比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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27. 比企谷八幡は文化祭を成功に導く

――パァンッ!!!

誰もいない夕暮れ時の屋上に乾いた音が響き渡る。

「…雪乃」

俺は叩かれた頬に熱を感じながら目の前に立つ女性の名前を呟いた。

彼女は目に涙を浮かべながらその場に立ち尽くしている。

「…これが、貴方本来のやり方?…ふざけないで」

「…」

「何も…言ってくれないの?」

「すまん…今は、何を言っても言い訳になっちまう」

「…感情に任せて叩いてしまってごめんなさい…でも…今日はもう貴方の顔は見たくないわ」

雪乃はそう悲しそうに呟いて、俺に背を向け屋上から去っていった。

彼女とのすれ違いはこれで何度目だろうか。

――治ったはずなのに妙に痛む…畜生。

腕の亀裂骨折。

既に文化祭前には完治していた。にも関わらず、何故か再び腕がヒビ割れたような痛みを感じた。

それは、さながら治っては砕けを繰り返す、自分の脆い心のようだった。

☆ ☆ ☆

文化祭初日

俺たち文実メンバーは、会議室を拠点に入れ替わり立ち代わりで各イベントブースの視察、会場のトラブル対応、集計業務に追われていた。

これまでの入念な準備の甲斐あってか、人の入りは順調であり1日目午前中の動員数も前年比+30%と好調な滑り出しであった。

「ヒッキー、運営の方は順調?」

時刻が昼に差し掛かった時、結衣が会議室を訪ねてきた。

「おかげさまで何とかな。クラスの方はどうだ?」

「うん、お客さんで溢れ返ってるよ…シフト制で昼食の時間をもらったんだけど、ヒッキーはお昼食べたの?」

「いや、まだだ…飯か…あまり食欲もないし、雑務も溜まってるから、昼飯はパスだな」

俺の言葉に対しあからさまに残念そうな表情を浮かべる結衣を見て、俺はふっと笑みをこぼした。

「え?比企谷君、お昼ぐらい食べてくればいいじゃん。1時間位なら私たちだけで何とかなるよ。私もちょうど今済ませてきたところだし」

俺と結衣の会話に横から入ってきたのは、2年文実の田村だった。

結衣は田村に対し、恐る恐る軽めの会釈をする。すると田村もニコリと微笑んでそれに答えた。

「そういえば西岡ちゃんが、A組の企画に比企谷君を呼んでくれって言ってたよ」

「あいつの所はクレープ屋だろ?昼飯って感じじゃねぇよ」

「え!クレープ!?…ヒッキー」

「ほらほら、由比ヶ浜さんが行きたそうにしてんじゃん。早く行ってきなよ」

「お、おい。押すな」

「いいからいいから」

俺と結衣は田村に半ば追い出されるようにして会議室を後にした。

「…A組の西岡さんって、文実の子?」

 

西岡のクラスへ向かう途中、結衣は遠慮がちにそう尋ねた。

「ああ。企画の段階から田村…さっきの奴と一緒によく働いてくれてな。今は西岡も運営のシフト外だから、教室にいるのかもな。礼を兼ねて顔を出すのもアリか…」

「文実って女子が一杯いるよね…」

「いや、男女半々だから」

ジト目で何か言いたそうな表情を浮かべる結衣に対し、俺は嫌な汗をかきながらそう答えた。

☆ ☆ ☆

「いらっしゃ~い、あ!副委員長!」

俺の予想通り、2年A組の呼び子担当の中には西岡の姿があった。

「やっぱりクラスにいたのか。文実のシフト外にクラスでも働くとは、真面目だな」

「そりゃ優勝狙ってますもん。あれ?そっちの子は…F組の由比ヶ浜さん…だっけ?」

「ど、どうも!ヒッキーがお世話になってます!」

「おい、何だその挨拶は」

「あはは!委員長だけじゃないのか~隅に置けないね」

西岡が笑いながらそう言うと、結衣は睨むような眼で俺を見て、肘で横っ腹を突いた。

「いや、それは…」

「…なんか、深く聞かない方が良さそうだね。…クレープ食べに来てくれたんでしょ?どれにする?」

「そ、そうだな。由比ヶ浜、どれがいい?」

何かを察した西岡がメニューを手渡してきたので、俺はありがたくそれに乗っかることにした。

メニューはチョコ、ストロベリー等のオーソドックスなものから、マンゴー、パイナップル、ヨーグルトといった具合で、ラーメン屋のメニューのような豊富なラインナップだった。

結衣は一転し、目を輝かせながらメニューに目を通していく。

「あ、そうだ!比企谷君には特別メニューを用意するから!…メニュー見せた後でこう言うのもなんだけど、そっちにしない?たぶん一人じゃ食べきれないから、二人で一つにしたらいいんじゃないかな?」

「特別メニュー?」

「そうそう。価格も特別で2500円だよ」

「高っ!なんだそりゃ!?メニューのクレープは一個500円だろ?流石に5倍はボリすぎだろ」

法外な値段に目を丸くすると、西岡はふふんと得意げな笑みを浮かべた。

「"ずっと一定の価格で売らなきゃ行けないというルールはない” ”客層に応じて価格を差別化するとかな” だっけ?本当に参考になったよ。ありがと!払ってくれそうな人からは毟り取…適正な価格を提示しないとね」

文実で俺が価格戦略について講釈を垂れた時のセリフを、そのままオウム返しにされる。

目を細めてボソボソと喋るのは俺の物真似でもしているつもりなのだろうか。

それにしても、西岡の奴がここまで金儲けに心を弾ませるとは。

俺はビジネスモンスターの卵を孵化させてしまったのだろうか。

「ヒッキー!スペシャルだよ!限定商品だよ!それにしようよ!」

結衣は特別メニューという言葉に飛びついた。毟り取ると言いかけた西岡の言葉は結衣の耳には入らなかったようだ。

「お前らな…」

俺はげんなりするも、二人の押しに観念し、財布から2500円を出すと西岡に手渡した。

「毎度あり~!二名様入りま~す!!」 

俺と結衣は西岡に進められ、クラス内の席に着く。

「あ、ヒッキー、このクレープは私が出すから」

席に着くなり、結衣は財布を取り出そうとした。律儀なところは相変わらずだ。

「いや、いいから。それはしまっとけ」

「でも…」

「いいから。気にすんな」

俺は苦笑いを浮かべてそう声をかけた。

30代の男が女子高生にクレープを奢られるなど、これまでチマチマと積み上げてきた社会人としてのプライドが崩壊しかねない。

「なんか…ごめん。私が我儘言ったせいで…結構高いのに」

「俺も甘いもの好きだしな。どんなのが出てくるかは知らんが、お前が喜んでくれるなら安いもんだ」

「あ、ありがと」

結衣は少しだけ顔を赤くして、嬉しそうに俯いた。

そんな彼女を見て、少しだけこそばゆくなる。

「お待たせしました~」

――うげっ

A組の生徒が運んできたのは、クリームとフルーツでテンコ盛りの小さな山のような代物だった。その見た目からはクレープなのか、ケーキなのかも見分けがつかない。分かるのは、確かにクレープ5枚分の量はありそうだというだけだ。

結衣は、携帯で何枚か写真を撮ってから、勢いよく口いっぱいに頬張りだした。

その様子を見ながら俺もフォークで一口分を切り取って口に入れる。

別に不味くはないが、いかにも学校の文化祭レベルといった味だった。

――食いきれんのかよ、これ?

食べ残しを懸念しながら結衣の顔を見ると、満面の笑みで目の前のフルーツとクリームの山を切り崩しながら口に運んでいた。その口元には早速クリームが付いている。

「…付いてんぞ」

そう言いながら机に備え付けられていた紙ナプキンを手にして、俺は彼女の口元を拭いてやった。

「…ありゃ~。一つのクレープを男女でシェアするだけでも結構なハードルなのに、比企谷君って、ホント、見せ付けてくれるよね」

いつの間にか外で呼び込みをしていた西岡が店内に戻り、俺たち2人を茶化すようなことを口にした。

それを聞いた結衣の顔は、見る見る耳まで真っ赤に染まっていく。

「お前な…シェアで十分といったのは西岡だろうが」

「そうなんだけどね。もうちょっと意識して欲しいよね。ねぇ、由比ヶ浜さん」

「え!?あ、あたし!?…えっと、その…」

結衣はキョロキョロと周りを見てから、恥ずかしそうに俯いた。

店内にいた客のニヤニヤするような生暖かい視線と、一部の男子生徒による刺すような憎しみの視線が此方に集まっていた。

「…あ~、すまん。そりゃ年頃だもんな。そういうの気にするよな」

過去の高校時代、確かに男子の繊細なハートに無頓着な結衣のスキンシップにドギマギさせらるような経験をした記憶がある。だが、いつの間にかそんな形勢も逆転してしまったようだ。食べ物・飲み物の共有を通じた"間接キス"的な、そういう淡い発想が一切湧かなくなったのはいつ頃からだろうか。

――やっぱ、どう考えても平塚先生のせいだな

俺はこの場にいない恩師の姿を思い浮かべた。

居酒屋で同じ皿から料理を摘んだり、互いの飲み残しの酒を「もったいない」といって飲み干したり、あまつさえ、吸いかけのタバコを勝手に吸ったり…

別に先生とは恋人同士でも何でもなかったのだが、美人教師との定期的な交流は、俺に不必要なまでに高い女性への免疫力を植えつけていたようだ。

「「…何かオッサン臭い」」

西岡は呆れたような表情、事情を知る結衣は苦笑いを浮かべながらそう呟いた。

☆ ☆ ☆

「ヒッキー、ご馳走様!」

「…いや、しかしよく食いきったな」

絶対に食べきれないと思ったクレープは結衣によって綺麗に平らげられた。

パンパンになった腹を抱えて俺たちは2-A教室を後にした。

その足で自販機コーナーへ向かい、お茶を2本購入し、1本を結衣に差し出す。

「ありがとう…太っちゃうかな?」

心配そうな顔で結衣はそう呟いた。

「お前なら大丈夫だろ。…そういや、"前の文化祭"の時も、食パン一斤分のハニトーを二人で食ったっけな」

結衣の豊満なバストとくびれた腰を見ながら、俺は無責任な言葉を呟く。

そして、結衣と過ごした過去の文化祭の甘酸っぱい記憶を脳裏に浮かべながらそう言った。

「え?前って…」

「ああ。15年前の話だ。そん時は由比ヶ浜の奢りだったな」

「そっか…ヒッキーさ。もしその時、アタシがヒッキーに告白してたら…ゆきのんよりも先にアタシと付き合ってくれてた?」

突然の結衣の言葉に俺の思考は一瞬停止する。

「な、いきなり何なんだよ?」

「文化祭で食べ物シェアするなんて、好きな人とじゃなきゃできないし!…ホント鈍感だし!」

結衣は責めるような目で俺を見ながらそう呟いた。

「しょうがないだろ。ガキの頃の俺は色々トラウマがあったんだ。女子の罰ゲーム告白とか、男子の悪戯ラブレターとか色々やられて…人からの好意を信じるのが難しい年頃だったんだよ」

「…へぇ。昔のヒッキーって、そんなに捻くれてたの?…実際どんな性格だったのかな。結構気になるかも」

「ろくなもんじゃねぇよ…そういや文化祭の時も一騒動あって校内一の嫌われ者に…っていうか、人の黒歴史を掘り起こすの、そろそろやめてね」

「ヒッキー、自分で喋ってんじゃん」

結衣は膨れっ面でそう文句を言った。その様子が妙に可愛らしく思え、俺は彼女の頭にポンッと手を載せて髪をゆっくり撫でた。

結衣は子犬のように目を閉じながら、嬉しそうで恥ずかしそうな表情を浮かべた。

「お兄ちゃ~ん!それに結衣さん!」

不意に、元気な声を上げながら走り寄ってきた少女に背後から抱きつかれた。

俺はよろめきながら、その行動の主を確認する。

「うぉっ!小町か。びっくりした」

我が最愛の妹、小町は中学校の制服姿で文化祭の見学に来たようだった。

そして俺は小町の背後からヒョコっと顔を出しながら、遠慮がちに会釈をする男子生徒の姿を目にした。

「何だ。大志も来てたのか」

「はいっす!受験前に志望校を見て回るいい機会かと思って」

「そうか。勉強は順調なのか?」

「うっ…それは…」

俺が世間話程度に振った質問に対し、大志が回答に詰まったような表情を浮かべる。

どうやら受験勉強はあまり捗っていない様子だ。

「大丈夫だよ、大志君!大志君が小町と別の学校に行ってもちゃんと友達でいるよ!何があっても友達だよ!どこまで行っても友達だよ!」

――我が妹ながらえげつねぇな

満面の笑みで大志に止めを刺しにかかった小町を見て、俺は溜息を吐いた。

昔の俺なら、この流れに乗っかって、再起不能になるまで大志の心をへし折りに行っていたのかもしれない。

だが、大志も将来一流商社マンになる男だ。

小町が他の変な馬の骨にひっかかる位なら、こいつに頭を下げてでも、引き取らせるのが兄の役割というものかも知れない。

「と、友達…そっすか…」

――泣くな、大志。お前には明日がある…はずだ

「…異性を振り回す体質は兄妹同じなのかな…」

結衣は俺にだけに聞こえる声でそう呟いた。

「俺はここまで酷くない、と信じたいんだが…所で由比ヶ浜、川崎はまだクラスにいるのか?」

俺は話題を切り替えながら結衣にそう問いかける。大志が一緒なら、沙希と合流して学校内を詳しく見て回るのがいいと考えての事だ。

「サキサキならそろそろアタシと交代で休憩時間に入るはずだよ…そっか!じゃあ二人をアタシ達のクラスに案内するね!」

俺の意図に気が付いた結衣は、クラスまでの案内役を買って出てくれた。

「結衣さんありがとうございます!…所で、お兄ちゃんは午後から何するの?」

「文実の仕事だ。昼休憩ももう終わるからな。」

「し、仕事!?お兄ちゃんが仕事!?…小町嬉しいよ。でもなんだかお兄ちゃんが遠くに行っちゃうみたい…」

いや、お兄ちゃん社蓄だから。ブラック企業で10年近く揉まれて今じゃ完全に仕事中毒なんだよね。本当に遠くに行っちゃいかけたこともあったし、むしろ違うベクトルで心配して欲しいくらいだよ。

小町の呟きに対し、俺も遠い目で思考に耽った。

冗談はさておき、小町には文化祭準備のことは伝えていないし、奉仕部の活動のことも余り詳しく話していないのだから、グータラ兄貴だと思われていても仕方ない。

「こ、小町ちゃん?この文化祭、ヒッキーは運営の中心にいるんだよ?ひょっとして何も聞いてない?」

「えええええ!?だってこの文化祭、テレビ局が来たりするんですよね!?かつてない盛り上がりって聞いてますよ!?」

「…だからそれをヒッキー達が企画したんだよ」

苦笑いを浮かべながら説明する結衣に俺は耳打ちした。

「ま、これが昔の俺の人物像ってやつだ……結衣達のお陰で、俺も大人の階段って奴を少しは上れたのかもな」

多少の気恥ずかしさを覚えながら、そんな言葉を口にする。

急に下の名前を呼んだことに対し、結衣は若干複雑そうな表情を浮かべながらも、頬を赤く染めて頷いた。

「じゃぁ俺は文実に戻る。由比ヶ浜。昼飯、付き合ってくれてサンキューな。すまんが小町達を頼む」

そう言い残して俺は文実会議室へと向かっていった。

☆ ☆ ☆

文実の拠点へと戻ると、一部のテーブルで男子が群れを成して盛り上がっている様子だった。

「おい吉浜、それは何だ?」

俺はそのグループの中心にいた人物に声をかける。

吉浜は、つまみらしきものがいくつか付いたタッパー容器のような箱を自慢げに見せびらかしていた。

「これか?へへ、人のよさそうなオッサンと、外人のオッサンがやってた工作教室で作ったんだよ。参加費700円で、材料費込、作り方も丁寧に教えてくれるのが噂になって、いまそのブース、すげぇ人気だぞ」

よく見ると、タッパー容器にはスピーカーの穴のようなものが空いており、箱の中には基盤やLEDといった電子部品が並んでいるのが見えた。

「まさか…総武光学ブースの手作りラジオ!?」

「その通りだ。いいだろ?ちゃんと音も出るぞ」

そう言いながら吉浜が摘みを弄ると、予想外にクリアなラジオの音がその場に鳴り響いた。

それを目の当たりにしながら、男子集団から感嘆の声が漏れる。

「この会社、この間テレビで特集やってたんだってな?世界に羽ばたく千葉の中小企業ってやつ?今回も取材が入りそうな感じだったぞ」

流石武智社長。俺がわざわざ策を弄するまでもなかったようだ。

やっぱり、本来注目されるべき人なんだよな。

彼の熱意が男子高校生にも伝わっているような気がして、思わず頬が緩んだ。

しかし、吉浜の奴、これ見よがしに面白そうな玩具を自慢しやがって。羨ましいじゃねぇか。

今時ラジオなんて、100均でも買える製品だ。だが吉浜が手にした手作りラジオの無骨な外観には万単位の金を払ってでも手にしたいと思わせるような、妙なセクシーさがあった。

「…いいな。なぁ田村、俺、もう一時間休みもらっても…」

「良い訳ないでしょ!由比ヶ浜さんとクレープ食べに行った癖に、まだ遊び足りないの?」

冷めた目で男子グループを見ていた田村に対し、休憩の延長を申請するが、敢無く却下される。加えてその場で結衣と昼食に出たことをいきなりバラされたことに俺は焦った。

慌てて会議室内を見渡すが、幸い雪乃の姿は見当たらなかった。ちなみに、その場に相模の姿もなかったことにも軽く安堵している自分に気が付き、我ながら情けなくなった。

「あ?女子とクレープだぁ!?この裏切り者!って言うか死ね!」

「ひでぇなお前…死ねはねぇだろ」

吉浜の付いた悪態に対し、俺は苦笑いしながら苦言を呈した。

「ちょっと男子!いい加減に仕事してよね!!」

田村達と集計業務に勤しんでいた女子グループから、ついに不満の声が上がる。

「で、出た~男子仕事してよね奴~」

テンプレ的な女子の文句を、吉浜は馬鹿にしたようなネットスラングを交えてそう冷やかした。

しかし、今回に限ってはこの女子の苦情は100%筋が通っている。俺を含め、明らかに男子グループはサボって盛り上がっていたのだ。

「吉浜…女子を誘いたいなら、そういうガキみたいな態度は自殺行為だぞ」

「ぐっ、このヤロ!」

吉浜は悔しそうな表情を浮かべて言葉を詰まらせた。

俺の言葉を聞いた何人かの男子生徒はいそいそと持場に戻っていく。下心に素直な男子生徒の行動は微笑ましく、田村たちもその様子を見て笑顔を浮かべていた。

その後、俺達は吉浜のラジオから流れるFM放送の音楽を聞きながら、業務へ再び没頭していった。

初日終了の校内放送が流れた後も、各々が仕事に集中し、各ブースの中間決済をまとめ上げ、現金の集計を終える頃には日もどっぷりと暮れていた。

――しかし ”男子仕事してよね!” か

こんな台詞を耳にするのも、二度目の高校生活にして味わう青春の1ページって奴だろうか。

三十路男が笑ってしまう話ではある。昔の俺はこういったやり取りとも無縁だったのにも関わらず、妙に懐かしい気分になるのはなぜだろうか。

そんな事を考えながら、俺は文化祭初日の帰り道を一人、歩きながら帰宅した。

☆ ☆ ☆

文化祭二日目。

早朝、雪乃が主導した文実メンバーでの最終打ち合わせの後、俺達は再び業務へと向かった。

今日は俺の提案により、出納係を増員し、数時間置きに決済報告を済ませる方式へと転換していた。

昨日の中間決済において、現金勘定には想定以上の時間がかかることが判明したのだ。

決算報告と現金の残高が中々一致しないという問題は予見はしていたが、実際に照合するのにここまで時間を要するものだとは思ってもみなかった。

今日は閉会式で、各参加者の業績に対する表彰が行われる。

俺は、夕方4時の段階で会計報告を完了させるために、各クラスや部活、一般参加者ブースに対する、報告頻度引き上げの協力要請に回っていた。

全てのブースを回りきった頃、俺は平塚先生から声をかけられた。

「比企谷、今日は客人が来ているぞ」

「客っすか?」

「ああ。私が誘ったんだがな…君と会いたいと言っている。着いてきたまえ」

そう言って平塚先生に案内された休憩ブースにいた2名の意外な人物を見て、俺は驚きの声を上げた。

「宮田さんに槇村さん!? わざわざ千葉まで来てくれたんですか?」

「ふん、お前の教師に強引に誘われて、週末だから仕方なくな…しかし、面白そうなことをやってるみたいだな。テレビも見た。盛況じゃないか」

予想通りの捻くれた宮田さんの挨拶。一方で、予想外に彼からお褒めの言葉をいただいたことに俺は破顔した。

「ちっ、若ぇってのはいいよな。俺が高校生だったら、もっと面白ぇこと考えるぞ」

槇村さんも笑いながらそんな言葉を漏らしす。

「…いや、張り合われても困るんですけど…例えばどんな?」

俺は苦笑いを浮かべながら、槇村さんのアイデアを尋ねた。

「そうだな…まずイベント向けの証券発行をして金を集めるだろ?それでもっとバブリーなブースを増やすってのはどうだ?一口の投資額を小額に抑えれば、寄付金頼みよりもっと金が集まる。商店街の主婦に買わせれば、客足も増えて一石二鳥だ」

「証券発行って…公立高校が勝手に株やら債券を発行したら、県政から怒られるだけじゃ済まないんじゃないっすか?利息や配当を払うのだって、税務的にどうなんすか?」

「それを調べるのはお前の仕事だ。法の抜道を探すのが金融業務の醍醐味だ」

出たよ。その場の適当な思い付きで部下を振り回す、典型的なアイデアマンの丸投げ体質。

俺はこの人の部下だった時代の苦労を思い出し、顔を引き攣らせた。

「…証券がダメなら、文化祭で使えるクーポンを前売りすればいいだろう。地方のお役所がそんな細かいことまで口出しするとは思えん」

「そうだぞ比企谷。頭を使え。額面1100円を1000円で売れば生徒も主婦も飛びつくだろう。しかもクーポンは使われなきゃ丸儲けときたもんだ」

槇村さんは宮田さんのアイデアに乗っかっただけのようにも見えるが、この考えは来年以降の文化祭運営で使える可能性がある。

俺は感心しながらメモを取り出し、彼らのアイデアを書き留めた。

「ハハハ、良かったな比企谷。一介の高校教師の私には君が興味を持った分野について教えられることが殆ど無くて、歯がゆい思いだが…この二人なら、やはり君でも思いつかないことを思いつくんだな」

「平塚先生…そんなことは…」

俺は嬉しそうに微笑む恩師を見て、若干の申し訳なさを覚えた。

「ま、宮田に感謝だな。前の会社にいたら、こんな面白ぇガキには会わなかっただろうし」

「前の会社?」

不意にそんな言葉を口にした槇村さんを見る。

「…槇村は問題を起こして邦銀をクビになったんだ。で、僕のつてでウチに転職してきたという訳だ。転職組なんて、外資じゃ珍しくもないがな」

「え!?槙村さんってプロパーじゃないんですか!?ってかクビって!?」

俺は自分が長年仕えた上司の経歴を、全く知らなかったことに気付く。

そしてその破天荒ぶりに思わず驚きの声を上げた。

「おい、適当言うなこの腐れ目!出世が見込めなくなったから、自分から見切りをつけただけだ!」

「…ふむ、転職か。公務員の私は余り考えたことも無いが、参考までに何があったのか教えてもらえないだろうか?」

平塚先生は幾分興味を持った様子で槇村さんにそう尋ねる。

「平塚さんまで乗っかってくんのかよ……当時、俺が勤めてた銀行には”ガラスの天井”を突き破って、初の女性役員になったおエライ方がいたんだ。その役員様を連れての海外出張でミスしたんだよ」

観念したような表情で語りだした槇村さんに3人の注目が集まる。

「ミスって、どんな?」

俺は次の言葉を促した。

「出張行程に組み込まれてた、取引先玩具メーカーのベトナム工場視察…そこはOEMでうちの取引先以外にも色んな企業から製品製造を受託してる現地企業の工場だったんだが、事前の調整ミスが大惨事を招いたんだよ…もう充分だろ!」

気になるところで話を中断する槇村さんの煮え切らない態度に、若干苛立ちを覚える。

宮田さんを見ると、いつも通りの冷静な表情を浮かべているかと思いきや、肩を小刻みに震わせていた。きっと、その話の続きを知っているのだろう。

「いやいやいや、気になりますから」

俺の催促に対し、槇村さんは"ちっ"と舌打ちすると、気まずそうに平塚先生の顔をちらりと見て、小声で説明を続けた。

「…見学に入った製造ラインで大量のコケシが流れてきたのさ…そのババァがヒステリー起こして、ご機嫌取りに必死になる管理職にはスケープゴートにされる始末だ。その出張、翌日にはシンガポールへ移動する予定だったんだが、俺だけ完全に梯子を外されて、ベトナムの僻地に置いてけぼりだぞ……あれは…悪夢だった」

「…そりゃ、ご愁傷さまです」

ババァって…そりゃ、あんたが悪いわ。

しかし槇村さんが出張準備に関して、あれだけ口酸っぱく俺に指導したのは、こういう苦い経験があったからなのだと思い当たる。

長年、出張に関しては細かい所に拘る迷惑な上司としか思っていなかった認識は改めねばなるまい。

「ん?それで終わりか?…コケシの何がいけないんだ?…それにしても、"産業の空洞化"なんて言われる時代だが、今は民芸品まで海外で作る時代なのか…」

「「「……」」」

――おい、アラサー独身女。マジで言ってんのか。ピュアなのか。

不思議そうな表情を浮かべてピントのずれたことを呟く妙齢の美女を見て、俺達三人は唖然となった。

☆ ☆ ☆

「13時の集計、終了しました!!」

文実女子生徒の元気のいい声が会議室に響き渡る。

経理照合は今回の文化祭の最大の難所と化している。これは本日2度目の集計だった。

「…報告です。現段階の暫定利益金額が一昨年の記録を超え、総武高文化祭で歴代最高となりました!!」

その報告に、会議室は静まり返える。

「「「「うぉぉぉぉおおおおおお!!!!!」」」

一瞬遅れて、はじけるような歓声の声がその場に鳴響いた。

抱き合って喜ぶ女子生徒、雄叫びを上げる男子生徒、各々が喜びの感情を表現していた。

これは暫定報告だが、例外的なごく一部の企画を除き、これ以降のタイミングで費用の追加計上を予定しているブースはない。つまり、今年の文化祭における最低見込利益金額が現段階でほぼ確定したのだ。

それはすなわち、今年の文化祭運営にて設定した"陽乃さんの実績を上回る"という当初目標の達成を意味していた。

俺は携帯を取り出すと、会場運営で外回り中の雪乃へ電話を掛けた。

雪乃はワンコールで電話に出た。

『比企谷君、どうしたの?…やけに周りが騒がしいみたいだけれど?』

「おめでとさん。13時の暫定決算を以て目標達成が確定した…ようやく超えられたな…お前の姉さんの実績」

『…そう。報告ありがとう…会場運営でも問題は起こっていないし、今年の文化祭はこれで何とか成功かしら』

「やけにあっさりしてんな。嬉しくないのか?」

『嬉しいわよ…今も小さくガッツポーズするくらいにはね。でも、電話越しに一人で喜んで騒いだら、恥ずかしいじゃない』

「…可愛いな、お前」

『馬鹿なことを言ってないで、最後の集計…よろしく頼むわね』

「ああ」

俺は、そんな雪乃とのやり取りに笑みを浮かべて通話を切った。

目標の達成と、現状スケジュール通りに業務が進んでいることに安堵の溜息を吐いた。

――さて、と

先ほど雪乃が言った通り、俺たちは今回の文化祭の最終結果報告のため、これから夕刻にかけて、再び会計決算業務に取組むことになる。そうなればチームは再びフル稼働だ。

おれは束の間の休憩のため、自販機で飲み物でも買おうと思い、席から立ち上がった。

「あの、比企谷さん。ちょっとだけ時間いいですか?」

そんな俺の前にひょこっと現れて、遠慮がちに声を掛けてきた女子生徒が一名。

俺と雪乃を除いた、今回の文実のMVP候補である1年生メンバー劉海美だった。

「どうした海美?…っていうかお前、営業チームで当日は会場運営担当だったのに、急遽こっちに入ってもらうことになっちまって悪いな」

「いえ、文実の仕事ですから。それより、今日は兄が来ているんです。実は兄は明日帰国するんですが、最後に比企谷さんに挨拶したいと言っていまして…」

「明日!?」

俺は海美の言葉に驚きの声を上げる。

そして前回彼と会った、花火大会の日のことを思い出した。

――そういえば、あの時、もうすぐ帰国するって言っていたな

上海で事故に巻き込まれたあの日も、彼の留学期間は半年程度だったと言っていた。

その事実を思い返すと、一抹の寂しさを心に覚えた。

「劉さん、何処にいるんだ?」

「廊下で待ってますよ」

俺の質問に対し、海美は笑顔でそう答えた。

「…劉さん。すみません。今日が帰国の前日なんて全然知らなくて…結局自分からまともに挨拶に行くことも出来ませんでした…」

廊下へ出た俺を待っていたのは、いつも通りのヘラヘラとした表情を浮かべた劉さんだった。

「いえいえ、気にしないで下さい…今日はこれまで調べた陽乃さんや雪乃さんのご実家のことについて、ヒキタニさんへ情報共有しておこうと思いましてね」

「!?…すみません。本当に、ありがとうございます」

あの日、花火大会の会場で出会った時、確かに劉さんは、雪ノ下家の事情を探っていると口にした。

本来であれば、雪乃の実家の問題について調査するのは俺がやるのがスジだったはずだ。

それが、夏休み明けからの忙しさにかまけ、俺にはここまで何もすることが出来なかった。俺はそんな自分を恥じた。

『咱们讲中文好不好? 他人に聞かれてはあまり宜しくないでしょうから』

『…好的』

劉さんは気を遣って、中国語で情報交換をすることを提案し、俺はそれに同意を示す。

『雪ノ下建設の業績については、今のところ非常に堅調なようです。ただ、何点か気になる動向がありましてね』

『気になる動向?』

『はい。どうやらここ数年、中小建設会社の買収・合併を繰り返しているようなんです。それに加えて、お父上個人が、そういった弱小建設会社のオーナーへの個人的な貸付まで行っていると…陽乃さんも余り詳しいことは知らないようでしたが、これは彼女から聞いたことなので、それなりに信憑性が高いでしょう』

――弱小建設会社のM&A?規模を拡大して上場でもするつもりか?

俺は頭に浮かんだそんな疑問を即座に否定する。

俺の知る限り、今後15年内に、雪ノ下建設が上場するという事実はない。

『買収の目的が不透明ですね。技術力のある企業や業績の良い企業を傘下に治めてるんですか?それに、個人で融資って…』

『それも調べましたが、どうやらそう言う訳でもないようです。建設業界には外国人労働者も多いですからね。在日中国人のネットワークには、雪ノ下建設に買収された建設会社に勤める知人もいたんですが、彼らの話を聞く限り、経営がジリ貧な企業であっても、手当たり次第に買収に動いているといった印象です』

『そんなことまで良く調べられましたね…』

『まぁ、偶然そう言うツテがあったと言うだけの話ですよ…それに買収した子会社を通じて、海外のコモディティ・デリバティブ投資向けのビークルを設立しているとか』

『…投資ビークル』

――海外投資にかかるオフショアビークル設立と節税スキーム

夏休み、葉山の自宅で見かけた書類のタイトルを思い出す。

『子会社の建設資材の仕入にかかるヘッジ目的なんでしょうか?…いや、今は鉄鋼を始め、建材はグローバルに値崩れが起きてますし…将来の値上がりに備えると言っても、弱小建設会社がわざわざデリバティブに手を出してまでヘッジに乗り出すなんて考え難いですよね』

『…雪ノ下建設の指示による投機目的、と考えるのがスジでしょうね。投資対象の商品種類も、どうやら建材だけでは無いようですし。しかし、未公開企業の事業戦略を外から眺めてもやはり掴める情報には限りがありました。力及ばずですみません』

『とんでもない。何から何までこちらこそ申訳ないです…』

『いえいえ…そうだ。これは有益な情報かどうかわかりませんが、雪ノ下建設の企業買収については、いつも同じ欧米系の投資銀行がアドバイザリーに付いているようですよ。確か――――』

『!?』

『おや?心当たりでも?』

『…はい。ここからは自分にもツテがありそうです。本当に、ありがとうございました』

『そうですか。それは良かった…中国に戻ってしまえば、お手伝いできることは少なくなるでしょうが、これからも何か分かれば連絡します。…いつか、大きな仕事を一緒にしましょう。これからも、よろしくお願いします』

そう言って微笑む劉さんと、手が痛くなる程の強い力で固い握手を交わした。

再開後に大した交流をしたわけでも、上海の一件の礼がきちんと出来た訳でもない。

そんな俺のために、この人はどうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。

いつの日か、この人が出世して再び副市長になった日に、今度こそプロジェクトを完遂したい。俺は強くそう願った。

そして、雪乃の実家の問題について俺は決意を新たにする。

劉さんが名前を挙げた、投資銀行。

それは正に、俺が未来の世界で何年も勤めていた会社の名だった。

☆ ☆ ☆ 

「おい!集計まだなのか!?」

「ちょっと待ってよ!まだ4クラス分もあるんだよ!手伝ってよ!」

その後、再び会議室に戻った俺を待っていたのは、怒声の飛び交う、阿鼻叫喚の地獄だった。

13時の暫定報告以降も俺達総合企画グループは連携して会計処理を進めてきた。

途中、雪乃が指示する営業グループに対して追加の支援要請を出しつつ、何とか処理を間に合わせようともがいたが、時刻が16時に迫った現段階に至っても、現金残高と収支勘定が一致していなかった。

閉会式の結果発表まで時間が無いのに、最終集計が終わらない。

そんな状況に焦りを感じた文実のメンバーの雰囲気も次第に険悪になっていく。

「みんな焦るな。13時までの段階でエラーは無かったはずだ。照合するのはここ3時間で上がってきた報告だけだ。落ち着いてもう一度やるぞ」

そんな俺の声掛けなど、まるで伝わる様子も無く、皆が慌てふためいていた。

「何で!?…4回も計算しなおしてるのに、現金と一致しない!!どうしよう!!」

会計の統括を任せていた相模がここへきて、パニックを起こしだした。

こんな雰囲気の中で作業を強制されれば無理も無い話だ。

「相模…大丈夫だ。最悪、13時までの暫定決算を元に結果発表をしても問題はない。焦るな」

そう言って、相模の肩を軽く叩く。

「比企谷…」

相模はうっすらと目に涙を溜めて俺を見た。

「念のため結果発表班は、暫定報告で順位付けと表彰が出来る体制を整えてくれ!それから、今現在の全体の差異金額はいくらだ?」

俺はもう一度、大き目の声で指示を飛ばし、状況把握のための質問を投げる。

「全体で7万円も現金が足りないんだよ!…こんなのおかしいよ。13時までの集計はここまで金額がズレる事なんて無かったのに!」

誰かが俺の問いに報告の返事をしながら、皆の焦りを助長するような声を上げた。

「おい…まさか、誰かが現金抜いたんじゃねぇのか!?」

「お、横領かよ!?」

――根拠のない憶測で勝手にモノを言うんじゃねぇよ!

パニックがパニックを呼ぶ。くだらない憶測を元に誰かに現状の責任を擦り付けようとするメンバーが現れた事に俺は苛立ちを覚えた。

「13時の暫定決算、委員長まで回してるんだろ!?委員長は何処にいるんだよ!?」

13時の最終照合は俺が行っている。

雪乃はあの電話の後、会場回りから一時的に会議室に顔を出し、形式上の確認印を押しただけで、決済業務とは何の関わりも持っていなかった。

彼女は彼女で、此方の班にメンバーを遣して戦力ダウンとなる中でも、会場運営の業務を必死に回していたのだ。

今、雪乃をここに呼びつけても何の意味も無いことは明白だった。

「委員長、今、テレビ局のライブ中継でインタビュー受けてるって!」

「何なんだよ!?一人だけいい顔して、こんなのおかしいだろ!!」

「私、無理やりにでも引っ張ってくる!」

――おい、ちょっと待て!

テレビ中継は元々俺が計画したことではない。だが、これはあいつにとって、今回の文化祭の成功を象徴するような一大イベントだ。

雪乃の前に開きかけた道を、こんな連中に土足で踏みにじられてはたまらない。

「お前ら、いい加減に…」

「みんな、ちょっと待ってよ!落ち着いてもう一度、もう一度だけやってみようよ」

目前で繰り広げられる茶番を阻止するため、俺が再び声を上げようとした所、相模が必死な表情で皆に呼びかけた。

「お前が何回やっても勘定が合わなかったんだろうが!」

「そうだよ!もう閉会式に間に合わなくなるよ!」

相模が見せようとしたその小さな勇気は、場の雰囲気に押しつぶされようとしていた。

今、みっともなく騒ぎ立てている連中には冷静に事態の解決を図る気概も能力もない。

ただ、振り上げた拳を下ろす場所が欲しくて、子供のように喚き散らしているだけだ。

そして、その拳の向かう先は雪乃から相模へと移りつつある。

相模はそんな状況に耐え切れなくなり、とうとう涙を流し始めた。

文化祭当日、最後の集計業務の失敗。これは明らかに俺の采配ミスだ。

雪乃は今回の文化祭に心血を注ぎ、全身全霊の努力によって成功を掴もうとしている。

相模は途中から見せた頑張りによって、初日と今日の暫定決済までの責務を全うした。

であれば、この場の責任を取るべき人物は俺しかいない。

過去の文化祭で、問題解消のため、相模に対して悪意をぶつけた記憶が鮮明に蘇った。

――俺は俺のやり方で、正々堂々、真正面から卑屈に最低に陰湿に…か、上等だよ。やってやる

「…おい、お前ら。俺達が今回の文化祭で一体どれだけの金を動かしたと思ってるんだ?今更、数万程度の誤差でピーピー喚くんじゃねぇよ」

「「「「なっ!!??」」」」

俺の発した言葉に反応するかのように、その場にいた全員が静まり返る。

「現金の勘定はもういい。収益の報告に合わせて結果報告を作成しちまえ。差額は俺が一先ず建替えてやる」

そう言って、俺は自分の財布から7万円を取り出し、乱暴に机に叩き付けた。

「「「「……」」」」

俺の言葉にその場が静まり返る。

「ちょ、ちょっと待て!何でお前がそんな大金持ってんだよ!?」

そんな静寂を打ち破る用に、誰かが疑惑の声を発した。

まぁ、高校生がいきなり財布からこんな金を取り出せば、誰もがそう疑問に思うだろう。

「まさかお前…委員長とグルになって…」

これも想定通りの反応だ。

「は?グルになって何だってんだ?」

俺は自分の持てる限りの眼力でその生徒を睨み付ける。

その生徒は押し黙るが、その目には憎しみの炎が宿っているのが見えた。

「今回の文化祭…いや、お前らを使ったこの実験、俺は大いに楽しませてもらったよ。この金はその礼だ。烏合の衆なりに、俺のキャリアアップのために、よく尽くしてくれたもんだ。無論、雪ノ下の奴も含めてな。神輿は軽い方がいいって言うだろ?上から下まで、ここまで俺の言うなりになって動いてくれる組織は、正直心地良かったぞ」

あいつだけには、雪乃だけにはこの悪意の矛先を向けさせる訳には行かない。

俺はそう言いながら醜く口元を歪ませた。

「てめぇ!!」

その場を煽るだけ煽った俺に向かって、一人の男子生徒がつかつかと歩み寄ってきた。

――ドカッ!!

俺は胸倉を掴まれ、そのままの勢いで、壁に押し付けられた。

「カハッ!」

背中が壁にぶつかった衝撃で、肺の空気が一揆に外に漏れる。

「そんな…嘘でしょ、比企谷!?」

――そんな目で俺を見るんじゃねぇよ、相模。お前を助けるのは雪乃のオマケとしてだ

一瞬咳込んで掠れかけた視界に入った、相模の祈るような表情を見て、心の中でそう呟いた。

「はっ、最初はどうしようもなく使えないと思ってた連中が、最後は高々数万円のために、ここまで熱くなるとはな。予想外に成長したんじゃねぇか?Win-Winってのはこのことだな」

――バキッ!!

更に悪態をつくと、その男子生徒が振りぬいた拳に思い切り殴りつけられた。

会議室内に、女子生徒の悲鳴が響いた。

その場に限りなく重たく、気まずい空気が流れる。

「…気は済んだか?」

その男子生徒は、俺の問いには答えない。

自分が思わず暴力を振るってしまったことに呆然となり、立ち尽くしていた。総武高校は進学校だ。きっと彼も自らの将来を傷物にする行いをしたことを後悔しているのだろう。

「…ならさっさと持場に戻れ。見てるお前らもだ。早くしろ」

その生徒に対する慈悲という訳ではないが、俺は何事も無かったかのように、無言で立っていた少年を押しのけ、自席に戻ると再集計のためにPCを開いた。

 

だが、俺の腕は横からやってきた別の男子生徒に引っ張り上げられた。それは、先程まで黙って俺達のやり取りを見ていた吉浜だった。

「いや、比企谷は俺と保健室だ…。西岡、田村!悪ぃけど、再集計の取仕切りは任せた」

「「う、うん!」」

吉浜の指示により、文実のメンバーが最後のトライに向けて動き出した。

先ほどまでの焦りが嘘であったかのように、無機質に、冷静に、一丸となって業務に取り組みだしている。

――結局、陽乃さんの言った通りになっちまった

最後に集団を一つにまとめたのは、紛れも無く、俺という明確な敵の存在だった。

☆ ☆ ☆

「…お前何なの?マジでアホなの?」

俺は吉浜に強引に腕を引っ張られ、保健室に連れて行かれた。

吉浜は俺を乱暴に椅子に座らせると、開口一番、呆れた表情でそう言った。

「あ?何がだよ?」

「現金ゴメイになるまで帰れると思うなって、昨日言ったのはお前だろうが。あんなクソみてぇな演技に騙される奴もどうかと思うけど……ほら、口あけろ。あ~あ、ぱっくり切れてやがる」

そう言いながら、吉岡は消毒液の染込んだ綿をこれまた乱暴にピンセットで俺の口に突っ込んだ。

「フガ!!痛、イッタ!!…おい、その消毒液、外傷用なんじゃないのか?口に入れて大丈夫なのかよ!?」

「んなこと俺が知るか!治療はお前を会議室からつまみ出すための口実だ。ったく、もしあいつが手を出さなかったら、俺が変わりに殴りでもしなきゃ収拾つかなくなってただろ」

「…あれが一番効率的なやり方だ」

「はぁ?カッコつけんなよ…お前、あいつのこと利用したんだろ?なら停学処分にならないように、責任持って平塚先生に根回ししてやれよ」

「私に何の根回しをするって?」

「「…先生」」

ガラガラと保健室の扉を開いて入ってきたのは平塚先生だった。

「まったく、君達が最後に問題を起こすとは、頭が痛いよ…話は全部聞いたぞ。集計も西岡と田村が中心になって無事に終わらせたよ。原因はクラスサイドの報告ミスだったそうだ。相模が気付けなかったのも無理は無い。ほら、比企谷」

そう言って、先ほど俺が机に叩き付けた現金を手渡す。

「全く、学生がこんな大金を持ち歩くなんてけしからんな…今頃雪ノ下が閉会式で結果発表を行ってるだろう。君達が無事に集計した最終結果のな」

平塚先生はそう言って微笑んだ。そして、俺の肩に手を置いて語りかける。

「今回の文化祭、結果的に君の尽力は大きかった。だが、素直に褒める気にはなれない…誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」

「いや、別に傷つくって程のもんでも…」

気付けばまた繰り返している。この会話も15年越しのデジャブだ。

十以上も歳の離れたガキ共に、今更何を言われようと、どう思われようと俺には何のダメージもない。

そのはずなのに、恩師の言葉は俺の胸を抉る様に心に突き刺さった。

「例え君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気付くべきだ…君は」

「…俺は痛ましく思うっていうか、イタい奴だなぁって思ってるけどな」

「うっせぇよ。そこは痛ましく思っとけ…さっさと仕事に戻るぞ」

横から茶々を入れた吉浜に毒づくと、俺は椅子から立ち上がった。

「はぁ?お前まだ働く気?…後のことは俺達に任せとけ」

「ハハハ、君達はちゃんと青春してるじゃないか」

「「どこが?」」

不覚にも吉浜と言葉が重なったことに、俺は気恥ずかしさを覚えた。

ふと壁に掛けられた時計に目をやる。

こんなやり取りをしている間にいつの間にか閉会式終了の時刻となっていた。

その瞬間、俺の携帯が音を立てて振動した。

【比企谷君、少し話があるから。屋上で待ってます】

差出人は雪乃だった。その短いメールを見て、俺はうっと息を飲んだ。

「…これは仕方あるまい。奉仕部部長にこってり絞られて来るといい…しかし、生徒が勝手に屋上に上がるのは問題だな…鍵はどうなってるんだ?後で対策をしないとな」

「何々?え?委員長から呼び出し?告白?告白か?」

「…そんないいもんじゃねぇよ。こりゃ…絶対怒ってるな。ってか、お前、人のメールを何盗み見てんだよ?平塚先生も止めてくださいよ!」

俺は悪戯が親にバレた少年のようなブルーな気分で屋上へと向かっていった。

☆ ☆ ☆ 

「ブハハハハ!こいつは傑作だ!そんだけのヒールっぷりをぶちかました挙句、委員長の子に平手打ちされて超ブルーってか!?」

俺は今、学校近くの居酒屋で平塚先生、槇村さん、宮田さんによる文化祭のミニ打上げに同席している。

元々平塚先生は、この二人と今日の飲み会を予定していたらしい。先生が酒の席で文化祭の一連の出来事を二人にこぼした所、急遽、俺を呼びつけて更に詳しい話を聞き出そうという運びに相成ったようだ。

――くそ、人の不幸を酒のつまみにしやがって

俺は不貞腐れた表情でウーロン茶に口を付ける。

が、口内裂傷の痛みに耐えかねて、顔を歪めた。

「…おい槇村。その辺にしておけ。こいつ、とうとう泣き出したぞ」

「いや、泣いてませんから!口の中が痛いんですよ!」

「そうだったのか。それは見くびってすまん…あ、店員さん。注文追加を…タコわさ、キムチ、イカの塩辛…あと、スパイシー唐揚」

「鬼!?」

俺の必死の訴えに一言だけ謝罪すると、宮田さんはわざわざ刺激物系のメニューを丁寧にピックアップして注文した。

表情には出さないが、内心、俺をイジって楽しんでいることが丸分かりだった。

「…二人とも、私の生徒を可愛がるのはその辺にしてくれ」

「平塚さんに止められちゃ仕方ないな……おい比企谷、良く聞け。俺らのような人種は常に合理的な判断が求められるんだ。金融業界を志望するなら、最後まで冷静さを失うことは許されん。そういう意味じゃ、今日のお前は完全に不合格だ」

先程とは一転して、槇村さんは冷徹な目で俺を見据える。

「…分かってますよ。今日のアレは、別に冷静さを失っての行動じゃありません。効率を重視した結果です」

俺はその視線にまともに目を合せられないまま、言い訳がましくそう述べた。

酒の席で槇村さんから説教を食らうのはしょっちゅうだったが、まさかこの時代に戻っても怒られる事になるとは思いもしなかった。

「どこが冷静だ。お前も一旦は暫定決算結果でその場を凌ぐ案を思いついたんだろう?どうしようもない場合に次善の策を選択するのは常識だ。それを敢えて、自ら経歴を汚す可能性のある行動を取ったのは何故だ?今回現金集計が無事に決算内容と合致したのは結果論だ。いくら僕達が将来お前をこの業界に誘いたいと思っても、学生時分に横領をしでかした疑いのある人間を企業がおいそれと雇えると思うか?起業するにしてもそれは同じだ。そんな人間が立ち上げた会社と取引する企業はない」

「…うっ、そ、そうですね」

宮田さんの正論による波状攻撃で俺はぐうの音も出なくなる。

「金融マンが自分の経歴に進んで汚点を付けに行くなんてのはご法度なんだよ。それが如何に人の為とはいえな。悪意のある相手に足元を掬われれば、所属する組織だけじゃなく、関係する取引先、市場関係者、全てに迷惑をかけることになるんだぞ。これもコンプラだ!良く覚えとけ。このドアホ!」

槙村さんはそう言いながら、ちらりと平塚先生の方を見る。

確かに、あのまま決算集計が現金残高と一致しなければ、俺には間違いなく横領の疑惑が掛けられていたことだろう。そしてその場合、その監督責任を問われるのは、間違いなく平塚先生だ。

彼女は、その可能性に関しては一言も言及せず、ただ、俺の心配をするような言葉を俺にかけてくれた。俺の配慮不足、と言う指摘に関して反論の余地はない。

「…反省します」

二人の説教を受けて、俺は本当に涙目になった。

「…比企谷、散々だな。だがこれも良い薬だ。どうやら私からの説教より、よっぽど効くようだな」

平塚先生はすっかり萎縮した俺を見て、苦笑いを浮かべる。

「ったくよ…ま、お前も若いなりに金融を齧る人間なら分かると思うから言うけどな。俺らのような人間でも冷静さに欠いちまう状況ってのには、いくつかのパターンがある。プレッシャーに押し潰されかけた時か…あるいは、成功や女に目が眩んだ時だ。今日のお前は、果たしてどっちだろうな?」

ニヤニヤしながら槇村さんがそう口にした。

「…後者だな。聞くまでもない」

宮田さんが焼酎を口にしながら、その質問に勝手に答えた。

「何!?女!?まさか、比企谷…君は雪ノ下と…」

「ちょ、っちょっと!もう反省したんで、そろそろ勘弁してもらえませんか!?」

平塚先生から余計な詮索を入れられる前に、俺はこの会話を無理やり打ち切らせようと声を上げた。

そんなタイミングで平塚先生の携帯が振動する。誰かから着信があったらしい。

『あ、平塚先生!?今日、文実で何があったんですか!?…ゆきのん、目を真っ赤に腫らして、すごく落ち込んでるみたいで…でも泣いた理由もあまり話してくれないんです…どうしたら良いのか…』

先生の携帯から漏れてくる結衣の声に俺は身を硬直させた。嫌な予感がし、カバンの中に放り込んでいた携帯を手に取ると、結衣や沙紀からの不在着信と未読メールが溜まった状態になっていた。

無言でその画面を平塚先生に見せると、先生も困ったような表情を浮かべた。

一方、宮田さん、槙村さんはこれまで見せたこともないようなニヤケ顔を見せる。

「…由比ヶ浜、それは比企谷がやらかしたせいだ…雪ノ下は大丈夫なのか?」

『今サキサキと一緒にゆきのんの家にいるんです。ゆきのんは、ちょうどお風呂に入ってますけど…それよりヒッキーのせいって、どう言うことですか?』

「…まぁ話すと長くなるのだが…」

その後、平塚先生は今日の一連の出来事をかいつまんで由比ヶ浜に説明していった。

『…ヒッキーは今何処にいるんですか?』

それを聞くなり、結衣は怒気を孕んだ声で先生にそう尋ねた。

「安心したまえ。私と、他の大人2名に囲まれて反省会の真っ最中だ…彼も自分を傷付けるような真似をして雪ノ下に心配をかけたことを、泣きながら後悔している所だ」

「泣いてねぇ!」

「「プッ、クククク…ハハハハハ!!」」

最早意味のない抵抗を試みた俺を指差して、腹を抱えて笑う社会人男性が2名。本当にロクなもんじゃない。

『ゆきのんは "助けてくれたヒッキーに対して身勝手な対応をした"って、一言だけ言ってました…そういう事だったんですね。でも、ヒッキーに伝えて下さい。私もサキサキも、今、本当に怒ってますから!!』

「…ああ。伝えておくよ…ところで明日から二日間は文化祭の代休で休校日だ。教師としてこんなことを頼むのは気が引けるが、もし親御さんから許可が出るのであれば、今日は雪ノ下の家に泊まってやってくれないか?」

『アタシもサキサキもそのつもりです』

「そうか。助かるよ。それではお休み…」

「ダハハハ!!ヒッキーって、お前!!そりゃお前のことだろ、比企谷!」

平塚先生が通話を終了した瞬間、槙村さんは堰を切ったようように笑い転げた。

このあだ名がそんなに面白いのか。この人、既に相当酔っぱらってるんじゃないだろうか。

「ブフッ…ムグッ…ゴホッゴホッ…失礼。今の会話から比企谷を取り巻く女性関係を整理すると、電話の主である由比ヶ浜、その友人であるサキサキ?、それから今回委員長を務めたゆきのんこと雪ノ下…この三名と言う事であっているのか?」

「わざわざ整理しなくて良いですから!」

俺は元上司の無駄に高い情報整理能力に対して悪態を付く。

「…ちょっと待て。そういえば雪ノ下って苗字、聞いたことあるような…あ!総武光学をウチのVCファンド運用チームに紹介した時の来客リストにあった名前じゃねぇか!宮田、もう一回全員の名前頼む」

そう言うと、槙村さんは懐からスマートフォンを取り出してネット上で検索を始めた。

「雪ノ下に由比ヶ浜…もう1人はアダ名しか分からんがサキサキとか言っていたな」

二人のその行動力に、俺は頭を抱える他なかった。

【やっはろー!千葉県立総武高校の文化祭へようこそ!】

テンポの良いBGMとともに、結衣のよく響く可愛らしい声が槙村さんの携帯から流れ出した。早速動画サイトで総武高校文化祭の宣伝動画を見つけ出したらしい。

槙村さんも宮田さんは値踏みするような顔で動画に見入っている。

「…ああ、これはちょうどこの3人で撮った文化祭の広報動画だ。実は彼女たちと比企谷を含めた4人で、奉仕部という部活をやっていてな。私はその顧問なんだ」

ニコニコと笑いながら平塚先生は自慢げに、彼女たち一人一人のことを2人に伝え出した。

「…先生まで、余計なことを…」

「奉仕部…なんか卑猥な響きっすね。しかもなんだ、3人ともえらく器量が良いな…へぇ、この子がお前をぶっ叩いた雪ノ下ちゃんか!おいおい、こりゃどっちかって言うとご褒美じゃないのか!な、ヒッキー!」

――発想がオッサン過ぎるし俺にそんな趣味ねぇよ。あとヒッキー言うな

平塚先生も槇村さんのセクハラ発言に若干渋い顔をしている。

「で、比企谷…どれが本命なんだ?まさか全員手籠めにしているのか?」

「…いや、その」

二人の遣り取りを横目で聞いていた宮田さんの突然の問いかけに対し、一瞬答えに窮する。

その一瞬の狼狽を、やはり三人は見逃してはくれなかった。

「おいおいおい、マジかよ…」

「度し難いな…」

「比企谷…これ以上問題を起こすのは勘弁してくれ。私の監督する部活で不純異性交遊は絶対に認めんからな」

――誰か俺を開放してくれ…

そんな俺の心の声は誰にも届かなかった。

その後も社会人3名が、実は同年代のアダルトチルドレン1名をイジリ続ける会は続く。

平塚先生は途中まで、槇村さんが口内のアルコール消毒・燻煙消毒等と言って俺に酒やタバコを勧めるのを必死で阻止する等、教師としての立場を保っていた。

しかし、話題が投資談義・政治経済談義に移ると、話題に乗れなくなってしまった先生は大人しく手酌を始め、いつの間にか一人、ベロンベロンに酔っぱらってしまった。

 

そして、その後始まった宮田さんへの露骨な求婚アピールと、反応に窮する宮田さんの姿を見て、俺は多少なりとも溜飲を下げることができた。

気付くと時刻は9時半を回っていた。

社会人の飲み会であればまだまだこれから、という時間帯ではあるが、俺も高校生の身なのでこれ以上長居はできない。そして、平塚先生が酔いつぶれてしまっては2人も二次会という訳にはいかなくなり、会はお開きとなる。

高給取り二人がこの場の会計を済ませ、店を出たタイミングで俺は今日の本題を切り出した。

「あの、槇村さん、宮田さん…極めて個人的なことで大変言い辛いんですが、一つお願いがあるんです。聞いてもらえませんか?」

「あん?何だよ、改まって?」

「雪ノ下建設…さっき話題になった子の実家が経営する会社の事なんですけど…」

俺は劉さんから得た情報を交えながら、二人に相談を持ち掛けた。

雪乃の将来を揺るがしかねない何かが起こっていることを仄めかしながら、俺は二人の勤務する投資銀行を巻き込んだ不正が行われている可能性に言及した。

「…比企谷、残念だがその要望には応えられん。お前は僕たちの会社から見ればあくまでも部外者に過ぎん。組織のスキャンダル絡みとなれば尚更、内部情報を外に出すわけにはいかん」

宮田さんはあくまでも冷静にそう言い放った。

「…だな。仮に俺達がお前に協力するにしても、ウチもセクション毎に情報のウォールがあるから真相を探るのは難しい。総武光学を別部隊に紹介した時のビジネスマッチングとは訳が違う。そんなことくらい、お前程の金融オタクなら理解してんだろ?」

槇村さんも、宮田さんの意見に合意する。

こんな反応は分かり切っていたことだ。だが、今の俺には二人に縋る他ない状況だった。

「雪ノ下は…俺にとって大切な人なんです。そして今の俺には二人に頼ることしかできません。可能な範囲で…どんな小さな情報でもいいんです。何かヒントだけでも掴めれば…どうか、お願いします」

「「……」」

深々と頭を下げた俺に対し、二人は無言になった。

「…宮田、そう言やM&A部門には、村瀬とかいういけすかねぇ同期がいたな?」

「おい、槇村」

ふいにとある人物の名前を口にした槇村さんを、宮田さんが諫める。

――村瀬?

この二人と同年次の人物。

俺があの会社にいた頃、そんなシニアの名前を耳にした記憶はない。俺が大学を卒業して就職するまでの、この先5年内に転職した人間だろうか。

「ま、いいじゃねぇか…だが、あんまり期待すんなよ」

「おい、本気か?」

「あ、ありがとうございます!」

俺は協力を約束してくれた槇村さんに更に深々と頭を下げた。

「あぁそうだ、比企谷。交換条件だ…宮田と平塚さんの二人を家まで送ってやれ」

「おい、何を言っている?今日はお前がハイヤーを手配すると言ったから、僕は千葉まで来て酒に付き合ったんだぞ?」

「悪ぃな宮田。今日の車、一人乗りなんだわ」

「そんな車があってたまるか。冗談じゃないぞ!」

「ま、いいじゃねぇか…あ、迎えが来たわ。じゃあな!」

顔を上げると、数10メートル先に待機する車が見えた。

槇村さんはその車に駆け込むと、やや乱暴にドアを閉める。そして車はあっという間に走り去っていった。

「…あの野郎…おい、比企谷。平塚さんの家はどっちだ?」

宮田さんは、傍で座り込んでいた平塚先生を背負うと、俺にそう尋ねた。

俺は苦笑いを浮かべながら、先生の自宅の方向へと歩き出す。

「…宮田さんは先生じゃダメなんすか?」

途中、俺は人生初の上司にそんな問いかけをした。

「うるさいぞ。大人の人間関係に口出しするな」

宮田さんは不機嫌な顔でそう言った。

「…雪ノ下は、平塚先生にとっても大事な生徒なんです」

俺は卑怯だと思いながらも、そんな言葉を口にする。

「…そんなことは見ていれば分かる。まったく、総武高校は教師も生徒も揃って面倒事を押し付ける人間ばかりだ」

宮田さんはフッと柔らかい表情を浮かべながらそう口にした。


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