比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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23. 比企谷八幡は夏を締めくくる

【さっき姉さんからメールで聞いたわ。あなた達、今日はデートに行ったそうね?】

【…うん。花火大会。ゆきのんのお姉さんにも会ったよ】

【その時彼と何があったのか、教えてくれるかしら?】

【…あたし、ヒッキーに告白したの】

【それで付き合うことになってあのメール? あんた達バカなの?】

【違うの!あれは手違いというか…】

【違うというのはどういうことかしら?】

【ヒッキーは誰とも付き合う気はないって…あたし結局フラれちゃったし】

【はぁ? じゃあ、”早く会いたい”って何なの?】

【それは本当に色々あって…】

――これはヤバイ…

俺は今、バスで雪乃に指定されたファミレスへ向かいながら昨晩のメールのログを確認している。

あいつらに会う前に、最低でもメールのやり取りは把握しておかなければ危険だ。そう思い画面をスクロールさせていくが、新しいメッセージを見るたびに俺は頭を抱えた。

俺の迂闊な行動のせいで結衣が雪乃と沙希から詰問に遭っている。こんなやり取りを一晩中続けていたようだ。結衣への罪悪感で胸が痛む。

そして、ログを読む俺の指が止まり目が見開かれた。

【付き合ってるならそう言えばいいのに。何で否定するわけ?気でも使ってるつもり?】

【いい加減にしなさい、由比ヶ浜さん。私でも怒るわよ】

【…分かった!言うよ!言うから怒らないで!】

【初めからそうしなさい。要点を押さえて簡潔かつ明快な説明をお願いするわ】

【簡潔にって…本当に複雑だからそんなの無理だよ】

【やっぱり誤魔化すつもり?】

【違うよ!ポイントだけ言っても二人とも絶対信じないと思うけど…】

【由比ヶ浜さん、外を御覧なさい。あなたが勿体ぶってる間に陽が昇ってしまったわ】

【あたし、徹夜で吊し上げられてた!? じゃぁ言うよ…ヒッキーは実は30代の未来人で、ゆきのんとあたしはヒッキーの元カノ、サキサキはヒッキーの今カノだったの。ヒッキーは事故に遭って意識だけ高校時代に戻ってきたみたい】

【は?】

【は?】

【ホラ、信じないじゃん!】

――おいおいおいおい…

この後、結衣は尚も二人から質問攻めにされ、昨晩俺が話した事をほぼ全て二人に説明する羽目になっていた。

雪乃や沙希にどう打ち明けるか、それは俺がしっかりと考えなきゃいけないことだったはずだが、まさかこんな形で二人に伝わってしまうとは予想出来なかった。

俺は力なくバスに揺られて、緊急会議の会場へと向かって行った。

☆ ☆ ☆

「来たわね。一人だけ肌ツヤが良くて羨ましいわ。昨日はさぞ良く眠れたのでしょうね、比企谷のオジサマ?」

指定されたサイゼに到着する。禁煙席の一角に結衣と対峙する格好で、雪乃と沙希が席に座っていた。

俺の姿を見るなり、嫌味をぶつけてきたのは雪乃だった。全員目の下が黒い。どうやら、本当に一睡もしていないようだった。

「俺はまだアラサー…いや正確には今夏で34だが…オジサマは勘弁してくれ」

「…その話、やっぱりマジなんだ」

そう真面目な顔で呟いたのは沙希だった。俺はそれに対して無言で頷く。

と同時に結衣の隣に腰掛けた。

「…結衣、昨日は一人だけ寝ちまって悪かった。それから、俺のために気使ってくれてありがとな」

先程メールのログを読んでいる時は、結衣の自白に発言に頭痛を覚えたが、それは元々俺のミスが引き起こした事態だ。

結衣が無理矢理白状させられたのは明け方まで粘った上の事だ。加えて、本来俺が自分で説明しなければいけない事を、結衣は彼女なりに言葉を選びながら慎重に雪乃と沙希に伝えてくれていた。礼こそ言えど、彼女を責めることなど出来ない。

「…ううん。ごめんなさい。ヒッキー、ちゃんと二人に説明したいって言ってたのに、あたし…」

「いや、助かったよ。俺は一人で抱えてた事を結衣に伝えられて良かったと思ってる」

そう言って、俺は結衣の頭を軽く撫でる。結衣は安心したような表情で、嬉しそうに目を細めてそれに応えた。

その様子を見ていた雪乃が咳払いをして言葉を切り出す。

「私の前でイチャつくのは止めてもらえないかしら。私の初めての彼氏さん?由比ヶ浜さんを下の名前で呼ぶのは、昔の呼び方に戻した…という事かしら?」

「…あんた、意外に攻めるね?」

沙希が感心したように雪乃に対してそう呟くと、雪乃は頬を染めて再び咳払いする。

「由比ヶ浜さんに聞いたことで状況は概ね把握したわ。でも、私たちの今後のことを決めるためにも、あなたには色々と聞かなければならない事があるわ」

「…それは構わんが、お前達もこんな非科学的な話信じるのかよ?」

「私は元々あなたを疑っていたのよ?貴方は男子高校生として明らかに異質…どういう仕組みで人間の意識が過去に戻るのかなんて、皆目見当もつかないけれど、貴方の実年齢に関しては自分でも驚く程素直に納得することが出来たわ」

「…そうかよ」

未来予想ゲームで5回連続で未来を言い当てる、位しないと雪乃は信じないだろうと思っていたのだが、これは本当に意外だった。

沙希はそんな雪乃と俺を交互にじーっと見ている。

「問題は…その…」

何かを付け足そうとして、雪乃は突然言い淀んだ。俺は”ん?”という表情を浮かべて、次の言葉を待つが、雪乃は中々口を開かない。

「…はぁ…比企谷とあたし達全員が、付き合ってたって話でしょ?」

一つだけため息を吐いて、雪乃が言いたかったのであろうポイントを沙希が顔色も変えずに呟いた。

沙希の言葉を受けて、雪乃は意を決したかのような表情で口を開いた。

「そうよ…もうお互い隠し事は無しにしましょう。正直に言うわ。私達は三人とも貴方に惹かれている。さっき三人で確認したからこれは事実よ…でもそれは、私達の性格や生い立ちを把握する貴方が、私達を弄ぶ為に故意に誘導して来た結果ではないの?」

先程とは違い、本当に真剣な目でそう問いかけられた。

「…そんなつもりは無い、と言えば嘘になるか…無論弄ぶ様な真似をする気は無いが、三人に気に入られたい、好かれたいと思っていた事は否定出来ないな」

一旦は否定を試みるが、結果を見れば雪乃の言う通りだ。

俺の声は段々と自信を失い自嘲的なトーンを帯びていく。

「…あんた、由比ヶ浜の告白を”自分にはその資格がない”って言って断ったらしいね。それって、どう言う事?きっと、アタシが告白したとしても同じこと言うんでしょ?カッコつけて誤魔化すような言い方しないで、ちゃんと説明して」

今度は沙希が、俺に対してピシャリとそう言った。

先程までの雰囲気が嘘だったかのように、空気が張り詰めるのを感じた。

「…俺にはお前達三人が、自分の人生を捧げてもいいと思えるくらいに大事なんだ。三人のうちの誰かを傷付けるような選択はしたくない…いや、これは傲慢か…結局、自分が選択する事で、他の二人との関係を失う事が俺は怖いんだよ」

「貴方はそんな曖昧な関係がいつまでも続くと思っているの?」

雪乃からの鋭い指摘。当然俺だって、そんな事が可能だとは思っていない。思っていないが、先延ばしにする以外の術が無い。

「それは俺もずっと悩んできた事だ。けどな、それならどうすりゃいいのか教えてくれよ…俺は一度手にした幸せを失う痛みにずっと苦しんできた。そんな選択を自分からまたする位なら、成り行きに任せて最後に孤独を受け入れるしかないだろ」

「…詭弁ね。別に気を使う必要なんてないのよ。本当は今のあなたにとって私たちは子供すぎて恋愛対象にならないだけなのではないの?…そうでないのなら、貴方がそこまで意気地なしだったことに、失望を覚えるわ」

雪乃のは俺の目を見据えてそう言い切った。

その言葉は俺の感情を激しく掻き乱した。それを口にしたのが沙希であれば、あるいは結衣であったのなら、俺はまだ冷静でいられただろう。

雪乃を失った事を認識させられた、あの雨の日の苦い記憶が甦る。

「肌を重ねて愛した恋人を、何も知らないまま失った喪失感がお前に分かるか!?もう抱く事の出来ない女の幻影と後悔に何年も縛られ続けて惨めに生きる気持ちが!新しく支えてくれる大事な人に罪悪感を抱え続ける苦しみが!お前に分かんのかよ!!」

「「「!?」」」

俺が突然声を荒げた事に対し、雪乃の瞳には怯えと動揺の色が混じる。

結衣も沙希も驚きの表情を浮かべていた。

それを見て俺はハッとなる。目の前にいる雪乃は何も知らないのだ。

夏休み前も雪乃に対し、自分の心に溜まっていた黒い感情を曝け出した事はあった。だが、感情をここまで剥き出しにして声を張り上げたのは、今回が初めてだった。

何れにせよ、いい歳した大人が女性にやっていい事ではない。

「…すまなかった。これじゃ八つ当たりだ…情けねぇ」

俺が謝罪の言葉を告げると共に、自省の念を口にすると、雪乃の表情に安堵の感情が戻るのが窺われた。

「…いえ、私の方こそ無神経だったわ。ごめんなさい」

「お前は何も悪くない…お前らに声を荒げるなんて…俺は最低だ」

「あの!」

突如、結衣が雪乃と俺の会話に割って入る。思わず俺は身構えた。

「…急に割り込んで、ごめんね?…どうしても気になったんだけど、”肌を重ねた”、とか、”もう抱けない”とか…それって、やっぱり…そういう事…なんだよね?」

結衣が遠慮がちに、そして顔を真っ赤にしながら、言葉を精一杯濁しつつ俺に問いかけた。

「そりゃアタシも少し気になったけどさ!アンタ、今それ聞くわけ!?」

「だって!」

沙希も顔を赤くしながら、責める様に結衣を諌める。それに対し、結衣も言葉にならない反論を試みた。

「……!?」

キョトンとしていた雪乃は、何かに気が付くと、見る見る頬を紅潮させた。

同時に、変質者から身を守るかの様に自分の体を両腕で抱きかかえ、涙目で俺を睨みつける。

「…あ、いや、その…すまん」

俺の謝罪に対し、雪乃は無言を貫ぬくが、その顔には今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。

「…高校生だったゆきのんと、って事は、やっぱりわたしやサキサキとも…」

結衣の暴走は止まる気配がない。

「アンタ、本当にバカなんじゃないの!?」

沙希が先程にも増してキツイ言葉を結衣にぶつける。その顔は更に赤味を増していた。

「…まぁ、その…そうだな」

俺は彼女たちが乱れる姿を知ってる。

結衣は出会ったばかりの頃、この歳で処女であるのが恥ずかしいなどと、父親が聞いたら卒倒しかねない価値観を披露した事もあるのだが、それでも今の彼女たちにカマトトぶるなと言うのは酷だろう。

「…いい機会だから正直に伝えておく。きっとお前達が想像する以上に、俺はお前達と深い仲にあったんだ。俺の想いの源泉は淡い恋愛の記憶とか、そんなんじゃない。心も、身体も…人生を共有することで生まれた特別な感情なんだ」

結衣は俺の言葉を聞いて、ようやく恥じらいの感情が好奇心を上回ったのか、大人しく俯き、静かになった。

「…この話は聞かなかった事にするわ。質問を続けてもいいかしら、犯罪者君?」

雪乃が仕切り直そうとするが、今の会話を引摺っているのがバレバレな態度でそう言った。

「おい、せめていつも通り谷を付けろ…と言うか、俺とお前は同級生で、加えてあれは合意の上だ。もっと言うと、むしろ最初はお前の方から…」

自らの身の潔白を証明せんとそれに応戦するが、俺に出来たのは余計な言葉を次々と付け足す事だけであった。雪乃は再び、目に涙を溜めて俺を睨みつける。

「はい、ストップ!…比企谷、怒るよ!雪ノ下!アンタも自分で墓穴掘ってどうすんの!?」

収拾が付かなくなりかけるも、沙希がその場を仲裁した。

その顔は相変わらず赤いが、この行動から、おそらく彼女が三人の中で精神的に最も成熟している事が窺われる。

沙希は、フウと深呼吸をすると、表情を切り替える。

その顔は覚悟に満ちていた。そして彼女は次の言葉を発し出す。その不自然なまでに優しい声色に、俺は限りなく嫌な予感を覚えた。

「…比企谷、そんなに卑屈になることないよ。アンタの中でもう答え出てんじゃん…少なくともあんたの答えはアタシじゃない。幸い雪ノ下もアンタが好きみたいだし…もう一度ゼロからやり直すチャンスなんじゃないの」

「!?」

予感した通りの内容だが、その衝撃に対する精神的な備えは俺には無かった。

――沙希に見限られた

その事実を受け入れることを脳が全力で拒否する。

足元から全てが崩れ去って行くような感覚に陥った。

絶望感、恐怖感で自分の四肢が急速に冷え固まり、一切の身動きを取る事が出来ない。呼吸すらも難しく思える程だった。

「…ありがと。アタシのことも失いたくないって言うのはリップサービスとかじゃないんだね。その表情にはちょっとだけ救われたかも。…でも、やっぱりアタシなんかじゃアンタには不十分だと思う」

不意に沙希はテーブル越しに手を伸ばして俺の頬へ触れる。

若干ひんやりとしたその指先の感触。求めて止まなかったもののはずなのに、今は崖から自分を突き落とすためのものに思えた。

「ねぇ…サキサキは、ヒッキーが一番好きなのがゆきのんだって思ったんだよね?…どうして?」

沙希の言葉を聞いていた結衣が唐突先にそう尋ねた。

「比企谷の話聞いたら誰だってそう思うでしょ。15年間も忘れられないなんて、17歳の私達には想像も付かないけどさ。本気で好きなのだけは間違いないよ」

沙希は悲しみを包み隠す様な力のない笑顔で冷静にそう言った。

それを隣で聞く雪乃は、無言で難しい表情を浮かべている。

「そっか…そうかもね。でも、あたしはずっと前から、きっとヒッキーはサキサキのことが好きなんだって思ってて…その…辛かったの。あ、あたし、サキサキのことは大好きだよ!でも…嫉妬もしてた。この話を聞いた時も、きっとヒッキーはサキサキを選ぶんだろうなって思った」

結衣は自身が沙希に対して抱えていた印象、感情を曝け出し始める。

「アンタ、何言って…」

突然そんな結衣の思いを伝えられて、沙希は困惑の表情を浮かべた。

「あの時サキサキを奉仕部に誘ったのも、そうすればヒッキーが喜ぶかなって思ったから…なのに、あたしサキサキに嫉妬してばかりで、自分が嫌な子になってくのが辛かった」

あの時とは、奉仕部で沙希がバイトするホテルロイヤルオークラのバーを訪ねた時の事だろう。

あの晩、俺は結衣から席を外す様に言われ、黙って従った。

そして翌朝には沙希が奉仕部に入る事が決まっていた。どういう話し合いが行われたのか、詮索するとそれも拒まれた。

だが、全ては結衣が俺の為に動いてくれた結果だったと、今この場でようやく知った。

結衣は尚も言葉を止める気配を見せない。

「昨日ね、ヒッキーが大人になってからの話を聞いた時…あたし悔しかった。大人になったヒッキーの隣に立ってたのが、どうしてあたしじゃなかったんだろうって…でも、サキサキのこと思い出しながら話すヒッキーは本当に幸せそうで…」

昨日の出来事を思い出しながら語る結衣の顔は段々と曇って行く。

俺を優しく包んでくれた結衣が、そんな風に感じていたなんて俺は全く気付いていなかった。

「…あたし、ホントはね…今日はサキサキにお願いしようと思って来たの。あたしもヒッキーのことを好きでいることを許して欲しいって。サキサキならきっと許してくれるかもって。あたし、やっぱりズルいよね…ヒッキーの気持ちもサキサキの気持ちも知ってるのに…」

最後にそう搾り出す様な声で言うと、結衣はポロポロと涙を流して泣き出してしまった。

俺は、彼女をなだめようとするが言葉が何も出てこない。

情けなく戸惑う俺を尻目に、沙希はイスから立ち上がり結衣の横へと歩み寄る。

そして、正面から彼女を抱き締めた。

「…アンタは嫌な子でも、ズルい子でもないよ。…呆れる位純粋で…比企谷が三人同じ位好きって言ったけど、正直、私が含まれてる事はまだ半信半疑。でも、由比ヶ浜の事が雪ノ下と同じ位好きって言うのは、アンタを見てると納得出来るよ…アンタって本当に優しいんだね」

沙希は柔らかい声で結衣にそう言った。それを聞いた結衣は、沙希に抱き締められたまま、嗚咽を洩らし始める。

「…収拾が付かなくなってしまったわね。それもこれも、気の多い貴方が私達三人を振り回したせいよ。きちんと理解しているのかしら?」

沈黙を保っていた雪乃が俺を睨みつけながらそう呟いた。

「…お前の言う通りだ。すまない」

そう謝罪の言葉を口にする俺の頭の中は真っ白になっていた。

自分の言葉には怯えの感情が混じり、酷く声が擦れている様に聞こえる。

「…全く最低ね」

雪乃は心底残念そうにそう呟いた。

――ああ、終わったな。何のために俺はこの時代に戻ってきたのだろうか。

結局俺は、結衣を傷付け、沙希を苦しませた。雪乃にも呆れられた。

全てを台無しにしてしまった。

雪乃の瞳を見つめながらそんな考えが頭を過ぎる。これ以上彼女と目を合わせられないと感じ、視線を外そうとした瞬間、彼女がふっと柔らかく微笑むのが見えた。

「…と、言いたい所だけれど、私個人としては、選ぶ事を先送りにすると言う、比企谷君の”選択”には一定の合理性があると認めるわ」

「雪ノ下…あんた」

沙希は雪乃に対して、何かを言いたげな表情を浮かべる。一方で結衣は少しだけ安心した様な表情を浮かべた。

「私は比企谷君も好きだけれど、由比ヶ浜さんがいて川崎さんもいる、今の奉仕部が好きなの。さっきは意気地無しと言ったけれど、仮に比企谷君が川崎さんか由比ヶ浜さんと付き合いだしたとすれば、私だって、これまで通り平静を保っていられる自信は無い…私、こう見えて打たれ弱いのよ。だから、比企谷君が答えを先送りにする事、私は反対しない」

これは雪乃が俺に与えてくれた救済措置なのだろうか。ただ、彼女の発言の意図がよく分からない。俺に出来ることと言えば、この期に及んでも、ただ戸惑う事だけだった。

「ちょっと待ちなよ。だからこのまま何も無かった事にするの?そんなので仲良しごっこするなんて…欺瞞じゃないか」

沙希は雪乃にそう反論した。沙希の意見はもっともだと俺も思う。

昔の俺はこんな欺瞞を最も嫌っていた。だからこそ、あの時俺は、結衣からの気持ちに薄々気付きながらも、雪乃と交際する事を選んだのだ。

今の俺が”選ばないという道”に流されようとしていたのは、選んだ末に舐めてきた苦渋の経験故なのだろうか。

「川崎さんの言う通り、私達がこの事を、このまま何も無かったフリをして過ごして行くのであれば、それは欺瞞に他ならない。でも、私達はそれぞれの想いを打ち明けたわ。それは全て無かった事にして目を瞑るのとは少し違うのではないかしら。多少強引でも前向きに捉えれば、私達の関係は今日また一つ前進したと言えると私は考えるわ」

雪乃がゆっくりとした口調でそう問いかけると、沙希は考え込んだ。

結衣も雪乃の言葉の意味を咀嚼する様に真剣な表情を浮かべている。

「皆がその考えに納得出来るように、一つ提案があるのだけれど…」

しばらく沈黙が流れた後、雪乃はそう言ってまた一呼吸置いた。

その場の誰もが雪乃の次の言葉を待っている。

「…比企谷君、貴方は私達三人に恥をかかせたわ。貴方にはその罰を受けてもらいます」

それが雪乃からの提案だった。

☆ ☆ ☆

俺たちは今、雪乃のマンションにいる。

雪乃が提案した罰の内容。それは、彼女たち一人一人に対し、丁寧に思いのたけを伝えるという事だった。無論、他の二人が聞いている中で、との条件付きだ。

罰を提案した雪乃は最初、その場で愛の告白を実行する事を俺に迫ってきた。

せめて人気のない所でと頼み込むと、今度は近場の稲毛海浜公園で海に向かって愛を叫ぶよう要求してきた。

青春真っ盛りの10代ならまだしも、30を過ぎた男が海に向かって愛を叫ぶなど、おぞましい光景だろう。

幸い、他人に聞かれる事を嫌がった沙希と結衣がそれに反対したため、一行は他に誰もいない雪乃のマンションへと移動することとなったのだ。

俺は雪乃の自宅で出された紅茶に口を付けて、罰執行のタイミングを伺っていた。

朝からのめまぐるしい感情の起伏を通じ、俺の精神は既にヘトヘトになっていた。

だが、三人はそれに加えて、昨晩全く眠っていない状況なのだ。俺がここで弱音を吐く事は許されない。

だが、一息入れる間に皆の顔には疲労が浮かび、少しの沈黙が流れた。

「…それにしても、やっぱり改めて考えると、ヒッキーとあたし達全員が恋人だったって、スゴイ事だよね。何がスゴイのか良く分からないけど、やっぱりスゴイ。全然実感は湧かないけど…あはは」

その場の雰囲気に耐えかねた結衣がそんな事を口にした。

「…アタシは全く実感が無い訳じゃないけどね。ちょっと前に、あんたが教室で寝ぼけて抱きついて来た事があったでしょ?その時下の名前も呼ばれたし、なんかこの話聞いて、その時の事はちょっと納得したっていうか…」

沙希が結衣の言葉に反応を示す。

相変わらず遠い目で、落ち着き払って過去の出来事を皆にバラした。

「「…抱き付いた?」」

ジロリ、という言葉がピッタリくる表情で雪乃と結衣が俺を睨む。

そこには先程ファミレスで涙した結衣の姿はなく、予定調和なラブコメ的な反応であった事に、俺は逆に安堵を覚えた。

安堵したのは沙希も同様だった様だ。沙希は、結衣を後ろから軽く抱き締めて頭を撫でた。

結衣は一瞬ビクッとしながらも、直ぐに安心た表情を浮かべて沙希に身を任せた。

「…そういうことで言えば、私だって心当たりが無い訳では無いのよ。初めて貴方が奉仕部に来た時、貴方、私の顔を見るなりいきなり泣き出したわね。そして私もファーストネームを呼ばれたわ。泣虫谷君?」

雪乃は胸を張ってフフンと得意げにそう言った。

「ゆきのん、なんか張り合ってる風!?」

結衣は沙希に抱きとめられた状態のまま、表情をクルクル変えてそう言った。

「…正にあの日、俺の意識は未来から戻って来たんだ。お前に気味が悪いって言われて、俺は相当凹んだが…」

雪乃と再会した日のやり取りを思い出しながら、俺はそう呟いく。

「なによ…仕方ないじゃない」

バツが悪そうに雪乃はそう反論した。

そろそろ、覚悟を決めてこの罰を受けることとした方が良いだろう。

会話の流れから、俺はそのまま雪乃を見つめ、話を切り出す。

「…そろそろ始めさせてもらう…先ずは…雪乃。聞いてくれるか?」

「!?……はい」

雪乃はビクッと反応を示した後に、やや緊張した面持ちで丁寧な返事を返してきた。

「…お前は、俺に出来た初めての彼女だった。当時の俺は今よりもっと捻くれててな。奉仕部の依頼なんかも、酷く独り善がりな解決方法ばかり提案して、お前とはしょっちゅう対立してたんだ。それがどうして付き合う事になったのか、正直よく分かんねぇ。だが、お前と一緒にいた時間は、全部が俺にとって一生忘れることが出来ない大事な思い出なんだ」

「…」

「…結衣から聞いてると思うが、雪乃は高校卒業後に留学し、そして親の決めた相手と結婚して行方知れずになった。この話は、今のお前には思い当たる節すらないかもしれない。だが、それが夏休み前に、お前が家柄の話をした時に俺が噛み付いた理由だ。雪乃が納得してそういう選択をしたのなら、俺の出る幕はないんだろうが…それでも俺は…お前を手放したくなかった」

雪乃は俺の話に一つ一つ頷きながら聞き入り、複雑そうな表情を浮かべた。

「15年間…俺は一度だってお前のことを忘れたことは無かった。その所為で結衣を傷付け、沙希に我慢を強いて来たのも知ってる。自分でも最低だとは思うが、お前と再会した時、もう二度とお前を離したくないと、そんな自分勝手な願望を心に抱いた。…お前が好きだって気持ちは、あの頃から何も変わっていなかった」

「比企谷君…」

雪乃の瞳の奥が揺れる。

俺は雪乃との距離を一歩ずつ詰めていく。二人の間の距離が埋まる度に、その揺れは大きくなるが、彼女も決して俺から視線を離さなかった。

俺はそのまま雪乃の腰に手を回し、彼女を抱き寄せた。

「今更見苦しいことを承知で言う。…雪乃、ずっと…ずっと愛してる。お前と離れ離れになるなんてこと、一回も望んだ事はない。出来ることなら、ずっとお前の側に居たい…これが俺の本心だ」

俺は雪乃を抱いたまま、心に秘めてきた想いの全てを伝えた。

彼女は暫く動かず、言葉を発しなかったが、俺が抱く手を緩めると、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。

「…自慢では無いけれど、私が今までに告白を受けてきた回数を数えるには両手の指でも足りない程なのよ。でも今のは…今までに受けたどんな告白とも違う。貴方のこと、好きになって良かったと心から思えたわ」

見つめ合ったまま、若干頬を上気させ、雪乃は彼女が抱いた感想を述べた。

「私の将来の話…まだ決定した訳ではないけれど、確かに高校卒業後の留学の話は父から打診されているの。でも、結婚の話なんて、全く聞いていないわ。それに…今の私なら、そんな話は絶対に受け入れないと断言できる。きっとあなたの知る別の私も望んでそれを受け入れたとは思えない…だから…もしもその時が来たら、比企谷君は私を助けてくれる?」

雪乃は不安そうな声で、俺にそう尋ねた。

俺は先程の緩めた彼女を抱く腕に、再び力を込める。

「…むしろ、逆にお前が望んでも、邪魔しちまう可能性すらある」

「そう?嬉しいわ。ありがとう」

雪乃は目を閉じながら優しく微笑んでそう言った。

「もっとこうしていたいけれど、私ばかりと言うのは約束違反になるわね。次は川崎さん、如何かしら?」

ゆっくりと丁寧に俺の手を解きながら、雪乃は沙希を見てそう呼び掛けた。

「アタシ!?」

沙希は結衣の手を包み込むように握って、俺の雪乃への告白を聞いていた。

雪乃から交代を告げられ動揺の色を見せると、今度は結衣が沙希の手を包む様に握り返す。

「サキサキ、ヒッキーの言葉、しっかり聞いてあげてね」

「…うん」

沙希は結衣の言葉に、小さな声でそう頷く。

そして、雪乃と位置を入れ替わる様に俺の真正面へと立った。

だが、彼女の顔は伏せがちであり、時折チラチラと俺の顔を見る以外、中々目を合わせる事が出来ない。

俺は彼女の髪に手を伸ばし何度か軽く撫でた。

彼女の顔は赤くなって行くが、嫌がる素振りは見られない。

それを確認した後、頭を後ろ側からグイッと支える様にして、やや強引に自分の方を向かせた。

「…沙希」

「わ、わかってる」

彼女の名前を囁くと、緊張した面持ちで沙希は返事をした。

それを確かめると、俺は彼女に向かって語りかけた。

「俺だけが知る俺たちのもう一つの関係…俺はいつもお前に支えられていた。過去の思い出を心に残したまま、お前の隣に立つことを事をお前が許してくれたおかげで、俺は救われたんだ。」

「…今は思い出だけじゃなくて、実際に雪ノ下や由比ヶ浜もいるじゃん…私じゃ…二人には敵わないよ」

沙希は暗い顔でそう言うと、再び俺から目を逸らした。

「…俺は、沙希と一緒にいる時間が好きだ。姪っ子を可愛がるお前を見る事や、たまに一緒に酒を飲みに行くことが俺は好きだった。仕事から帰って来た時に、お前が合鍵を使って俺の部屋で待っていてくれるのを、俺は何よりの幸せと感じていた…仮にあの世界で、俺が雪乃や結衣に再会していたとしても、俺は沙希の隣以外に居場所を求めることは絶対に無かった…それだけは信じてくれ」

「……うん」

若干長めの沈黙の後、沙希は返事をした。

その反応を見て、緊張していた俺の肩の力が少しだけ抜ける。

「俺にとっての2回目の高校生活、前と一番違うのは、何と言ってもお前が奉仕部に入った事なんだ。俺は沙希が奉仕部に入ってくれたこと、本当に嬉しく思ってる。一緒にいられる時間も増えたしな。…実は過去の高校時代、沙希とはそれほど接点が無かったんだ」

「…まぁ、由比ヶ浜に無理矢理誘われなきゃ、アタシは部活には入ってなかったし」

沙希はぶっきらぼうにそう呟いた。

「そうだったな。でも今回、お前とよく話すようになって結構驚いたよ。お前、30代になっても性格とか殆ど変わんないのな。逆に言うと、今の時期から大人びてるって言うか…一緒にいてやっぱり一番ドキドキする」

「えっ?」 「「ムッ」」

“一番”という言葉に三人はそれぞれ反応を示した。俺は構わずに話を続ける。

「…その一方で、これまで知らなかった恋人の若い頃の一面ってのも見えて、それも楽しかった。夏期講習で真剣に勉強するお前の姿とか、鶴見の件で気を回す姿とか、雪乃と一緒になって俺をからかう所とかな。そういう時間が今の俺にとっては大切で…切なくて…手放したくないんだ」

「うっさい、…バカ」

俺の言葉に対する沙希の反応は相変わらずだが、少しだけ嬉しそうな、照れた様な表情を浮かべる。

「…俺は事故に巻き込まれて結局、沙希の元に戻ることが出来なかった…あの時、お前に寝惚けて抱き付いたのは、無事に出張から帰って沙希の元へ戻る夢を見ていたからだ。今でも、ふとした拍子にお前と、あの沙希を重ねて見ちまうことがある。…嫌われたく無いから、変な奴だと思われない様に自制するのは結構大変なんだ」

俺は頭をポリポリと軽く掻きながら、俺のこれまでの葛藤を打ち明けた。

「…昔から俺は、人を好きになる度に大事なものをたくさん傷付けてきた。優しくされれば舞い上がって、それに付け込んで…自己嫌悪の連続だ。過去の捻くれた孤独体質のままの俺だったら、多分こうして戻ってきても、奉仕部に関わることなく一人過ごす道を選んでいたんだと思う。でも今は…お前の暖かさを知っちまった俺には、それが怖くて仕方ないんだ…いい歳した男なのに、笑っちまうだろ」

沙希はゆっくりと目を閉じて首を横に振った。

そんな沙希の反応がとてもいじらしく感じられる。

俺は彼女の手をゆっくりと握った。

「…参ったな…やっぱりこういう想いってのは、思ってた以上に言葉で表現するのが難しい」

愛情、感謝、罪悪感。色々ごちゃ混ぜで整理がつかないせいだろうか。

言葉で伝えてやれない部分を補う様に、彼女を見つめ、握る手に込める力を強めた。

「俺は…一生かかってでも沙希の幸せの為に尽くしたい。出来る事ならこれからも色々な思い出を積み重ねて行きたい…お前のことを心から愛してる」

言葉でも伝えられることがあるとすれば何だろうか。そんなことを考えながら口にした彼女への想い。

俺はそれを沙希に伝えると同時に、彼女の手の甲へキスをした。それは相手が沙希だからこそ、そうしたいと思えた、献身の覚悟を示す行為だ。

「…アンタって、思ってた以上のスケコマシだよ…こんなの、どうしたらいいか、分かんなくなるじゃん」

そんな切なそうな呟きを遮るように、俺は沙希を抱きしめた。

「すまんな。でも今の俺に出来るのは、こうしたいと思った事を素直に行動に移す事位なんだ」

「…うん」

沙希は全てを受け入れたかのように頷くと、俺の胸元にギュッとその顔を埋めた。

「あなたたち、いつまで抱き合ってるつもりかしら?私の時よりも5秒以上も長いわ。由比ヶ浜さんがまた泣いてしまうわよ?」

暫く続いた無言の後、雪乃が子供じみた催促の台詞で離れるように要求してきた。

沙希は雪乃を恨めしそうな目で見ると、俺から離れた。

「な、泣かないし!」

結衣は心外だとばかりに声を上げるが、俺と目が会うと嬉しそうな表情を浮かべた。

そして遠慮がちに一歩ずつ俺の方へと寄ってくる。

俺は結衣の目を見つめながら話を切り出した。

「結衣には昨日色々と話した通りだが…俺は、お前には昔から色々と甘えてた。結衣の優しさに俺は何度も救われてきた。それは今回も同じだ。お前が信じてくれたから、俺は雪乃や沙希にも本当の気持ちを打ち明けることが出来たんだ」

俺は腕を伸ばして結衣の手を取る。

「そんなことないよ」

結衣は遠慮がちにそう言いながら、ゆっくりと指を絡めた。

「いや、隣にいてくれたのが結衣で良かった。…実はお前と俺は何年も同棲していたんだ。一緒に料理したり、旅行に行ったり…沙希もそうだったが、なんつーか、高校生の今とはちょっと違う、大人の恋をお前と経験してきたつもりだ。もしもあの頃、俺がもう少し器用に自分の胸の内を結衣に伝えられていたのなら、俺は結衣の人生のパートナーになっていたんじゃないかと思う」

「パ、パートナー!?」

「結婚相手っていう意味な」

「意味くらい分かるし!」

普段のようなノリで結衣をからかうと、結衣もそれに応じてくれた。

「ハハ…そのくらい、結衣の存在は俺にとって当たり前で、大きいものだったんだ。俺は自分の人生でお前を失ったあの日以上に後悔したことが無かった。全部自分の行動が招いた結果だったし、あの時、去って行くお前を俺は追いかける事が出来なかった。悔しかったよ。あの時、俺にとって一番大事なのはお前だって分かってたのにな。そして俺は昨日、また同じ過ちを犯しかけた。今度は追いかけることが出来て本当に良かった」

「ヒッキー…」

「ただ、今の俺には何が正解で何が間違いなのか、さっぱり判らなくなっちまった…本来、お前にも雪乃にも沙希にも想いを打ち明けるなんてこと、許されないことだ。だが、結衣は俺にその切欠をくれた。こうしてもう一度お前に触れることを許してくれた…結衣には返しきれない借りが出来ちまった」

「借りだなんて…」

そう呟く結衣に向かって、俺は最後の言葉を継げる。

「もう一度我儘が許されるなら、もしもそれが可能なら、俺はこれからもお前の横にいて、この借りをお前に返して行きたい。もう一度、結衣と一緒に未来を見ていたい。俺にとって、由比ヶ浜結衣は何にも代えられない大事な存在なんだ。雪乃と沙希に言った直後に同じセリフを吐くのは正直どうかとも思うが、これ以外にお前に対する想いを伝える言葉を知らないから許してくれ…俺は結衣を愛してる。これは偽りのない気持ちだ」

「ヒッキー…大好き」

結衣はそう言いながら、俺に抱きつき唇を重ねる。

昨日に続く、高校生活二度目のキス。

俺はそのまま目を閉じそうになるが、雪乃と沙希の視線に気がつくと、慌てて結衣と顔を離した。

「ちょ、由比ヶ浜アンタ!!」「…卑怯よ、由比ヶ浜さん」

沙希と雪乃が俺と結衣を引き剥がしに乱入する。

「ご、ごめん!つい!」

結衣は謝罪の言葉を述べるが、二人の勢いは止まらず、4人の足がもつれてそのままカーペットの上に倒れこむ。

三人の頭が床にぶつからないよう、抱え込んで倒れた俺の腕に衝撃が走る。

俺は雪乃の部屋の天井を見上げて、安堵のため息をついた。

床に寝転がったまま、誰も動かない。

「……ぷっ、アハハハ」

暫く沈黙が続いた後、結衣が笑い出した。

「何が可笑しいのさ?」

沙希が俺の腕を枕にしたままそう結衣に尋ねた。

「だって、安心したって言うか…」

「笑い事ではないわ。せっかく3人で共謀してこの男に無期限のお預けを食らわせようとしたのに、あなたのせいで台無しになったのよ」

そう言う雪乃の声は柔らかかった。顔は見えないが、彼女が微笑みながらそう言っていることが想像された。

「…ま、中途半端だけど、ここまで行ったら比企谷にもこれ以上変な虫はつかないだろうしね」

沙希もそう言いながらクスクスと笑った。

☆ ☆ ☆

どの位時間が経っただろうか。

暫くすると、腕に抱く3人から、スウスウと寝息が聞こえてきた。

3人の暖かさ柔らかさに包まれたような、夢にまで見たような幸せな時間だった。

皆昨日は徹夜だったのだから無理もない。

俺は名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと3人の頭から腕を抜くと、一人、立ち上がった。

3人は川の字になってカーペットで幸せそうに眠っている。

俺は、雪乃が来客用の寝具を戸棚にしまっていたことを思い出すと、若干の申し訳なさを感じつつも、勝手にブランケットを取り出し3人にかけた。

「…あなた、何の迷いもなく探し出すなんて、ストーカー?」

不意に雪乃が薄目を開け、笑いながらそう言った。

「起こしちまったか。…すまん。エアコンで寝冷えするより良いかと思ってな」

「私の寝室にも…入ったことがあるの?」

「パンさんとネコで溢れ返ってたな」

"溢れ返っていた"はやや誇張であるが、昔入った雪乃の寝室には、某テーマパークのキャラクターであるパンダのパンさんのヌイグルミやキャラクターグッズ、お気に入りのネコの写真が飾ってあったことを思い出す。

「眠気がなければ警察に通報していたわよ。覚えてなさい、この変態」

雪乃は若干恥ずかしそうにしながら、ブランケットを引っ張り、口元を隠しながらそう言った。

「…自分の問題ばかりで申し訳ないとは思うのだけれど、今後、私にはやらなければならないことがあるわ」

暫く間をおいた後、雪乃はそんなことを口にした。

「何をするんだ?」

「…姉さんを超える…何か一つでいいの。私がきちんと自分の意思で貴方を好きになったということ、姉さんに勝ってそれを証明するわ」

どんなロジックで、陽乃さんに勝つことが自分の恋愛感情を証明することに繋がるのか、俺にはよく分からない。きっと雪乃自身もそれはよく分かっていないだろう。

だがその実績は、雪乃が今後、家庭の問題と向き合っていく上で大きな武器になるような気がした。

「俺がしゃしゃり出ても大丈夫か?」

「…それに期待している私は、きっとズルイ女ね」

「言っただろ?俺が全力でお前を支えるってな」

自分を取り巻く世界を、人ごと変える。

そう言った雪乃に対し俺が伝えた言葉だ。

雪乃は満足げに頷くと、再び気持ちよさそうに寝息を立てながら眠りに落ちた。

――陽乃さんに勝ちたい、か。

俺に、いや、俺たちに出来ることをちゃんと考えなきゃな。

椅子に腰掛けながら、3人の寝顔を眺める。

見知った顔だが、3人同時にこうも無防備な寝顔を見せられると、胸の内の愛しさがどんどんと込み上げてくる。

俺はポケットから携帯を取り出して、居眠りする3人の姿を1枚の写真に収めた。

再び電池残量がギリギリになった画面を操作し、その写真を奉仕部のグループチャットにアップロードした。そしてメッセージを添える。

【Yukino, Yui, Saki..I love you all】

――きっと、目覚めてメールを見たら、怒って騒ぐんだろうな

そう思いながら送信ボタンをタップする。

メッセージが送られると同時に俺の携帯は再び電池切れになった。

ブラックアウトした携帯をポケットに仕舞い、俺は静かに雪乃の部屋を後にした。

照り付ける真夏の太陽の下、俺は汗ばみながら路上を歩んでいた。

茹だる様な暑さだが、不思議と不快感はない。俺の心は、自分の上に広がる夏空のように晴れ渡っていた。

こんな気分になるのは何年ぶりだろう。

再び3人の寝顔を思い返す。早く自宅に戻り、もう一度先ほど撮った写真を眺めたくなった。

再び、電源の切れた携帯を手にする。

そしてふと気がつく。

 

――なんか俺の腕、太くね?

 

後の検査で判明したのは全治2週間の右腕亀裂骨折だった。

原因は3人を受け止めた際の衝撃によるものだ。

こういうしょうもないオチがついて回るのは、俺の運命なのだろうか。

夏の終わりに負った名誉の負傷。

 

そう考えれば少しだけ誇らしく思えるが、異常に気がついたとたん、暑さとは違う原因でダラダラと汗が滴った。

 

 

禍福は糾える縄の如しと人は言う。

 

この程度で済んだのはむしろ幸いと言える程、最高の夏休みを俺は過ごした。

 

片腕を抱えながら、不慮の事故で死ぬことがないよう祈りつつ、平時の10倍増しで挙動不審になって俺は家路を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 


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