比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」   作:TOAST

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だいぶ時間が経ってしまいましたが、色々ご指摘いただきありがとうございます。
コメントは完結後にお返しさせてもらうつもりでしたが、いつまでたっても進捗しなくてすみません。前話の出資比率は、ご指摘の通り誤りでした。修正します。

比率の改竄は由比ヶ浜も雪ノ下も嫌がるというのはもっともかと思います。彼女たちに強引に分配するには、もう少しこのオッサンに理屈をこねてもらう必要がありますね。ちょっと考えさせて下さい。良い案が浮かべば加筆します。


※ この八幡の恋愛事情が嫌い、雪ノ下建設絡みのストーリーだけでいいという方は、今回は一番下のシーンまで飛ばして下さい。


34. 比企谷八幡はゴールを見据える

「要するに、葉山の文理選択が知りたいのか?」

「…」

三浦の持ち込んだ用件、それは葉山隼人の進路に関する相談だった。

俺の質問に三浦は無言で頷き肯定する。

「あ、あの…奉仕部への依頼、ということでしたら今日は私は失礼しますね。ありがとうございました」

三浦が醸し出す切羽詰まった雰囲気を察した海美は、そう言い残し、慌てて部室を後にした。

俺達は海美を見送ると、再び三浦に向き合った。

こいつの依頼内容自体はあの時と全く同じ。だが、俺はそれに違和感を覚えた。

三浦がこの依頼を持ち込んだのは、雪乃と葉山が付き合っているというくだらない噂に動揺し、居ても立っても居られなくなったのが切っ掛けだったはずだ。

今回、その噂の原因であった雪ノ下家と葉山家の新年の会合に、雪乃は参加していない。そんな傍迷惑な噂が立っているといった話も当然耳にしていなかった。

「新学期に入ってから隼人、なんか距離あるし…あーしはただ…もうちょっと一緒だったらいいかなって…その…このままみんなで…」

三浦は言葉を選ぶように、途切れ途切れに口にした。

「距離があるってのは、どういうことだ?由比ヶ浜はなんか心当たりあるか?」

「うん…確かに隼人君、休みが明けてからどこか上の空で…時々すごく難しい顔で何か考え込んでるような…」

「って言うか、葉山って成績いいんでしょ?何か悩んでるとして、それが進路と関係あるの? 普通に聞けばいいじゃん」

「は?それが出来りゃ頼みに来ないし!」

「あ?」

沙希の提案に対し、幾分高圧的な態度で自分の言い分を口にした三浦。沙希はその物言いを咎めるような視線を向けて応酬する。

「二人とも落ち着け…雪ノ下も最近の葉山の状況に心当たりはないんだな?」

「なぜ私に聞くのかしら?」

「家の繋がりとか、色々あんだろ?」

「…家って」

俺と雪乃の会話を聞き、三浦は不安げな表情でそのやり取りで出てきた単語を口にする。雪乃はしばらく言い淀むが、三浦の不安げな視線に気が付くと、フゥとため息をついて口を開いた。

「…彼の父親と私の両親がビジネスで繋がっているというだけのことよ。もっとも、最近は以前と比べて少し疎遠になっている、という話らしいけれど」

雪ノ下建設は外資系投資銀行と懇意になってから、葉山弁護士事務所とは距離を置き出している。これは葉山が親から聞き出したことで、俺も以前耳にした話だ。どうやら雪乃にも葉山の変化については何も心当たりがなさそうな様子だった。

「…ねぇヒッキー。優美子の依頼、なんとかしてあげられないの?」

暫くの静寂を破るように、結衣は俺に尋ねた。目前の友人の苦悩を解決してやりたいと願う彼女は、不安と期待の入り混じった表情で俺を見ている。

「…まぁ…あいつの進路なら知ってるが」

俺は深く考えることなくポロッと口にした。

葉山は法学部志望だ。状況が前回と変わらないのであれば、奴は文系を選択しているはずだ。そして、奴が近い将来進むこととなる大学も俺は知っている。とは言え、入試だけを考えれば、文系の国内最高学歴を手にするようなオールラウンダーにとって、高校の文理選択など、どちらでも構わないのかも知れない。だが、それも不確定要素としては些末な事象だろう。

「何でヒキオが!?」

三浦は驚嘆と嫉妬の表情を浮かべて俺の言葉に反応した。

普段グループの外にいる俺のような人間が、葉山の進路を知っているとのたまったのだ。葉山との距離を縮め、隣にいたいと願う彼女にとって、その事実は当然ショックだろう。

――だが

これは話すべきなのか。不意に自分の心の底にそんな疑問が湧き上る。

三浦の気持ちは同情に値する。

俺自身、これまで近しい人間と少しでも多くの時間を過ごしたいと願い、3人と安定した関係を構築することに腐心してきた。雪ノ下建設の問題解決に躍起になっているのも、究極的にはそれが目的だ。三浦が知りたいと願う気持ちは痛いほどに分かる。

にも拘らず、得体の知れない違和感が自分の心の奥底で警鐘を鳴らしていた。俺は脳を回転させて過去の出来事を振り返る。

――それしか選びようがなかったものを選んでも、それを自分の選択とは言えないだろう?

あの時、葉山は確かそんな言葉を口にした。

奴は自分の文理選択を、周りの人間に頑として話さなかった。いや、話せなかった。

葉山が選ぶ道。それは奴の背中を追う皆が辿ろうとする道でもあった。現に三浦も、奴と一緒にいたいと思うからこそ、その道の続く先を知りたがっている。

あの掴みどころのない言葉の真意は何なのだろう。

”それしか選びようのないものなら、それは自分の選択と言わずに済む”といったところか。いや、もしかするとその言葉の主語は最早葉山自身ですらないのかも知れない。主語は三浦、敢えて拡大解釈すれば彼女を含む"みんな"ではないか。彼、彼女の選択を奪わないために、葉山は黙っていることを強いられたのだ。

いずれにせよ、奴は最後に「それでも俺は選ばない」と、確かにそう言った。

であれば葉山自身が黙秘を選択した訳ではない。奴は奴自身に与えられた役割を考え、その最適解を演じ切ったのだ。

だからこそ、あの時俺はあいつを否定した。

――俺もお前が嫌いだよ

その言葉で、人の期待に応え続ける葉山を否定して、期待を押し付けない奴がいると思い知らせてやったのだ。それが友人――当時の俺がそんな定義付をしていたのかは自分でも定かでないが、少なくとも奴の数少ない理解者として、掛けてやるべき言葉だと思ったからだ。

「知ってるなら、話してあげれば?」

沙希は黙り込む俺を不思議そうな目で見ながらそう尋ねた。

「いや、ちょっと待て…三浦…お前は自分自身の進路をどう考えてんだ?」

三浦に再度質問しながら、俺は自分の感じた違和感が、徐々にその形を具体化させていくのを感じていた。

「…そんなのまだ決めてない。受験は浪人できるけど…こっちはそうはいかないし」

そんな三浦の返答を耳にして、俺はとうとう気が付いてしまった。

気付きたくないと、目を背けていた事実を真正面から認識してしまった。

「…あの野郎はそういう人間を自分と同格とは認めないだろ。それだけの理由で文理選択を決める気なら、ここで正解を伝えてもお前の願いは絶対に叶わない」

突然に放たれた冷たい言葉に、三浦は絶句した。

呆けたような表情を保ったまま硬直すること数秒、彼女はいつもの強気で俺に食って掛かるどころか、逆に静かにポロポロと涙を零し始めた。

3人も豹変した俺の態度と、泣き出した三浦の顔を交互に見て狼狽するばかりだった。

その様子を目にして俺は自戒する。

やはり俺は浮かれていた。

つい先程までの勉強会でも明らかなように、3人は今、留学を前提に勉強している。だが、彼女達は自分自身の将来を見据えて、その選択をしたのだろうか。傲慢な考えかも知れないが、答えは恐らく否だろう。

ビジネスの世界、特に金融ともなれば、学位という箔は他者に自らの信用力を判断させるための重要な材料だ。グローバルに名の知れた大学で学位を得るのは、何も知識を得ることだけが目的ではない。ビジネスは相手がいなければ成り立たない。他者との関係作りを効率化するための投資と考えれば、そこに新たな学びが無かろうと、ある程度の時間と金をつぎ込んでも十分にペイすると俺は考えている。むしろ、基本的に人付き合いを苦痛に感じる俺のような人間ほど、そんな欺瞞に満ちた箔を必要としているのだ。

そして、俺のそんな思考は彼女達にも伝わっている。だからこそ、俺が再び留学するという前提を、彼女達は何の疑いも持たずに信じ込んだ。俺本人ですら、そんな選択を疑っていなかった。彼女達は俺に着いてきてくれる、今のモラトリアムを継続できると、勝手に解釈して安心していたのは他でもない、俺だった。

だがその選択は、彼女達にとって将来に全く関係のない、無駄な投資となるかも知れない。そもそも彼女たちが描く自身の将来の絵姿が、海外留学という道の先に繋がっているのかも分からないのだ。加えて、元々留学を視野に入れていた雪乃を除く二人には理不尽な程に高い負荷をかけることになりかねない。一度の入試をクリアすれば殆ど安泰な日本と違い、海外の大学は入学してからの方が厳しい。科目毎に成績を絶対的な数値で順位付けし、機械的な足切り方式で下位成績者を留年・除籍処分に付すのは珍しくないし、そもそも外国籍の生徒であれば100%近い出席を維持しなければビザが失効して即強制帰国になる。

未だに然るべき選択ができない俺のために、そんなリスクを負わせ、負荷を掛けることが果たして本当に正しいのだろうか。

「…比企谷君、それは言い過ぎでは…それに私達だって…」

雪乃は恐る恐る、探るような声でそう口にした。

「…お前達は留学を考えてんだろ?…だったらそこで何を学ぶか、その後どうしたいかはちゃんと決めてんのか?」

俺は心に蔓延るドロドロとした黒い感情を覆い隠すように、表情を殺して3人にそう尋ねた。冷たい声だと、自分でも感じ取れるほど、その声には感情が籠っていなかった。

「ぎゃ、逆に聞くけど、比企谷はどうするつもり?志望職種は知ってるどさ…大学は?」

沙希は動揺を隠し切れない表情で俺に確認を求めた。

「…それはお前達の進路選択に関係する要素なのか?目標はちゃんと自分で決めるんだ…俺は…留学するとは限らん」

そう口にしながら、自分の足場が崩壊していくような気分に襲われる。

――3人とも良かったじゃな〜い。十分な手切金だね!

新年に雪ノ下陽乃が茶化すように言った言葉が頭を過った。

いつだって彼女の言うことは的確だった。この先もどう足掻いたって、俺には3人から一人を選ぶことなんて出来やしないのだ。彼女達のために俺がしてやれることは、経済的な枷を外して選択の幅を広げてやることくらいだ。後は、雪乃の実家の問題を解決すれば、俺が3人と時間を共に過ごす理由は失われる。

目前で涙を流す三浦と、その思い人たる葉山隼人の関係が、一瞬、自分と彼女達の姿の写し合わせのように思えたが、俺はすぐにその考えを否定した。

俺は17歳の少年にも劣っている。俺は三浦同様、届かない果実に必死に手を伸ばし、諦めきれずに足掻いている。だが本来俺が取るべきなのは、葉山と同じ立場ではないか。いい加減、当然のように自分の都合を彼女達に押し付けるのは止めるべきだ。

覚悟を決める時が迫っているのかもしれない。

「ちょっとヒッキー!!なんだしそれ!?」

結衣は俺の言葉に憤慨した。俺を睨むその目尻には涙を浮かべている。

雪乃と沙希は呆然とその場に立ち尽くしていた。

無言が空間を支配し、重く苦しい空気が充満する。

あの夏の日、いや、俺が高校生に逆戻りしてから築いてきた彼女達とのバランスが、今この瞬間、正に崩壊したように思われた。

全て俺のせいだ。

始めからこうなることは分かっていた。分かっていたのに、つかの間の安らぎを得んがために彼女達を拐かし、期待させ、欺き、縛り付けてきた。俺はその代償を支払わねばならない。

心が軋むような音を立るのを、どこか客観視し、いい気味だと嘲笑うもう一人の自分がいることに気が付く。多重人格症状というのは、自己防衛反応の一つと聞く。この期に及んで、己を守らんとする意識が働くとは、自分はことごとく浅ましい人間だ。

「…話が逸れた…三浦。悪いがこの依頼、俺は受けられない…すまん」

俺は擦れるような声でそう言い残すと、部室を後にした。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷、ちょっといいか?」

翌朝、いつもより少し遅めに登校した俺が教室に入ろうとしたところ、廊下で葉山隼人に呼び止められた。奴は大きめのスポーツバッグを肩にかけている。腕時計に目をやると、そろそろホームルームが始まる時間だった。恐らくこの時間まで部活の朝練を続けていたのだろう。

「あん?何だよ?」

俺は大人げなくも苛立った気分を隠しもせず、そう乱暴に尋ねた。

「ここじゃちょっと…屋上行かないか?」

「いや、もう担任が来る頃だろ」

「サボりの誘いだよ。可笑しいか?」

このまま教室に入れば結衣や沙希と間違いなく目を合わせることになる。情け無くも俺は、今日彼女達に対してどんな顔で向き合えば良いか、一晩かけてもシミュレーションすることができなかった。

「…なら行くか」

優等生の葉山に似つかわしくないその提案に、俺は多少の疑問を抱きつつも、有難く乗っかることに決めた。

無言で屋上へと向かう葉山の背を見ながら、俺は一歩一歩階段を昇った。

奴が昇降口のドアに手をかけるの見て、ふと文化祭の一コマを思い出す。

平塚先生は「生徒が勝手に屋上に上がるのは問題だ」と口にしていた。だが鍵は壊れたままで対策は何もされていなかった。悩み多き学生たちにはこんな環境も必要だろうという彼女なりの配慮なのだろうか。いい歳した自分がそんな学生達に混じってそれに甘えることには抵抗感を覚えたが、俺は葉山に促されるまま屋上階の外へと足を踏み出した。

途端、目が痛くなる程に冷たく強い冬の風に吹き付けられ、俺は身を震わせながら縮こまった。葉山は平気そうな顔をしているが、ひ弱な俺には長居は出来そうにない。

用があるなら早くしてくれ。そう願い、両手を擦り合わせながら俺は葉山の言葉を待った。

「単刀直入に聞くよ。比企谷の希望進路を教えてくれ」

「は?」

俺は突然の葉山の質問に、一瞬思考を停止し、間抜けな声を上げてしまった。

葉山は思いの外、真剣な表情で俺を見ていた。

再び吹いた強い風を頬に受けて、俺は思考を取り戻す。

「…由比ヶ浜にでも頼まれたか?」

葉山自身がホームルームをサボってまで、俺の進学希望先を知りたがる理由は特段思い浮かばない。だとすれば、昨日の時点で誰かに依頼されたに違いない。そんなことを知りたがるのは、奉仕部の3人以外にいないはずだ。葉山にそんなことを頼むのは、消去法で結衣と見るのが妥当なところだろう。

「さて、どうかな…で、どうなんだ?」

「悪いが教えられん。別に人に知られるのが嫌だって訳じゃねぇけどな。ちょっとした事情があんだよ」

「…だろうね。大体想像はつくよ」

俺も似たような状況だから、とでも言いたげに、葉山は自嘲気味な表情を浮かべてそう呟いた。概ねこいつも今、戸部や大和、大岡あたりに文理選択を訊ねられて困っているのだろう。その会話に聞き耳を立てる三浦の姿にも当然気付き、神経を尖らせている様も容易に想像がついた。

「…話ってのはそれだけか?」

俺は黙り込んでしまった葉山に対し、サボりの切上げを提案する意味を込めてそう聞いた。葉山は数秒の沈黙の後、再び顔を上げた。

「いや、もう一つ…雪ノ下建設の件で話がある」

「何?」

俺はその言葉に反応するように、一歩、葉山に近づいた。

「修学旅行の後、比企谷からも頼まれてただろ?あの時は大したことは調べられなかったけど、ずっと気になって親の仕事場を漁ってはいたんだ。自分なりに勉強もした」

「…何か分かったのか?」

「新年の挨拶の時に、陽乃さんから詳しい話を聞いてね…本当にとんでもないことになってるみたいだけど、おかげで以前は分からなかったことが理解できた。きっと君や陽乃さんが知りたがってることの、核心に近い情報だと思う」

「勿体ぶらずに早く教えてくれ」

新学期から上の空になってた、ってのはこのせいか。

それに気が付きながらも、俺は葉山の遠回りな状況説明にやはり苛立ちを覚えて情報共有を迫った。

「もちろん話す。そういう約束だったからな…けどその前に頼み…いや、条件があるんだ」

「条件?代わりに俺の進路を話せってのか?」

屋上へ来てからの会話を振り返りながら、俺はそう尋ねた。

雪乃の実家の問題解決と、3人の将来にかかる選択。天秤にかけられるものではないことは理解しつつも、俺はその判断をこの場で下すため、頭を必死に回転させた。

だが、葉山が提示した条件は、俺の想像とはかけ離れたものだった。

「…俺と本気で勝負してくれ」

二人の間に、再び強い風が吹きこむ。

俺を睨むように見据える葉山の目は、真剣そのものだった。

☆ ☆ ☆ 

その日からしばらく俺は奉仕部には顔を出すことなく、授業後は図書室に籠り考え事に耽っていた。あれから彼女たちとの会話が一切なくなった訳ではない。部長の雪乃には休みの連絡を入れていたし、結衣や沙希とも挨拶程度の会話は交わしてはいた。だが、俺達はお互いに距離感を探るような、そんな表面的なコミュニケーションしか取ることができず、明らかに以前とは違う雰囲気の中にいた。

「八幡、何してるの?」

「…戸塚…まぁ、ちょっとな」

夕暮れ時の図書室。

自前のノートPCを前に座る俺の肩に手を置き、戸塚が話しかけてきた。窓の外を見ると既に夕日が落ちかけていた。どうやら部活の時間は終了したらしい。顔を上げて振り返ると、そこには戸塚と一緒に材木座の姿もあった。

「八幡よ…御主、進路はどうする気だ?」

「あん?進路?」

材木座からの突然の質問を不可解に思った俺は、目を細めた。

不意に図書室の入口に人の気配を感じて目をやると、ドアの後に慌てて隠れようとする結衣とはたと目が合った。沙希と雪乃の長い髪もチラリと見える。

それを目にして、微笑ましさと喜びの感情を覚え、まだ彼女達が俺の進む先を知りたがっているという事実に安堵する。同時に俺はそんな自分を激しく嫌悪した。

「…あいつらの頼みか?」

「たたたた、頼まれてない!」

「ったく…人の進路を探るなら三浦の依頼の方をなんとかしてやれよ」

俺は彼女からの依頼を断った自分を棚上げしながら、精一杯の強がりを口にしてみせた。

「ハハ、失敗しちゃった。八幡は何でもお見通しだね。葉山君にも同じことを聞いたけど、はぐらかされちゃったよ」

「むぐぐ…あれは頼みというより脅迫に近かった…」

戸塚が少し申し訳なさそうな表情を浮かべてそう口にすると、材木座も観念したかのようにそう白状した。コイツは俺と葉山の進路を聞き出さなければ奉仕部を出禁にするとでも言われたのだろうか。

「…ところで八幡、何を見てるの?それ、地図だよね?」

戸塚は話題を切り替えるように、画面を覗き込みながらそう言った。

「…ああ、今度のマラソン大会でな…何故か葉山の野郎に勝負を吹っかけられたんだよ」

「葉山君と勝負?」

端末を弄りながら質問に答えると、戸塚は驚いたような声を上げた。

1月のマラソン大会。

葉山がどんな意図で俺に勝負を挑んできたのか、皆目見当もつかない。そもそも、現役運動部キャプテンの葉山と俺ではまともな勝負にならないのは明白だ。にも拘わらず、奴が体育系行事をその舞台に指定した理由が、俺には理解不能だった。

――自分に有利なのは百も承知だ。それでも…受けてくれないか?

――いや、意味分かんねぇよ。そんな結果の分かりきった賭けになんの意味があんだ?

――けじめ、かな…自己満足だよ

あいつの考えは不明だが、その言葉には、高校生らしからぬ覚悟と有無を言わせない迫力があった。俺はその場で断ることが出来ないまま、奴の表情を伺った。

その無言を承諾と見做した葉山は、軽く握った拳で俺の胸をトンと叩き、「じゃあ、よろしく」とだけ言い残して、先に教室へと戻って行った。

不意を突かれたとは言え、迂闊だった。

葉山の頑なな性格は長年の付き合いで重々承知している。おそらく申出の撤回を頼んでも奴がそれに応じることはないだろう。雪ノ下建設の情報を賭けた勝負であるならば、俺はこの分の悪い勝負に何としても勝たねばならなかった。

キーボードを叩くと、画面の地図上に自分で登録したマラソンのルートが線で示された。

「不利な勝負に挑むなら、入念な調査と事前準備以外に道はねぇからな…タクシー予約して待機させても乗車区間はここから…このあたりのポイントまでが限界か…やっぱ折り返し地点に教師が待機してるのが邪魔だな…むしろそっちを排除する方法を考えるか…」

「さ、最低だぞ…八幡」

俺の独り言に近い呟きに対し、材木座が非難の声を上げる。

「今更何言ってんだ。結果の為なら何でもする…それが俺だ」

「八幡って、勝負事にそんなに拘るタイプだったっけ?」

戸塚は不思議そうな表情を浮かべて俺に尋ねた。

「いや…詳しくは話せないが、俺が必要としてる情報の交換条件として、勝負を申し込まれたんだよ…あ、そうだ。最近大手のスポーツ用品メーカーがバネ付のランニングシューズ出してたよな?あれってネットで買えるのか?」

俺は雪ノ下建設の話には触れずに、事の顛末を戸塚に伝えた。余計な追求を避けるため、誤魔化すように材木座に話を振るのも忘れなかった。

「学校指定の運動靴じゃないと失格になるぞ」

「加工して靴底だけ張り替えれば…いや、それより奴の妨害工作を進める方が確実だな…最悪、吉浜に金握らせて野郎に体当たりでも…」

俺は腐った眼を更に黒く濁らせながら独り言を続けた。

「は、八幡、ちょっと落ち着いてよ…葉山君は条件として”勝負してくれ”って言ったんだよね?」

「…ああ」

戸塚は暴走し始めた俺を諌めるように、そう確認した。

「それって、"勝ったら"、じゃなくて、"勝負してくれたら"ってこなんじゃないかな?葉山君が何の考えも無しにそんな無理を押し付けるようには思えないよ。八幡が真剣に勝負に挑めば、葉山くんは満足するんじゃない?」

「…」

確かに戸塚の指摘は的を得ている気がする。葉山の意図は不明であるにせよ、奴から提示された条件は、"本気で勝負すること"だった。だがしかし、仮にそうだとしても奴が望む「俺の本気」というものが、どういう類のものなのか、それがさっぱり分からない。

「…方向性が分からなくなってきた…俺は今からでもトレーニングした方がいいのか?それとも奴は、このまま俺が本気で策謀を巡らせることを望んでいるのか?」

「我に聞くな」

「葉山君が自分に有利な勝負を持ちかけたのにはきっと訳があるんだよ。僕は…ズルしないで真剣に勝負に応じるべきだと思うな」

戸塚はそんな言葉を残すと材木座と連れ立って図書室を後にした。

廊下の方から、戸塚が3人に小声で依頼失敗の謝罪をする声が聞こえてくる。葉山との勝負の件もあの3人に伝わったのかもしれない。

帰る前にあいつらの顔を見たい。今図書室を飛び出せば、挨拶くらいは出来るだろう。そんな誘惑に駆られそうになるが、俺はそんな甘えた思考を跳ね除けるように計略に没頭した。

「…そろそろ帰るか」

1時間後、俺は周りに誰もいなくなったことを確認してから席を立つ。

外はすっかり暗くなっていた。

俺は荷物を手際よく鞄に詰め込んで、駐輪場へと向かった。

乗り慣れた自転車を前にして、鞄から鍵を取り出す。それを後輪のロックに差し込もうとして、その手を止めた。

――真剣に勝負に応じるべき、か

俺は戸塚が口にした言葉を心の中で反芻すると、しばらく悩んだ末に鍵を鞄へと戻した。そして自転車を置いたまま駐輪場を後にし、駆け足で学校の敷地を飛び出した。

戸塚の言葉に触発されたという訳ではない。それはあくまでも気まぐれな行動だった。

「ハァハァ…」

思った通り、学校を出て数分も経たないうちに息が上がり始める。額から流れる汗が鬱陶しい。右肩に掛けたカバンが揺れて体にぶつかるのも煩わしかった。

――教科書もPCも学校に置いて来ればよかった

考えなしの行動を軽く後悔しながらも、機械的に脚を回転させて道を駆ける。

数キロ走ったところで、酸素を欲っして顎がみっともなく上がり始め、横っ腹の痛みに表情が歪み出した。

柄にもなくバカなことをしていることを自嘲しながら、それでも立止りたくはないと、心のどこかで俺は願った。

走るのを止めた瞬間に、半端な自分を受け入れてしまうような気がしてならなかった。

不意に、流れた汗が目に入って視界がぼやけた。

滲んで見えた街灯の光。その先に、一瞬3人が自分を呼んでいるような、そんな幻影に囚われ、無意識に何もない空間に手を伸ばす。

その瞬間、俺は身体の重心バランスを失って、つんのめった。足のもつれを堪えて踏み止まったが最後、自分の腿はそれ以上持ち上がらなくなる。

腰を屈めて顔を下向けると、顎から汗が数滴、滴り落ちた。

それが歩道のアスファルトの染みになって消えていくのを何も考えずに見ているうちに、言いようのない悔しさが込み上げてきた。

潔く前のめりに転倒していた方がまだ救いがあった。

やはり俺は欲しても踏み込めない、怪我をする覚悟もない半端者なのだと、思い知らされるような気分だった。

今まで滝のように流れていた汗が嘘のように引いていった。

「…クソッタレ!!」

人気のない暗がりの道。

片手で横っ腹を抑えながら、俺は残った力を振り絞る様にそう叫んだ。

その声は響くことなく、夜の闇に吸い込まれた。

☆ ☆ ☆ 

「…ただいま」

帰宅した俺を待っていたのは人気のない空間だった。

門燈や玄関口の照明はついておらず、家は真っ暗だ。汗が引いて芯から冷え切った体が一段と冷たくなるような感覚を味わう。俺は手探りで電気のスイッチを入れながらリビングへと上がった。

数秒遅れて点灯した蛍光灯の光を受けて、誰もいないと思っていた部屋に薄っすらと人影が浮かんだ。

「っ!ビビった!…小町か…」

暖房も焚かれていない寒々としたリビング。

そのソファーの片隅で小町は体操座りをしながらボンヤリと部屋の入口を見つめていた。いつも明るい彼女のその不自然な様に俺は違和感を覚える。

「…お兄ちゃん?…お帰り」

小町は俺の姿を見てハッとした後、気まずそうな表情を浮かべ、弱々しい声を発する。

様子が明らかにおかしい。

「…どうした?」

俺は一呼吸置いて、彼女に尋ねた。

「…あの…もし小町が受験に失敗したら、お兄ちゃん、どうする?」

言いにくそうに口にしたその質問で小町の悩みが判明した。受験を控えた学生は多かれ少なかれ、こういう状況に陥るものだ。自信を維持できなくなると、嫌な想像が勝手に働いて独りブルーな気分になる。偏差値の高い総武高の受験を控えた小町も例外ではないのだろう。

「どうもしねぇよ。小町は小町だろ。今まで通り俺の大事な妹じゃないか」

腫物に触る様に優しく、注意深く言葉をかけると、まるで俺は憂鬱な気分に陥った自分自身を慰めているかのような気分になった。案の定、小町はそんな表面だけの耳触りの良い言葉には反応を示さなかった。

「…第二志望の私立は受かってるんだから、気楽にやればいいんじゃねぇの?」

俺は小町の表情を窺いながらそう付け足した。

前の人生では、小町は無事に大志と共に総武高に合格した。だが、今回どうなるかも分からない。安易な気休めの言葉は彼女にとって何の意味も為さないことも分かりきっている。しかし、今はそう言ってやるのが精一杯だった。

「小町はお兄ちゃんのいる学校に行きたい…行きたくない私立高に高いお金を払って通うなんて…馬鹿みたいじゃん…」

「そうか?将来の事を考えれば、どの高校に進んでも結局大学受験のために自分で勉強するのは一緒だろ?大学だって、ぶっちゃけ就職のための踏み台だ。障害を飛び越えるための踏み台の種類に一喜一憂してもしょうがないだろ?」

――ああ、これは違うな

ペラペラと詭弁を弄しながら、俺は自分の無責任なその場凌ぎの言葉に、情け無さを覚えた。

総武高校に進んだ俺を待っていたのは、生涯忘れられない出会いだった。仮に俺が高校受験に失敗して、あいつらとの出会いを逃していたら今の俺は存在していない。そして今、進学先は真剣に選べなどという建前を口にして、3人を切り離そうとしているのも俺自身だ。

小町にとっても総武高校は、大志と距離を縮め、一色を慕い、俺の大事な女性たちと関わることとなった大切な場となるはずだ。俺が、そんな言葉で誤魔化していいはずがない。

「でも…落ちたとか、そういうの言われるの嫌だよ」

「大検とって高校をスキップするとか、一年海外逃亡して帰国子女枠で編入するとか…世間体を誤魔化す方法なら俺が幾らでも教えてやる」

「ぶっ飛んだこと言ってるのに、お兄ちゃんの口から聞くと妙にリアルに感じるのは何でだろ」

少しだけ元気が湧いたかのように、小町は苦笑いを浮かべてそう呟いた。

彼女のその様子に俺も肩の力がスッと抜けるのを感じた。

「…でもさ、1年だけでも、お兄ちゃんは小町と同じ学校に通いたくないの?」

数秒間を開けて、少々拗ねたような、むくれた表情を顔に貼り付けて尋ねる幼い妹。

意識なのか無意識なのか、いずれにせよ、いつものあざと可愛さを取り戻した彼女のその言葉に、俺は表情を緩めた。

「…そりゃそうなれば嬉しいさ。小町は俺の為に受験勉強を頑張ってくれるのか?」

そう聞き返しながら俺はハッとする。

同じ場所にいたいと願う気持ちを、素直に有難く受け取ること。

たとえ一緒にいることが出来なくなっても、ずっと支えてやりたいと思うこと。

そんな自己満足に近い傲慢な願いを押付けることが許容される人間が俺にもいたのだ。それを認識した瞬間、目前の妹に対する家族愛が湧き上がるのを感じた。冷えていた心が再び熱を取り戻し始める。

俺は無言で小町を優しく抱き寄せた。小町は驚いたような表情を浮かべるが、嫌がるそぶりは見せずに俺に身を委ねる。

「べ、別にそういう訳じゃないけど…お兄ちゃん、ちょっと汗臭いし」

小町は慌てたような口調で誤魔化すようにそう言った。

「悪ぃ、今日は運動帰りでな…兎に角、妹の一人くらい、一生苦労しないように俺が面倒見てやるから何も心配するな。まぁ、お前なら将来立派な旦那さん見付けて幸せになれると思うがな。今は…まぁ、なんだ…そういう相手に釣り合う人間になるための努力をする時期ってことなんだろ」

「…その前にお兄ちゃんがお嫁さんを見つけられるか、小町は心配だよ」

ふっと表情を緩めた小町は、悪戯をする子供のような笑顔を浮かべてそう口にした。

「痛いとこ突くなよ…でも、俺も今再認識したよ。昔から小町は俺の精神的なバックストップなんだな。俺にとって、存在してくれるだけで嬉しいと思える特別な人間は、お前だけだ。小町がいてくれれば、俺は頑張れる…」

「何それ?口説いてるの?実の妹を?…お兄ちゃん、いくらなんでもそれはちょっと引くよ」

「何言ってんだよお前?恋人はどこかに存在してくれるだけじゃ全然足りないだろ?常に横に置きたい人間と、常に支えてやりたい人間は種類が全く違うぞ?」

「あれ?なんか小町がフラれてる?…お兄ちゃんごときに…それはそれで結構腹立つかも」

バッと身を翻して俺から離れた小町は、少しだけ不機嫌な表情を浮かべてソファーの上にあったクッションを手に取り、俺に向かって投げつける。

片手でそれを受け止めて退けると、落下するクッションの向こう側に、優しく微笑む妹の顔が見えた。

「そういや、投資の話を親父に口添えしてくれた時に約束したな。儲かったら何でも買ってやるって」

「う、うん?」

俺は不意に話題を切り替えると、小町は不意を突かれたような表情を浮かべて返事をした。

「そうだな…総武高に落ちたら小町には不動産でも買ってやろう。これで人目を気にせずに引き篭もれるぞ」

「そこは受かったらって言って!…って、不動産!?どんだけ儲かったの!?」

「内緒だ…あ~あ、そしたら俺も暫く一緒に引き籠ろうかな」

「…なんか変だよ、お兄ちゃん。ひょっとして何かやらかした?」

俺が冗談交じりに投げやりな言葉を呟くと、小町はそれに目聡く反応し、怪訝な表情を浮かべて俺に詰め寄った。

「…」

「話して?」

「ヤダよ、恥ずかしい」

「お兄ちゃんと小町の仲でしょ?遠慮なんか要らないって」

小町は俺に抱き着きながら、あざと可愛い表情を浮かべて俺を見上げる。

「…失恋…」

小町になら自分の心の内を晒してもいいのかもしれない。そんな甘えが頭に過ぎった時には俺はすでに口を開いてしまっていた。言葉にしてしまった直後、急激に恥ずかしさが込み上げてくる。

「マジ!?」

「…するかもって話だ…おい、好奇心一杯の顔で俺を見るな。これでも傷心してんだぞ」

「誰々誰々!?結衣さん!?雪乃さん!?それとも沙希さん!?ダレ!?何時の間に!?っていうか失恋ってもう手遅れじゃん!」

この子、何でこんなに鋭いのかしら。

数秒の間を置いて、マシガンのような速さで小町の口から挙げられた女性の名前は、漏れなく全てが俺の想い人だった。

「誰でもいいだろ。ほっとけ…何なら、今日はお前の受験失敗と俺の失恋の前祝いに、二人でパーッと外食にでも出かけるか?」

「え、縁起でもない…小町、ちゃんと勉強するよ」

「そうか」

これ以上聞かないでくれという、俺の心の声を感じ取ったのか、小町は俺が期待した通りの返事を口にする。その返答に満足した俺は、フッと笑みを漏らした。

「…お兄ちゃん、ありがと…お兄ちゃんが結婚できなくても、小町はお兄ちゃんの妹だから…ずっと…いや、なるべく…えっと、気持ちだけでもお兄ちゃんの側にいるよ」

立ち上がりリビングを背にしようとする小町は、振り向いてそんな言葉を残した。

「それもう殆ど側にいる気ないよね?…でも、あんがとよ…余計な心配すんな。ホレ、サッサと勉強に戻れ」

幼い妹の言葉は素直に嬉しく、胸に空いた穴がほんの少しだけ埋ったような気がした。

――失恋、か

うん、キモいな。

いい歳こいたオッサンが、そんな恥かしい単語に浸ってること自体がキモい。挙句、中学生に慰められるとか、恥ずかしすぎる。

半端でもいいから元気出せよ。人生でもう3度目じゃないか。いい加減慣れろ。

それに…今は目の前にやるべきことがあるだろ。

そう自分に言い聞かせながら、俺は誰もいなくなったリビングの天井を仰いだ。

☆ ☆ ☆ 

マラソン大会当日。

スタート地点の海浜公園には総武高校の生徒がぞろぞろと集まっていた。

1-2年生全員強制参加のこのイベント、これだけの人数が犇めき合うのを目にすれば、昨年1学年上の連中をぶち抜いて優勝した葉山の実力を嫌でも実感させられる。

葉山が求める真剣勝負。俺はその意味をずっと考えていた。

海沿いのほぼ直線の道を走り、メッセ近辺の橋梁で折り返す男子用コースは片道5km弱。往復10㎞近くに及ぶ道のりは、現役運動部員でもなければ参加するのも憂鬱になる距離だ。

普段ロクに運動していない俺であれば、真面目に走って1時間以内に完走出来れば御の字といったところだろう。他方、陸上の専門トレーニングを積んだ男子高校生であれば10kmマラソンで35分を切るという。陸上部員をものともせずに校内一位を獲得した葉山のタイムは恐らくそれより早い。

倍近いタイム差が出れば、それはとてもではないが勝負とは呼べない。戸塚はズルはすべきではないと言っていたが、やはり、どう考えても奴がいう「真剣勝負」は俺が姑息な手段を講じることを前提としているように思われる。奴の体力と、俺の知力の勝負。俺はそう結論付けることにした。

しかし、そうなると問題は猶更深刻だ。戸塚がああ言った以上、前回のようにテニス部員を動員しての進路妨害を頼むことは出来ない。俺にとっては葉山以前に、他の有象無象の運動部員ですら障壁となるのだ。それらを押しのけて、あらゆる手段を用いて優勝をもぎ取ること。それが俺に課せられた使命となる。

俺は、マラソンにおける有効な不正手段を研究した。だが、どう頭を捻っても、皆の意表を突くような、画期的なアイデアは思いつかなかった。であれば、だれでも思いつくようなオーソドックスな手段を如何にバレないよう、タイミングよく組合わせるか。それがカギとなる。

しかし状況は、その"オーソドックスな手段"からして制約まみれだった。例えば、折り返し地点まで略一直線のこのコースではショートカットしようにもそのルート自体が存在しない。また、代走を頼もうにも、それを依頼出来そうな知り合いもいなかった。既に詰みかけているこの盤面を一挙に覆す方法はない。一手一手、着実に駒を進めて形勢を逆転する他ないのだ。

頭の中を整理し、大きく膨らませた頬からフーっと息を吐き出しながら、顔を上げた。

「先輩~!頑張ってください!」

不意に横から声をかけられる。そこには、大会の運営を担当している、一色率いる生徒会チームの姿があった。

「比企谷先生!加油!(比企谷さん、頑張って下さい。)!」

「正々堂々走ってよね!」

珍しく海美が中国語で大きな声を上げたと思えば、その横で西岡、田村も手を振っている。

「あ、吉浜先輩もついでに頑張って下さい」

一色は、俺の近くにいた男子生徒に少し投げやりな声援を送った。その視線の先を追うと、入念に準備運動する奴の姿が目に入った。

「…運営側の生徒会も強制参加とは、学校ってのは厳しいな。ま、仕事に影響しないように気楽に走れよ」

「その手に乗るか。俺はこう見えても長距離走には自信があるんだ。今年は葉山を抑えて優勝するから、見てろ」

余計なやり取りから、思わぬ伏兵を発見して辟易する。今のうちに脛蹴りでもかまして潰した方がいいだろうか。そんな誘惑に駆られそうになる。

「あの男に勝利すりゃ、俺も有名人だ。そうすりゃ生徒会は俺のハーレムになる。奉仕部の美人3人に飽き足らず、生徒会長や副会長まで手玉に取っていたお前の時代は今日で終わりを告げる!」

「…バカだろ、お前?」

限りなく頭の悪そうな発言をする吉浜だが、自分の行為を顧みればその言葉に反論することは出来ず、悔し紛れにそう返すことしか出来なかった。俺は吉浜からプイと顔を背けた。

「「「…」」」

はたと、今度は少し離れた場所で待機していた、雪乃、結衣、沙希と目があった。

彼女たちは気まずそうな表情で俺を見ていた。

「…まぁ見ててくれ。今日は勝ちに行く…俺のやり方でな」

小町のお蔭で多少吹っ切れることが出来た俺は、強い意志の籠った視線で彼女たちを見据えてそう呟いた。彼女たちは少し驚いたような顔で俺を見るが、少し間を置いてから、各々が、遠慮がちに激励の仕草で俺の言葉に反応した。

真面目な顔で頷く雪乃、手を振る結衣、拳を前に突き出す沙希。

彼女達が浮かべる表情はやはり固いが、そんな応援に俺は顔を綻ばせた。

「分の悪い勝負だとは思うけれど、期待しているわ」

雪乃は呟くようにそう言った。やはり、葉山との勝負のことを戸塚から耳にしていたようだ。

「…おう」

俺は小さく手を挙げて、彼女達の声援に応えた。

――別れることになっても…この大会が終わったら彼女達ともう一度きちんと話し合おう

そんな死亡フラグじみた決意をしながら俺はスタートラインの前方へと向かった。

この勝負、開始直後のスタートダッシュが鍵となる。計画を上手く運ぶにはポジショニングが重要だ。

人混みの中を、体を滑り込ませるように移動していくと、そこには葉山の姿があった。

脇には男子の出走を応援する女子の群れ。そこから発せられる黄色い声に対して律儀に手を振って返す奴を見て、その女生徒の殆どが葉山目当てであることを理解する。

相変わらず、難儀な奴だ。そう思いながら視線を動かすと、その群れの中から、苦しそうな表情で遠目に葉山を見つめる三浦の姿が目に入った。

――悪かったな、三浦。お前の依頼、後で必ず埋め合わせをしてやる

俺は三浦優美子という少女を熟知しているわけではない。

だが、普段彼女が見せない内面を少しだけ知っている。意外とオカン気質で面倒見がいい所、派手な見た目に反して一途な所、挫折を乗越えて再び好きだったテニスと向合った精神力。どこか、俺の大切な女性達に通じるモノを持つ彼女には好感すら覚えている。

彼女は自分のステータスシンボルのために葉山を欲しているわけでは決してない。人の期待に応え続ける葉山を敬い慕っている。一方で、他者からの期待の中のみに自分の存在意義を委ねるような、そんな危ういやり方しか知らない奴を、支えられる存在になりたいと願っている。だが、彼女にはそれが出来ない。何をやっても常に自分の前を行く人間を支えることは難しい。だからずっと苦しんでいる。

それは尊い想いだと俺は思う。だが恐らく三浦は、自分が感じている苦しみの理由を頭で理解していない。理解していないのなら、それを理解させればいいだけのことだ。同情でその場凌ぎの解答を与えるのでなく、べき論・スジ論を振りかざして諦めさせるのでもない。理解し、分析し、有効だと判断できるアプローチを自分で模索する、その切欠を与えてやること。これは奉仕部の信念そのものだ。

俺は悩める少女に自らの決意を誓って、スタートラインに立った。

平塚先生がピストルの引金に指をかける。

「よーい!」

先生がそのままピストルを天高く掲げると、辺りが緊張感に包まれた。

――パンッ!!

勝負の火ぶたは切って落とされた。

☆ ☆ ☆ 

スタートと同時に短距離走並みのトップスピードで俺は集団から飛び出した。

スタート直後には卒業アルバム用の写真を撮影するため、教師が数名カメラを構えるのが習わしだ。無謀なスタートダッシュでそこに写りこみ「途中まで俺、1位だったんだぜ」と自慢するアホな生徒は後を絶たない。俺はその集団に紛れ込んだ。

マラソンでは、スタートからゴールまで一定ペースを維持することは鉄則だ。葉山を含むトップ狙いの選手達は、終始安定したペースを維持するため、そんな生徒を態々追いかけたりはしない。

案の定、カメラを構える教師達の横を抜けると、スタートダッシュ組は失速した。それを横目に、俺は更にペースを上げる。彼らもこの段に来れば、こんなアホみたいなハイペースで完走できるはずがないと、俺を心の底で嘲笑するはずだ。無論俺とてこんな走り方で最後までもつとは思っていない。俺の狙いは公園区間を走る間に集団から姿を眩ませることだ。

園内の歩道を駆け抜ける。俺は“仕込”が上手く行っていることを祈りつつ、細い遊歩道へと向かっていった。数秒もしないうちに、視界に飛び込んできたのは人の群れだ。皆一様に下を向き、何かを探すように遊歩道の入り口前に群がっている。

――上手くいった

第一の策、通路の封鎖は完璧にワークした。

俺は躊躇うことなく歩道脇の植込みに足を踏み入れ、雑木林の木を避けながら公園出口のポイントへと疾走する。横目で歩道を占領する、大学生やフリーターといった集団を確認して頭の中にインプットされたマップを再度読み込む。

今回の通路封鎖のタネは至って単純。

それはジオキャッシングと呼ばれるアウトドアスポーツだ。専用のサイトを使って特定のエリアに「宝」を隠したことを配信する。プレーヤーは携帯のGPS座標を頼りにそれを探す。日本ではまだ馴染みの薄いアクティビティかも知れないが、俺はこの日のために、近郊の複数エリアで時間帯別、難易度別に何度か実験を繰り返し参加者の統計を集めた。隠す宝の価値を引上げながらプレーヤーを増やし、通路を封鎖するのに十分な人数が集まるように仕向けた。

今後、テロ対策や環境対策等の名目で規制が強化される可能性もあるが、現時点ではこのアクティビティを制限する明確な法令は存在しない。公園内のルートであれば道路交通法にも抵触しないはずだ。

後続の集団はそれでも何とか人を避けながら歩道を走ろうとするだろう。だが、俺が準備したこの進路妨害は遊歩道入口の一か所だけではない。細い通路の数か所を同じように封鎖してある。それを知らなければ、渋滞を抜けた所で再び渋滞へと巻き込まれ、ペースを大きく乱される。

このまま公園エリアを抜ければ、第二ポイントだ。バリバリと地に落ちた枯葉や枯枝を踏みしめながら、俺はその準備のため、走りながらジャージの上着を脱捨てた。

不意に、後方から自分のものではない足音を耳にした。

「…これ、落としたぞ」

「葉山!?」

不意に掛けられた声に驚く俺を尻目に、奴は俺に併走しようとペースを上げる。そのまま追いつかれ、俺は奴からジャージの上着を手渡された。

「進路を塞いだのは君の作戦かい?シャツになったのもカモフラージュだろ?やっぱりマークしていて正解だった」

「…」

第二ポイントには誰にも見られずに独走して到達することが絶対条件だった。葉山にこのタイミングでいきなり並走されるのは不味い。うまくロケットスタート組に紛れたつもりだったが、迂闊だった。

――どうする?こいつだけ先に行かせるか?

俺はとっさの判断で走るペースを緩めた。すると奴もそれに併せてペースダウンする。どうやら俺を一人にする気はないらしい。

「させないよ」

「ウゼェ!」

俺たちはそのままのペースで公園区間を抜けにかかる。第二ポイントまであと200mを切っている。俺は意を決して話しかけた。

「…勝負を楽しみたいなら、俺の不正には目を瞑っとけ」

「期待通りだよ。教師や他の生徒に見つからない限り、何だってやればいい」

葉山は自信満々でそう答えた。多少癪に障るが言質は取った。

このまま堂々と第二ポイントの仕込みを使わせてもらおう。

公園の出口には、第二のタネ、ロードバイクが停車してある。他の生徒に見られないようにそれに乗り、教師が待機する折り返し地点の数百メートル手前まで車道を疾走すれば、足での走破距離を短縮できる。ジャージを脱捨てたのもそのためだ。平均時速30kmで約4キロの道は約8分。トップランナーが片道5kmを20分弱で走るのであれば、折り返し地点の手前で10分程度待機し、十分に足を回復させてから再度復帰すればよい。前回のマラソン大会でも、ペースを考慮しなければコースの半分程度は奴についていくことができた。走る距離が6km程度に短縮されれば、俺にも勝機はある。

「…あの自転車、君のか?」

「るっせ!」

前方に停車するバイクを目にして、葉山が俺に声をかける。マラソンコースは公園区間を除けばほぼ直線で、ショートカットすることは不可能だ。走破距離を短縮するには乗り物を利用する他ない。自転車を選んだのは、ほんの数キロの移動でタクシーやハイヤーを使って、運転手に下手に不審がられる可能性を排除したためだ。

「…コンポ、盗まれてないか?」

「あん?コンポって何だよ?」

葉山に振られた会話に思わず反応しながら、自転車を見る目を凝らす。

――なん…だと…

俺は我が目を疑った。本来自転車についているはずの、ペダル、ギア、シフトチェンジといった類の部品が見当たらない。 本番前に購入したばかりの自転車が盗難に遭わないようフレームをポールに括り付けていた筈だ。いや、確かにフレームはしっかりとチェーンで括り付けられている。問題なのは自転車を駆動させるのに必要な部品だけゴッソリ無くなっていることだった。

――お客さん、ロードバイクは初めてですか?入門用で組みましょうか?

――いや、なんでもいいんで一番軽くて早いやつ下さい。あ、この展示してあるデザインの奴、カッコいいっすね。

――え?このフレームに一番良いコンポーネント付けると50万超えますよ?

――じゃ、それで。現金払で乗って帰ります。あ、前に籠付けれますか?鞄が入るくらいのやつで

そんな店員さんとのやり取りを思い出す。恐らく葉山が口にしたコンポとは、店員が言っていたコンポーネントの略称、フレーム以外のパーツを指すのだろう。よく分からんけど。と言うか、自分で買った自転車の部品が実は別売だったことに俺は今更気が付いた。

慣れないハンドルの形状と、足が着かないサドルの高さに恐怖しながら、ヨタヨタと転びそうになって帰る途中、店員さんかがボソリと「…畜生、ド素人のくせに」と呟いたのが聞こえてしまい、居た堪れない気分になった。

一応あれから基本的な乗り方はマスターし、公道も危なげなく走れるようになった。大会が終わったら通学用に使おうと思っていたのに、それも全て無駄に帰した。

「チッ…」

「…やっぱり比企谷のだったか」

思わず口をついて出た俺の舌打ちに、併走する葉山は呆れ顔でそう溢した。

これは計算外だ。こうなると俺も折返し地点までは自力で走らなければならない。盗んだ奴、マジで爆発しろよ。日本人の民度は世界一、とか抜かしてる奴らももう信じない。

「お粗末だな…とても用意周到な君とは思えない」

「…言ってろ」

自分の脚力温存には失敗したものの、策は何重にも張り巡らしてある。第二ポイントの失態は痛手だが、まだ諦める段階ではない。俺たちはそのまま海沿いの直線コースへと飛び出した。

☆ ☆ ☆ 

「…よくついてこれるな」

「喋…らせんな…この体力バカ…」

その後も無言で足を回していたが、スタートから3.5km程の地点に来たとき、葉山が再び口を開いた。俺は息も絶え絶えになっていたにも拘らず、律儀にそう返答してしまう。

しかしこのペースはキツイ。葉山が口にした通り、今の二人のペースをコントロールしているのは俺ではなく葉山だ。俺は振り切られないように何とか着いていくのやっとだった。

――まだかよ、雪ノ下陽乃!

体がオーバーロードに対する警告を発し始め、俺は心の中で毒づいた。

足の筋肉、横っ腹にはまだ余裕があるが、呼吸が上がり始めている。このままでは、後半、折返し地点からの体力が持たない。だが、第三の仕込が上手くいっていれば、このハイペースからもこの辺りで解放されるはずだ。

祈るような気持ちで走り続けること、数100m、俺は待ち望んだ第3の仕込を目にして安堵した。コース前方からこちらへ向かって走ってくる集団を目にしてニタリと口元を吊り上げ、そのまま速度を落とした。葉山は足を緩めた俺に対し、不可解な視線を投げる。

「ん?ここでペースダウンするのか?」

「…まぁな。頑張れや」

俺はそのまま歩道の脇へと移動した。前方からやってくる集団は、おそらく近所の大学の運動部員だ。これからその筋肉集団に取り囲まれて揉みくちゃにされる葉山の姿を想像し、俺はほくそ笑んだ。

「見つけた!君が総武高校の葉山君だね!話は聞いてるよ!ぜひウチの大学の…」

案の定、集団は葉山を取り囲んで話かけた。進路を完全に塞ぐ集団に取り囲まれては流石の奴も停止せざるを得ない。俺はそれを横目に一旦車道へ飛び出して集団を回避してから、コースへと戻った。

第三の仕込み。それは雪ノ下陽乃プロデュースの妨害工作だ。

こんなしょうもない勝負に雪ノ下陽乃が手を貸してくれるか否かは半分賭けだった。彼女自身の将来がかかった情報を葉山が持っている、というのが唯一の望みだった。手を貸すにしても渋るだろう、というのが俺の当初の見立てだったが、彼女は意外にもすんなり俺の提案に合意した。

――ふ~ん、隼人でも人に期待するんだね

――何を?

――自分には出来ないことを、かな…いいよ。乗ってあげる。やるとなったら楽しみだな~

雪ノ下陽乃は思わせぶりなセリフを吐いた後、極めて楽しそうに目を輝かせた。元々、興味を持た人間に対する嫌がらせや悪戯が大好きな人間である。胸をときめかせているのが、妨害工作という悪事でなければ、思わず見惚れてしまいそうな程、魅力的な表情だった。

彼女の差金がどの程度の効果を発揮するか、俺も完全には把握していない。だが、雪ノ下陽乃がやると決めた以上、葉山も無事では済まない筈だ。やがて来る折返し後の勝負のタイミングに備えて、俺は自分のペースで距離を稼ぐことに決めた。

☆ ☆ ☆ 

コース折返し地点では教師が待機しており、チェックポイント通過の証明としてリボンを配布している。ゴールした際に、これを提示するのが完走を認められる条件となっている。

大会前、俺はリボンの事前入手を画策し、職員室に忍び込んだが、そのタイミングで運悪く平塚先生に見つかった。運営の生徒会にも掛け合ったが、西岡と田村に断られ、マークされることとなった。出走前に「正々堂々走れ」と声を掛けられた際は、少し心臓が縮む思いがした。いずれにせよ、こんな経緯で大胆なショートカットを実行することは不可能となったのだ。

それで懲りない自分も大概だが、俺には実力で葉山を倒すことは不可能なのだから仕方ない。俺はやっとの思いでリボンを手に取ると、乱暴にズボンのポケットに突っ込んだ。

折返し地点を過ぎて2km程、敢えて徒爾な思考に脳の容量を開け放ち、機械的に足を動かす。雪ノ下陽乃の妨害工作で葉山さえ潰れてくれれば、2位集団の追い上げを食らっても、素直に先頭を譲ればいい。俺の目標は優勝ではなく奴に勝利することだ。

――意外とあっけなかったな

数分走り続けても未だに後続が追いついてくる気配はない。先ほどの大学生達はついでに2位集団の走行も妨害してくれていたのかもしれない。運動不足とは言え、俺は運動神経自体は悪くない。長距離の自転車通学で培った体力は平均よりもある。ひょっとしたらこのまま優勝も視野に…

「やっと追いついたよ」

「…考えるんじゃなかった」

楽観的な思考を浮かべた瞬間、お約束、と言わんばかりに後ろから響いた葉山の声を耳にして、俺は辟易しながら呟いた。

あっという間に隣に並んだ葉山の姿を注意深く観察する。いつも涼しい顔をしている奴に似合わず、肩で息をしているのは僥倖だ。おまけにジャージの一部が破れかかってほつれていた。雪ノ下陽乃の妨害工作はかなり効いたようだ。

「参ったよ…大学生の運動部員をやっと撒いたと思えば、女子大生が一緒に写真を撮ってくれだの、芸能業界のスカウトだの…挙句、道に蹲る人に足を掴まれて、救急車を呼んでくれとか…」

葉山はそこまでを一気に早口で捲し立てるように言った。喋れば呼吸を乱すだけなのに、言わずには居られない程にフラストレーションが溜まっているらしい。やはりあの人にお願いして正解だった。

「ペラペラ余裕だな…」

「…いや、完全にペースを乱された。でも、そろそろ女子が遅れて出走する時間だ。折返し地点から先、これ以上のネタを仕込むのは無理だろう?」

「さあな」

俺はそう言うと、奴を一瞥して、自分のペースで走り続けた。事実、葉山の言う通りである。自分が普段通学用に使っている自転車を折り返し地点の先に配置しようと考えたが、進行方向から学校の生徒が走ってくるのでは、乗ることは出来ないとの結論だった。

しかし、ゴールまで3kmを切っている。ここから少しペースを上げても走れない距離じゃない。体力を削られた葉山と、温存してきた俺の実力勝負だ。前方には花見川にかかる橋梁があった。それは奇しくも、過去に葉山の精神的余裕を崩そうと目論み、俺から奴に声をかけた地点だった。

――三浦は女避けに都合が良かったか?

葉山の文理選択を聞き出すための陽動にしても、あれは我ながら最低な発言だった。自分の選択を頑として話さない葉山に対し、俺は「皆の望む葉山隼人をやめるためには理系しか選択はない」と言った。

俺は読み違いをしていたのだ。奴は皆の期待を背負うのを放棄したくて黙っていた訳ではなかった。むしろそれは、期待に応え続けることを覚悟し、自らの選択を封印した上で、逆に皆の選択を奪わないために自らに課した黙秘に他ならなかった。

「…比企谷…君は3人のこと、どうするつもりなんだ?」

橋に差し掛かる手前、唐突に葉山が俺に問いかけてきた。これが奴の陽動だとすれば、なんという偶然だろうか。葉山には俺の過去の記憶のことなど知る余地もない。だが、自分の手の内を真似られて動じる自分ではない。

俺は葉山を無視して前方を見据えた。

「このまま中途半端な関係を続けるのか?」

「…少し黙れ」

2秒の後に前言を撤回する。

既にアドレナリン漬になっていた俺の脳は、その言葉にしっかりと怒りの反応を示した。奴の思う壷だと自分に言い聞かせても、心は坂から転げ落ちるように乱れていく。

「いいから答えてくれ」

そう言うと葉山は突然乱暴に俺の肩をつかんで、無理矢理立ち止まらせた。

全く想定していない意外な行動だった。

「お前には関係ない…離せ」

「関係があるから聞いてるんだ」

葉山の目を睨みつけて凄んで見せるが奴は全く動じなかった。

「…」

「答えられないのか」

言葉を発しない俺を問い詰める様に葉山は詰め寄る。

とうとう俺は根負けして口を開いた。

「…今のままで良いとは思っちゃいない…だが、選ばないのはお前も一緒だろ?」

「自分で選ぶのは君でも怖いのか?」

「さっきから何言ってやがる…いい加減放せ」

自分の心は完全に見抜かれている。たった17歳のガキにだ。

その事実は無性に腹立たしかった。こんな屈辱があっていいものか。俺は苛立ちを隠さずに自分お肩を掴む奴の手を乱暴に跳ね退けた。が、その態度に奴は憤慨したように表情を険しくし、今度は俺の胸倉を掴んで詰め寄ってきた。

「比企谷…お前は彼女たちを傷付けてる。そんなことが分からない訳じゃないだろ?」

「俺は…自分に出来ることをやってるまでだ」

俺は正論を吐く奴を直視することが出来ずに、視線を逸らしつつそう呟いた。

「詭弁はいい…選べよ」

「何の権利があってテメーがそんなこと抜かしやがる」

「結衣は俺の友人、川崎さんも大事なクラスメートだ。こんな状況は看過できない」

俺はその言葉を聞いた瞬間、自分の服を掴む葉山を突き飛ばした。

興奮物質がさらに分泌されて、これまでに無いほどに攻撃的な思考に脳が支配される。ふいに、修学旅行の最中、夜遊び帰りのタクシー車内、雪ノ下雪乃との関係を遠慮がちに尋ねてきた葉山の姿を思い出した。その瞬間、脊髄反射的に言葉が割って出た。

「お前にとっての一番の理由を棚上げして正論気取りか?どう足掻いた所で雪乃はお前には振り向かねぇぞ」

口にしてからハッとする。これは最悪な発言だ。それは友人に対し、決して口にしてはならない凶器のような言葉だった。自分はどこまで落ちぶれればいいのだろうか。

「!?…そんなことは分かってる!」

葉山は手を跳ね除けられても、そんな言葉を浴びせられても、なお俺に詰め寄った。後ろめたさと葉山の剣幕に押されて俺は思わず後ずさった。自分の背中から、カシャンと音が立つ。俺は川べり土手沿いのフェンスに追い詰められていた。

「それでも…比企谷は俺には出来ないことが出来るだろ!それを証明してくれ」

「勝手に気持ち悪ぃ願望押し付けてんじゃねぇよ」

「逃げるな!」

葉山は俺の腕を捻りあげるようにして距離を詰めてくる。

「お、おい、放せ!」

「このっ!」

それでも力を緩めない葉山に押し負けて、俺はフェンスの上から上半身を仰け反らせた。

そのまま足のバランスを崩して、葉山の腕を掴んだまま、共に川沿いの土手を転げ落ちた。

☆ ☆ ☆ 

体を固定させようと力むが、重力に逆らえないまま斜面を滑るように落ちていく。体のあちこちをぶつけ、最後に植込みの植物に体をからめ捕られてようやく停止した。

安堵して目を開けると、ジャージが破れ、擦りむいた膝から血が滴り落ちているのが見えた。痛みに表情を歪めていると、近くに落ちた葉山はすぐさま立ち上がって、俺の腕を掴んで引っ張り上げた。

「選べ!今すぐ!」

引張られた反動で上体が起こされるが、今度は顔面に強い衝撃を受けて反対方向へと吹き飛ばされた。遅れて自分の頬がジンジンと痛むのを認識する。

――殴られた!?マジかよ…

「…正気か、お前」

俺は自分の目を疑った。来年受験を控え、部活でも期待の掛った優等生による傷害沙汰。掴み合いになっても、いくらなんでもそこまでしない、そんな楽観的な考えを持っていた自分を呪う。俺は殴られた頬を擦りながら立ち上がった。

「お前は彼女に認められたんだろ!どうして彼女を傷付ける!?」

それは叫びに近かった。建前を取っ払った奴の地の感情を真正面からぶつけられた。激変した奴の姿にしばらく呆然とした表情を浮かべていたが、奴は冷静さを取り戻す気配がない。怒りの表情を露わにしたまま、一歩また一歩と俺に向かって近づいてくる。

「雪乃の代りに結衣や沙希を傷付けろってか!?ざけんじゃねぇ!」

最早言葉は通じない。これは正当防衛だ。そう考えながら自分も拳を振り上げて迎え撃った。だが、自分の拳はいとも簡単に葉山に躱され、逆に正確なカウンターを鳩尾にもらう。

「カハッ…ゲホッ、ゲホッ!」

「…」

呼吸が止まり、飲み込もうとした唾が気管に入り込んでむせ返る。思わず俺は膝を地面についた。そんな様子を葉山は冷たい表情で眺めていた。

――クソが!何考えてやがる、この野郎!

純粋な運動能力の差で一方的な暴力に抗うことが出来ない屈辱に、俺は心の中で葉山を罵った。

それと同時に自問する。俺はまだ何かを間違っているのだろうか。あの日、小町との会話を通じて、俺は3人から離れ行く覚悟を固めたはずだ。今日も出走前のやり取りを通じて、それを再確認したはずだった。

「…失望したよ。君には彼女を任せられない」

――るっせぇんだよ、俺は何も間違っちゃいない

葉山は興味を失ったかの様にそう吐き捨てて、俺に背を向けた。

あの日、学校からの帰り道。走るのをやめて立ち止った俺は、前のめりに転んだ方がマシだったと項垂れた。中途半端に手を伸ばして、中途半端に諦める。そんな自分の無力感に苛まれた。

だがあの時、俺が手を伸ばして欲したものとは何だったのだろう。

誰か一人を選んで、他の二人を失うことを受け入れるための勇気だろうか。

他の二人を忘れ、選んだその一人だけを想って生きて行くだけの強さか。

いや、そうじゃない。そんな綺麗で正しいものが欲しい訳じゃない。

俺が欲しいのは三人の全てだ。必要なのは、彼女達にとって不公平な関係を強要することが出来る、そんな我欲を臆面もなく押し通すことが出来る、歪んだ力だ。

世界を変えたい。自分は影の存在でありたいと口にしながら、その実、そんな言葉にどうしようもなく惹かれているのは、自分に都合のいいように世の道理を捻じ曲げる力が欲しいと、俺が心のどこかでそう願っているからなのかもしれない。

世の中を動かす仕組み、その根底にある人間の感情を理解したい、知って安心したい。クリスマスのあの日、俺は3人にそう伝えた。これは本心から出た言葉であり、俺は嘘を吐いたつもりはなかった。でもそれはきっと半分本当で半分偽物だ。

カネの力は偉大だ。虚業だの、脇役だのいくら貶したところで、人はカネの前に跪く。経済合理性という言葉の化粧で誤魔化して、世の中は結局カネの流れる方向へと動いていく。だが人の感情は時として、合理性とはかけ離れた行動を引き起こす。だからそれを知ることで、常に自分がコントロールする側の人間で居続けたかった。それは酷く浅ましく傲慢なことかもしれない。だがきっとそれが俺の本質だ。

――ああ、そうか。結局欲しいものはあの頃から何も変わっちゃいなかった

どうやら俺は、彼女達と分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、一緒にいたいとか、そういう表面的なことだけを願っていた訳ではなかったようだ。自分の歪んだ欲求が受け入れられないことは知っているし、理解して欲しいとも思わない。俺が求めているものはもっと過酷で残酷なものだ。

お互いに自分の本質を押しつけ合い、その傲慢さを許容できる関係性。

そんなこと絶対に出来ないのは知っている。そんなものに手が届かないのも解っている。存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても、それでも俺は…

「…それでも…」

「何?」

ブツブツと独り言の様に呟いた俺に気付いた葉山がこちらを振り返った。

そうだ。求めることで傷付けることになったとしても、彼女達がそれに耐えられなくなって離れて行ったとしても。

「それでも俺は手を伸ばすって言ってんだよ!!」

そう叫びながら俺は葉山に飛びかかった。意表を突かれた奴はバランスを崩して尻餅を付く。俺はそのまま馬乗りになって、力の限り奴の顔面を殴打した。

「雪乃も!結衣も!沙希も!!俺の!俺の女だっ!」

「っ!?」

拳に嫌な感触が伝わる。続け様に2発目を御見舞してやるべく、もう一度拳を振り上げる。が、葉山はそれを首を捻って回避する。同時に奴に体を押し退けられて、今度はこちらが尻餅をついた。すかさず奴はマウントポジションを取り、体勢が入れ替わった。

「そんな無茶苦茶な話が!認められるわけないだろ!」

奴の拳が頬にめり込み、頭蓋骨にメキッと鈍い音が響いた。不思議と痛みは感じなかったが、眼球に伝わった衝撃で片目から涙が滲み出た。鼻からも液体が垂れている。鼻血か、鼻水か、どちらかもわからない。

「誰が何と言おうと関係ねぇ!」

それは子供の駄々に近い喚きだった。葉山を力ずくで押し返そうと足掻くが、奴はピクリとも動かない。片目から涙を滲ませ、鼻から体液を垂れ流し、手足をジタバタさせて喚く俺の姿はさぞ滑稽だろう。それでも俺はそう叫んだ。

「そんな関係、彼女達が望むはずがない!」

「だとしても俺は求める!邪魔されてたまるか!!」

「どこまで身勝手なんだ!」

葉山は再び拳を振り上げた。このまま殴られるのが分かっていても目を逸らさず、奴の顔を目一杯睨みつける。ここで目を逸らせば、今度こそ自分は中途半端に終わってしまう。そんな気がした。

迫る奴の拳が自分の顔に刺さり込むと思った瞬間、それは俺の鼻先でピタリと停止した。

フッと鼻先にその風圧を感じた。

「……今までで一番斜め上じゃないか」

葉山はそう呟くと、そのまま数秒考え込んでから再び口を開いた。

「…全部持ってく…選ぶ必要すらない…そう言いたいのか?」

「…あくまで俺が求めるだけで、あいつ等が受け入れるかは二の次だけどな」

俺は葉山の問いにそう答えた。自分でもそれが答えになっているのかどうか分からない。いや、おそらくなっていない。でも、きっとそれが俺が一番欲いものに近付く為の道なのだと思う。

葉山は俺の言葉を聞いて諦めたような表情を浮かべ、俺から離れる。そして、そのまま大の字になって地べたに寝そべった。

奴は自分の手を、開いたり閉じたりしながら眺めている。今こいつが何を考えているのかは全く分からなかった。その様子を見ながら、奴の最後の拳が自分の顔に突き刺さっていたら、おそらく俺は今頃気絶していただろうと考える。

「…過ぎた欲を持つと身を滅ぼすぞ」

不意に、葉山は忠告するような口調でそう言いった。

「…Greed is good…”強欲は善”って知ってるか?」

俺はとある有名なセリフを引用して反論した。

それは正に資本主義の教典のような言葉だ。俺はその言葉続きを思い出しながら空を見上げた。

――Greed is right. Greed works. 強欲は正しく、強欲は効果的だ。

――Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. 強欲は物事を明確にし、道を切り開き、発展精神の本質を形取る。

――Greed, in all of its forms, greed for life, for money, for love, knowledge, has marked the upward surge of mankind. 生命欲、金銭欲、愛欲、知識欲、全ての強欲が人類進歩の推進力となってきた。

これは世間的に決して受け容れられない考えなのかもしれない。その証拠に、世界では景気が低迷し、街に失業者が溢れる度に、”強欲”は非難の的とされてきた。不動産バブル、ITバブル、サブプライムからのグローバル金融危機、ケースを挙げれば枚挙にいとまがない。

投資家の強欲は、資産効果を齎して世の中の消費を喚起し、技術投資を後押しして情報化社会の到来を促し、低所得者であっても住宅を購入できるような金融イノベーションを実現した。誰もが知らず知らずにその恩恵に預かった。しかし、一度不具合が生じれば、人々は、自分はそんなことは望んでいなかったと口にし、強欲を絶対悪と見做して断罪する。

なんのことはない。全てはご都合主義、即ち欺瞞だ。ということは、逆説的に考えて、自分の欲求に誠実な生き方こそが、肯定されてしかるべきではないだろうか。

――何だよ、その屁理屈。あの作文を書いた時から全く進歩してねぇな、おい

俺は自分で自分の思考に呆れ返った。だが、今はそれでいい。踏み込むことを恐れ、愛想を尽かされる前に自ら身を引けば、確かに俺は楽になれるだろう。でも、それで自分に何が残るというのだろうか。俺が欲しいものはきっと自分の手の届かない所にある。手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。それでも、俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

「…確かに名台詞だよ。でも、それを言った人物は最後に逮捕されたぞ」

「うるせーんだよ。いちいち水差すな」

「…まったく、心底呆れたよ……けど少しだけスッキリした」

「人をボコボコにしてスッキリとか言ってんじゃねぇよ。ジャイアンか」

「…手を出したのは謝る…すまなかった。でも初めてだよ…殴り合いの喧嘩なんて」

それは俺も同じだ。

30年以上の人生で、今日俺は生まれて初めて人の顔を殴った。殴られたことは何度かあったが、後にも先にもこれっきりにしたい。事実、殴られた頬や腹以上に、殴った手の方に何時までたっても抜けなそうな嫌な感触が残り続けている。

「…君に劣っていると感じる…それだけなら良かった。俺に出来ないことを簡単にやってのける比企谷は俺の目標だった。なのに、君が俺と同じような理由で立ち止っているのが堪らなく不愉快だった…自分の限界を見せつけられたような気分だった」

葉山は懺悔するような重々しい口調でそう言った。

「だからマラソンで勝負しろなんて無理難題を吹っかけてきたのかよ」

奴はかつて、俺には同格であって欲しいと言った。それは負けることを肯定するためだと付け足して。どうやら奴にとっての真の理解者たるには、期待を押し付けないだけでは不十分だったらしい。他人の期待に応え続ける葉山の、更に上を行く人物で在り続けなければならないのだろう。

「…ったく、クソめんどくせぇ野郎だ。目標ならもっと高く設定しろよ。伸び代失うぞ」

「いや、俺の見立はきっと間違っちゃいない…君の言う通りにはしないさ」

そう答える葉山の表情は満足げだった。

「…勝手にしろ…っ痛ぇ…こりゃクスリが切れたら痛みで死ぬな」

俺は少しだけ照れながら、吐き捨てるようにそう言って立ち上がる。その言葉に葉山はピクリと反応して同じように身を起こした。

「…クスリ?…ドーピングまでしてたのか…」

ロキソプロフェン、プロピオン酸系の消炎鎮痛剤、集中力向上のためのカフェイン錠剤、痙攣防止のための芍薬甘草、カーボン補給用の糖質配合剤、手に入るものは全て飲んでいた。中でも、消炎鎮痛剤の効果は抜群だった。この距離を走っても、足や横腹が痛むことはなく、体育の授業や密かに行っていた自主トレーニングの際と比較して、飛ぶように走ることが出来た。だが、薬物は効き目が有るほどに副作用もヤバい。鎮痛剤は適度に水分を補給しないと腎臓がやられる可能性があるらしい。

「少しは常識的な思考に従ったらどうなんだ?よく言うだろ…クスリを反対から読んだら…」

「…リスクは…リターンが見合えばテイクする。常識だろ?」

「絶対言うと思った」

俺はそんな会話を交わしながら体についた泥を手で払う。今回のリターンとは、雪ノ下建設に係る情報だ。多少内臓を痛めようと、これで勝てるのなら俺は喜んでそのリスクを取る。だが、俺たちが揉めているうちに、土手の上を何人もの生徒が走り去っていくのを目にした。前回の大会と比べても、大幅なタイムロスだ。腕時計を見ると、既に出走から50分近くが経過していた。最早勝負もへったくれもないだろう。連覇を阻止された葉山は多少不憫だが、これも自業自得だ。

「葉山君!それにそこの君!大丈夫!?…喧嘩したの!?」

不意に土手の上から、女性の大きな声がした。

目をやると、そこには総武高の女教師が立っていた。ゴールした先頭集団から報告を受けて様子を見に来た様だった。彼女は慎重に土手を滑り降り、狼狽した様子で俺たちに事情を尋ねる。

「これは俺が…」

「ちょっともつれて転げ落ちました…全部事故です。だろ?」

おそらく事情を正直に説明しようとした葉山を遮って、俺がそう言った。それに同意せず、気まずそうな表情を浮かべる葉山を見て、教師は怪訝な表情を浮かべている。

「もつれたって…フェンスがあるのよ?そんなことには…」

「トップ争いでヒートアップしたんですよ。優勝がかかってりゃ熱くもなります」

「で、でも二人ともその顔…先にゴールした生徒が…喧嘩だって…」

なおも食らいつく女性教員。だが、その眼は痛々しいグロ画像を見る人の如く、細められていた。

なるほど。確かに葉山の顔を見ると、醜く腫れていた。更に多く殴られた俺の顔は、もはや直視できないレベルなのかも知れない。顔を腕で拭うと血がついていた。やはり自分の鼻腔からは鼻血が垂れていたようだ。

「先生、俺の責任です。俺が先に…」

観念して再び事実を語ろうとする葉山を俺は手で制した。

「悪いもクソもない。落ちた時にお互い運悪く顔を打った。それだけです…それでも俺達を処分しますか?別に構いませんけど…そういうことなら俺も主張させてもらいます。今回、大会の運営には大きな問題がありました。不審者の進路妨害、部外者の乱入…色々あって、とても落ち着いて走れる環境じゃなかった。優勝を目指して真剣に走ってたからこそ、そんな状況に冷静さを欠いたんです。どう考えても学校側の危機管理体制には不備が有ります。今回で総武高の伝統行事を打切りたいのなら、お好きに処分してください」

「…え?…えっと…そんな…でも…」

「……」

極めて機械的に淡々とそう詰め寄ると、教師は言葉を飲んだ。まくし立てた俺を、葉山は信じられないモノでも目にしたかのように、呆然と見る。

「まぁ、不幸な事故だったというわけです。こうなったら俺たちは途中退場する他ないですね。残念ですが、”事故で2名リタイア”ってことで、お願いします」

俺がしれっとそう言うと、教師は納得できなそうな表情を浮かべながらも、無言でコクリと頷いた。半ば自分の眼力で頷かせたようなものだ。魑魅魍魎の跋扈するビジネス交渉で幾多の修羅場を潜ってきた俺にとって、若い女教師を言いくるめるなど、赤子の手を捻るように容易いことだった。

「…いや、俺はレースに復帰します」

「「え!?」」

自らの話術と交渉力を心の中で自画自賛していたところ、突如、葉山はそんなことを言いだした。今度は俺と教師が驚きの声を上げる。

葉山はそれ以上何も言わず、踵を返して土手を登り始めた。しかし、奴は片足を引き摺っている。どうやら転落した際に捻挫していたらしい。

「おい…大丈夫かよ?」

「勝負はまだついていない。ゴールまで諦めない…それが俺だ」

「セリフだけはカッコいいが…頭に枝がブッ刺さっってんぞ」

俺が苦笑いを浮かべながらそう言うと、葉山は髪を掻き毟るように、頭から枝葉を振り落す。俺達は教師を置いて土手を上がり、コースに復帰した。

「…全く、ああも見事に教師を言いくるめるなんて恐れ入ったよ。不審者、部外者、全部君の差し金だろ?呆れてモノも言えない……だが、また比企谷に借りを作ってしまった」

「借り?バカかお前。お前に殴られたなんて話が公になりゃ、コッチがたまんねーんだよ。絶対に俺が一方的に悪者にされる。下手すりゃ教師も俺だけを処分するかもしれん」

「…なるほど。そういうことにしておくよ」

何とか自力で歩こうとしていた葉山に、俺は肩を貸しながら、ゴールまでの道をゆっくりと歩いた。途中、他愛もない馬鹿話をしながら、一歩、また一歩と歩みを進める。そんな中、俺は15年後の世界でこいつと仕事帰りに一杯引っ掛けて帰った時のことを思い出していた。このまま時が流れたら、葉山隼人という人物と、また酒を酌み交わす日が来るのだろうか。そんなことを考えた。

ゴールには大勢の人だかりが出来ていた。タイムは1時間を超えている。既に後から出走した女子生徒も大勢その場にいた。その殆どは不幸なアクシデントで優勝を逃しつつも、ゴールを諦めない葉山に対する声援を送っていた。

その片隅で海老名さんを始め、不穏な空気を身に纏う一部の女子が涎を垂らしながら盛大に盛り上がっていたが、それは見なかったことにしておこう。

ゴールの直前、奴は急に俺の肩から手を離して立ち止まった。

「…おい、止まんな」

俺は振り返りながら葉山に文句を言う。が、次の瞬間、奴は俺の背中をポンと押し出す様にして、俺を一歩先にゴールさせた。

「君の勝ちだ」

「…そうかよ」

そう言った葉山は、どこか吹っ切れた表情を浮かべている。

俺は再び葉山に背を向けて、軽めに片手を挙げる。そして一人、ゲートの先の人混みに紛れるように歩いて行った。

☆ ☆ ☆ 

「ただ今最後の走者がゴールしました!!葉山選手、執念のゴールです!」

俺の背後から大きな声のアナウンスが聞こえてくる。

ドンケツになってもこれだけの声援が送られるとは、大した人気者だ。これが葉山隼人という男の人望なのだろう。リタイアした数名の生徒を除いて、これで全員がゴールしたわけだ。

「うぉぉぉぉおお!!!獲ったどーーーー!!!」

公園内の表彰台には、吉浜が雄たけびを上げながら喜びを口にしていた。長距離が得意と口にしていたが、まさか本当に優勝するとは、意外だった。その様子を眺めながら、俺はフッと笑みを溢した。

そして、その片隅で浮かない顔をしている女子生徒1名を見つける。俺はノソノソと重たい体を引き摺るようにして彼女に近寄った。

「…三浦」

「っ!…誰だし!?」

三浦は俺の顔を見るや否や、そんな声を上げて後ずさる。

「ヒキオだよ…人相まで変わってんのか、俺は…」

三浦からの呼称をあえて自分で口にして俺は独りごちた。

葉山の野郎、どれだけの力で殴りやがった。ゴリラか。

「!?…隼人と喧嘩したって、マジなん?」

三浦はどこか悲しげな表情を浮かべてそう尋ねた。

やはり生徒の間で既に噂になっているようだ。情報が広まるのはあっという間だ。これは後で野郎に治めてもらう必要がありそうだ。

「ちょっとしたレクリエーションだ…三浦、この間は悪かった…」

「…」

俺は大会のアクシデントにかかる言い訳を口にした後、三浦に謝罪した。彼女は切なそうな表情を浮かべて、地面を眺めている。

「…国内最高学府の法学部、それが野郎が行こうとしている道だ」

「!?あんた、それ…」

三浦は驚いたような表情を浮かべて反応した。

「あいつはお前たちと縁を切りたくて文理選択を黙ってるわけじゃない。そんなもので関係は壊れないとも言っていた…お前たちには自分で真剣に進路を決めて欲しいんだろう」

奴との過去の会話を思い出しながら、俺はそう言った。

「…でも…」

俺の口から情報を得て、三浦は一瞬歓喜の感情を瞳に灯すが、今度は後ろめたそうな表情を浮かべて言葉を飲み込んだ。

「いいか、三浦。死にもの狂いで勉強しろ。テニスもだ。3年最後の大会で全国に行け。奴はサッカー部で国立を狙うと言っていた。野郎を手に入れたいなら、奴に追いつき、追い越せ」

「そんなの…あーしには…それに隼人は自分の進路は真剣に考えろって…」

俺も一度は奴の考えに同調した。

進路は後悔しないように、よく考えて決めるべきだと、彼女達に言い放った。

だが、三浦の抱えるこの想いは間違っていない。いつか隣に立つことだけを目的に生きること、その何が間違っているというのか。これは自分と同じような感情を抱いている彼女に対する、ただの依怙贔屓なのかもしれない。だが、彼女のその想いは、報われるべきものだ。例え手に入らなかったとしても、手に入れようと足掻く自由は認められるべきだ。

「お前は葉山のことをよく見ている。あいつが人の期待に応え続ける重圧と常に戦っているのは薄々気付いてるだろ?それを支えたいなら、奴よりも一歩先を目指すことだ」

「一歩先?」

「そうだ。あいつは無理解の肯定なんか望んじゃいない。自分の先を行く人間から否定されて、初めて相手を意識する面倒な奴なんだ…だからお前が高みに上って奴を引っ張り上げてやれ」

「…隼人を…引っ張り上げる…あーしにそんなことが」

「あいつが期待に応えるために目指す進路、部活の成果…全部同じものを手に入れりゃいい。そしたら言ってやれ。"周囲がお前に寄せてる期待なんて、自分にとっては恋愛の片手間で手に入るレベルの下らないモノだった"ってな…そうすりゃ、野郎は間違いなくお前に執着するはずだ…葉山隼人の本質は…生き様を否定されることに喜びを見出す只のドMだ」

「何だしそれ!?……あんた…隼人のこと馬鹿にして…プッ…腹立つのに…可笑し過ぎるし…アハハ」

三浦は噴出すの我慢しながらそういうと、腹を抱えてケタケタと笑い出した。俺はその様子を見ながら安堵した。ひとしきり笑い終わった後、彼女は決意の表情を浮かべて口を開いた。

「…決めた…あーし、隼人と同じ進路を目指す…テニスも全国目指す」

「そうか」

俺は三浦の返答に満足し、笑みを浮かべた。

「…隼人のことは、その、ありがと。ヒキオに借りが出来た。でも…あんたはどうするワケ?結衣の気持ち…それだけじゃない…奉仕部の3人の気持ちは知ってるんしょ?」

三浦は遠慮がちにそう尋ねる。

俺はどう答えるべきか数秒考えて沈黙したが、三浦の真剣な眼差しを受けて口を割った。

「…俺は選ばない」

「やっぱり、あんたも同じなわけ?」

少し残念そうな表情で三浦は再度俺に尋ねる。

「いや、俺はあいつとは違う。俺には俺のやり方がある」

「ハッ!?何だしそれ!?」

「…さあな。秘密だ」

語気を強めた三浦に対し、俺ははぐらかす様にそう言った。

傷付けても、嫌われても、騙してでも。俺がいなけりゃ人生立ち行かなくなる位、介入して、支配して、自分のモノにする。手段は選ばない。それで彼女達を喜ばせることが出来なければ、その時は俺がフラれて終わりだ。課題は明確になった。あいつらにとって不公平な関係でも、それを幸せだと感じさせる環境を作り上げること。後は具体的な方法を模索して試し続ける。それが出来た時、初めて俺は本当の意味で彼女たちに告白できる。

無論、そんな考えを三浦に伝える必要はない。他人の理解は求めない。3人にも解ってほしいなんて思っちゃいない。

「…隼人の件は感謝してるけど…結衣を泣かせたら、あんたぶっ殺すから」

「それは激励として受取っておく。お礼に、お前が葉山に泣かされたら、そん時は俺があいつをぶち殺してやるよ…返り討ちでまたボコられる可能性が高いけどな」

そんな軽口で答えると、三浦は一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、急に顔を真っ赤に染めた。

「…っ!こんのドS!フラれてたまるか!…ったく、ヒキオと隼人の相性がいいのも納得だし」

「気色悪ぃな、おい。海老名さんみたいなこと言いやがって」

「うっさい…バーカ!」

三浦はそう誤魔化すように口にした後、身を翻して人込みの中へと走っていた。

その背中には、いつもの彼女の力強さが宿っているように感じられた。おそらく彼女の思い人の立つ場所へ、完走の健闘を称えに行くのだろう。

俺はその様子を黙って見守った後、学校へと歩き出した。

☆ ☆ ☆ 

「痛みが酷くなってきやがった…クソ」

ブツブツと文句を言いながら、保健室へと向かう。どうやら痛み止めの効果が切れたらしい。文化祭で男子生徒に殴られた時とは比較にならない痛みだった。

途中、廊下のガラスに映りこんだ自分の顔を見て、俺は驚愕した。

――マジで人相が変わってやがる

その顔は、12ラウンドを戦い終えたボクサーのように腫れ上がっていた。

「…失礼します」

ガラガラと保健室の扉を開ける。

「っ!?…比企谷君?」

「うわぁ…」

「…痛そ」

保健室には先客、奉仕部の3人がいた。

そういえば、あの時、体力のない雪乃は途中で強制リタイアとなっていた。結衣と沙希はその付添で来たのだろうか。ともかく3人は俺の顔を見るなり驚きの表情を浮かべて声を上げた。

「…勝負には勝った」

「勝負って、マラソンじゃなかったの?そんなになって…とにかく早くこっち来なよ…消毒しなくちゃ」

沙希がそう尋ねながら俺を招く。結衣はその言葉にハッとしたように、立ち上がって棚から医薬品を取り出した。俺はフラフラと治療用の椅子に向かって歩き、腰を掛けた。

「隼人君と喧嘩したってマジ?」

「…殆ど一方的にやられたけどな」

「いい歳して何を考えているのかしら…何故葉山君がそんなことを?」

「…それは聞かないでくれ…その…この前は酷い態度を取って悪かった」

俺が謝罪の言葉を口にすると、ピンセットで消毒液の染み込んだコットンをつまんでいた沙希の手がピタリと止まる。雪乃も結衣もその場で硬直した。

「俺が3人の進路を…選択を潰しちまうんじゃないかと思ったんだ…あの時はどうすりゃいいのか、自分でも解らなくなった」

「…どうせそんなことだろうとは思ってたけどさ」

「それでも、説明するのが最低限の礼儀というものではないの?」

「そうだよ。言ってくれないとわからないことだってあるよ」

3人は俺を責め立てる訳でもなく、呟くような声でそう口にする。彼女たちの瞳は今も不安で揺れているようだった。

「…そうだな…手前勝手な頼みかもしれないが…口にさせてもらう」

「「「…」」」

彼女たちは無言で俺の言葉を待っている。俺は少し考えてから口を開いた。

「…雪乃、結衣、沙希。お前たちの進路、俺に預けてくれないか?もちろん、学びたい事があればそれは言って欲しい。学部の違いも全部考慮して一緒に留学できる先を探したい」

「今、あたし達の名前…」

結衣が俺の言葉に真っ先に反応してそう呟いた。すると雪乃と沙希が少し考え込む様な表情を浮かべる。

「…それは進学だけの話かしら?」

「解釈は3人に任せる」

「…やっぱり卑怯だよ、比企谷」

俺が雪乃の質問に答えると、沙希は続けざまにそう言った。彼女の瞳には安堵と同時に落胆の色が浮かんでいる。結衣と雪乃もそれは同様だった。その失望はやはり俺が選ばないことに対するものだろう。それは分かっている。やはり心の何処かで罪悪感が疼くが、これも必要なプロセスだ。これは俺と彼女達の勝負に他ならない。焦って手の内を晒すことはない。

「…期限延長、ということかしらね」

無言を貫いた俺に対して、雪乃が溜息交じりにそう呟いた。

「ま、元々アタシ達もそのつもりで留学準備してたワケだしね」

「そうだね…どこまで続くかはヒッキーの誠意次第かな」

沙希が同意すると、結衣もそう呟いた。

「…さ、そろそろ消毒しなくちゃ。由比ヶ浜、雪ノ下、ちょっとコイツの体抑えてて」

沈黙の後、沙希が切り替えるようにそう言うと、二人は俺の両手を押さえつけた。

「大げさじゃないか?…っ!!!痛!痛い!ちょっと!!やめ…!!」

その体勢に俺は小さく文句を言ったが、次の瞬間、皮膚の激痛に見舞われる。沙希が手にしているコットンに染み込んだ液体は本当に只の消毒液なのか、疑いたくなるレベルだった。沙希はそれを容赦なく俺の傷という傷に乱暴に塗りたくった。

「ざまぁみなさい…殺菌しているのだから貴方に効くのは当然でしょう、比企谷菌」

「サキサキ、直接かけちゃったら?」

「流石にそれは…それもアリかもね。存在自体が毒みたいな奴だし」

荒療治が終わった後、俺は疲れ切った表情で3人を眺める。納得がいかないまでも、どこか穏やかさを取り戻した彼女達の顔は、俺が欲して止まない宝石のようだった。

 

やはり彼女達との関係は一筋縄ではいかない。これからも、こんな綱渡りのような関係が続くのだろう。渡り切った先に、どのような関係が待っているのかはまだわからない。そもそも、ゴールとなる岸など存在しないのかもしれない。それでも、綱渡りを怖がって放棄することだけはしない。そう決めたのだ。

――コンコン

「…失礼するよ」

不意に保険室内にノックの音が響く。同時にそう断って入ってきたのは葉山だった。

「治療は終わったかい?」

「ああ」

俺は葉山の挨拶に軽めに手を挙げてそう答えた。奴の頬にも湿布の様なものが張られている。どうやら、こいつの方は会場で簡単な応急処置を済ませてきたのだろう。

「…3人とも、すまなかった。比企谷をこんなにしてしまって…」

すると、葉山は雪乃、結衣、沙希に対して深々と頭を下げた。

「…許さないわ…と言いたい所だけれど、いっそ、そのまま殴り殺してくれた方が、私達にとっては都合が良かったのかもしれないわね」

「それは100%同意。少しは痛い目見て反省してもらわなきゃ」

「アハハ…」

雪乃が葉山に対してそんな物騒な言葉を返すると、沙希が同調し、結衣は苦笑いを浮かべた。

「…比企谷、例の件で話が…少し席を外せないか?」

葉山はそんな彼女達の様子を見て、軽く溜息をつくと、遠慮がちにそう尋ねた。

保険室内に緊張した空気が漂う。

「雪ノ下建設の件だろ?ここでいい。3人とももう知ってることだ」

俺はその場で葉山からの説明を促した。葉山は躊躇いの表情を浮かべた後、3人の顔を見る。3人は俺の言葉を肯定するように、真剣な表情で頷いた。

「…そうか…じゃあ話すよ」

俺たちは固唾を飲んで葉山の言葉を待った。

☆ ☆ ☆ 

「…雪ノ下建設からの資金は、証券譲渡を通じて子会社のビークルに分散された後、最後に換金されてケイマン籍のファンドに集約されている」

「ファンド?」

葉山の言葉を反芻するように俺は呟いた。

雪乃、結衣、沙希は再びこの単語を耳にして怪訝な表情を浮かべている。

「YCC Art Investments Limited Partnership…それがそのファンドの名称だよ。登記手続きの一部を請け負った両親の業務データを漁ったんだ」

葉山は自分の持つ情報を俺達に恐る恐る語りだした。

「YCCって何だろ?」

「Yukinoshita Construction Corporation…雪ノ下建設株式会社の略称かしら」

結衣が口にした疑問に対し、雪乃は推論を口にした。

「いや、名称は問題じゃない…それよりも、Art Investments…美術品投資か…蓋を開けてみりゃ使い古された手ではあるが…成る程な」

葉山の言葉に俺はピンと来た。

資産の移転に関して、恐らくこれほど便利なものはないだろう。

「どういうこと?」

「…俺は専門じゃないから美術品の価値なんて全くわからないが、だからこそ逆にそれがマネロンの仕組のコアになるって寸法だろう。美術品は金融商品と違って、明確な市場価値が存在しない。誰にも取引価格の妥当性が評価できないからな」

沙希の疑問に対し、俺は自分の頭を整理するようにそう呟いた。

資産には様々な定義があるが、金融的な考え方でその投資価値を図るには、将来、それを持っていることで生まれるキャッシュフローを想定することが大前提となる。株なら配当、債券なら金利と元本、不動産なら賃料という具合だ。だが、美術品は持ってるだけでは金を生まない。その上、多様性・個別性が強いから似たような商品の取引価格を適用して価値を評価することも難しい。世の中の潮流、製作者の知名度、物の希少性、他者の審美眼…そんな数値化できない定性情報を、感覚的に評価して初めて値がつけられる。そこには特定のスタンダードや共通の目線は適用できない。

「…ごめん、使い古されたってどういうこと?あたし良く分からないんだけど」

「絵画の贈答を通じた違法献金が80年代のバブル期に横行したんだ。政治資金規制法に抵触しないよう、提携画商から絵画を購入して政治家に贈答する。政治家はその画商に絵画を売却する。絵画は画商から画商の元へ戻り、資金は政治家に移転する…これが古典的手法だ」

沙希が口にした疑問に答えるように、俺はそう説明を足した。

資金そのものを無償で手渡せば、それは只の献金である。公共事業への口利きが絡んでいると知れれば、当然不正とみなされる。金の流れを分散させ、取引を介在させることで、そう見えないようにすることがマネロンに共通する基本的な仕組だ。その取引の金額が、資産価値に照らし合わせて明らかに釣り合わなければ、それは不正発見の糸口ともなろう。逆に言えば、資産価値が正当に評価できなければ、発見は困難となる。

「誰もが知る手段で資金を移動させるなんて浅はかなこと、彼らがするのかしら?」

「勿論バブル期の手法をそのまま使ってる訳じゃないだろう。YCCは建前上は運用ファンドだから、商品寄贈の線は無いと見ていい…とすれば、何重もの資本構造を潜らせて洗浄した資金で逆に資産を買取ったと考える方が自然だ」

「どういうこと?」

雪乃の問いに答えると、今度は結衣が混乱したような表情を浮かべた。

「単純に言えば、投資と言い張って富山から高額な値段でゴミを買い取るってことだ」

「…そっか!」

俺の短い説明に対し、結衣は少し遅れて目を見開いた。

「よくこれだけの情報でその解に辿り着くな…感服だよ」

「いや、これだけじゃまだ不十分だ…富山から資産を買取ったという証拠が無い。アートファンドの取引ログ…は無理でも、それに近い裏付けが必要だ」

感心したようにそう口にした葉山に対し、俺は冷静にそう答えた。すると葉山はふっと笑みを浮かべながら、手にしていたカバンから資料を取り出して俺に寄越した。

「…YCC Art Investmentsの定款、そのコピーだよ」

葉山の言葉を耳にしながら俺は資料に目を通していく。定款とは法人設立時に定める、組織の名称、目的、体制、活動内容、構成員、ガバナンス等に関する基本規則を書記した書面である。ファンドであれば、そこには投資戦略、投資方針等を含むことも多い。

パラパラとページをめくっていくと、そこにはファンド設立時のシードアセット(運用開始のタイミングでポートフォリオに含まれる資産)とその購入先が記載されていた。その文面には、蛍光ペンのハイライトが付されている。恐らく葉山が引いたのだろう。

「こいつは……投資銀行傘下の富裕層向け資産運用ファンドか」

俺は興奮のあまり、驚嘆の声を漏らした。

投資銀行は法人向け業務のみでなく、個人富裕層をターゲットとした資産運用ビジネスを展開することが多い。投資商品は様々だが、個別のアカウントに対して個々に運用サービスを提供するものもあれば、ファンドとしてプールした資金を一括で運用するケースもある。

美術品の価格は経済動向にある程度連動するため、世の中の景気が上向けば、その投資ニーズを補足するために、富裕層や中小企業オーナー向けに、特別な運用マネージャーを雇ってファンドを組成する組織が現れると聞く。証券や不動産、インフラといったオーソドックスな商品と異なり、その多くは1億ドル程度の小規模なファンドとなるが、アートファンドの組成が行われたと言ったニュースは俺でもチラホラと目にすることがあった。

「…雪ノ下建設のファンドは、設立時に例の投資銀行が運用する別のファンドから資産を一括で買い受けている。恐らくはそのファンドに、富山っていう議員も出資しているんじゃないか?」

葉山はそう言葉を付け足した。俺はそれに対して無言で頷いて見せる。

投資銀行のマネージするアートファンドが抱えていた不良資産を、雪ノ下のファンドが高額で買い取る。出資者たる富山は万々歳、リターンを達成した投資銀行側も、運用手数料として利益の一部を享受する仕組みだ。これなら富山だけでなく、市川が一連の不正に介在するインセンティブも明確だ。

「俺に分ったのはこのくらいだけど…役に立ったかい?」

「大助かりだ。でかした、葉山」

富裕層向けファンドの取引内容は、宮田さん・槇村さんが内部から調査できるはずだ。

富山個人、もしくは奴の資産運用会社からの出資が確認できれば、今度こそ完全にチェックメイトとなる。

「ゴールはすぐそこ、という訳ね」

雪乃が溢した言葉に、俺たち全員は力強く頷いた。


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