比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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31. 比企谷八幡は追跡する

翌朝

朝練中の運動部を除けば、まだ登校してきた学生は殆どいない時間の学校。

校舎の入り口で下駄箱に靴を入れ、上履きに履き替えながら俺は考えていた。

今日は朝一である人物に相談を持ち掛けなければならない。無論、その人物に雪ノ下建設に絡む調査への協力を要請するためである。

――さて、どう話を切り出すべきか…とりあえず職員室に行くか

昨晩、雪乃、結衣、沙希と別れた後、俺は宮田さん・槙村さんと連絡を取り、再び村瀬の尾行に関する打ち合わせを行った。

一先ずは槙村さんがオフィスの入り口で奴を待ち、持ち合わせの情報をチラつかせて奴から話を引き出す。その後、俺が村瀬を尾行するのは前回決まった通りだ。

だが、よくよく考えてみれば、高校生の俺が単独で奴を追いかけることは不可能であった。

奴はデスクの私物を段ボール箱に詰め、それを抱えた状態で会社を離れるだろう。

一般的な高給取りの行動パターンを考えれば、そのまま公共交通機関に乗り込むことは想定し難い。十中八九、自家用車かタクシーで移動する。奴を尾行するには俺の他に車を運転できる成人の協力が不可欠だった。

槙村さんは宮田さんにその役を担えないかと尋ねたが、答えは渋かった。

『年休を取得して尾行に参加することは可能だ…が、ちょっと問題がな…』

『問題?何だよ?』

『…いや…その…とにかく運転は…』

『お前らしくないな?ハッキリ言えよ』

『僕はペーパードライバーだ。運転に自信がない…』

槙村さんが大きく溜息を吐き、トップトレーダーが聞いて呆れると嫌味を言うと、「都内に住んでいれば普段は車の運転など必要ない。環境への配慮だ」と、どこぞの車離れした若者のようなエコな発想を口にする始末だ。

俺はその場で代替案を考えなければならなかった。

雪乃に頼んで車を出してもらうのはどうだろうか。いや、アホか。雪ノ下建設の不正を暴くのに、雪ノ下お抱えの運転手に協力を願う等、自殺行為だろう。

宮田さん名義でレンタカーを借りてもらって、俺が運転するのはどうだろうか。

これも無理だ。そうするには最低でも、今この二人に俺の正体を明かす必要がある。その上であっても形式上は高校生による無免許運転という、違法行為を行うリスクをこの二人が了承するとは思えない。

その日、俺は頭を抱えたまま布団に入った。

今俺にできることは何があるだろうか。あと数日の間に、手筈は整えておかなければならない。加えて、帰り道で目にした、雪乃の母親と一緒にいたあの男性のことも気になった。

思考の渦の中、俺はなかなか寝付くことができなかった。

そんな昨日の出来事を考えつつ、玄関ホールの高い天井を仰ぐと、不意に背後に人の気配を感じた。

「やあ比企谷、おはよう」

「うぉっ!?ビックリした!?」

突然掛けれらた声にやや大げさに反応すると、その声の主、平塚先生は眉を顰めて俺に詰め寄った。

「そんなに驚くことはないだろう?まさか比企谷…噂通り女子のリコーダーや体操着に手を出すつもりでこんな時間に…」

「ちょ、何なんですか、その噂…そこまで疑われると地味にショックなんですが…」

沙希が奉仕部に入部する前に口にしていた話ではあるが、先生にまで疑われているとなっては、俺がいくらボッチ慣れしていても許容し難いものがある。

「…冗談だ…ところで、昨日はご苦労だったな。クリスマス会の準備もようやく軌道に乗ったようだ」

平塚先生は目を泳がせたまま、不自然な笑顔を浮かべて、昨日の会議について触れた。

「まぁ、方向性を決めただけですけどね」

俺は普段の3倍増しの濁った目で先生を見据えてそう言葉を返した。

「何だ?眠そうな顔をして?生徒会長からの依頼は上手くいったんだろ?」

「まぁ、別件で色々問題がありまして…」

――この際だ。この場で話を切り出した方がいいだろう

俺が協力を要請しようとしていた人物とは平塚先生に他ならない。

俺は周りに人気がないのを確認し、思い切って口を割ることにした。

「…平塚先生、突然ですけど今週の金曜日、有給取れませんか?」

村瀬尾行のための最後の手段。

それは平塚先生に事情を話し、車を手配してもらうことだった。

「休暇?藪から棒に何だ?」

訝し気な表情で先生は俺にそう聞き返す。

「俺たちとデートしてください」

「え?」

俺の短い言葉に、先生は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべて聞き返した。

「…宮田さんと一緒にドライブに行きませんか?」

俺が付け足した言葉に、一呼吸置く形で、先生の頬が若干朱色に染る。

ただし、その表情には依然として混乱の色が浮かんでいる。

「な、何をいきなり…」

「いや、そのですね…実は…」

――ドカッ

俺が本題を切り出そうとしたその瞬間、後頭部に重たい衝撃を受ける。

「!?」

頭を抱えてその場に蹲ると、女生徒二人の足が視界に入った。

「へぇ?ヒッキー、部活には来なくても、先生はデートに誘うんだ?」

「朝くらいなら話せると思って早く来てみればそれ?学習能力が低すいるんじゃない?」

二人の足元には俺の後頭部にぶち当たったであろうカバンが転がっていた。

「ゲッ!?お前ら…」

そこに立っていたのは、結衣と沙希だった。

「「ゲッ!?って何(何だし)!?」」

「ヒェッ…スミマセン…」

鬼ような形相を浮かべて詰め寄る二人に対し、思わず情けない声を上げて、顔を覆い隠し、背を丸める。

そんな俺の姿を見て、先生は深いため息をついた。

☆ ☆ ☆ 

金曜早朝、都内のオフィス街の一角。

ビルの外に停車中のワインレッドのスポーツカー。その車内に5人が待機していた。

「…唆されて年休を消費するばかりか、他の生徒まで巻き込んで学校をサボらせるとは…私は教師失格かもしれない」

運転席の女性、平塚先生はそう一人ごちた。

「…知り合いに協力を仰ぐとは聞いていたが、まさか平塚さんとは…しかもコブ付きときたもんだ。お前の狭そうな交友関係でいったらこうなることは目に見えていたのに、迂闊だった…」

助手席に座る成人男性、宮田さんも頭を抱えてそう言った。

「ゆきのんの将来がかかってるかもしれないんですよ!?先生はエライです!」

「ちょ、由比ヶ浜…狭いんだから動かないで」

狭い後部座席から身を乗り出して平塚先生に話しかける結衣を迷惑そうな目で見る沙希。

事実、この車は4人乗りのスポーツカーだ。

後部座席は大きめの肘掛で仕切られている。どう考えても5人は乗れないのだが、結衣も沙希も頑として参加を譲らなかったため、俺はチャイルドシートに跨るように、真ん中にチョコンと座らされる羽目になった。

「…元々宮田さんが運転できれば、わざわざ先生にお願いする必要はなかったんすけどね…」

「うるさい。前にも言っただろう。都内に住んでいれば車なんて運転する機会は殆どないんだ」

俺は絵に描いたような窮屈さを体勢で宮田さんに文句を言うが、宮田さんは取り合わなかった。

「…凄い…ヒッキーが二人いるみたいだ…目とか、捻くれてそうな所とか、そっくり…」

「本当に比企谷の親戚じゃないんですか?」

「「違う!」」

結衣と沙希の言葉に、俺と宮田さんは言葉をハモらせる。

二人には事前に宮田さんや槇村さんのことを説明しておいた。

余計なことは口走らないとは思うが、段々と不安を覚えてくる。

「…ま、まぁなんだ。人には得手不得手があるしな。私でも役に立つなら、たまにはこういうのもいいだろう」

平塚先生は宮田さんを意識してか、ちらちらと彼を見ながらそんな言葉を口にした。

通常、運転ができないというのは、恋愛対象として成人男性の魅力を測る上で致命的な弱点になりかねない。にもかかわらずのこの発言は盲目的な恋愛感情によるものなのだろうか。

個人的には、平塚先生らしい男女平等な割り切り的思考によるもだと思いたいのだが。

「な、なんなら後ほどこの車で一緒に運転の練習でも…」

「…え?先生、マジ!?」「…はぁ…ナルホド」

ドライブデートなどと言って話を切り出したのは確かに俺の方だが、出来ればそういうのは俺達のいない所でやって欲しい。

結衣も沙希も、先生の反応から何かに感付いてしまったらしい。

「結構です。しかし、地方公務員が輸入外車とは恐れ入る…この車、田舎なら一戸建てが建つ値段でしょう?ローンですか?少しは収支のバランスを考えたらどうなんです?」

宮田さんは、そんな先生の態度に目もくれずに、身も蓋もない小言を口にした。

「確かにあんまり男性的な趣味を追い続けてると、婚期が遠きますよ」

俺は宮田さんの発言に乗っかるように、先生を揶揄ってそう言った。

「う、うるさい…君たちは揃いもそろって本当に失礼だな!同じように濁った目で小言を言われてはかなわん…」

先生が憤慨しながら、涙目になってそう反論する。

「先生、可哀想…」

結衣がジト目で俺を見ている。その視線から、先ほどの俺の発言を責めているのを感じた。

「…で、でもまぁ、宮田さんの収入があれば、先生も安泰ですよ。同じ車を色違いで何台も揃えられるくらいは稼いでますから。良かったですね」

俺は、冷や汗をかきながら矛先を宮田さんに転換しつつ、先生をフォローした。

「…お前は、自分の彼女の為に大勢の大人を巻き込んでいる自覚があるのか?下らないことを言っている暇があったら、オフィスの入り口を見張っていろ」

「「彼女じゃなくて部長です」」

「…あ、ああ。そうなのか」

宮田さんが呆れ顔で俺にそう言うと、結衣と沙希が激しい剣幕で宮田さんに訂正を要求した。

もはや車内はカオス状態だった。

☆ ☆ ☆ 

時刻は9:30を回ろうとしている。

そろそろ村瀬が出てきてもおかしくない時間だ。

運転席のデジタル時計を見ながらそう思った瞬間、宮田さんの携帯が振動音を発した。

宮田さんが無言で俺に見せた携帯の画面には、【来たぞ】と、短いメッセージが表示されている。

差出人はオフィスビルのグランドフロアで村瀬を待ち構えている槙村さんだ。

今まで緩い雰囲気だった車内に緊張感が走った。

「…じゃあ、手筈通り、俺と由比ヶ浜で二人がオフィスから出たところをつけます。先生はいつでも発車できるようにスタンバイをお願いします」

「ああ、わかった」

「比企谷、由比ヶ浜…頑張って」

「ああ」

沙希の励ましに頷きながら車を降りると、冬の風が肌に突き刺さる様な寒さを感じた。

「うぅ~寒っ!」

結衣が体を震わせてそう呟く。

気温の低下に伴い、緊張感が高まっていく。

それを振り払う様に、俺と結衣はオフィスビルの出入口まで駆けていった。

☆ ☆ ☆ 

オフィスビル入口付近、人の出入りが見える位置で俺は携帯にイヤフォンを差し込み、宮田さんに電話を掛けた。

通話状況に問題がないことを確認すると、そのまま入口のドアを見張った。

しばらくすると、入口から槇村さんの声が聞こえてきた。

槇村さんは一緒に出てきた段ボールを抱えた男性に話しかけている。

細身の体にギョロリとした爬虫類のような目。高そうなスーツに身を包むその男は、やはり俺には見覚えのない人物だった。

「…奴が村瀬ですか?」

『ああ』

小声でマイクに向かってそう尋ねると、宮田さんが頷く声が耳に響く。

こいつが雪乃の将来を左右する可能性のある男だと考えると、思わず体が強張った。

「ヒッキー…」

結衣が心配そうな目で俺を見ながら、俺の手を両手で包み込んだ。

手袋越しに彼女の温もりを感じると、緊張が解けていくのを感じた。

「大丈夫だ。このまま奴をつけるぞ」

「うん」

槙村さんはオフィスビルから立ち去ろうとする村瀬の横について歩く形で、何かを聞き出しているところだった。

槇村さんに問い詰められている村瀬の表情は、一歩、また一歩と、歩みを進める度に険しさを増していく。

二人の会話は目に見えてヒートアップしている様子だ。

「お前、このままクビになっていいのかよ?会社がお前に何かさせたんだろ?トカゲの尻尾切りなんじゃないのか?」

「いい加減にしろよ、槙村!余裕見せてられるのも今のうちだ!」

会話の一部が俺達の耳にも届く。

村瀬は忌々しげな表情を浮かべて声を張り上げていた。

以前、槙村さんは村瀬のことを「いけ好かない同期」と称したが、正にこの二人は犬猿の仲だ。

「…仲、悪そうだね」

「だな」

結衣の呟きに対し俺は短めの同意の言葉を口にする。

――しかい、関係が良くないにしても、ここまで反応するとは…確実に裏になんかあるな…

俺は村瀬の態度を見てそう確信した。

ライバル視していたとしても、ここまで激しく相手に噛み付くのはおかしい。

「ひゃっ!?ヒッキー止まって」

そんなことを考えていると、結衣が突然小声で驚いたような声を上げながら、隣を歩いていた俺を制止する。

顔を上げると、ちょうど村瀬が足を止めて、槇村さんの目を見据えて対峙しているところだった。

村瀬は醜く口元を歪ませながら言葉を発する。

「この際だ。いい事を教えてやる。俺はクビになった訳じゃない。香港のグループ企業に転籍するんだ。そこで大型のプロジェクト投資を担当するんだよ。いつまでもアジアの中心が東京にあると思うなよ」

「あん?プロジェクト投資だ?」

「そうだ。中国や東南アジアの案件は、お前なんかには任せられないってわけさ。俺はようやくチンケな土建屋相手の糞みたいなビジネスからオサラバするんだよ。お前は中途採用のくせに上から目線でずっと気に食わなかったんだ!せいぜい東京から俺の活躍を指をくわえて見てるんだな!」

――アジア案件?香港の現地法人を解散に追い込んだあのプロジェクトか?

村瀬の発言を立ち聞きしながら、俺は過去の記憶を掘り起こした。

俺が槙村さんの下に異動することになった元々の要因は、東南アジアの巨大プロジェクトが大コケし、香港に拠点を置いていたアジアのエネルギー・インフラ投資部門がそっくりそのまま東京へ移管されることになったせいだ。

しかし、グループ内の転籍を、わざわざ解雇に見せかけるような手の込んだ異動に仕立てる理由は何なのだろうか。

俺が考えているに間も、槙村さんは村瀬から少しでも情報を引き出そうと立ち塞がって質問をぶつけていた。

「どけよ!お前に話すことはもう何もない!」

いくつか、よく聞き取れない会話が二人の間で交わされた後、村瀬は最後にそう言い残し、槙村さんを振り切るように足早に歩きだした。

槙村さんは奴を追うのを諦めてその場に立ち止まると、斜め後ろをコッソリと着いて歩いていた俺達の方を向いて目配せした。

――いよいよか…

槙村さんの発したサインに対し小さく頷くが、今日の尾行の成否がここからの自分の行動にかかっていることを考えると、緊張で手汗が滲んだ。

「動き出しました。ビルの西側に向かってます。このまま追います」

極力周囲に声を漏らさないよう意識して小声でそう伝える。

喋りながら、自分の声が擦れていることに気が付いた。

『わかった…平塚さん、運転、お願いします』

宮田さんは短くそう答えた。

一瞬の間をおいて、車のエンジン音がかかる音が電話越しに聞こえて来る。二人は俺の指示した方向に車を向かわせてくれているようだ。

「行くぞ、由比ヶ浜」

「うん」

俺たちは村瀬を追って歩き出した。

☆ ☆ ☆ 

奴を追って歩くこと数分。

そのまま車に乗ると踏んでいた予想を裏切り、村瀬はオフィスビルの横道を抜け、そのまま近くにあったカフェへと入っていった。

「1ブロック先のカフェに入りました。店内に入って様子を見ますか?」

『そうだな…すみません平塚さん。もう一度待機でお願いします』

「ああ、いくらでも付き合うよ」

電話越しに聞こえる先生と宮田さんの会話に、少しだけ安心感を覚えつつ、俺は通話を一旦終了し、村瀬の後を追って結衣と店内へ足を進めた。

店内は朝のコーヒーと軽食を求める客で溢れていた。

奴はテーブル席に腰かけて、誰かに電話をかけている。

入口の混雑ぶりに俺は一瞬焦りを覚えたが、幸い、客の殆どがテイクアウト用のカウンターに並んでおり、テーブル席は空いていた。

俺は奴の死角となる席へ向かって足を踏み出した。

「いらっしゃいませ。店内をご利用ですか?」

「!?…あ、え?あ、ど、ども。はい…」

その瞬間、不意に俺の前に立ちふさがった店員に声をかけられ、思わず挙動不審な対応をしてしまう。

どうにも恰好がつかない。どうやら探偵という職業は俺には向いていないようだ。

「二人で…店内でお願いします。好きなところに座っていいですよね?」

「…どうぞ」

店員は、俺に対して一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、結衣の機転で何事も無く乗り切ることができた。

「ヒッキー…キョドりすぎだし」

「すまん」

俺達は村瀬を監視できる位置にあるテーブルに陣取ると、そのままホットコーヒーを注文し、着いてきた店員を追いやった。

通話を終了した村瀬は、頻りに時計で時間を確認している様子だった。

――誰かと待ち合わせでもしてんのか?

そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間、ポケットの携帯が振動した。

慌ててそれを取り出すと、画面には宮田さんからのメール着信表示が映っている。

【村瀬は何をしている?】

【待ち合わせだと思います。時間を気にしているみたいです】

そう打ち返した瞬間、店員が俺のテーブルにコーヒーを置いた。

俺がカップに手を付けかけた瞬間、コーヒーを運んできた店員は、入口の人混みをかき分けて店内に入ってきた新たな客に気づき、深々とお辞儀する。

「いらっしゃいませ」

声をかけられた人物はその店員を無視するように、俺の横の通路を通り過ぎると、おもむろに村瀬のいるテーブルへと向かっていく。

「あ、あの人…」

結衣はその人物に気が付くと、小さく驚きの声を上げた。

その声に反応して俺も顔を上げる。

通り過ぎて行ったその男の横顔が目に入った瞬間、俺の体は再び硬直した。

クリスマス会の打ち合わせの帰り道の光景が脳裏に浮かぶ。

年齢は40代半ばだろうか。どこか見覚えのある風貌。

キリッとした見るからに高級なスーツに身を包んだその男は、間違いなく、あの時雪乃の母親と話し込んでいた人物だった。

――やっぱり繋がってんのかよ!?

村瀬のこれまでの行動が明確に判っていない今、この男の存在は、雪ノ下建設と投資銀行を繋げる別の手がかりとなるかもしれない。

そう考えながら、俺は震える手を抑えながら宮田さんへの報告メールを打ちだした。

途中、村瀬が飛び上がるような勢いで立ち上がって、その男にペコペコと頭を下げだすのが目に入ると、自分の警戒心が跳ね上がるような勢いで高まっていくのが感じられた。

【相手が来たみたいです。今週初、千葉で雪ノ下の母親と会っていた人物です】

【会話は聞こえるか?】

宮田さんから一瞬で返信が届く。

メールの文面を見て、ハッとしつつ、俺は再び二人に意識を集中させた。

ついさっきまでぼやけていたような聴覚がシャープになる。周辺の雑音から言語として認識できる音のみにフォーカスし、それを拾い上げようと自分の脳が全力で回転させる。

だが生憎、二人の会話内容までは聞こえてこなかった。

諦めて意識を緩めると、再び混雑した店内の雑踏と、店内BGMのジャズだけが耳に残った。

【ダメです。遠くて聞こえません】

俺は歯ぎしりする思いで再び宮田さんに報告を入れた。

【仕方ない。写真を撮ってこっちに送れ。シャッター音は鳴らすなよ】

その的確な指示に、俺は再び救われる思いで携帯を操作した。

しかし、携帯で隠れて写真を撮ることなど滅多にないため、勝手が分からない。

必死に画面をスクロールしながら、シャッター音をオフにする機能を探すが、それが見当たらなかった。

――くそっ、急げ…ってヤベッ!

焦りに比例するように、自分の手が麻痺したように動きが重くなる。加えて緊張感による手汗で思わず携帯を床に落としてしまった。

カタン、という音に一部の客の視線が集まるのを感じる。その瞬間、二人に気取られたかも知れないと言う恐怖感が心に沸き、頭から血の気が引いていった。

「ヒ、ヒッキー、何してんの!?」

結衣が声を殺しながら俺に駄目出しする。

俺は恐る恐る二人に目をやった。

幸いこちらの様子には目もくれていない様子だ。

すると、村瀬たちに背を向けて座っていた結衣がグイッと、俺の手を引き寄せた。

「ホラ、入って!」

結衣は俺の携帯を取り上げて、自分自身と俺を携帯のフレームに収めるように自撮りのポーズを撮る。

もちろんそれはフリであり、画面上に映る俺たち二人はピンボケしている。

携帯のレンズは見事、背部に座る村瀬と謎の男にフォーカスしていた。

――マジで来てもらって良かった

これが女の胆の据わり方という奴なのだろうか。

情けなさを感じながらも、結衣の指示に従って何枚か写真に収めた。

その後、宮田さんと槙村さんのメールに動画ファイルを添付するが、電波状況があまり良くないせいか、送信がなかなか進まず、エラー中断の文字が画面に表示された。

会話が聞こえない以上、このままここに居座っても仕方がない。

二人に勘付かれる前に、店を出て外で待ち伏せするのが吉だろうか。

「あ、席立ったよ?」

そんな事を考えている間に、結衣がそう呟いた。

奴らが短めの話を終え、伝票を手にレジへと向かっていくのが目に入った。

――畜生、思った以上にスマートに行かないもんだな…

俺達は慌ててテーブルに置かれたコーヒーを一気に喉に流し込むと、伝票を手にて立ち上がった。

俺は猫舌が災いして思いっきりむせ返してしまう。

涙目になり結衣に背中を摩られながら、二人の後ろを付けた。

「…そう言えば例の橋梁建設、無事落札したぞ」

不思議とよく通る声が二人の背中から漏れ聞こえた。今のは雪乃の母親と会っていた男のものだ。

会計の順番待ちの中、俺はその会話に再び意識を集中させた。

「それは良かったです」

村瀬は、先ほどの槇村さんとの会話とは打って変って、丁寧なしゃべり方で男にそう返した。

「ご苦労だったな。これで君にも、心置きなく新しいフィールドで活躍してもらえるな」

「はい。本当にありがとうございます」

――落札?転籍先のアジアのプロジェクトか?

俺は続けて、レジで会計を済ませる二人の後ろに並び聞き耳を立てたが、それ以上の会話はなかった。会計を済ませた二人は早くも店を出ようとしている。

大した情報が手に入らなかった事に落胆しながら、俺は店員が値段を伝える前に千円札をカルトンに置き、釣銭はレジ備え付けの募金箱に入れるよう伝えて店を飛び出した。

「二人ともお疲れ」

店の外で俺たちに話しかけてきたのは沙希だった。

「川崎…二人は?」

「大丈夫。ほら、あそこ」

沙希が視線を向けた先を見ると、オフィスビルの方向へ歩いていく男と、それを深々と頭を下げて見送る村瀬の姿があった。

「…何で川崎まで車を降りたんだ?」

「由比ヶ浜からメールもらって。アンタがあまりにもだらしないから、サポート役増強ってことで…」

「…アハハ」

結衣は少しだけ俺に対して申し訳なさそうな表情で笑いを浮かべた。

結衣の奴、俺のヘマを報告してたのか。

しかし、いつの間にメールを打っていたのだろうか。

「面目ない…」

確かにこういうのは女性の方が向いているのかもしれない。

☆ ☆ ☆ 

男の姿が見えなくなると、村瀬は段ボール箱を再び抱えて歩き出した。

俺達は再び村瀬の後ろを歩きながら、宮田さんに電話をかけた。

『比企谷、何があった?写真は撮れたのか?川崎嬢とは合流できたか?』

「すみません。今合流しました…写真は抑えてますが、通信エラーで…それより村瀬が店から出ました。今、目抜き通りに向かって歩いてます」

村瀬はそのままオフィスと反対方向の交差点を右折すると、北側へと向かって歩いていた。

いくつかの横断歩道を渡ると、高層ビル群を抜けて車通りの多い路地へ出た。

俺は手短に報告を行い、追尾の方向を連絡する。

『…そっちに行く道は一方通行だ。迂回する必要がある』

宮田さんは電話越しに苛立ちを含んだ声を発した。

間の悪いことに、その後すぐに、突当りの路上に停められていたシルバーのスポーツカーに近づいていく村瀬の姿が目に入る。

あれはおそらく奴の車だろう。

「マズくない?あれ、あの人の車なんじゃ?」

俺の考えにシンクロするように沙希がそう言った。

もう間に合わないかと諦めかけた瞬間、村瀬は路上に段ボールを置き、何かに気が付いたように、車の前方へと歩いて行った。

奴はフロントガラスへと手を伸ばし、そこに貼られていた黄色い紙のようなものを剝がすと、怒ったような表情を浮かべて、路上のパーキングメーターを蹴り上げた。

「駐禁切られたみたいです…メーターの時間を気にしてたのか」

『言ってる場合か。こっちはまだ時間がかかる。何とか時間を稼げるか?』

「じ、時間稼ぎ…」

――っていったって、どうすりゃいい!?

村瀬は置いていた段ボールを再び抱え上げようとしている。

俺は再び焦りの表情を浮かべた。

「…ハァ…まぁアタシ達に任せなよ」

沙希は軽くため息を付きながら、俺の肩に手をポンッと乗せて結衣と共に、村瀬の車へと向かっていった。

「すみません、ちょっと道を教えてもらってもいいですか?」

沙希はいつもよりも高めの声で村瀬に話しかけた。

「わ…わぁ、カッコいい車ですね!」

その背中に隠れるようにしていた結衣も、そんなセリフを吐きながら村瀬に話しかける。

「あ、ああ…」

困惑した表情を声で返事をした村瀬は、満更では無さそうな表情で二人に答えた。

――先生の車はまだか?

二人と奴のやり取りを見ながら、そんな焦りを感じ、目抜き通りの車の往来を確認する。

「…じゃあ二人とも乗ってく?」

調子付いたのか、結衣と沙希にそんな提案をする村瀬に俺のこめかみがヒクついた。

「いえ、結構です」

――いつもの声に戻ってる。ザマァみろ

誘いを断る沙希の声は低く、早口だった。

「でもさ、結構遠いよ」

「あ?」

しつこい。

そう言わんばかりの声で沙希は村瀬を一蹴した。

その瞬間、後から先生の車が走ってくるのが目に入った。

俺はそれに安堵の表情を浮かべた。

「…そ、そうか。じゃあ気を付けてね」

村瀬はそう言うと、残念そうな表情を浮かべて車に乗り込んだ。

バタンッと音を立ててドアが閉められた数秒後、村瀬の車のエンジン音が響く。

一瞬の間を置いて、奴の車は発進した。

続けざまに、奴の車が停まっていたスペースに平塚先生の車が入ってくる。

「よくやった、お前ら!」

車の後部座席に乗り込んだ俺たちに対して、宮田さんはそう言った。

「あとは任せろ」

俺達が急いで乗り込むと、平塚先生も笑みを浮かべてそう口にする。

アクセルを噴かす音が車内に響くと同時に、体に強めのGがかかる。

先ほどの村瀬の車の発進を上回る勢いで先生の車が動き出した。

シートに体を沈ませながら、俺は緊張からの開放による深いため息をついた。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷、探偵になった気分はどうだ?別の進路の可能性が開けたんじゃないか?」

平塚先生は車のハンドルを握りながら、そんな言葉をかけた。

「確かに存在感が薄いんで、最初は俺自身向いてるかもなんて思ってましたけどね。由比ヶ浜と川崎がいなけりゃ今日の尾行は完全に失敗してましたよ」

俺はゲンナリしながらそんな言葉を返す。

「ヒッキー、緊張しすぎなんだよ」

「ホント、何をそんなに気負ってるんだか」

緊張による冷や汗を大量に吸い込んで冷たくなったシャツが、べったりと体にひっ付くのを感じて、俺は表情を歪めた。

「…気にするな比企谷。女性陣の活躍の陰に埋もれたのは僕たちも同様だ」

やはり車の運転が出来ないことを少しは気にしているのか、宮田さんがそんなフォローを口にする。

「…しかし、なんだ…映画張りのカーチェイスを期待していたが、信号停車ばっかりで何とも退屈だな」

追走を初めて数分、平塚先生は欠伸交じりにそんな文句を口にした。

俺たちは村瀬の車の真後ろを付けていたが、奴もこっちの車も、ほぼ制限速度を遵守して走行していた。

「まぁ日本ですし…安全運転でお願いします」

「これならまさか尾行されているとは奴も思わないだろう。かえって好都合だ」

宮田さんがそんな現実的な意見を口にすると、彼が手にしていた携帯が鳴り響いた。

着信の主は槙村さんだった。

宮田さんはハンズフリーをオンにして通話を開始する。

『宮田、あいつは追えてんのか?』

「ああ。女子生徒の機転で何とかな」

『そうか。比企谷にも一部聞こえていたかもしれんが、あいつは香港のグループ会社に転籍することになったらしい』

「グループ会社?」

宮田さんが疑問を口にする。

『ああ。香港にアジアのプロジェクト投資専門の部署を立ち上げるって話は前から聞いていたが…あの野郎、一々俺をライバル視しやがって。そこで大型プロジェクトに関与するって自慢してきやがった』

「アレはプロジェクト部門への異動を希望してたからな。同期のお前が居座ってて東京じゃそれは叶わなかったわけだから、無理もない」

「…でもグループ会社に転籍させるのに、なんで態々解雇するような手続きを取ったんでしょうか?」

俺は二人の会話に口を挟むように、先ほど頭に浮かんだ疑問を投げかける。

『…大方、今まであいつが携わってきた業務情報を完全に隠匿するのが目的だろうな。香港にはあっちのカレンダーに合わせて旧正月明けに着任するそうだ。少し早めの年末年始休暇でも取るつもりなんだろう』

俺の問に対し、槙村さんがそう答えた。これは俺が拾いきれなかった会話の中で槇村さんが掴んだ情報だ。

「旧正月明けというと…あまり時間がないですね」

香港を始め、中華圏では春節と呼ばれる旧暦に従った長期の正月祝日がある。

春節のタイミングは太陽暦上では毎年微妙にズレるため、正確な日程は後ほ確認する必要があるものの、概ね1月後半から2月前半にかけてといったところだ。

現在、季節はクリスマスを控えた12月半ばにある。ということは、奴が渡航するまでに自分に残された時間は1月程度となる。

『あいつが出発する前に、もう一度証拠を集めて問い詰める必要がある。何としても居場所を特定するんだ。平塚さん、よろしくお願いします』

「ああ…しかし、雪ノ下も本当にとんでもない事件に巻き込まれたものだな」

平塚先生はスピーカーから響く槇村さんの言葉にそう返事を返した。

「…ところで比企谷、さっきのカフェで撮った写真、今見れるか?」

『カフェ?写真?』

忘れかけていたもう一つの情報について、宮田さんが触れると、電話越しに槇村さんが疑問の声を上げた。

「村瀬はオフィスを出てから立ち寄ったカフェで、雪ノ下の母親と繋がりのある男と会ってたんです。会話内容は掴めませんでしたが…これがその写真です」

俺は状況を説明しながら携帯の画面を操作し、先ほど撮り収めた写真を表示させ、宮田さんに端末を手渡した。

「…おい、お前達の自撮写真を見せてどうする気だ?自慢か?」

画面にはピースを浮かべる結衣と、強引にフレームに引っ張り込まれた俺の写真が写っていた。

「アンタ達…」

沙希の視線が痛い。

「ち、違います!それはカモフラー?…フリです!フリ!」

呆れ顔で写真を見る宮田さんの後ろから、結衣は強引に手を伸ばして俺の携帯を操作する。

画面を何度かスワイプすると、村瀬と男が比較的クリアに映った写真が表示された。

「!!」

その人物を確認すると、宮田さんは無言で表情を強張らせ、ゆっくりと車内の低い天井を仰いだ。

その動作から、この男も彼の知る人物であることが窺われる。

俺は緊張感を覚えつつ、宮田さんが発する言葉を黙って待った。

「…まさか…この人が…これはいよいよウチの一大事だな」

ボソっと、くぐもったような声でそんなことを呟く。

『あ!?誰だよ!?』

「…市川MD…お前の上司が映ってる」

槇村さんの催促に対し、宮田さんは一瞬戸惑ったかのように無言となるが、やがてその人物の名を口にした。

――市川!?

それは俺にとっても、正に、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。

――東京はウチ単独ではなく、日系の機関投資家を誘致して中国ビジネスに乗り出す算段だ。より規模のデカい投資案件を取に行きたいのと、せっかく種をまいた中国ビジネスを他の拠点に横取りされないように外部を巻込もうって寸法だ

――また役員の政治絡みですか。もうウンザリですね

未来の世界で槇村さんと電話越しに交わした会話が頭の中で再生される。

今後、おそらく村瀬が携わることとなる複数のアジア案件。

この中の一部のディールの大失敗が香港の現地法人の整理(リストラ)の引き金を引くこととなる。

後に残された資産の、東京オフィスによる引き受け。

その裏にあった東京オフィスの役員の狙い。

それは、複数の案件の中で、当時まだ芽が残っていた中国ビジネスを建て直し、その拡大の立役者となることで、グループ内の発言力を高めることだった。

その先兵となったのが槇村さん。更にその駒となったのが俺だった。

そして、そんな俺達を裏で操っていた男。

それがグループ日本法人のCIO (Chief Investment Officer 投資部門統括責任者)であった、市川という人物だった。

平社員だった俺が役員と直接話す機会は稀だったことに加え、俺の知る同氏の風貌は今とは年齢も離れている。先日奴を目撃した際に気が付かなかったのは迂闊ではあったものの、その時覚えた既視感にこれでようやく納得がいった。

――これがカルマってやつか。にしても、あんまりだろ

よりにもよって、俺から雪乃を奪う切っ掛けを作った可能性がある男の下で、俺は何も知らずに何年も馬車馬のように働いてきたということなのだろうか。

自分の間抜けブリに、ぶつけようのない怒りがふつふつと込み上げてくる。

『あのオッサン、今朝は遅れて来たと思ったら、そういうことかよ』

似た様な苛立ちを覚えたのは、どうやら俺だけではなかった様だ。携帯から、槇村さんが吐き捨てるような声が響いた。

「…社内の人物なのか?我々にも、どんな人なのか教えてもらえないだろうか?」

平塚先生が、遠慮がちに宮田さんにそう尋ねた。

「槇村のラインのMD、マネージングディレクターですよ。日本の会社で言えば部長クラスですね…将来の役員候補で、ウチのシニア層じゃ一番の出世頭と言われてる男です」

宮田さんはその人物について簡潔にそう答えた。

その読み通り、この男はこれから出世街道を歩むのだ。プライドの高そうな村瀬が先程は米つきバッタのようにヘコヘコと頭を下げていたのにも合点がいく。

『冗談じゃねぇ。あの野郎、偉そうに散々人をこき使ってくれたが、不正に絡んでる可能性があるなら話は別だ。出世街道から引きずり降ろしてやる…また情報を掴んだら連絡する』

槇村さんはそう言い残して通話を終了した。

宮田さんも何か考え込んでいる様で、その後暫く言葉を発しなかった。車中にはどことなく重苦しい雰囲気が漂う。

ふと窓の外を見ると、いつしか景色は閑静な住宅街となっていた。

「…着いたようだ。このマンションだな」

数分後、平塚先生は車を減速させながらそう言った。

その言葉通り、村瀬の車が公園沿いの高級マンションの地下駐車場へと入っていくのが目に入った。

☆ ☆ ☆ 

それから数時間後、村瀬のマンション近辺のカフェにて、俺たちは遅めの昼食を取りながら、今日集めた情報の整理を行っていた。

「…今日はありがとうございました。村瀬の住所と市川って人の関与…これを手がかりに一ヶ月以内に真相を突き止めるしかないですね」

俺は運ばれてきた食事に手を付ける前に、全員に礼を述べる。

「まだ情報は限られてるが、当初の目的からすれば今日の成果は上出来だ。奴の部屋まで突き止められたのは大きかった」

宮田さんは俺の言葉にそう返した。

その言葉通り、あの後、顔が割れていない俺が車を降り、村瀬を着けてマンションの中に入って、奴の号室を探り当てたのだ。

「…でもセキュリティがあるから、待ち伏せするにしても玄関ホールの外で待機するくらいしか出来ないんじゃない?」

沙希は冷静にそう返した。

雪乃の住む高級マンションと同じように、玄関ホールの自動ドアを潜るには、住民が持つセキュリティカードが必要なのだ。先生が中に入り込めたのは、運良く自動ドアを開けた村瀬に着いていくことができたためだった。

「いや、部屋番号が分かれば、郵便受けに手紙を入れて揺さぶりを掛けることもできるからな。尾行中に俺の顔が割れなかったのは川崎と由比ヶ浜のおかげだ。助かった。それから、先生も車を出して頂いてありがとうございました」

俺はそんな考えを口にして、改めて3人に感謝の気持ちを伝える。

「…そ、そうか。捕まるような事だけはしないでくれよ…さて、冷める前に食べるとしよう」

平塚先生は俺の言葉に若干顔を引き攣らせながらそう言った。

先生の言葉通り、既にテーブルに食事が運ばれてから時間が経っていた。

先生の呼びかけに反応するように、各々が箸を手にした。

「…ところで比企谷、例の生徒会のクリスマスイベントの件だがな。今日、業者との打ち合わせがあるらしいぞ。先ほど雪ノ下からメールが入った。お前たち三人の欠席についても尋ねられたが…」

全員がようやく食事を口にし始めると、雰囲気を切り替えるように、平塚先生が学校の話題を振った。

「ヤバ!…サキサキ、ゆきのんに今日のこと言った?」

「…言ってない。比企谷は?」

「詳しいことをあいつに説明すんのは全部が明らかになってからのがいいだろ」

「まぁ、そう言うと思って返信は適当に濁しておいた…しかし、イベントの方は、まだ会議から一週間も経ってないのに、よくそこまで手が回ったものだ」

先生は素直な感想を口にする。これも吉浜達の尽力のおかげだろうか。

「入札、うまくいくといいね」

結衣がそんな感想を口にした。

「…入札?」

フォークでサラダのトマトを器用に避けていた宮田さんが、不意にその単語に反応を示した。

「学校の生徒会のイベントだよ。地域のクリスマス会で、経費削減を兼ねて、ケーキの材料や飾りつけの装飾品を各業者から入札制で買うことにしたんだ。その入札に参加する業者との打ち合わせを今日やるという話だ」

平塚先生の説明に対し、宮田さんがフム、と考え込むような様子を見せた。

「何か引っかかるようなことがあるんですか?」

沙希は宮田さんに対して尋ねた。

たかだか学校行事に関する話題に反応を示した元上司の思考は俺にも読むことは出来ず、素直に彼の返事を待つことにした。

「いや…あくまで可能性の話だが…雪ノ下建設の“飛ばし”は粉飾目的でないことが分かっているだろう?であれば、その行為に何か、雪ノ下建設に利をもたらすカラクリがある、というのがこれまでの情報で至った考えだ」

「ですね」

宮田さんが何の脈絡もなく再び雪ノ下建設の話題に戻し、俺に語りかけることを疑問を覚えながらも、その前置きに短い言葉で頷き、本題を待った。

沙希、結衣、平塚先生の3人も少しだけ緊張した表情を浮かべている。

「"飛ばし"のスキームで子会社に移転した証券を最後にどう処分しているのか…ひょっとして、公共事業入札を仕切る人間にでも流れているんじゃないかと思ってな…」

――公共事業入札を仕切る人間?……談合の口利き料ってことか!?

彼の推察に自分の思考が追いついた瞬間、自分の目が興奮で大きく見開かれた。

俺の表情を見て、宮田さんはその考えの合理性に自信を得たような表情を浮かべた。

「…平塚さん、それにお二人のお手柄かもしれん」

「「「へ?…え?」」」

深い事情を知らない3人は、宮田さんが急に口にした褒め言葉に対し、目を白黒させて戸惑いの表情を浮かべていた。

「…雪ノ下建設は、買収した子会社に海外に複数のトラストを作らせて、簿価で証券を売却していました。当初は損失隠ぺいが目的かと思ってたんですが、そうじゃなかった。そんなことをする理由が見当たらなかったんです。でも宮田さんの読みが正しければ、それはマネロンのスキームだった可能性があるってことです」

「マネロン…資金洗浄、だったか?私には新聞で読む程度の知識しか無いんだが、どうしてそんなことをする必要が?」

先生は俺の説明に対して、一瞬考え込んだ後、追加で質問を口にした。

結衣と沙希は引き続き困惑したような表情を浮かべている。

「普通、買ったばかりで評価益も損失も出ていない証券を売却することに経済合理性はないんです。企業買収をするために資金を使っているとすれば尚更です。買収される側の中小建設会社にしても、そんなことに加担するメリットがない」

「それは私でも分かるが…」

先生は相槌を打つ様に俺の説明に小声で反応を示す。俺はその反応を見て言葉を続けた。

「でも、その証券を最終的に誰かに譲渡することで、雪ノ下建設が公共事業受注の口利きが得られるとすれば、どうでしょうか?談合は不正行為ですが、それが雪ノ下建設の事業拡大に繋がります。子会社としてグループ傘下に入った企業も下請としてそのおこぼれに与れるとなれば、そのスキームに協力するインセンティブが生まれます」

「…これまでの断片的だった情報が繋がるってことでいいの?」

沙希は、俺の追加説明に対し、完全には理解しないまでも、自分なりに掴んだ話の流れを確認するようにそう呟いた。

「…そういうことだ。公共事業入札をコントロールできる人間となると、役人や複数の大手建設会社の役員とパイプを持つ余程の人物になる。そんな人物に建設会社から直接資金が流れれば、すぐに検察の目に留まるが…それを掻い潜るためのマネロン…そのスキームを提供するための投資銀行の関与…そう考えれば全てが自然に繋がる」

宮田さんは俺の説明に付け足しながら、自分の立てた仮設の蓋然性の高さを慎重に確認するような口調で話した。

まさか生徒会のイベント活動が推理のヒントになるとは全く思わなかった。

正に、タイミングよく先生が話題を振ってくれたおかげだった。

俺は突然差し込んだ一筋の光明に縋るような思いで、頭の中でこれからの調査の方向性を整理し出す。

そして、はたと今日のカフェで聞き取った断片的な市川と村瀬の会話内容を思い出した。

「…そう言えば、カフェの出口で二人が交わしていた会話の一部に、橋梁建設の受注、ってキーワードが出てました」

「あ、それアタシも聞こえた」

結衣の言葉に俺は力強く頷く。

「…てっきり村瀬のかかわるアジアのプロジェクトの話かと思ってたんです。でも、これはひょっとすると…」

「…雪ノ下建設が落札した公共事業案件である可能性があるな。探りを入れられるか?」

「はい」

その宮田さんの言葉に、俺は答えた。

バイトの身分ではあるが、雪ノ下建設の内部に入ることが出来た俺であれば、公共事業の受注履歴を閲覧することができる。加えて最近は営業の職員とも面識が出来ている。談合に関わる情報の裏取りが出来るかも知れない。

心なしか、気力が湧いてくるの感じながら顔を上げた。

だが、そんな俺の目に入ったのは、先程とは打って変わって深刻な表情を浮かべる平塚先生の姿だった。

「…比企谷…今回、雪ノ下の生活環境が変わるかもしれない事件の可能性ということで私も関与した…でもそれは…宮田君には申し訳ないが、雪ノ下の実家が投資銀行の悪意に巻き込まれた可能性を懸念してのことだ。雪ノ下建設側に不正など無いと信じた上で、その確証を得たかった、と言うのが私の正直な気持ちだよ」

「…はい」

俺は先生の考えを汲取って、重い声で返事を返した。

結衣も沙希も真剣な表情を浮かべている。

「本当に今更で申し訳ない。だが、ご両親の事業の不正となれば、それを暴くことの影響が雪ノ下にも及ぶことが明白だ…不正があれば正すのが世の道理だろう。だが、それも今は仮説に過ぎない。これ以上深入りすべきことなのか、正直、判断がつかない…」

先生が口にした懸念は至極的を得たものだった。

教師として平塚先生が最も気にするのは、何より生徒自身のことだ。実家の不正が暴かれれば、雪乃がまともに学校に通うことが困難になることが明白であり、下手をすればその後の人生まで台無しになってしまう可能性がある。

このままでは彼女が望まぬ結婚を強いられ、どの道、人生を棒に振ることとなるのだが、それを知る人間は限られている。それを話せないことに歯痒さを感じた。

「…平塚さんの教師としての立場は尊重します。僕も槇村も、正直同じです。MDが関与しているとなれば、村瀬のような小物の単独犯とはワケが違う。対応は慎重に考えなければならない」

「そんな」

結衣は落胆した表情でそう呟いた。

二人の協力が得られなくなるかもしれないことを懸念しているのだろう。

「…心配するな」

俺は結衣に対してそう小声でそう言った。

俺は宮田さんや槇村さんがどういう人間か良く知っている。

「…だから行動を起こすのは決定的な証拠が出揃った後です。それまで無理に協力しろとは言いません。平塚さんは生徒のケアを第一に考えてあげて下さい。それはあるべき姿です。そして、その問題の根を断ち切るのは僕やコイツの仕事です」

宮田さんはそう言うと、俺の背中をポンと叩いた。

「…そうか」

平塚先生は何かを悟ったかのようにそう返事をした。

それに合わせて沙希と結衣が俺を見つめる。

今、事体は急展開を迎えている。

俺は雪ノ下建設の調査だけでなく、未来の出来事も含めて、既に結衣や沙希に情報を共有し、調査に巻き込んでしまった。

このまま事実を掴めずに手を拱くというオプションは存在しないだろう。

そして今更ながらに認識した別の課題。

今後、調査を進めるに当たっては、雪乃…だけでなく彼女の姉も含め、事件に巻き込まれている当事者に対するケアを並行して計画しなければならない。

俺は覚悟を新たに、雪ノ下建設の不正暴露を心に誓った。


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