24. 比企谷八幡は資本主義を振りかざす
夏休みが明けた。
あの日以来俺は、自分の今後の身の振りをこれまでに増して真剣に悩む日々を送っていた。
思い返せば随分と情けない姿を晒したが、あの日、3人に全てを打ち明けられたことで随分と心が楽になったのは確かだ。
だが、雪乃の提案によって俺が3人から与えられたのは時間的な猶予であって、決定的な解答ではない。
自分の抱えていた想いは3人に伝えられた。何かが変わることに期待もした。
だが、状況をここから更に前進させるための材料は何もない。あれから俺たちの関係にドラスティックな変化が起こったかと言えば、Noである。
自宅のPC画面をぼんやりと眺める。
表示されているのは、習慣から何気なく開いた経済ニュースサイト。
ヘッドラインには「世界へ羽ばたく千葉の中小企業」との表題。その横に真剣な顔でインタビューを受ける武智社長の写真が掲載されている。
総武光学のビジネスは早くもメディアに取り上げられる程、軌道に乗っている。
海外での特許申請が完了し、出資金により新たな機材を導入、間も無く生産開始の体制に入るモジュールは、事前の販売契約も順調に進んでいた。
今日ようやくコルセットがはずれ、湿布と包帯だけが巻かれた腕を見て自嘲的な笑みを浮かべる。
総武光学のビジネスに、単なる金融屋に過ぎない俺の出番は最早ない。
投資が順調なのは本来喜ばしいことだが、急に自分が不要な人間になってしまったような寂しさを覚えるのは何故だろうか。
ベッドに重たくなった体を投げ出すと、携帯を手に取った。
――もう過去に対する執着は捨てるんだろ?
表示される三人の寝顔の写真を見つめながら自問する。
俺は二学期に入ってから、三人の呼び方を苗字に戻していた。
あの日、彼女たちをファーストネームで呼んだのは、過去の恋人達と重ねてのことだ。
その延長で今の三人との関係を構築すべきではないと言うのは、雪乃と沙希からの警告でもあったし、俺自身にとってもそれは今後を考える上で重要な指針となるような気がした。結衣も当初渋りながらも、結局その考えを受け入れた。
――今の3人と向き合って、答え出すしかねぇだろ
もう一度自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと目を閉じた。
☆ ☆ ☆
翌日、昼休み
「比企谷、ちょっと相談があるんだが、いいか?」
購買へパンを買いに行こうとすると、俺は平塚先生に呼び止められた。
「何すか?」
「文化祭の件だ。君は実行委員をやってみる気はないかね?そろそろ選出生徒について、教職会への提出が必要なんだが、F組は未だに話し合っていないみたいでな」
――文実か
過去の高校生活では、実行委員長に立候補しながらもその責務を放棄した相模を批判したことで、自分の悪評を学校中に撒き散らすこととなった。
思えば俺と雪乃に関係が少しずつ変化していったのもその頃からだったかも知れない。
不意にあの日雪乃が言った、陽乃さんに勝ちたいという言葉が頭によぎる。
「…J組からは雪ノ下が文実に?」
「ああ。聞いていたか?」
「いえ…でも良いっすよ。男子は俺の名前で出しといて下さい」
今は彼女たちに、俺が出来ることを一つずつしてやろう。その中で彼女達との新しい関係を模索して行く他、出来ることは無いのだ。さし当たってこの機を利用して雪乃の依頼を実行に移すというのは、それほど悪い案ではないだろう。
「そうか。それは助かるよ」
平塚先生は満足げな表情を浮かべて微笑んだ。
「ところで、引き受けてもらってから心配を口にするのは卑怯かもしれないが、その腕はもう大丈夫なのか?骨折したんだろ?」
「亀裂骨折…ただのヒビすから。もうコルセットも外れましたし、問題はないっす。ところで一つお願いがあるんですけど…過去の文化祭の記録と一学期の職場訪問のリスト、全部見せてもらえませんか?電子データをもらえればなお嬉しいです」
「別にかまわんが、どうして?」
「準備は早いに越したことはないでしょう」
この俺が文化祭なんてリア充イベントに進んで参加するなんて、滑稽かもな。
そんな考えが頭を過ぎるのとは裏腹に、久々に自分が全力で取り組むことが出来そうな仕事が出来たことに、不思議な高揚感を覚える。
柄にもなく不敵な笑みが顔に浮かんだ。
☆ ☆ ☆
「ヒビ谷君、その腕、もう大丈夫なのかしら?」
放課後、奉仕部のドアを開けると既に雪乃、結衣、沙希が談笑していた。
俺に気付いた雪乃がコルセットの外れた腕を見てそう質問する。
「めずらしく語呂がいいな…見てのとおり、コルセットはもう不要だ。今は炎症を抑えるための湿布を貼ってるだけだ」
俺は包帯の巻かれた片腕をヒラヒラ動かしながら座席に座る。
「そう。それならあなたも文化祭実行委員として、しっかり仕事はできそうね。よろしく頼むわ」
その言葉から雪乃も文実であることが、結衣や沙希に伝わる。
「あ〜、ゆきのんも文実だったんだ。それなら、あたしも立候補すれば良かったな」
「そんなに楽しいものではないと思うのだけれど…」
結衣と雪乃がそんなやり取りをするのを、沙希は対して表情も変えずに聞いていた。
「F組の男子は比企谷だからね。由比ヶ浜の気持ちは分かるよ。でもアタシは今回はパス。居残り出来ない程じゃないけど、やっぱり大志も受験だし、妹の面倒見なきゃいけないから」
奉仕部の勉強会でそれなりに成績にも余裕が出てきた沙希は、家庭では大志の高校受験の為のサポートに回っていた。
「下が幼いと大変だな」
「ま、忙しくなったら外から手伝うから。遠慮なく言って」
「あ、もちろんあたしも手伝うよ!…でもさ、さがみんが急に立候補するなんてちょっと意外だったよね。ひょっとして、ヒッキーのこと狙ってるのかな」
結衣が、うちのクラスの女子から選出された文化祭実行委員について言及する。
その顔には若干不服そうな表情が浮かんでいた。
前回のように相模たちが結衣をからかうようなことは無かったものの、何故か相模が遠慮がちに自分から文実に立候補したのだ。
「それはないだろ」
俺はあまり興味が無いといった態度でそう呟いた。
「どうかしら。まぁ、そうであったとしても比企谷君が別の女性に興味を示す心配をする必要は、今の所は無いのでしょうけど」
雪乃の発言通り、結衣も不服そうな表情は浮かべていても、以前のような不安気な様子を見せているわけでは無い。
「あったらその腕、今度は複雑骨折させるけどね」
沙希は沙希で淡々とそう述べた。
「だからねぇって…てか怖ぇよ」
あの日以来、以前のようにお互いの何気ない言葉や行動に慌てたり、顔を赤らめたりすることはめっきり少なくなった。俺と共有する感情を前提として受け入れたような会話内容だが、そのコミュニケーションはどこか淡白であり、感情の起伏に欠く、いや、むしろお互い敢えて意識しながら感情の波を排除しているような状況だ。
互いに好きだと認識していても、スキンシップも取れないような環境であれば、こうなるのは当然なのかもしれない。
現状、3人との関係は極めて安定している。だが、その安定感に俺は形容し難いもどかしさを覚えていた。
それ以上その話題には乗らないと言った態度で俺がゴソゴソとカバンから参考書を出すと、3人も無言でそれに習い、各々自習を開始した。
「今日は、そろそろ解散にしましょう」
黙々と勉強を続け、日が落ちかけた頃に、雪乃が活動時間の終了を告げた。
結衣も沙希もカバンに荷物をしまい、教室を後にする。
俺もそれに続くが、ドアの前まで歩いて立ち止まった。その場でもう一度振り返り、活動記録を書いていた雪乃に話しかけた。
「…雪ノ下。前に言ってた、陽乃さんを超えたいって話、文化祭でやってみないか?」
「文化祭で?」
俺からのいきなりの提案に、雪乃は驚いたような声を上げた。
「昔の記憶だが…あの人が実行委員長をやった一昨年の文化祭は、確か過去最大の動員数だったって聞いてる。お前、実行委員長になる気はないか?今晩、企画原案を送るから、それで行けそうだと思ったらやってみろよ」
「…魅力的な提案だとは思うけど、そこまで貴方に甘えたやり方では…」
雪乃は俺からの提案に躊躇するような反応を示した。
普段から、何事も自分で乗り越えることを信条としている彼女のことだから、この反応も無理ないだろう。
「マネージャーは部下の力を如何に活かすか…だろ? 言っとくが俺は仕事が回らなきゃ、上司でも平気で突き上げる男だからな。俺を使いこなす自信がなければ別の機会にすればいい」
「言ってくれるわね。良いわ。ではその原案とやら、見せてもらうことにしましょう」
俺がやや挑発気味に煽ると、雪乃は一先ず原案に目を通すことに合意した。
☆ ☆ ☆
後日の特別教室。
今日は各クラスから選出された文化祭実行委員の初顔合わせの日だ。
早めに教室にやってきた俺は、入り口の側の席に座ると、他のメンバーの顔ぶれをじっと眺めていた。
彼らは今後、文字通り雪乃のコマとなってこの文化祭を成功へ導く尖兵となるのだ。ユニットリーダーとして業務を任せられそうな優秀な奴には早めに目を付けておく必要があるし、逆に問題を起こしそうな連中を潰すといった措置も早期に取っておく必要がある。
顔を見ただけで何がわかるわけでも無いが、普段他人に興味の無い俺にしては珍しく人の顔を覚えるのに必死になっていた。
「あ、比企谷さん!比企谷さんも実行委員なんですか!?」
不意にドアを開けて入ってきた女子生徒に声をかけられる。その女生徒は俺が冷徹な目で他のメンバーを見ていたことに気付く様子もなく、全く毒気の無い声で嬉しそうにそう言って寄って来た。
「よ、海美。まさかお前も実行委員になるとはな。これは心強い」
有象無象の中で、確実な働きが期待出来そうな見知った人間がいること程有難いことは無い。海美には間違いなく即戦力として相当な仕事をこなしてもらう形となるだろう。
「そうね、優秀な人材はいくらいても足りないくらいだから」
俺の言葉を肯定しながら、海美の後ろから雪乃が教室へと入ってきた。
どうやら俺たちの会話を聞いていたようだ。
「雪ノ下さん、お久しぶりです!…私、奉仕部の皆さんと知り合うまで、自分の将来のことで精一杯だったんです。でも今は、少しでもこの学校の皆に恩返しができたらって思って、立候補しました」
海美は多少照れながら、自らが文実に立候補した経緯を話した。
「…本当、真面目な奴だな」
「…自分が恥ずかしくなりそうね」
色恋や家庭の問題といった不純な動機で実行委員になった俺たち二人は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
しばらくした後、開始時間ギリギリにやって来た数人の生徒がキョロキョロしながら部屋にいる生徒の数を数え出した。
全員揃っていることを確認すると、彼らは入口の戸を閉めた。
この学校の現生徒会長、城廻めぐりとその他生徒会執行部の面々だ。
よく見ると教室の後方には、オブザーバーとして会議の様子を見に来た平塚先生の姿もあった。
先程までペチャクチャ喋っていた生徒達が段々と静かになる。
こうして、一回目の委員会が開催された。
「私は生徒会長の城廻めぐりです。皆さんのご協力で今年もつつがなく文化祭が開催できるのが嬉しいです」
生徒会長の最初の挨拶。
つつがないどころか、ここにいるメンバーは、雪乃と俺の提案でこれから阿鼻叫喚の戦場に送り込まれる事になるのだが、それは今は黙っておくのが賢明だろう。
「それじゃあ早速だけど、実行委員長の選出に移りましょう。知ってる人も多いと思うけど、例年、実行委員長は2年生がやる事になってるんだ。私たちはほら、3年生だから…誰か立候補いますか?」
城廻会長は、簡単な説明の後で実行委員長の立候補を促した。
俺はそのタイミングで雪乃に目配せをする。
それに黙って頷いた雪乃は表情を変えずに、スッとその細い手を挙げた。
「2年J組の雪ノ下雪乃です。立候補します」
「あ、雪ノ下陽乃さんの妹さん、だよね?」
城廻会長は立候補と共に名を名乗った雪乃にパタパタと近寄ると、嬉しそうにそう尋ねる
「…はい」
「やっぱり!心強いなぁ。雪ノ下さんのお姉さんが実行委員長だった一昨年の文化祭、凄い盛り上がりでね…動員数も過去最大だったんだよ。今年も期待できそうだね」
「…善処します」
――雪ノ下陽乃の妹と言われてあからさまに不機嫌になってやがるな、あいつ。まぁ無理もねぇか。
雪乃の表情を見ながら、俺は苦笑いを浮かべた。
「あ、ごめんね。他に立候補する人はいないよね?」
城廻会長は、念の為という形で他の希望者の有無を確認する。ただ、あんな会話を目前で繰り広げられてなお立候補できるような人間はそうそう居まい。会長のこれは最早形式的な発言と言って差し支えないものだ。
ふと、隣を見ると、同じクラスから文化祭実行委員になった相模南が面白く無さそうな顔を浮かべていた。
おいおい、お前はひょっとしてまた立候補するつもりだったのか。雪乃との事前打ち合わせがなければ、とんでもない事になっていたと気付き、冷汗が背中を伝った。
☆ ☆ ☆
数日前の部活後、
俺は自宅に戻ると平塚先生に貰った過去の文化祭のデータの加工に取り掛かった。
複数のヒストグラムやパイチャートを作成し、視覚的にデータを整理して、過去の活動実績を細部に渡って把握していく。そして、それらを踏まえて頭の中に描いた今年の文化祭の構想をより明確なものにしていく。
最後は、その構想をデータを交えて説明するための簡素なプレゼン資料に落とし込んだ。
ここまでにかかった作業時間は約3時間。時刻は9時に迫ろうとしていた。
それをメールに添付し雪乃に送信した後、携帯のメッセージで彼女に通知すると、20分程経ってから、彼女から電話がかかってきた。
「…恐れ入ったわ。この原案なら一昨年の文化祭を超えることも不可能じゃないと思う。でもきっと、実行委員には例年とは比べ物にならない負荷がかかるわね」
「安心しろ。1カ月死ぬ気で残業すりゃ何とかなる」
無論、その労働力としてカウントされているのは俺一人ではない。文実メンバーには最悪、泣き出して離脱する者も出るかもしれない。
それで回るのか?と人は聞くだろう。それに対する日本のサラリーマンとしての答えはこうだ。”回るか”は最早問題ではない。”回す”のだ。
「…呆れた。貴方、ブラック企業に勤めていたの?」
「金融業界にホワイト企業なんて存在しねぇよ」
あったら教えてくれ。普通に転職するから。
「…まったく、文実を口実に由比ヶ浜さんや川崎さんに一歩リードだなんて、甘い考えだったようね」
雪乃は溜息を吐きながらそう呟いた。
「…今は、目の前の事に全力で取組む位しかすべき事が見えないんだ…すまない」
「別に期待していないわよ。その件は十分な時間をかけて、貴方が後悔しないように決めればいいと言ったはずよ」
雪乃からの心遣いが、焦燥感で乾く自分の心に染み入る雨の様に感じられた。
「…恩に着る」
俺は一言だけ礼を述べると、頭を切り替えて文化祭へ向けたディスカッションを開始した。
同時並行でデータの更なる分析と資料のブラッシュアップも進めて行く。
その日、俺たちは深夜2時まで打ち合わせを行った。
☆ ☆ ☆
「じゃあ雪ノ下さん、お願いできるかな?」
他の立候補者が出ないことを確認して、城廻会長は雪乃へ文化祭実行委員長への就任を改めて確認した。それに対し、雪乃は返事をしながらその場に立ち上がった。
「はい…先ほど、私の姉が委員長を務めた一昨年は過去最大の盛り上がりだったと話がありました。今年はそれを超える文化祭にしたいと思います。その為に皆さんの力を借して下さい。宜しくお願いします」
一見当たり障りのない挨拶だが、野心を滲ませるような雪乃のセリフに俺は高揚感を覚えた。
雪乃が言い終わると、皆が一斉に拍手した。
拍手が鳴り止むのを待って、雪乃は再び話し出した。
「では、早速ですが今回の文化祭の活動内容の確認と、各人の担当割をおこないたいと思います。なお、副委員長には2年F組の比企谷君を指名したいと思いますが、よろしいでしょうか?反対は…いませんね? じゃあ比企谷君、企画案の説明を頼めるかしら?」
早口で一人会議を仕切っていくその様子に、誰もが呆気にとられている間、雪乃はまんまと俺を副委員長に指名することに成功した。ここまでは打ち合わせ通りだ。
教室内はワンテンポ遅れてザワつき出した。
「おい、比企谷って誰だ? 」
「いや、知らんし…」
所々でそんな声が上がっている。
すみません、それは俺です。皆をこれから残業デスマーチへ駆り立てることが確実な中、形式的な謝罪の言葉を心の中で述べながら俺は立ち上がった。
「副委員長に指名された2年F組の比企谷だ。まずは資料を配る。隣の席に回してくれ」
「し、資料?ひょっとして準備してきたの!?」
城廻会長が驚いたような声を上げる。
元々初回となる今日の集まりは顔合わせと挨拶程度しか予定していなかったのだろう。だがそんな非効率な時間の使い方は、今後、この俺が許さない。
そしてアイデアのある奴は言いっ放しの他人任せで終わらない様、全員をプレゼンで説き伏せる位の覚悟と気概を見せてもらわなければならない。
そう、ちょうどこれから俺と雪乃がやる様に、だ。
「内容に入らせてもらう。委員長が言った各自の担当を決めるに当たって、まずは今年の文化祭のテーマについて、ここで認識のすり合せをさせてもらう。テーマといっても、中身のないスローガンを決める訳じゃない。文化祭は言わば一つのプロジェクトだ。それに対し参加者がどういう課題認識で取組むべきか、それを決めたい。その叩き台がこの原案だ。説明の後、皆の忌憚ない意見を聞かせてくれ」
「か、課題認識?お、おい比企谷?」
生徒同士のやり取りを黙って見守っていた平塚先生も目を白黒させている。
だがそんなことはお構い無しに、俺は手持ちしていた一枚の紙をマグネットでホワイトボードに乱暴に貼り付けた。それは皆に配った資料と全く同じものの拡大コピーだ。
—Learning Opportunity
—Financial Literacy
ーLocal Economy
そこには、目立つ色のテキストボックスに、太字でそう書いてある。
「1点目、Learning Opportunity…学びの機会。それが俺と委員長が提案する今年の文化祭の包括的テーマだ。文化祭と言えば普通の生徒にとっては青春の記憶を代表する学校行事…それも良いだろう。だが、学校行事である以上、俺たち学生にはその活動を通じて得られる成果がなければならない」
皆があっけにとられる中、俺はプレゼンを開始した。
「それは皆で力を合わせて何かを成し遂げる経験、などといった曖昧なものではつまらない。打ち立てられた具体的な目標、その達成のために各自が認識した必要な役割、緻密な計画の上で実行されるプロセス、それでしか得ることが出来ない明確な成果を追求する。これはイベントを通じた組織的な学習体験そのものと言っていいだろう」
「はぁ?何言ってんの?」
「意味分かんねぇよ。せっかくのイベントなのに、学ぶとか頭おかしいんじゃない?」
「ってか、片腕包帯とか中二病かよ?」
今度は言い終わらないうちからヤジが飛んだ。
俺を、やる気のカラ回りしたピエロに仕立てるための悪意の籠った嘲笑が聞こえてくる。だがこんな反応も想定の範囲内だ。
「意見のある人は挙手の上、クラスと名前を名乗り、何がおかしいと思ったのかを具体的に述べなさい」
雪乃の冷え切った声が教室内に響き渡る。
そもそも今の段階で、具体的な疑問が持てるほど頭を働かせ、真剣に俺の話を聞いていた生徒など殆どいないのだ。説得力を持った反対意見など出ようはずも無い。
「…平塚先生、異論はありませんね?」
会議の場が静まり返ると、雪乃は教師への承認を求めた。
「あ、ああ。極めて模範的な心構えと言わざるを得ないだろう」
先生の返事を以て一点目が承認済み事項となったことを確認すると、雪乃は俺に視線を投げかける。
俺はそれに頷くと、話を続けた。
「2点目、Financial Literacy…金に関する知識理解とでも訳すか。最初に"学ぶ"とは言ったが、そうすると何を学ぶかが問題となる。これは個人的な見解だが、今の日本の教育制度に致命的な欠陥があるとすれば、その一つがこれだ。俺たちは学生で、その殆どが親の稼いだ金で学校に通わせてもらっている。だが、その殆どが金を稼ぐということの意味を理解しないまま大人になっていく」
「金って、ちょっと…、あ、すみません」
話についてきた生徒の一人が、何か言いたげな反応を見せるが、先程雪乃から釘を刺されたことを思い出し、その発言を引っ込めようとした。
「いや、謝る必要はない。今反応を示した人を槍玉に上げるわけじゃないから気にしないで欲しいが…彼だけじゃなく、日本人の多くは"金儲け"という単語をネガティブに捉えがちだ。だが、少し考えて欲しい。金を稼ぐために人がしなきゃならないことは何だ?」
突然ふられた問いかけに、生徒達は戸惑いの表情を浮かべている。
「それは他者に対し価値を提供すること、そしてそれを如何に効率的に行うか考えることだ。効率的に、というのは少ない労力、少ない時間、少ない資源、少ないコストでという意味だ。効率を求めるからこそ、人には他者から提供される価値を享受する余裕が生まれ、自分も他者へ還元するといった循環が生じ、経済は発展する」
「…だから、それがなんなんだよ」
「…さっきから難しい言葉で訳分かんねぇ事ばっかり言いやがって」
雪乃に聞こえない様な小声でそう文句を呟く生徒が数名。
確かに少々長い前置きだったかもしれない。だがここからが二点目のポイントだ。
「さっき、生徒会長は一昨年の文化祭は過去最大の動員だったと言った。それは、文化祭というイベントを通じて、それだけ多くの人に何かしらの価値の提供を行ったということを意味する。その見返りとして、その年は動員数に応じた高い売上があった。それはその資料に載っている通りだ」
俺がそう言うと、皆、手元の資料に目を落とす。そこには棒グラフで、動員数、売上高の推移が記載されている。それを見れば、例年と比較し、一昨年の売上が飛び抜けて高いことが一目で分かる。
「だが、一昨年の取り組みが"金を稼ぐ"という意味で例年を遥かに上回る快挙を成したかと言えば、実はそうでもない。売上の隣のグラフを見てほしい。それは文化祭を運営するのにかかった費用の推移だ。売上同様、費用の金額も一昨年が過去最大だ。無論、活動規模が拡大したことで、売上と費用の差額…利益の額も増加しているが、売上に対する利益の比率は例年を下回っている。先ほどの話を踏まえれば、これは価値を提供するための効率が低下したことを意味する」
「へぇ」
「実は失敗だったってことですか?」
抽象的な話に終始した先程と違い、目に見える金額の推移を説明すると、あからさまに皆の食い付きが良くなった。
1年生の実行委員が遠慮がちに質問を投げてきた。
「これが失敗とは言わん。赤字を出したわけではないし、実額で見れば増収増益だ。だが、この結果とこれまでの話を踏まえて、今年俺たちが一昨年の記録を塗り替えるために意識するポイントは…」
続けて説明をしようとした所、真剣な表情で俺の話を聞いていた海美と目が合った。
――いい機会だ。お前の理解力の高さを皆に見せてやれ
「1年B組の劉海美、わかるか?」
俺は自分で言いかけた結論を彼女に託した。
「…効率的に価値提供を行う…手元に残る利益を最大化させる…ということですよね。動員数や売上を伸ばすのと同時に、費用を抑える。そのバランスを追求するということですか?」
「満点だ。もちろん営利目的で文化祭を運営すれば納税の必要が生じ、学校側にも迷惑がかかるから、最後に残った利益は例年同様、全額慈善団体に寄付することになるだろう。だが、イベントを企画する生徒に対し、最終的に最大化させる数字は何かを前もって意識させれば、各自の取組みにも工夫が生まれる。そこには絶対的な学びの機会があると俺は考える」
「…なんか、結構すごくね?」
その場が再び騒ついた後、生徒一人がそう呟いた。
「静かにしろ。委員長が喋るぞ」
周囲を諌める様に他の生徒が言うと、皆の視線が雪乃に集まる。
彼女は先程自分で注意した通り、挙手をして発言のタイミングを伺っていた。
「私からも一つ付け足しておきましょう。…私の姉が委員長を勤めたその年、地元企業から学校に対する文化祭への寄付金が例年の3倍はあった。比企谷君が配った資料のグラフを見ると一目瞭然ね。この年、著しく増加した費用を賄えたのは、この寄付金のためよ。それだけコストをかけた派手な活動をしたからこそ、動員も売上も伸びたということね」
資料には売上・費用・利益の他、活動原資の内訳が記載されていた。
学校・生徒積立金、行政助成金は毎年殆ど横ばいだが、企業寄付・協賛金のグラフだけが一昨年だけズバ抜けて高い数値を示している。
「私の実家…父は政治家であり、地元で建設会社も運営しているわ。これは、うちの建設会社からの献金…ひょっとすると、よその企業にも政治的な圧力がかかって、寄付が増えた可能性もあるわ」
一瞬の間を置いて、その場が一斉にどよめいた。
「圧力って、マジかよ!?」
「それって犯罪じゃないの!?」
学校の有名人である雪乃が自らスキャンダルを晒し、それに皆が食い付くといった構造が一瞬で出来上がった。
――おいおい、そんなセリフは台本に無いぞ。それに言い過ぎだ。
「委員長の発言は推測だ。同意はしかねる。一応言っておくが、実家からの寄付金は全く違法じゃないし、他の企業からの金もそうだ。ビジネス上の付き合いを強化するために、企業側が戦略的に進んで金を出すことだって考えられる。とにかく勝手に誤解して騒ぎ立てる様な真似は慎んでくれ」
「ご丁寧な擁護の説明、感謝しましょう…私が両親にお願いすれば今年も一昨年と同じくらいの寄付が集まるかもしれない。活動資金が手厚くなれば、私たちも集客のための催しが楽に出来るわ。そのお金で芸能人やアーティストでも呼べばいい。でも、このやり方は後に続かない。ビジネスモデルというものは、継続可能でなければ価値がないの」
雪乃はそう言って、自分の発言の要旨を皆に伝えた。
いつの間にか全員が真剣な表情で俺たち二人を見ていた。
「そういうことだ。だから俺たちが今年、一昨年の実績を上回るべきターゲットは "利益" の一択。各クラスや部活動からの参加者には、費用対効果を意識した企画を練らせ、最終的な利益の額で競争させる。ある程度コストをかけて人を大勢呼び込むも良し、規模が小さくても費用を抑制し、高い利益率で勝負するも良し。資本主義の本質を生徒に肌で理解してもらう。これが、俺と委員長が出した2点目の結論だ。」
一昨年の文化祭が利益の最大化を目標に掲げていなかった以上、それをターゲットに設定しても、結局全く異なる土俵で独り相撲を取ることになりかねない。此方から一方的にライバル視される陽乃さんからしてもいい迷惑だろう。
しかしながら、動員数や売上同様、絶対額で見れば利益も一昨年が過去最大だったのは変わらぬ事実だ。それに対し、俺たちは例年以上の寄付金は受け取らずに文化祭を遂行すると決めた。競争条件は俺たちに圧倒的不利であることに変わりは無い。これで一昨年の利益額を上回ることが出来れば、十分な快挙と胸を張って言えるだろう。
教室は静寂が支配しており、皆緊張感を持って俺の次の説明を待っている。
場の空気を支配したことを確認すると、俺は再びゆっくりと口を開いた。
「3点目、Local Economy…地域経済。ここでもう一つの要素を入れる。いくら最後に寄付すると言っても、学校行事で利益を追求すると言えば、他の教員から平塚先生が集中砲火を浴びかねない。さっきも言ったが、金儲けにネガティブなのは日本人の特徴だ。安定志向の地方公務員となれば、その傾向は尚更だろう」
「…思わず聞き入ってしまったが、比企谷の言うとおりかもしれないな」
平塚先生が困った様な顔でそう呟いた。
「だからこのプロジェクトでベネフィットを得られる対象を広げる…資料の次のページには、総武高校の生徒を毎年職場見学のイベントで受け入れてくれている地元企業や商店のリストを載せている。その横に並んでる数字は過去の生徒受入の実績だ。更にそのリストの中で飲食、サービス、小売、その他、文化祭への参画メリットがありそうな業種がハイライトされている」
「参画…」
俺の説明を反芻する様な声で誰かが呟いた。俺は更に詳細な説明を加え、プランの概要を皆に示していく。
「寄付金を募るだけじゃなく、地元企業に文化祭で出展してもらうんだよ。彼らには文化祭での直接的な売上の他、生徒や来客に名前を覚えてもらえるという広告効果を還元できる。俺たちはその対価として、出店スペースに応じたブース料を受け取る」
「場所代を取るってこと?」
「そうだ。これはイベント企画業者や不動産会社の仕事に似た取り組みになるだろう。俺達も利益拡大のために、色々と工夫する余地があるからな。例えば、来客が校内を回遊するルートを分析して、人の流れの多い場所とそうでない場所でブース料を差別化したり、人気の出そうな企業にはブース料を売上連動にするよう交渉してみるのもいい。加えて、保健所・行政への登録手続きや校内の案内整備といった、彼らにとって付加価値のあるサービスを提供することも考えなきゃならん」
「…よく分かんないけど…そんなことが本当に出来るなら」
「うん、やってみたいかも」
当初と打って変わって、肯定的な意見が聞き漏れてくる。
皆の目から、未踏の挑戦に対する興奮の色が窺われた。
「とにかく、俺たちの活動を地域経済への貢献に繋げるという点がポイントだ。金儲けをするのににこれほどの大義名分はないだろう。ここまでの3点が、今年の文化祭のテーマとして俺たち二人が作った原案だ。反対、賛成、質問、その他提案、なんでもいい。意見のある奴は遠慮なく発言してくれ」
俺の言葉に対し、言葉を発する者はいなかった。
もう少し活発な議論があっても良かったのだが、幸い、原案に反対する様な雰囲気が醸成されているわけでもない。場が紛糾して計画が頓挫するよりは余程いいだろう。
「では、採決します。この基本取組方針に賛成する人は手を挙げて下さい」
続く雪乃の言葉に対し、海美がスッと迷いなく手を上げた。彼女は俺と雪乃を信頼の目で真っ直ぐと見据えていた。
それに続くように、ポツポツと、手が上がって行き、全員が手を挙げるまでそれ程時間はかからなかった。
「では全会一致で今年の文化祭の3つのテーマを採決することとします。続けて実行委員の担当割を決めます。副委員長、続けて説明をお願い出来るかしら」
「了解だ…先程のテーマ設定を踏まえると、俺達文実の業務は主に二つに別れる事になる。それは企画統括と営業推進の2つだ。企画統括は各参加者の出し物を全体的に管理するチーム。営業推進は文化祭自体の広告や、企業への出店・協賛依頼等、外向きの仕事を担当するチームだ」
ホワイトボードに文字を書き込み、それぞれのチームの役割をもう少し具体的に説明する。
「企画統括の具体的なタスクは、各クラス・部活・一般有志・企業の参加取りまとめと、活動原資分配、スペース割当、予算管理だ。今年は稼ぎを一番に考えるから、例えば、水泳部だからと言って無条件でプールを使わせる様な甘い対応は予定していない。他にプールを使って儲かりそうなイベントを企画をするグループがあれば、躊躇なくそいつらに使わせる。俺たちが使える資産を如何に無駄なく適切に配分するかが稼ぐための鍵だ。各参加者の企画を把握・調整し、全体として最適なアロケーションを行うことが最大のミッションとなる」
誰かがノートを開いて慌ててメモを取り出すと、多くの生徒がそれに続いた。
会議は既に緊張感で溢れている。その雰囲気を崩さない様に、敢えて説明のペースを上げていく。無論、後で全てをまとめた資料を配布する予定だ。この段階から脱落者を容認する余裕は俺たちにはない。
「次、営業推進班。こっちの仕事は明確だ。どれだけ適切に出し物を管理しようと、学校自体へ客足がなければ意味がない。集客のためにやれることは何でもやる。それから、参加企業を増やして文化祭の出し物を充実させることも重要だ。営業担当として、呼び込む企業に対し、俺たちがどんなサービスを提供出来るか考える。企画統括と内部折衝して、その為の時間、人員を確保し事に当たってもらう」
カリカリとペンを走らせる音が室内に響く。
一呼吸置いて、俺は再び言葉を発した。
「今回、文実の委員長・副委員長の肩書の他、雪ノ下が営業推進部長、俺が企画統括部長を兼務する。文実の人員は一先ず単純に学級で2分割し、1年生は営業推進、2年生を企画統括に割り当てるが、後で全体の進捗と人員の余裕を見ながら、適宜流動的に調整を行う。そん時は学年に関係なく、優秀な人間をリーダーに任命し、人を動かす権限を与える。2年は特に気を抜かないことだ…1年に顎でこき使われたくは無いだろう?」
そこまで言ってニヤリと笑うと、2年生の顔が引き攣るのが見えた。
初回の説明としてはこんなものだろう。
俺は席に戻ると、再び雪乃に視線で合図した。
「では、ここからは部門別に別れて取組計画を詰めて行きます。が、その前に、今年は生徒会に一つ担当していただきたい業務があります…城廻会長」
間髪入れずに雪ノ下が生徒会執行部の面々に向かって依頼を口にした。
「え!?生徒会に!?…な、何をすればいいのかな?」
雪乃の言葉に対し、かなり不安気な表情で城廻会長が聞き返した。
これまでの打ち合わせ、会議内容のレベルもテンポも、社会人のそれとほぼ変わらない水準で進めてきたのだ。
平塚先生の顔も引き攣っている位だから、きっと教職会議でもここまで一方的なプレゼンで次々と意思決定が行われていく様なミーティングは珍しいのだろう。
であれば、一高校生がこの流れでいきなり仕事をアサインされれば、不安に感じるのは無理も無い。
俺は少しだけ城廻会長に同情した。
「それはバザーの企画です。毎年どこかのクラスが全校規模で生徒各家庭から不用品や寄付品を回収し、文化祭で値段を付けて販売する、といった活動をしています。今年はこの企画は生徒会直轄で行ってもらいたいと思います」
「バザーを生徒会で?それは別にいいけど…でもどうしてクラス企画じゃいけないの?」
城廻会長は、雪乃の言葉に対し、今度はキョトンとした顔で疑問を口にした。
「この企画は毎年かなりの売上規模がある一方で、仕入にかかるコストはゼロ…利益率100%の超高収益ビジネスです。文化祭において学校全体の儲けの柱となる最重要イベントと言ってもいいわ。それに、参加者間競争がある以上、こういう企画は運営側で押さえる方が公平でもあるでしょうから」
「…なるほどね〜良くわかったよ。うん、バザーの企画・運営は生徒会に任せて!」
滅茶苦茶な業務負荷がかかりそうな依頼でなかったことにどこかホッとした表情を浮かべ、生徒会長は快諾した。
後に生徒会執行部の提出した企画書について、俺が容赦なく赤ペンを入れ、担当者を詰問攻めにし、城廻会長を泣かせる結果となったのだが、それはまた別の話だ。
「ありがとうございます。では1年生は私、2年生は副委員長の元へ集まって下さい。これより、各チームでプロジェクトのキックオフミーティングを始めます」
雪乃がそう宣言すると、各実行委員がガタガタと音を立てて席を移動し、グループが二分割された。
こうして、俺たちの文化祭が動き出した。