比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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25. 比企谷八幡は再び奮闘する(上)

文化祭準備が始動してから、俺の日常は劇的に変化した。

授業後は教師に帰宅を強制される時間まで学校でデスクワーク、帰宅途中にコンビニでパンを買い、それを齧りながら夜更けまで更に自宅で資料整理、分析、企画の詳細策定と修正を延々と行っていく。

金融マンだった頃と殆ど変わらない生活に、高揚感とストレスを同時に抱えながら、酒と煙草に手を伸ばしそうになるのを必死に堪えていた。

今日も授業が終わると、早々と荷物をまとめて文実の教室へと移動した。

雪乃が既に1年生メンバーと打ち合わせを開始しているのを横目で見ながら自分の指定席に着席し、無言でPCを開いて昨晩の作業の続きに着手する。

しばらくすると、同じくホームルームを終えた分実メンバーがぞろぞろと教室へとやってきた。

「比企谷君、コンピュータ部の企画書がメールで送られてきたよ。共有ドライブに保存するよ」

今話しかけてきたのは2年の田村という女子生徒。

最初はおっかなびっくりだった文実メンバーも、時間の経過と共に少しずつアサインされた業務に慣れてきているようだ。

昨年まで企画概要と大雑把な予算を紙に書かせて提出させていた企画申請書は、今回から全てスプレッドシートへの入力で行わせていた。

これは俺が表計算ソフトで作成したフォーマットであり、予算上のパラメータ値を細かく設定しながら、費用や売上の見積もりをはじき出す構成となっている。

また、企画案の承認後はそのまま実際の費用使用状況の進捗、来客時の販売実績を逐次入力することで、金銭の管理や各種集計が容易に出来るのも特徴だ。

過去に俺が経験した文化祭では、紙面で提出された企画書の文章と予算案を文実のメンバーが必死になってPCに打ち込んでいた。

今回のペーパレス化は、単純作業を減らし、文実メンバーが少しでも頭を使う仕事に集中出来る時間を捻出することと、後々の為により詳細なデータの蓄積を図る事を目的としている。

 

最初は何度か説明会を開き、クラスや部活の代表者へフォーマットの使い方を解説するのにかなり時間を割いたが、その甲斐あって、数日が経過した後にちらほらと企画書が提出されるようになってきていた。

 

「内容はどんな感じだ?」

「えっとね…インターネットカフェだって」

「コンピュータ室は飲食禁止だろ?カフェ要素はどうするつもりだ?」

「…企画概要にも飲食については何も書いてないね…”例年の取り組みに習い、PCを一般開放することで当部の活動環境を生徒・地域住民に幅広く知ってもらうことを目的とする”…って、うわぁ」

田村はファイルに打ち込まれた文章を読み上げながら、嫌なモノを見たといった表情を浮かべた。

「前例踏襲の明らさまな手抜き企画か。そもそもスマホ全盛のこの時代に、ゲームも出来ない、エロ動画も見れない学校のPCをワザワザ金払って使いに来るバカが何処にいるんだよ」

「比企谷君、私女子だから。エロ動画とか普通にセクハラでアウト…まぁ、お客さん来ないっていう見方には同意するけど」

俺の率直な感想に、形ばかりの突っ込みを入れながら彼女は同意した。

「とにかくこの企画案は不受理だ。このままじゃ、他のグループにコンピュータ室を使わせることになると釘を刺してやってくれ…」

「あれ、意外と優しいね?鬼の副委員長なら容赦なくPC取り上げるくらいするかと思ったよ」

「無駄に恨まれたくないだろ?」

「一応常識的な考え方も出来るんだ。意外」

「お前な…」

初日に勢いで強引に議案を通したことが災いしたのだろう。その後、マシンのように働き続けることでなんとか一部からは一定の評価を得たが、これまでの経緯を考えれば、そんな人物像を抱かれても無理はない。

これでも田村はよく着いてきてくれている方だ。

あれから企画の内容を更に丁寧に説明したつもりだが、実質運営の中心となる2年文実の3割は、「興味が沸かない」「理解が追いつかない」といった雰囲気で早くもシラケ気味である。

最初から俺に人望が集まるなんて甘い考えは持っていないが、メンバーのやる気を引き出し、チームの稼働率を上げるのも俺の仕事だ。癪だがそろそろ葉山の奴に頭を下げて協力してもらうなり、対策を講じなければなるまい。

「なぁ、1年D組の企画書、シートにエラー表示が出てるんだけど、どういうことか教えてくれないか?」

俺の思考は横でPCに表示された数字と睨めっこをしていた男子に遮られた。

同じく2年の文実である吉浜という生徒だった。

「ちょっと見せてくれ…あぁ、これはエラーコメント通り、費用と原資の金額が一致してないんだ。費用総額の見積もりが7万円なのに、申請予算が5万円になってるだろ?」

今回のシートのフォーマットは入力したデータの整合性を担保するため、特定条件下でセルにエラー警告が表示される仕様にしていた。

「本当だ。費用計算が間違ってるのか、それとも予算申請の入力ミスかな。とにかく、これじゃ資金が足りなくなるな」

吉浜は俺が指差したセルに視線を移しながらそう呟いた。

「単なる入力ミスなら良いが、一旦クラス代表に確認したらどうだ?」

「ああ。そうする」

「…このクラスの担任、文化祭とかのイベントでやたら張り切るので有名な教師だよ。これまでも、クラスイベントの費用を一部、生徒のカンパで賄ったりしてさ。足りない分は自分たちで出すつもりかもね」

横で話を聞いていた田村が不意にそう呟いた。

「マジか?そりゃ益々確認の必要性があるな。いずれにせよ、今年は生徒が手金を出す場合も活動資金としての入力・報告は必須だ。すまんが吉浜の方から、売上から生徒が出した金を払い戻し、残った金額を利益として計上するよう、通知を徹底してくれ」

「だよな。利益で競争するならそうじゃなきゃ不公平だし」

「それだけじゃない。中にはクラスの売上を丸々寄付させちまう理不尽な教師もいるだろうからな。生徒に無理やり出資させて稼ぎを全額寄付しちまうなんて、この学校のリスク管理能力の無さを露呈してる様なもんだ。労働を強いてる分、募金の強制よりタチが悪い。俺がそのクラスの生徒なら学校を訴える位の嫌がらせをする」

校内の情報に疎い俺にとって、田村のように今回の文化祭の趣旨を理解し、リスク提言してくれるメンバーがいるのは非常に助かった。

「ハハハ」

「お前見てるとマジでやりかねないから笑えねぇよ…今の聞きましたか、平塚先生?」

笑い出した田村と対照的に吉浜は呆れ顔を浮かべ、隣のデスクで泣きそうな顔で仕事に没頭していた平塚先生に話題を振った。

先生も、俺と雪乃のせいで山の様に膨れ上がった教職会承認事項の議案作成と、それを通すための資料準備に追われていた。

「わ、私はそんなことしないぞ!?」

PCの画面から顔を上げた平塚先生の目は、これでもかというくらい泳いでた。

「…平塚先生は特別ってことにしときます。生徒にラーメン奢ってくれるし、それでチャラでしょう」

「マジ!?先生、ゴチっす!」「わぁ!ありがとうございます!」

俺のフォローに、悪ノリした二人が目を輝かせながら無遠慮にそう言った。

「…卒業するまでは奢らん!」

平塚先生の反応に、二人と周囲の人間が笑い声を上げた。

「楽しそうなところゴメン、副委員長。私達のクラス…A組の企画なんだけど、ちょっと相談に乗ってもらえないかな?」

再び会話を遮ったのは同じく2年女子の文実メンバーである西岡という生徒だった。

「ああ。どうした?」

俺は若干緩んだ表情を元に戻して話の内容を尋ねた。

田村と吉浜も彼女の話に耳を傾けようとしている。

「今回の利益で競争って企画、うちのクラスじゃかなりウケが良かったんだけどね。皆んなヒートアップしちゃってさ。クレープの販売価格の設定でクラスが真っ二つに割れて、段々雰囲気まで悪くなって来ちゃって…」

「価格設定か。一番頭を使う所だからな。盛り上がってるなら良いじゃねぇか。それこそ今回のイベントの醍醐味だし」

「ちょっとは私の身になってよね!どっかの変人2トップのせいで、文実の仕事がただでさえキツイんだよ!自分のクラスの案がまとまってないんじゃ、仕事に集中できないから!」

一旦は突き放そうとした俺に対し、怒りの表情を浮かべて西岡は食い下がってきた。

その様子を見て、田村と吉浜はほくそ笑んでいる。

「わ、わかった…で、どんな値付け案が出てるんだ?」

「対立してるのは、500〜600円派と、200〜300円派。例年の実績から高くてもある程度売れて、赤字が回避出来るのが分かってるなら、大きな変更を加えるようなリスクは取るべきじゃないっていう意見と、廉価販売で競合飲食ブースから客を奪おうって意見で割れてるの。正直、どっちもの主張にも理がある様に思えるけど」

「なるほどな…販売戦略には色んな考えがあって、正解はひとつじゃない。あくまでも考え方の参考としてだが、俺から言えるアドバイスは3つある」

「なになに?」

西岡が嬉しそうな表情でそう言うと、周りからも何人かがペンとノートを持って集まってきた。どうやら彼らもクラスで似たような問題を抱えているらしい。

平塚先生も手を止めて、興味深げに俺の話を待っている。

俺は少し大きめの声で喋る事を意識して、レクチャーを開始した。

「一点目は、損益分岐点を把握することだ。例えば一個600円で売る場合、何個売れば費用が全額回収出来るのか。更にそこから何個売れば目標利益金額に到達できるか。まずはその販売個数が現実的に達成可能か考えるんだ。200円で売る場合は、費用の総額が同じなら3倍の数を売らなきゃいけないのは分かるよな?」

「そりゃそうだ」

西岡に代わり、吉浜が相槌を打った。

「だが現実はそんなに単純じゃない。ここで2点目、固定費と変動費の関係を把握することが重要になる。普通、売る数が多ければ多い程、材料費は沢山かかるだろ?」

「え?固定?変動?…そうかもだけど…じゃあ安く売るだけ損ってことだよね?」

今度は田村が疑問を口にした。

「そうとも限らん。材料費は販売する個数に応じて変動する”変動費”だが、クレープ屋をやるには、販売個数に連動しない一定の出費、”固定費”が存在するだろ?ホットプレートみたいな機材とか、教室の装飾とか衣装とかな。費用の総額に占める固定費の比率が高い場合、数を売った方が、販売1単位…クレープ一個を売るのにかかる平均費用は少なくなる…分かるか?」

俺は顔を上げて話を聞いていた連中の表情を伺った。

皆の頭の上に疑問符が浮かんでいるのが目に見えるが、俺は一旦呼吸を置き、彼らの言葉を待った。

「うん…ん?ゴメン、よく分かんない」

西岡が素直にそう漏らすと、田村が咄嗟にキャスター付のホワイトボードと水生ペンを持って来る。本当によく気がつく奴だ。

俺は立ち上がって、ペンを受け取りボードに書き込みながら再び解説を続けた。

「…適当に例を出すぞ。クレープ一個を作る材料費が100円とする。これは変動費な?その他、ホットプレートは一台2万円のものを5台仕入れて10万円、教室の飾り付けで2万円かかるとすると固定費は合計12万円。ここで、クレープを300個売る場合、変動費は3万円だから、コスト総額は15万円。クレープ300個で割り戻すと、一つあたり500円になる。一個600円で売るなら、単位利益は100円。全部で300個だから3万円の利益が出る」

「ふむふむ」

皆まじめな顔でボードに書き込まれる文字、図形、数字を追っていく。

「ここで、販売価格を300円に下げる代わりに、売れる個数が4倍に伸びるとしよう。それがホットプレート5台と1教室のキャパシティで焼けるクレープの最大数だと仮定する。今度は変動費が100円x1200で12万円、固定費12万円と合わせて費用総額は24万円だ。クレープ一つ当りにすると1200で割って…200円。一個あたりの利益はさっきと同じ100円だ。だが今回は1200個売ってるから、利益総額は12万円。圧倒的にこっちのが儲かる訳だな」

「あぁ、なんか分かったかも」

「本当か?かなり単純化してるが、結構高度な話だから、分からなかったらちゃんと言ってくれよ?」

今の話は会計で言う原価計算の基礎だが、レベル的には大学生が習うものだと思われる。

本当に理解したのか、俺は念のため確認を取った。

「要するに固定費ってのが大きい場合、販売個数を増やせば一個あたりにかかる費用をそれだけ分散させられるから、安値で売っても儲かるって話でしょ?逆に言うと、変動費が大きい場合、値下げすると利益を出しにくくなるって事だよね。あ、ハンバーガーチェーンが安売りしてるのって、ひょっとして固定費が高いから?」

「…理解力高ぇな、おい」

西岡の予想外の頭の回転に俺は舌を巻いた。

「バカにしてる?私これでも総合成績学年10位以内なんですけど?」

俺の呟きに対し、西岡は胸を張ってそう答えた。それを聞いていた周囲の連中も、"おぉ~"と感嘆の声を漏らした。

「いや、感服だ…まぁ、実際にはホットプレートは家庭科室の在庫を使ったり、生徒が自宅から持ち込めば費用は大きく減らせるだろうし、そもそも固定費の代表格でもある人件費は文化祭じゃかからない。ただその一方で、一個あたりの材料費が実際どの位かかるかとか、ホットプレート1台で1日何枚のクレープが焼けるのかも計算してみないことには分からんから、この辺の数字を正確に把握して、シミュレーションするのがいいだろうな」

そう言って俺は2点目のアドバイスを締めくくった。

今も必死にメモを取っている奴らには、後でもう一度説明する必要があるだろう。そうだ、そのレクチャーは西岡か田村か吉浜にやってもらうのがいいかもしれん。この3人には後々人を動かす仕事をしてもらいたいから、そのいいトレーニングになる。

「うん…でもさ、さっきの例えで気になったんだけど、価格を半額にすると販売個数が4倍に伸びるって前提、それがどの位正確なのかってメチャクチャ重要じゃない?それが分からないとシミュレーション出来ないし…」

俺が3点目の説明を始める前に、西岡が鋭い疑問を口にした。

「仰る通りだ。それが最後のポイント、需要の価格弾力性を考えること、だ。平たく言うと、値段を一定水準下げた時に、それを買いたいと思う人がどの位増えるかって事な…これは実際に目で見た方が分かりやすいかもしれん。このPCの画面、ちょっと見てくれ」

そう言って俺は再度PCの前に腰掛け、過去の文化祭の実績データファイルを開いた。

文実の稼動初期段階に、バインダーに保存されていた過去の資料を、沙希や結衣にも手伝ってもらいながら、皆で必死になってデータ入力した貴重なファイルだ。

「お、文実ビッグデータじゃん」

ファイルを目にした吉浜が茶化すようにそう呟いた。

データは企画立案の参考として使うよう、各参加者に無償配布していたが、そんな変な名前が付けられていたとは知らなかった。

その声に呼応するように、更に俺の周りに人が集まってくる。

しかし、なんというか、近い…なんか良い匂いするし。どの女子だ?西岡か?田村か?

そんな考えが一瞬頭に浮かぶと、教室の反対側で1年と打合せをしていた雪乃から、刺すような視線が飛んできた。

俺は慌てて画面で顔を隠すように背を丸め、PCの操作を続けた。

データの中から、売上と販売個数の数値を抜き出し、単純な割算で年毎に平均販売単価を計算していく。

そして何年分かの販売個数と平均単価を散布図として画面に表示させた。

「今作ったこのグラフ、x軸を販売単価、y軸を販売個数として、何年分かの実績値をプロットしたものだ。もしも価格弾力性が高ければ、この散布図の近似曲線は負の傾き…つまりxが小さいほどyが大きいというトレンドを示すことになる。だが、実際にはどうだ?」

「傾きがほとんどないな。って言うか、点がバラけてて全然相関してなくないか?」

吉浜が俺の質問に答えた。

「だな。これは需要が価格にあまり反応しない事を意味する…推測だが、文化祭のような行事で食物を買うとき、誰もネットで価格を比べたりしないし、祭りの高揚感で財布の紐が緩くなるってのが一つの理由かもしれないな」

可視化されたデータを見ながら、俺は自分なりの感想を述べた。

「ねぇ、この年の点、価格はそんなに安くないのにやたら販売個数が多いよ…これひょっとして一昨年のデータじゃない?」

田村が明らかに異常値とも思えるドットを指差してそう言った。

それを確認するようにグラフ上の点をクリックして、参照セルの数値に目を落とすと確かに一昨年のものだった。

「よく気付いたな…その通りだ。これを見る限り、売上個数は価格以上に文化祭自体の動員数に左右されてる可能性が高い。人間、値段が安かろうが1日に同じ食物をそう何個も買わない。それなら人が多い程売れるってわけか。これも価格感応度が低いことの要因かもしれん」

「つまり高くても安くても売れる数は変わらないってことになるよね…初めからこれ見せてくれれば一発なのに。1点目と2点目のポイント意味なくない?話が長い男はモテないよ?」

西岡の言葉に周囲が沸き立った。

「おま、人がせっかく…」

「あはは、冗談冗談!色々勉強になったよ。クラスでこの考えを説明してみるね」

「ああ…話が長いついでにもう何点か付け足しとく。過去のデータはあくまでも参考だ。ずっと一定の価格で売らなきゃ行けないというルールはないし、キャンペーンセールで一時的に安売りして当日に実際に客足が伸びるか確認してみてもいい。それから、客層に応じて価格を差別化するとかな。女性割引、カップル割引、シルバー割引、色々あるだろ?ビジネスで選べる戦略は無限大だ」

「なんか、そう考えると楽しくなってくるね」

楽しげな表情で田村がそう言った。西岡も吉浜も満足げな顔で頷いている。

「そいつは結構。あと、一つ注文するとすれば、後から見た奴が、この年にどんな戦略で出し物を企画したのか分かるだけのデータを記録して欲しいって事だ。どんな客に何をいくらで売ったのか。時間帯は、割引は、商品以外のサービスは、広告戦略は…それにかかった費用も同じくらい細く正確にな…企画書のフォーマットはそのためにある」

無論、来年以降の参加者がそのデータを使って、更に高度な戦略を練られるようにするためだ。

俺たちが整備した過去のデータも、ビジネス戦略を考える材料としては明らかに量・質の双方で不足している。

「そうだね。でもそれを言うなら、データをどう使って分析したかとか、逆に分析するのにどんなデータが欲しかったか、とかもしっかり記録しとかないとだめだよね。比企谷君みたいに数字の羅列から有意義な情報を抜き出して戦略を組立てられる生徒なんて、この先もそうはいないだろうから」

俺は西岡の言葉にハッとさせられた。吉浜も田村も、その意見に同意を示している。

確かにデータだけ残しても、その使い方も伝えなきゃ宝の持ち腐れだ。正直、忙しすぎてそこまで頭が回っていなかった。

「…盲点だった。流石、学年10位だ」

「あ、またバカにした! 10位”以内”だから!」

――まだ若くても優秀な奴は本当に優秀なんだな

彼らと会話を交わしながらそんな感想を抱いた。

前回の文実じゃ、一言も会話しなかった連中の中に、これだけの人材がいたことに正直驚きもしている。

協力的な姿勢で取り組んでくれる3人と、興味を持って集まってくれたメンバーに素直に感謝すべきだろう。

ふと対角線上のスペースで1年との打合せを終えた雪乃と目が会うと、一瞬だけ微笑むのが見えた。

☆ ☆ ☆

「はぁ…」

俺はその日の文実業務が終了した後も、一人黙々と残業を続けていた。

PC画面の隅に表示されている時刻を見ると、既に21時を過ぎていた。そろそろ平塚先生が帰宅を促しにやってくる時間だ。

――比企谷が残っていると私が帰れないじゃないか。少しは気を使いたまえ。

そんな小言を漏らしながらも、平塚先生は文実の監督が終わった後も、職員室で一人仕事に打ち込んでいるのだから頭が上がらない。

社畜慣れした俺に言わせれば、21時は "まだまだここから" な時間帯だが、あまり彼女に迷惑をかけるわけにもいかない。

そんなことを考えていると、ドアがガラガラと開かれた。

平塚先生がやってきたのかと思い顔を上げると、入ってきたのは奉仕部の3人だった。

「だいぶお疲れのようね」

「ヒッキーお疲れ!」

「その姿、本当にサラリーマンっぽい…はいこれ、差し入れだよ」

三者三様の労いに有り難味を感じながら、沙希から差し出された弁当箱を受け取った。

「悪いな。っていうか、雪ノ下はともかく由比ヶ浜と川崎は何で学校に残ってんだ?川崎は妹の件、大丈夫なのかよ?」

「一回帰ってるよ。もう親も帰宅したからね。そうじゃなきゃどうやって弁当用意するのさ?」

そりゃそうだ。早速沙紀から手渡された弁当をパクつきながら、疲労による思考能力の低下に気づき、苦笑いを浮かべた。

「お弁当、美味しい?…あたしもサキサキの家で教えてもらいながら手伝ったんだよ!」

結衣がそう言った瞬間、口に放り込んだ卵焼きからジャリっと音が鳴る。

――別にカルシウムは不足してねぇんだが…これを焼いたのは間違いなく結衣だな。

「ああ。うまい」

卵の殻の食感を含めて、なんだか懐かしい味付けだった。

「あ、次から由比ヶ浜は味見専門でいいから…台所破壊されたら生活に支障出るし」

「ヒドイ!」

「ふふ、私も二人のお弁当をいただいたのよ。美味しかったわ…ありがとう。ところで、比企谷君。業務進捗はどう?」

「中々企画案へのフィードバックが進まなくてな。中には俺が思い付きもしなかったアイデアを持ってくるグループもいるから、リスク分析に四苦八苦してんだよ」

「意外ね。さっきは文実メンバーに立派にレクチャーしていたのに」

「そりゃ少しずつでも、奴らにも企画の評価を出来るようになってもらいたいからな。飲食とか、オーソドックスなブースは最終的には俺の判断抜きで承認・監督するように権限委譲してくつもりだ。じゃなきゃ回らねぇしな」

「へぇ。逆に貴方を振り回すようなオーソドックスでない企画があるのかしら?」

「ある。例えば、今見てるレスリング部の勝ち抜き腕相撲が正にそうだ。"挑戦料200円、5人抜きで賞金1000円提供"だってよ。投資銀行にいた時でも、こんなビジネスの評価はしたことねぇよ。確かに初期コストはほぼゼロで、5人のうち誰か1人でも勝ちゃ売上が丸々利益になる。だが、5人抜かれれば、顧客5人から得た売上を一気に失う。面白いっちゃ面白いんだが、赤字が出ないようにどう管理するかが問題だ」

「そんな企画、賭博と同じじゃない。法令違反になるわよ」

「これでも生徒が前向きに頭使って考えた企画だから、俺も色々調べたんだよ。賭博罪の成立要件は”相互的得失関係”、つまり”参加費=賭金で賞金捻出”という関係を断ち切ればこれには該当しなくなるってわけだ。参加費はイベント運営に当て、賞金は別途スポンサーから提供される資金で賄うという会計上の整理さえつけとけば問題にはならん…はずだ」

「違法じゃなくても、そんな儲かるか大赤字になるか分かんないのは、アンタにとって別の意味でギャンブルじゃないの?」

俺と雪乃のやり取りに対し、横から沙希が中々鋭い質問をかぶせてきた。

正にその点が今、俺が手を動かして分析しているポイントなのだ。

「企画の事業性を評価するのが俺の仕事なんだよ。日本人の筋力にかかる統計と、レスリング部の連中の体力測定データを照らし合わせて、奴らが正規分布の上位何パーセントにいるか計算すれば、5人抜きされる可能性を数値化できるはずだ。そうすれば、想定参加者数から最大損失額の試算が出来る。それで賞金を事前に手当てするんだ…保険ビジネス的な考え方だな」

「訳の分からない理屈をこねくり回して、儲かりそうなことは何でもやるのが金融の仕事だってことは解った」

「なんか、ヒッキーにピッタリだね!」

笑顔で沙希の言葉に同意する結衣。

――殆どあってるから笑えねぇよ

この歳で俺の仕事の本質を言い当てるとは、恐ろしい女達だ。

「呆れるほど親切なのね。貴方のことを、”事業仕訳人”と揶揄してる人達に聞かせてあげたいわ」

「そんな渾名がついてんの、俺?…でもこれ競争企画だから。1位狙わなきゃ意味ないよね。2位じゃダメなんですか、とか俺は言わんぞ」

「やっぱり何言っているのか良く分かんないよ、ヒッキー」

「ちょっとした時事ジョークだ。忘れてくれ」

俺にとって20年近く昔の記憶から掘り起こした会心のネタは、結衣には通用しなかった。

それはさておき、これまでの話からも分かる通り、俺が今最も時間をかけているのは企画・予算原案の審査だ。

不備があれば突き返すが、何が間違っているのか、どういう観点で物事を考えるべきかを一点一点丁寧にフィードバックしなければならない。

最終的に個々の企画をある程度のレベルまで磨き上げれば、見通しの甘さから赤字を垂れ流すことは防げるはずだ。

そのためのノウハウ伝授は少しずつだが進んでいる。今日レクチャーした西岡、吉浜、田村あたりは有望株だ。この辺りの仕事はこれから彼らを中心に回せるようになるだろう。

そうなると、俺は次の段階として、全体の中での企画の調整をしなければならない。

各参加者や出展企業の出し物が重複した場合の措置を考えたり、そろそろ雪乃の営業推進チームと連携して客足を伸ばすためのイベント構成を考え始める必要がある。

「営業の方はどうだ?」

そんな考えから、俺は雪乃に質問を返した。

「順調よ。広告には特に力を入れているわ。市民報、商店街への広告掲載依頼…思いつくことは全部やっているし、企業の出展希望もそれなりに数が集まっているわよ」

「これからアタシたち3人で宣伝動画も撮るんだよ!」

雪乃の説明にかぶせて、結衣が楽しそうにそう言った。

「3人で?」

「…はぁ。一年生に計画立案と遂行の権限を与えたのよ。やる気を出してくれたのはいいのだけれど、そのうち、使えるモノは委員長でも先輩でも使うなんて言い出して…」

「で、雪ノ下から相談を受けたアタシ達まで巻き込まれたって訳…あの一年、広告は"顔"だとか調子に乗って、アタシと由比ヶ浜の見た目に点数まで付けてさ。男子だったらタダじゃ置かないけど、これが女子なんだからタチが悪いよ」

「…なんか、そっちはそっちで大変なんだな」

ため息交じりの雪乃と、あまり乗り気ではない沙希の説明で大体の状況を把握する。

「この二人に挟まれて撮影されるなんて気が重いよ」

「挟まれて気が重いのは私の方よ。…撮影用の衣装、あれだけは絶対に却下するわ」

沙希も雪乃もそれぞの懸念を口にした。

雪乃は自分の胸に手を当てて溜息をついている。

――体型が出るキワドイ衣装なのか

雪乃の動作から、彼女の悩みのタネを理解してしまった。

その衣装を着た3人、個人的には是非見てみたいが、そんな恰好で彼女たちが不特定多数の目に晒されるのは俺も嫌だ。

ここは雪乃に頑張ってもらうしかないだろう。

「それから…広告動画とは別に、テレビ局が取材に来るわよ」

「は!?マジか!?」

ついでのように呟いた雪乃の進捗報告に、俺は驚きを露にする。

「テレビ局と言ってもケーブルテレビのローカルチャンネルよ。この学校の一生徒の親御さんがそこに勤めているらしいの。今年は面白そうな取組をしてると、生徒づてに話を聞いたらしくて…こっちはあなたにも出てもらうからそのつもりでいなさい」

「お、おう…」

俺がテレビに映るとか、考えただけでも怖んだが。しかし、ケーブルテレビのローカルチャンネルと言えば、毎年甲子園地方予選の弱小高校対決を放送しているような、地方限定ネタを追いかけてるような番組しか持っていないはずだ。

それ程目立つことはない…よな。

一先ずこの件は心に留めて、もう一つの懸念事項を雪乃と共有しなければならない。

「…スポンサーの方はどうだ?一応例年並みの協賛金で全体予算を組んじゃいるが、結構気合の入ったクラスが多くてな。予算案の見直しで申請金額の増加を今の所なんとか抑えてはいるんだが、競争にする以上、優勝企画やユニークな企画には表彰だけじゃなく、何らかの報償も付けたいところだ…現金は無理にしても図書券とギフトカードとか。一昨年程じゃなくてもいいが、正直言うともう少し活動資金が欲しい」

「私の実家や一昨年寄付を増額した企業からは例年の水準以上は受け取っていないけれど、それとは別枠で新規の開拓は進めているわよ。不動産会社、引越会社、家具・家電の小売企業からいくらか調達出来ると思うわ。大学進学後に実家を離れる学生が多いから、この辺りの企業の校内広告掲示を条件として提案しているの。これは劉さんのアイデアよ。その他の企業にも営業攻勢もかけているわ。1年生の…見た目が良い子たちを中心にね」

「へぇ、やるもんだな。助かる。…見た目基準というのは世知辛いが」

大声では言えないが、世の中、男女限らずに顔採用というものは普通にある。

俺の勤めていた会社もそうだ。受付嬢しかり、営業担当しかり。俺はトレーダー採用だから、その篩にかからなかったのは幸いだろう。

どうやら広告動画を担当する1年は世間の仕組みをよく理解しているしっかり者で、その考えは文実でも共有されているらしい。これも社会勉強の一つだ。

「…ふふ」

「どうしたの、ゆきのん?」

「色々頭を抱えることも多いけれど、こんなに楽しいのは久しぶりよ」

「そうか。やっぱお前、キャリアウーマンの素質があるよ。俺もそれなりに楽しんじゃいるが…昔の俺には考えられんことだな」

「昔?…何故?」

「"高校時代"の将来の夢は専業主夫だったんだよ。それが今じゃ完全なワーカホリックなんだから、笑えるだろ?」

俺は自嘲しながら弁当の隅に残った最後のコメを口に運んだ。

「専業主夫…アタシと由比ヶ浜は社会人になったアンタと付き合ってたんだから一応セーフだよね?」

沙希はゲッとでも言いたげな渋い表情を浮かべた後、皆に同意を求めた。

「さらっと私だけアウトにしないでもらえるかしら。不愉快だわ。ひょっとして貴方、昔は養わせるつもりで、私を言いくるめたの?」

――ブハッ!

俺は口に入れた飯をその場で盛大に噴出した。

「ヒッキー汚い!!」

口は災いの元とはよく言ったものだ。

その後、久々に奉仕部の面々でしばらく盛り上がった。

その大半は俺に対する罵詈雑言の嵐だったが、不思議と自分の心に安らぎをもたらしてくれた。

☆ ☆ ☆

「比企谷さ、夜ちゃんと寝てんの?」

「ん?急にどうした?」

今俺は、沙希と二人で夜道を歩いている。

あの後、教室に入ってきた平塚先生に、全員帰宅を支持されてこの日の学校での業務時間は終了となった。

平塚先生は帰る方角が同じ結衣と雪乃を車に乗せ、俺には沙希を自宅に送り届けることを命じて学校の門を閉めた。

「目の下、隈が出来てるよ。やっぱり忙しいわけ?」

「まぁ、そこそこな。だが社会人生活に比べりゃ遥かにマシだ」

「そ。…あ~あ、きっと言えなかったんだろうな…」

「何が?」

沙希の突然の呟きに対し、思いたる節が全くない俺は、素直に聞き返した。

「何でもない!」

それに対し、慌てたような表情で沙希がそう答えた。

「何だよ?気になるだろ」

「ったく、この男、本気でムカつく!」

「え!?何!?なんか、すまん…」

突然怒り出す沙希を見て、俺は慌てふためいた。

沙希はそんな俺の様子を見て、はぁ、と深めのため息を吐いて口を開く。

「…アタシと仕事のどっちが大事なの?って、もう一人のアタシも…たぶん由比ヶ浜も言いたくて言えなかったんだろうなってこと!このバカ!」

「は!?え!?」

沙希の突然の言葉の意味が飲み込めずに、俺は激しく動揺した。

「…ま、今うろたえた分だけ、可愛げがあるってことにしとく…目の下黒いのに、表情だけはイキイキさせちゃってさ。夏休み明けから妙にウジウジしてたのが嘘みたい」

ようやく彼女の言葉の意味するところを察したが、何と言葉を返せばいいのかわからない。

「…顔には出ない方だと思っていたが」

咄嗟に出たのは、きっと彼女が望む言葉とは程遠い、ピントの外れた呟きだった。

「マジで言ってんのそれ?…色んなこと知ってるのに、自分自身のことを知るのって、やっぱり難しいものなんだね…」

お互いに会話が続かなくなり、静かな夜道に二人の靴音のみがコツコツと響いた。

段々と沙希が住む団地へと近づいていく。

「ねぇ…手、繋いでいい?」

彼女の家まであと少し、という所で彼女が不意にそう尋ねてきた。

「あ、ああ…いいのか?」

彼女の申し出に、嬉さ半分不安半分な俺は、またも素っ頓狂な返事を返してしまった。

「ダメなわけないでしょ…あんな告白したのに、変な所で律儀だよね、アンタって」

その言葉を聞いて、恐る恐る沙希の手を取る。

彼女の手のひらは柔らかく、温かかった。

沙希は俺の手をどのように感じているのだろうか。そんな疑問を頭に浮かべていると、彼女は俺との繋がりをより深く求めるように、ゆっくりと指を絡めてきた。

「…恋愛って、もっと勢いでどこまでも行っちゃうものだと思ってた…それが、こんなどうしようもない奴が初恋の相手なんて、アタシもバカだよ」

「…すまん」

彼女の呟きに対し、口をついて出るのは謝罪の言葉のみだった。

こんな時に女性にかけるべき言葉は、もっと別にあることは経験則で分かっている。

だが、その正解となる台詞は今の俺には見付けることが出来なかった。

「謝らないでよ…今は比企谷に謝られるのが一番怖い」

こんな沙希の反応はある程度予想できた。

返すべき言葉を求めて頭を全力で回転させるが、俺はやはり彼女に対し、何も言ってやることができない。

「…アンタがいて、雪ノ下や由比ヶ浜がいる奉仕部は私も好き。でも、やっぱり不安になる。これからも今の関係が維持できるのかって考えるとすごく怖い。あの子達もたぶん一緒なんだと思う」

「そうか…そうだよな」

ちょっとした切欠で簡単に崩れそうな、氷の橋を渡るような関係。

そんな環境を作り出してしまったのは、他でもない俺のエゴだ。

謝罪を禁じられた俺にできる事は、彼女の意見に耳を傾け、彼女が何を考え、何を感じているのかを感じ取ることだけだった。

沙希の家まであと1ブロックという所まで歩くと、不意に沙希が手を離した。

「ここまででいいよ。今日は一緒にいられてうれしかった…それから、折角の機会だったのに、困らせるようなことばっかり言ってごめん」

「家の前まで送らせて欲しいんだが…だめか?」

「ありがと。でも大丈夫…さっきから由比ヶ浜がひっきりになしに電話してきてるから、そろそろ出ないと後でメンドくさそうだし…あの子、思った以上に芯が強いよ。雪ノ下や私とは正反対なんだよね。ちょっと尊敬する」

沙希はそう笑いながら言って、携帯の画面を俺に見せた。

俺は沙希の観察眼に驚いた。半年にも満たない付き合いで、二人の本質を見抜いているかのようだった。

「…大したもんだな」

「そんなの誰でも分かるでしょ。…そうだ。今日は雪ノ下につまんない嫉妬して、ちょっと意地悪しちゃったから後で謝っとかないと」

「意地悪?俺は全く気付かんかったが…」

思い出したように沙希がそう口にするが、俺にはまたも思い当たる節がなかった。

「昔のアンタの専業主婦志望の話。私、女子3人の間で線引きしちゃったでしょ…今頃一人で悩んでるかもしれないし、こんなのでアンタと雪ノ下の関係に亀裂が入ったら、アタシもたまんないから」

周りの反応を覗うようにしながらも、内に強い芯を秘めているのが結衣。

打たれ弱く依存心が強い内面を持ちながら、それを表に出さないよう一人努力を重ねるのが雪乃。

だとすれば、一見人を寄せ付けないような振舞いをしながら、人一倍気配りに長け、優しいのが沙希という人間の本質なのだろう。

「やっぱ優しいな、お前は…俺は、いつも甘えすぎちまって…」

「ハイ!謝るのはナシ!…アタシ、そろそろ行くよ」

俺の言葉は沙希に遮られた。

彼女はそう告げると、片手で肩にかけるように持っていたカバンを両手で持ち直し、くるりと回って駆け出すように家へと歩を進める。

そして、5メートル程進んだ所でもう一度こちらを振り向き、少し大きめの声で俺に尋ねた。

「アタシもさ、比企谷のこと…好きでいていいんだよね?」

「可能ならずっとそうあって欲しい…って言うのはエゴか。俺の方こそ…お前を好きでいていいのか?」

俺は卑怯にもそう聞き返した。

 

沙希はその質問には答えない。

 

沙希は視線を外し、少しの間だけ下を向くが、その後顔を上げるとフッと笑って俺の元へ再び走り寄ってきた。

体がぶつかりそうな位置まで距離を詰め、ピタッと停止する。

 

顔と顔が触れ合いそうな距離。

沙希の瞳の中に自分の姿が映り込んでいた。

彼女はそのままゆっくりと目を閉じて、俺の唇に彼女の唇を重ね合わせた。

 

「…一応、アタシのファーストキスだから…忘れないで」

顔を離すとそう小声で呟き、彼女は再び家へと走っていった。

 

唇が触れ合う程度のその軽いキスは、何故か彼女と肌を重ねた記憶よりも深く俺の印象に残った。

 

 

 

 


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