になるかもしれないのだ。

先程の思考は、頭の片隅に留めておいても損は無いだろう。

「前向きですね…ヒキタニさんは立派だと思います。妹が惚れるのも頷けます」

「だから違うってば!」

劉さんの軽口に再び真っ赤になって海美が反論した。俺は、そんな兄妹のやり取りを微笑ましく思いつつ、若干の気恥ずかしさを覚えて頭をポリポリと掻いた。

「…では、ヒキタニさん。今日はお会いできて本当に良かったです。これからもよろしくお願いします」

そう言って劉さんは片手を差し出した。

 

その手を軽く取り握手に応じると、思いの外強い力で握り締められた。

 

握手を終えると、劉さんは満足げな笑みを浮かべ、俺に背を向けて歩き出した。

海美も慌ててそれについて行く。

帰り行く2人を見つめながら、俺はショッピングモールのエントランスに一人、しばらくの間、立ち尽くした。

 

 

 


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