「比企谷、ちょっと時間いいかい?」
今日も文実の業務を淡々と進めていると、会議室のドアが開かれた。
入室するなり俺に声をかけて来たその人物に、皆の視線が集まる。
「あん?葉山か…どうした?」
俺はPCの画面から顔を上げることなく、返事を返した。
ここのところ雪乃は、一部の一年を連れて外回りの営業に出ており、今日も不在だった。
片や俺は、今日の葉山のように企画の相談に来る連中の相手や、提出された申請書の添削に並行する形で、相変わらずイベント全体の予算調整、各企画のコーディネートに追われていた。
「F組の企画についてクラスを代表して相談があるんだ。忙しい所、すまない」
葉山の用件を聞きながら、俺はなおもPCでの作業を続ける。文書作成のキリのいい所で気持ち強めにEnterキーを叩いてから、奴と目を合わせた。
「別にかまわん。俺もクラスの方には殆ど関わってないしな…埋め合わせのいい機会だ」
2年には依然としてサボっている者も多いが、業務は俺の徹夜作業と、吉浜等を中心とした、やる気を見せた連中の頑張りで、ギリギリスケジュール通り進捗しているという具合だった。
まだまだ問題はあるが、文実は一応平常運転と言って良いだろう。
葉山からの相談は2年F組の企画の予算案に関することだった。
奴の理解力は高いだけあって、俺からの説明やアドバイスは順調に進んでいく。
「それにしても、今回の文化祭…よくこんなアイデア思い付いたな」
相談が一段落した段階で、葉山はふうっと肩の力を抜くようにして、そう呟いた。
「何だ、苦情か?」
「いや、実に面白いよ。F組の皆も張切ってるからね」
「そうか」
そんな会話を交わしていると、再び会議室のドアがガラガラと開かれた。
再びドアへと視線が集まる。
「ひゃっはろ~」
入ってきたのは私服の女性だった。その女性、雪ノ下陽乃は俺と葉山の姿を見るなりツカツカとこちらへ近づいてきた。
「「…」」
「や、比企谷君。夏休み以来だね。隼人も久しぶり。今日はめぐりに呼ばれて、OGとしてイベント参加の申し込みに来たんだよ~」
黙っている俺たちに対し、満面の笑みで彼女はそう言った。
――またトラブルを持ち込もうとしてるんだろうな
そんな考えが頭を過り、警戒心が高まった。
「今年は有志の参加申請は学校のウェブサイトからフォーマットをダウンロードして、メールで提出するようにお願いしてるんですが」
だからワザワザ学校まで来ないで下さいよ、という言葉は心に留めつつそう答えた。
「比企谷君、冷た~い。じゃあ今空いてるPC貸してよ。ここで登録してくから」
そんな俺のささやかな抗議をまるで無視するかのように、彼女は俺の隣の席に腰掛けた。
「…今年の文実は例年と趣向を変えた取組みを企画してて、中々盛り上がってますよ」
葉山が場を繋ぐ様に、そんな説明をする。
「うんうん、めぐりから聞いてるよ…でも、委員長の雪乃ちゃん含めて、今年の文実は比企谷君の"傀儡組織"みたいだよね。日陰者から王様になるのって、やっぱり楽しい?」
彼女は一瞬だけ鋭い視線を投げかけながらそう言うと、再び仮面を被った様にニコニコとした表情へと戻る。
その言葉を聞いた葉山は引き攣った笑みを浮かべた。
「雪ノ下の奴にはもう少しだけ優しくできませんか?曲りなりにも貴女を目標にして頑張りたいって言ってるんですよ。それに、俺はあくまで彼女の部下として頭と手を動かしているに過ぎません。俺がやりたい放題やったとしても、最後の責任は彼女に帰着します…組織ってそういうもんでしょ」
「へぇ~。雪乃ちゃんが認めるだけあって口は達者ね…でも、この文実、本当に上手くいってるのかな?」
冷めた表情で俺がそう答えると、彼女は意味深な笑みを浮かべながらそう言った。
「どういう意味ですか?」
彼女の言葉に顔を歪めた俺とは対照的に、彼女の発言の真意を得ないといった表情の葉山が
そう尋ねた。
「働き蟻でもサボるのは2割って言うよ…お姉ぇさんには、それ以上の人数がドロップアウトしてるように見えるけどな?」
教室に入ってきたばかりの彼女にそれが分かるのは流石といったところだろうか。
「…まぁ、事実ですね。稼働率を上げるいいアイデアがあれば教えてください」
その場をやり過ごすため、俺は素直に教えを請うことを選んだ。
「仕方ないなぁ…比企谷君、集団を最も団結させるのは何か知ってる?」
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、俺に問いかけた。
「"目標共有"と"利害一致"の二つです」
「あら?即答できちゃうんだ」
目標共有は成功する組織の基本だ。経営者やリーダーには、組織としての明確なビジョンを描き、従業員に対し明確な方向性を示し導くことが求められる。この点は、劉さんや武智社長に出来て、俺に出来ないことの一つだとは思う。
利害一致についてはどうだろうか。一般に人を何かのために使役するにはコストがかかる。従業員が経営や株主の利益に沿った働きをしない限り、支払われる給料は無駄金となる。それを防ぐためのスキームとして、給料の一部を業績連動にしたり、ストックオプションやプロフィットシェアリング等といったインセンティブを付与し、株主と従業員の利害一致を図る企業は多い。だが、学校の一委員会という組織の性格上、そのような"利"を与えるスキームを構築することは困難だ。
「どこにでもあるマネージメント論の受け売りです。どっちも今の俺には難しいですど」
「…比企谷君って本当に変わってるね?"正解は明確な敵の存在"…な~んて得意げに教えてあげようと思ってたのに、ちょっと可愛くないかなぁ」
「それで大声で”傀儡”とか言っちゃうんですか?…勘弁して下さいよ。俺を敵に仕立ててどうするんですか。これ以上離反されたらたまりませんって」
共通の敵がいるだけで仲良くできるなら、昨今の中東情勢はここまで複雑化していない。
味方の敵が味方になるのも、敵の味方が味方になるのも、全ては覇権と利権の複雑な絡み合いの中で生じるバランス次第。それは個人の対人関係に置き換えても同じことだ。
強いて言えば、彼女が言っているのは”利害一致”の下位概念に過ぎない。
「あらら。ひょっとして比企谷君、拗ねちゃった?」
「俺をギャフンと言わせるだけなら文化祭で結果を出すより、全力で邪魔しにかかった方が手っ取り早いじゃないですか…これって、これまで散々雪ノ下が苦しんできたことっすよね?ひょっとして、分かっててやってるんですか?」
「…ぷっ、アハハハハ。比企谷君、やっぱり面白い!あの劉さんが褒めるだけあるね!」
――絶対分かっててやったな、この性悪
無邪気な顔で腹を抱えて笑う彼女を見て、俺の顔に苛立ちの表情が浮かぶ。
「まぁまぁ…俺にも出来ることがあれば手伝うから。陽乃さんも手を貸して下さい。お願いします」
その様子を見ていた葉山が、俺たち二人を宥めるように割って入ってきた。
「え~。しょうがないな~。これは高くつく貸しだよ。ちゃんと埋め合わせてよね。そうだ!比企谷君、今度デートしよっか!」
「…俺じゃなくて、サボってる奴らに、頑張ったらデートしてやるって言ってやってくれませんか?葉山も手伝ってくれるなら、ドロップアウトした女子に是非そう言ってやってくれ。これ以上のインセンティブはないだろう」
俺は彼女からのお誘いを交わしながら、そう答えた。
「それはちょっと…」
「うん、ムリ」
葉山は苦笑いを浮かべつつ、彼女はニコッと百万ドルの笑顔を浮かべながら、俺からの提案を却下した。
「そっすか…残念だ」
最初から受け入れられるとは思っていなかった俺は、別段興味もなさげな声色でそう言った。
「…何か他に思いついたら、声をかけてくれ。すまない、俺はそろそろ教室に戻らないと」
葉山は部屋の壁に掛けられた時計で時間を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべ、会話を切り上げようとしている。
「おう」
俺の返事を受けて、葉山は会議室を後にした。
「じゃあ私は、このPC借りるね」
一間を置いて、彼女は座席に設置されたノートPCの画面を開き、申請書の作成に着手する。
現役高校生の頃は実行委員長をやっていただけあって、ログインの方法等も覚えていたのか、特段俺に質問することもないまま、その細くて綺麗な指で、手際よくPCを操作していった。
会議室には俺と彼女がカタカタと文章や数字をPCへ入力する音が響いていた。
他のグループも打ち合わせをしているが、俺たち二人の作業音以外、妙に静かに感じられるのは、俺の神経が妙に冴え渡っているためだろうか。
思えば、俺は雪ノ下陽乃という女性について、何も知らない。
彼女が、俺と雪乃の関係に終わりを告げたあの雨の日も、彼女が考えていたことは皆目見当もつかなかった。
「…俺、ちょっと休憩しに行きます。一緒にどうですか?」
何分か時間が経過した後、俺は彼女にそう話しかけていた。
そう口にして自分自身も驚いたが、これも、雪乃についての彼女の認識を知るいい機会だと思い直す。
「え?誘ってくれるの?」
「自販機ですけどね。ちょっと真面目な相談もあります」
高校の校内には流石にカフェもない。自販機の飲料を飲みながらの立ち話では、社会人がレディを誘うには若干恰好がつかない感は否めないが、仕方あるまい。
「え?なになに?お姉ぇさんに告白する気かな?気になる~」
「じゃ、行きましょっか」
彼女の戯言を無視しながら俺は立ち上がり、彼女にも離席を促した。
☆ ☆ ☆
「それで?比企谷君、相談って何?」
自販機で購入した飲み物を手渡すと、彼女はそれを受け取り、蓋を開けながら話を切り出した。
「さっきの俺からの協力要請の件です…雪ノ下に少し優しく接してくれって話なんですけど」
「…私、別に雪乃ちゃんに冷たくしてる気はないんだけどな」
俺からの言葉を聞いた彼女は、やや興ざめした表情でそう呟いた。
「あいつが貴女に対して抱えてる複雑な気持ち、理解してますよね?」
彼女の認識を確認するように、俺はそう尋ねる。
「ん~まぁね」
「あいつに必要なのは"自信"です。それを与えてやれるのはきっと貴女だけですよ…悔しいですけど」
これは雪乃と接していて感じていた俺なりの考えだ。
どれだけ雪乃が頑張っても、俺を利用してこの文化祭を成功に導いたとしても、彼女の目標であるこの人からそれを認められない限り、彼女が真に自分の力を認識することは出来ないように感じられる。
「比企谷君はあの子の問題、分かってるんだよね?それでも甘やかしちゃうのかな?…それはダメ。あの子のためにならないからね…今だって比企谷君はやり過ぎなくらいだよ。お姉ぇさん、正直、気に入らないな~」
能天気な喋り方を装ってはいるが、彼女の目つきは険しい。
「最初はお下がりでも、お揃いでもいいじゃないですか。どんな人間でも、身近な人に肯定してもらうことが、自立するための第一歩だとは思いませんか?」
いつしか彼女が言った言葉を引用しながら、俺は根強く自分の考えを主張した。
「…そういう考えか。でもダメだよ。私、雪乃ちゃんのそういう所、可愛いと思うけど、すごく気に入らない。それに身近な人間に肯定してもらえれば良いなら、その役割は比企谷君が担えばいいじゃない」
「俺からの肯定は…きっと違うでしょうね。確かに、俺は最後まで無条件であいつの味方はするつもりです。でも、俺には彼女を自分に依存させるインセンティブがある…下心って奴です。そんなのが大事な妹に近付くのを貴女は見過ごすんですか?」
「へぇ~。比企谷君がそれを自覚していないなら、引っ掻き回しちゃおうと思ってたんだけどな。君がそんなに堂々と内心を暴露するなんてちょっと意外だったかも」
「…さっきの、やっぱりそういう事だったんすね」
俺は苦笑いを浮かべながらそう言葉を返した。
俺の傀儡等と大声で言ったのも、突然デートしよう等と言い出したのも、要するにそういうことなのだ。
良くも悪くも、この人の突拍子もない行動・発言は、雪乃の為を思ってのものである。その事実が腑に落ちると、若干の安堵が生まれた。
「一つ気になるんだけど、比企谷君の雪乃ちゃんに対する優しさの裏側にあるのは本当に下心だけ?」
「どういうことですか?」
「他にも色々あるんじゃないの?例えば…後ろめたさ、とか?」
彼女のその言葉に、沙希や結衣の顔が思い浮かびハッとなる。
俺は自分の心の内も整理できないまま、今はただ、彼女たちの為に自分に出来ることをするしかないと考え、雪乃のための文化祭運営を行ってきた。
そんな行動の根底にあるのは、自分の下に彼女たちを留めておきたいという卑怯な下心だと結論付けていた。
しかし、彼女の言葉を聞いてその結論にも僅かな疑問が生じる。
俺は雪乃に、いや、3人に対する貢献を形として残すことで、やがて来るであろう、自分の望まない結果を受け入れるための、せめてもの慰めを手にしようとしていただけなのではないだろうか。
自分は最初から選択することを放棄した逃げの道を選んでいたのだろうか。
「…申し訳ありません」
心中の葛藤が膨らみ、ますます自分という人間が分からなくなる。
芯のない行動指針に基づいて、目の前の人物の大切な妹に感情だけを押し付けたことについて、俺には謝罪する以外の選択肢はなかった。
「やっぱりね」
「…これでも昔は誰かから"理性の化け物"なんて言われたこともあるんですけどね。自分自身のことすら正確に分からなくなったのは、いつからなんでしょうね」
俺は、感情を切り捨て、人間の性格特性と行動の裏にある心理的要因を見破ることだけには長けていたはずだった。
だが、後悔の底でもがきながら歳を重ね、流されるように社会的成功を求めるような生き方をしているうちに、そんな能力はすっかりと錆付いてしまったように思われた。
「ま、それでも比企谷君はよく考えてくれてると思うよ。雪乃ちゃんには勿体無い位…」
表情に影を落とした俺を見て、彼女はニタリと笑いながらそう言った。
「ホント、嫌な性格してますね、貴女は」
「そ?私はそんな自分は嫌いじゃないけどな…比企谷君のその足枷、外す方法が一つだけあるとしたら、その話、乗る?」
一転して、彼女は真剣な表情でそう尋ねた。
「足枷を外す?」
「いっそ、誰かに乗り換えちゃえばいいんだよ。私…とかね」
そう言った彼女の意図を考える。
雪乃や結衣、沙希が抱くであろう憎しみを引き受け、俺の後悔を、所詮人間の感情などその程度の物だと嘲笑うつもりだろうか。無論、それが俺にとっての救いにもなると考えた上で。
「…それは出来ないです」
「ありゃ、フラれちゃったか~」
そう言いつつ、微笑んだ陽乃さんの顔は、雪乃と瓜二つだった。心なしか、その表情には、俺の返答に対する安堵が浮かんでいるような気がした。
――この人もこんな穏やかな顔で笑うことがあるのか
俺はそんな意外感を覚えた。
「あれ?でも比企谷君、顔が赤いよ~?」
「初めて貴女と雪ノ下が良く似てるって思っただけです…本当に姉妹だったんですね」
「何それ!ひっどい!」
俺の切り返しに対し、やや大げさな身振りで抗議した彼女は、再び仮面を被ったいつもの雪ノ下陽乃だった。
「…ま、比企谷君に免じて、雪乃ちゃんの件は考えとくよ」
「頼みます」
その後、俺たちは会話も交わさないまま会議室へと戻り、作業を済ませた彼女はいつの間にか、校内からいなくなっていた。
☆ ☆ ☆
翌日、かねてより雪乃が言っていた通り、地方のケーブルテレビ局が取材にやってきた。
雪乃は戸惑いながらも、生徒を代表してインタビューを受け、今回の文化祭の趣旨について説明する。
途中、この文化祭の立役者であるとして、雪乃は俺をカメラの前に引っ張り出すという暴挙に出たが、結論を言うと、俺への取材は全面カットだった。
後に録画された放送を見ると、今回の文化祭の取組意義を語る雪乃の言葉を埋めるためのテロップに、俺の発言が引用されていた。
所詮、世が求めるのは華のある存在なのだからこれも仕方あるまい。
テレビカメラを前にした文実の面々は、やや浮足立っている様子であったが、これまでやる気のなかったメンバーが突然積極的に仕事を求めるようになったのは思わぬ収穫だった。
ケーブルテレビ局による取材の効果波及はこれだけに留まらなかった。
どこかの不届き者による番組の違法アップロード動画が、広告動画とセットになって、ネット上で騒がれ出したのだ。
【千葉】総武高校の女子生徒が可愛すぎる件
某掲示板で数多くの「名無し」が、雪乃、結衣、沙希に対する「俺のヨメ」宣言を書き込んでいるのを見つけ、俺は思わずPC画面を叩き割りそうになった。
ちなみに、これまで一部の議案に対し頑なに首を縦に降らなかった校長が、テレビ取材以降、態度を180度転換したことに腹を立てた平塚先生は、実際にPCの画面を叩き割っていた。
更に話はそれだけでは終わらない。
このネット上の騒ぎに目を付けた都内のキー局から、本番当日の取材申し込みが入ったのだ。
これを受けて、校内の文化祭に対する熱気は一気に高まった。
当初の予想に反して、今、文実の盛り上がりはピークに達している。
そして、今俺の隣にもやる気を見せ始めた一人の生徒がいた。
俺と同じ2年F組から実行委員となった、相模南だ。
「ウチ、こんな複雑な計算できるかな…」
彼女は、俺の作った会計マニュアルとPC画面と交互に睨めっこしながら、各クラスの予算案の集計作業を行っていた。
「何とかなる。お前、成績も良いしな。今までもちゃんと俺の言ったことを理解してくれただろ。会計は文化祭の見えない柱だ。こういう重要な仕事は優秀な人間にしか任せられないからな…頼りにしてる」
結衣から聞いた情報によると、相模は総合成績で学年30位程度の位置にいるとのことだった。この進学校でその順位なら、有名私立を狙えるくらいのレベルだ。
無論、彼女が理解していない点は丁寧にレクチャーし、カバーしている。
おだてて伸ばす、と言うのが今の俺の作戦だった。
「う、うん。頑張ってみる」
相模は照れくさそうにそう言うと、PCに向かい直した。
「…比企谷ってさ、なんでこんなことが出来るの?」
作業をしながら彼女はそんな疑問を口にした。
「趣味が高じて…ってところだ。別に大したことをしてるわけじゃない。大学の学祭ならこの程度のイベントは腐るほどあるしな。将来のいい予行演習になるんじゃないか?」
「そっか…」
相模は静かにそう呟いた。
☆ ☆ ☆
翌日、学校へまた一人の客がやってきた。
夏休みが明けてから、会う機会がめっきり少なくなった、総武光学の武智社長だった。
「やぁ、比企谷君、8月以来だね」
「武智社長!どうしたんですか?」
武智社長はいつもの作業服に身を包み、ニコニコした顔で俺の元へとやってきた。
「広告動画を見たマーティンさんから話を聞いたんだ。私たちも一般枠で参加させてもらいたいと思ってね」
「総武光学がですか?そりゃ歓迎しますが…、文化祭で売れるような製品はないですよね?」
「なに、私とマーティンさんの個人的な趣味さ。比企谷君や雪ノ下さんのイベントに便乗して儲けようとは思っていないよ。枯木も山の賑わいって言うし、片隅で工作教室でも開けば面白いんじゃないかと思ってね」
「工作教室?」
「そうそう。ラジオ作りとか。比企谷君も興味ないかい?」
「ラジオなんて自分で作れるもんなんですか?そりゃ、是非やってみたいですね」
童心に返ったように俺は社長の話に食いついた。
基盤のハンダ付けとか、超かっこいいし。
「高校生が少しでもモノ作りに興味を示してくれれば、私もうれしいよ。日本の…いや、世界の製造業の発展のために少しでも貢献出来れば、なんてね」
武智社長は照れ臭そうにそう言う。
実にこの人らしい発想だ。
「是非お願いします。もうブースは大方埋まってるんですが、なるべくいい場所を用意させてもらいますよ。せっかくだから、総武光学の広告も用意しませんか?今回は生徒の保護者や地域の大人だけでなく、テレビ局の取材も来ますからね。将来ローンチする製品を看板にして、張り出すってのはどうですか?」
「流石、抜け目ないねぇ。でも、公私混同にならないのかい?」
総武光学の株主の一人として、文化祭を利用してこの会社の宣伝を行うのは確かに公私混同だ。武智社長の高いモラル意識に、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
「今は、企業出展の条件交渉は別の生徒に直接担当させてるんで大丈夫ですよ。でも、しっかり交渉してくださいね。こっちは稼ぐことに必死になってますから」
「それは手ごわい。でも、比企谷君のアイデアはやっぱり面白いね。会いに来てよかった。早速、うちの社員とファンドの方々と、このイベントをどう活用させてもらうか、話し合うことにするよ」
「こちらこそ、いいお話しが聞けて良かったです」
そう言って、俺たちは硬い握手を交わした。
この日から、文化祭の準備期間はあっという間に過ぎていった。
文実のメンバーも夜遅くまで残って、時にヒートアップして喧嘩に発展することもあったが、皆、最後まで十分な働きをしてくれた。
雪乃は俺がまとめ上げた企画・予算案に入念に目を通し、彼女のなりの視点から修正を加えつつ、営業チームの業務を連携させることで、この文化祭を見事に一つのイベントとしてまとめ上げることに成功していた。
そして今、雪乃が文実メンバーに向かって、最後のスピーチを始めるべく、教壇に立っている。
「皆さん、今日までの準備期間、本当にお疲れ様でした。今回は例年と異なり、非常に高い目標を設定しました。それを達成するために要した労力も大変なものでしたが、この場にいるメンバーと、平塚先生のお陰で、ついにここまで漕ぎ着けることが出来ました。委員長として、まずは皆さんに感謝申し上げます」
雪乃らしい、やや硬い挨拶だが、皆それに聞き入っている。
静寂に支配された会議室において、雪乃は皆の注目を一手に集めながら丁寧に言葉を発していった。
「明日からの二日間、文化祭本番は、私たちの努力の成果が試される最後の試練の時間になるかと思います。各自、心残りがないように、万全の態勢で臨むことを期待しています…私たち実行委委員は、当日も自由な時間があまりないでしょう。それについては大変申訳なく思いますが、どうか最後まで力を貸してください」
「今更何言ってんだよ、委員長」
「そうだよ。こうなったらもう絶対一昨年の実績を超えるしかないんだからさ!」
頭を下げた雪乃に対し、一部からそんな声が上がる。
「ありがとう…せめてもの対応ですが、今日は皆早めに切り上げて、一部でプレオープンしているクラスの企画を回って楽しんでください」
そう言って、雪乃はスピーチを締めくくった。
一瞬の間をおいて、会議室内に沸き上がった拍手の嵐。
今、雪ノ下雪乃という少女は華々しい成功の道を進もうとしている。
当日のキー局によるテレビ取材も雪乃に集中するだろう。
彼女の雄姿を世に知らしめることが出来れば、俺の目論見も達成される。
正に、王手まであと一歩なのだ。
☆ ☆ ☆
「ねぇ、比企谷。ちょっとだけ時間、いいかな?」
雪乃の挨拶の後、文実のメンバーは一人、二人と会議室を後にしていった。
雪乃も各ブースの最終チェックとして、校内の巡回に出て行った。
誰もいなくなった西日の差し込む会議室で、文化祭当日の会計集計のためのファイル整理を進めていた俺の元に、思わぬ人物がやってきた。
「相模…どうした?」
「あのね、ウチ、比企谷に話があって…」
俯きがち、遠慮がちに言葉を紡ぐ彼女を前にし、嫌な予感が頭に過る。
俺は、相模を見ながら、会議室のドアの外に人の気配がないことを確認した。
「比企谷さ、今回の文化祭準備、本当に凄かったよね…ウチ、同じクラスの文実メンバーなのにあまり役に立てなくて…」
「そんなことはないだろ。明日からの本番でも、まだまだ、お前にはやってもらわなきゃならん仕事は山のようにあるしな」
適当な言葉でお茶を濁すようにそう答えた。
「うん…期待に応えられるかわからないけど、頑張る」
「ああ、頼んだぞ」
会話を切り上げるように、俺は作業中のノートPCの画面をパタリと閉じ、会議室から出ようとした。
「あの!」
そんな俺の行動に効果はなかった。相模は声を振り絞るように俺を呼び止める。
「ウチ、比企谷のこと見てて…その…」
平静を装いつつ、彼女がこの後紡ぐ言葉に対し、どう対処すべきかを考え、頭をフル回転させていた。
――まさか、結衣の感が的中するとは
「好きです…ウチと付き合って…欲しい」
そう言った相模の顔を見ながら、俺はこいつとの過去のやり取りを思い出していった。
夏の花火大会の日、相模は俺と一緒にいた結衣を嘲笑するような表情を浮かべた。
男をステータスシンボルとして見るような、くだらない女だと、そう思った。
今だって、俺の文実での活動が少しばかり陽の目を浴びることとなったから、それに目が眩んでいるだけに過ぎない。
それは確かな事実だろう。
だが、不安と期待の入り混じる彼女の目を見ると、そんな風に切り捨てることがどうしても出来なかった。真剣な表情の彼女を前に、一瞬ではあるが、俺は自分の観察眼に対する疑念を抱いた。
――自分も他人も…人間の考えることなんて、本当に分かんねぇな
あの日、雪ノ下陽乃と交わした会話を思い出しながら、そうこぼしそうになるのを俺は堪えた。
「相模、すまん。お前と付き合うことは出来ない」
俺からの拒絶の言葉に対し、相模は一瞬絶望的な表情を浮かべる。
そしてそれを隠すような笑顔を張り付けて、俺に尋ねた。
「そっか…他に好きな人がいる、とか?」
「ああ…」
――それも3人も、だ
その事実をここで吐露して罵られれば、少しは気が楽になるのだろうか。
「…うん、わかった。邪魔してごめん。…明日から頑張ろうね。じゃあ、ウチ行くね」
そう言って会議室を飛び出すように出ていった相模の目には涙が浮かんでいた。
「…彼女への対応、貴方はあれで良かったのかしら?」
相模が会議室を後にしてから、少しして、入れ替わるように入ってきた女性がそう聞いた。
「雪乃…聞いてたのか」
思わず、俺は再び彼女の下の名前を口にしてしまった。
「ごめんなさい」
「別に謝ることはないだろ」
「…意外にショックを受けている…今の貴方、そんな風に見えるわよ」
「んなこと断じてねぇよ…もう巡回は済んだのか?」
俺は話題を切り替えるように、雪乃にそう尋ねた。
「ええ。一つだけ気になった事があって、戻ってきたのよ。貴方が立てた企画だから、問題はないのでしょうけど、念のため確認しておきたくて」
俺の心情を察したのか、雪乃はそれに応じて要件を話し出した。
「今回の企画、グラウンドもフルに活用する構成になっているけれど、雨天の場合はどうする気なのかしら?特に2日目は、天気予報では雨が降らないとも限らない状況なのよ。貴方の企画案を最終承認した時に気付かなかったのは、私としてはあまりにも迂闊だったけれど」
「あれだけ忙しけりゃ、一つや二つのミスは誰だってする」
確かに雪乃がそんな初歩的な見落としをしていたのは意外ではある。
だが、企画が練り上がるにつれて、業務負荷の比重は俺から雪乃へとシフトしていったのだ。
事実、雪乃はここ1週間、殆ど満足に睡眠も取れていないような状況であった。
今でも、立っているだけでやっとといった表情だ。
あの時のように体調を崩さなかったのは、彼女の中に明確な目標があり、それなりに楽しみながら準備に取り組むことが出来たためであろうか。
「心配するな。雨は…降らねぇよ」
「やっぱり…”知っている”というのは、この上ないチートね」
その通りだ。
だが、そんな俺にも知りたくても知り得ないことが沢山ある。
自分のこと。3人のこと。俺には何一つ、分かる気がしなかった。
そんな考えに自嘲的な笑みを浮かべると、雪乃は飛びつくように俺に抱き着いてきた。
そして間髪入れずに、彼女は自分の唇を俺の唇に重ねた。
「私だけ、まだだったから…」
顔を話すと、雪乃はそう呟いた。
「…沙希から聞いてたのか?」
俺の問いかけに対し、雪乃は無言で頷いた。
「貴方だけは絶対に渡さない。相模さんにも、姉さんにも…二人にも」
姉さんにも、というのが少しだけ引っかかった。俺の依頼に応えて、あれから彼女は雪乃と話し合ったのだろうか。
――結局、俺は知りたいことは何一つ知らないんじゃないか
意思のこもった表情を浮かべてそう口にした雪乃に対し、俺は何も応えてやることは出来なかった。