7. 比企谷八幡は再会する
――俺は生き延びたのか。
視界が白くぼやけていた。
今自分が見ている情景が視覚情報なのか、脳が見せている夢なのかも曖昧だ。
だが俺は自分の意識を認識している。
この点において、俺は俺が生き延びたことを実感し、心に安堵の感覚が涌くのを感じた。
体に吹きかかる暖かい風が心地よい。
「・・・ガヤ、おい比企谷!」
誰かが俺を呼ぶ声がする。
とたん、頭が割れるような痛みがした。
――誰だよ。病院で大きな声を出しやがって。
「・・・・大丈夫か比企谷!? 顔色が悪いぞ!?」
――たりめぇだろ。死にかけたんだぞ。
ピタッと、額に何か冷たいものが貼り付いた。
その感覚が俺の意識を覚ます。
自分の瞼がパチッと音を立てるような勢いで開いた。
目前には、俺の額に手を置き、心配そうに顔を覗き込むかつての恩師、平塚静の姿があった。
「・・・平塚先生・・・・ご無沙汰です」
前に会ったのは、沙希と付合い出すちょっと前くらいだっただろうか。
そうだ、貴重な連続休暇を取得した時に、俺はこの40代後半独身女性の家を訪れたのだ。
二人でタバコを吸い、酒を飲みながら、同じベッドに寝っころがって、古いアニメをひたすら鑑賞し、腹が減ったらラーメンを食べに行くという、退廃的な休暇を過ごしたことを思い出した。
ちなみに言っておくが、俺は誓って先生には手を出していない。
「何を言っとるんだ、君は?」
呆れたような顔で俺を見つめる恩師。
それにしても ――今日はやけに化粧のノリがいいですね
喉元まで出掛かったセリフとともに息を飲み込んだ。
――何で俺は先生の前に立っている?
手足の一本くらいは失っていてもおかしくない事故だった。
目覚めたとすれば、病院のベッドの上じゃなきゃおかしい。
「やはりどこかおかしいようだな、比企谷。保健室に行こう」
「・・・先生?」
平塚先生は何を言っている?俺は今何処にいる?
「不安そうな声を出すな。男だろう。・・・行くぞ、歩けるか?」
ぐいっと手を引っ張られ、ぼやけていた意識が急速にシャープになる。
先生に連れられて、一歩一歩足を進める度に、五感で感じ取る情報のリアリティが増していく。
――おい、俺はいったいどうなった!?
湧き上がる疑問に対し、目に見える周囲の情景は何の答えも与えてくれない。
長く伸びた廊下、壁際に設置された火災報知機や消火栓、一定間隔で設置されたスライド式の安っぽいドア。
目前に広がるのは、懐かしい母校の風景そのものだった。
☆ ☆ ☆
平塚先生に保健室に連れられた俺は、ベッドに寝るよう促された。
「大丈夫か比企谷?午後の授業の担当教員には私から伝えておくから安心しろ。ゆっくり休め」
午後の授業だと?俺をからかってるのか?
こんなのバカげてる。
平塚先生は優しい手つきで俺の上着を脱がし、丁寧にハンガーにかけた。
かけられた俺の上着は、高校時代のブレザーだった。
もう沢山だ。
俺が死に際に、あいつらにもう一度会いたいと願ったから、こんな夢を見ているのだろうか。
夢なら今すぐに雪乃と結衣に会わせてくれればいいだろう。
現実だというなら、俺を沙希の元に返してくれ。
俺は、平塚先生が出て行った保健室の扉を無言のまま見つめていた。
そのまま何分経っただろうか。
ブブブ・・・・ブブブ・・・・
突然、ズボンのポケットから振動を感じた。
取り出すと、緑色のケースに入った古めかしいタイプのスマートフォンだった。
画面にはメールの着信を示す表示がある。
差出人不明のジャンクメールだった。
「ハハ・・・昔の携帯・・・マジかよ・・・」
俺は力なくベッドに倒れこんだ。
そのまま思考を放棄すると、強い眠気に襲われた。
――このまま寝ちまおう。
次に目覚めた時、病院のベッドに寝かされた俺の手を、涙目の沙希と小町が握っている、そんなドラマのような情景が広がっているに違いない。
俺の意識は再び闇に包まれた。
☆ ☆ ☆
――カキィィィン!!
――ボール行ったぞぉ走れ走れ!
窓から刺す西日を顔に受けて、目が覚める。
外から聞こえるのは野球の音だろうか。
耳をすますと、他にも下手糞な合唱や吹奏楽の音が聞こえてくる。
俺が再び目覚めた場所は、保健室のベッドの上だった。
これは・・・・正直参った。
寝て、起きて、俺はまだここにいた。この環境が夢だという可能性はこの時点で大幅に減った。
俺は、この後どうすればいい?
目覚めたら俺は学校にいた。
俺は高校の制服を着ており、とうの昔に買い替えて捨てた古い携帯を持っていた。
加えて、恩師の平塚先生は自分と年齢が殆ど変らないように見えた。
状況から導かれる答えは一つしかない。
――これはアレか。体は子供、頭脳は大人とか、強くてニューゲーム的なやつか。いや、体は別に子供じゃないな。むしろ中学でズル剥け・・・
「比企谷、目を覚ましたか?気分はどうだ?」
状況整理のための思考が脱線した時、ガラガラッと音を立てて、入り口のドアが開いた。
「平塚先生・・・」
「昼休みは、君の作文について一言言ってやろうと思ったんだが、体調不良では仕方がないな」
「作文?」
「そうだ。課題は“高校生活を振り返って”。なぜそれが犯行声明文になる?」
「ありましたね、そんなの。懐かしいな」
そうだ、平塚先生が俺を奉仕部に連れて行ってくれる切欠となったのは、俺が書いた一枚の作文だった。
・・・劉さんには先生からボロクソに評されたことを話したっけ。
俺を庇って吹き飛ばされた男の事を思い出し、心に影が差す。
「勝手に過去の出来事にするな。君にはレポートの再提出と、ふざけた態度への罰として奉仕活動を命じる。罪には罰を与えないとな」
――最初からかよ!!
自分のリスポーン地点をこの瞬間、ようやく把握した。
ところで、なんで今俺はここが最初だと思ったのだろう。
答えは決まっている。俺にとっての高校生活とは、やはり雪乃と結衣がいた奉仕部が全てだったからだ。
それ以前の事は殆ど記憶に残っていない。
「特別棟の5号室・・・今は使われていない空き教室だが、そこは奉仕部という部活動の部室になっている。体調が戻ったのならそこに行ってみるといい。部長には君のことを説明しておいた。君には奉仕部へ入部し、そこでの活動を通じて反省してもらう」
「入部、ですか?」
――俺なんかが、またあの場に戻っていいのか。
湧き上がる自己嫌悪の感情。
雪乃と結衣のためにも、俺はこのままどこかに消えてしまった方がいいのではないか。
特に、結衣には今更どんな顔をして会えばいいというのだろう。
そんな考えに思考が支配された。
☆ ☆ ☆
気づくと俺は奉仕部の部室の前に立っていた。
雪乃がここにいるかもしれない。彼女にもう一度、一目でも会いたい。
俺は、自分のそんな欲求に抗うことができなかった。
だが、俺はその扉を開けることが出来ずにいた。
改めて自分の置かれた状況を見つめ直す。
そもそも、今、本当に雪ノ下雪乃はこの部室にいるだろうか。
由比ヶ浜結衣という存在は、同じ学校にいるのだろうか。
ここは俺の過去の記憶によく似た別の場所かもしれない。
仮に、彼女に再開できたとして、何を話せばいい?
俺が未来から戻ってきたとでも伝えるのか?
そんなフザけた話を信じるような人間はいないだろう。
結局、二人に会って俺はいったい何がしたい?
――ここでいくら考えても、俺には納得のいく結論は導き出せないな。
意を決して扉をノックした。
「・・・どうぞ」
扉の向こうから帰ってきたのは、懐かしい綺麗な声
心臓の鼓動が急激に速まる。
奉仕部。
全ての始まりの場所。
俺は取っ手に手をかけ、再びその扉を開いた。
窓際に佇む女性の姿。
整った顔立ちに、スラっとした細い肢体、開いた窓から吹き込む風に揺れる艶やかな黒髪。
俺が15年間想い続けた女性、雪ノ下雪乃その人だった。
「雪乃・・・・」
思わず彼女の名前を口にする。
目から涙が流れ落ちた。