原稿用紙30枚ほどの短編小説です。
「受難」……。「受難」といえば、イエス・キリストを思い出す。あれは、どういう話だったか。確か、マタイというキリストの弟子が記した話ではなかったか。ある時、キリストが弟子たちに言う。「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越(すぎこし)の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」
これは、キリストが自らの死を予言するものだ。弟子たちはそれを聞いて大いに驚いたが、どうすることも出来ない。かくして、キリストはユダに裏切られ磔刑に処されてしまう。
辞書にはこう書いてある。【受難】=イエス・キリストが十字架にかけられて受けた苦難。これはつまり、十字架にかけられて殺される時の苦痛ということだろうか。
私は思う。キリストは槍で突かれる時と、弟子に裏切られた時と、どちらが辛かったのかと。私はきっと弟子に裏切られた時の方が辛かっただろうと思う。これは、間違っているかもしれない。私の勝手なイメージなのかもしれない。今生きていて、十字架にかけられてもいない私からすると、信じていた人に裏切られる辛さの方が、よりイメージしやすいのだ。
そして、こうも思う。
あの時のキリストと、今の私と、どちらの難がより重いのかと。
殺される……。確かにこれは辛いことだ。でも、女には殺されるよりも辛いことがある。そして私は、それをこれから受けようとしている。
事の発端はあの時……、あの時、侍女たちの噂話を立ち聞きさえしなければ……。いや、結果は同じだったろう。どちらにしても、殺されるか、殺されるより辛いことをされるか。そのどちらかしかなかっただろう。そして私は、愛する彼のために、殺されるより辛い道を選んだ。彼はユダだっただろうか? そんな考えが一瞬頭をよぎったがすぐに打ち消した。彼はユダではない。私が、自ら差し出されたのだと。
あの時、私は彼のところへ行こうと、城の天守へと続く渡り廊下を歩いていた。脇にはふすまが並んでいて、その向こうでは侍女が二人、なにか話しているらしかった。どうせまたろくでもない噂だろうと、私は相手にしなかった。でも、この言葉が聞こえて来た時、私は気付いた時には我を忘れて、そのふすまを開けて、蒼白な顔で立ち尽くしていた。
「早雲様が、殺されるかもしれない」
その時の私の顔を見て、侍女は本当に驚いたようだった。そして、そのタイミングで話をしていたことを深く後悔している様子だった。頭を下げて、二人分かれて立ち去ろうとした。
「待ちなさい」
私が腹の底から声を出すと、二人は足を止めた。まるで、蛇に睨まれた蛙のようだった。
「ちゃんと話して……。早雲が殺されるってどういうこと……?」
彼女らは観念したように話し始めた。話は、至って論理的だった。妥当だったとさえ言える。話を聞いた後、色恋ごとに夢中で、こんな簡単なことに気付いていなかった自分を恥じた。彼は気付いていたはず。でも言わなかった。いや、言えなかった。
話の概要はこうだ。尾張の織田は最近JAPANに来た一人の異人に軍の支配権を譲渡したことで、強大な戦力を持ち、好戦的になっている。最近になって、原家、足利家、徳川家、今川家を相次いで制圧し、怒涛の勢いで北条家に迫っている。北条家が制圧されるのも時間の問題だ。
北条家だって弱くはない。三国の領地を持ち、現存兵力では織田家に引けをとってはいないだろう。だから、事態を甘く見ていた。この窮地に気付かなかった。冷静になって考えれば、北条家はあまりにも不利だ。西からは武田に攻められ、北からは上杉に脅かされ、南からは織田に突き崩される。
いや、それでも戦えなくはない。だが、東は妖怪の国で支援も補給も見込めず、孤立した状態で3つの強国と同時に戦える期間はたかが知れている。それに……、それに、今の織田家の強さは神懸っている。なんだか、他の国は全て織田に負ける運命になっているかのような……。
いてもたってもいられず、早雲のいる天守閣へ走った。
早雲の間は天守閣の最上階にある。階段を急いで駆け上がり、早雲の間の前に立つ。そして、ふすまをゆっくりと開ける。早雲は畳の上に行儀よく座って、座卓に向かって何やら真剣な顔で仕事をしているようだった。
早雲の顔を見ると、やっと少し安心した。
「蘭か……」
早雲がいつもの鋭い眼差しでこちらを一瞥して言った。
「早雲……」
何か言おうと思ったが、上手く言葉にならなかった。しばし、頭を整理する。その間、早雲は筆を持ち、硯の墨を用いて、きれいな字で文書を仕上げていた。
「何の用だ?」
早雲が字を書きながら聞く。
「あの……、織田が攻めてくるって……。早雲が……、殺されるって……」
未だ落ち着かぬ頭で、ようやくそれだけ言う事が出来た。
「……」
早雲は、少しも表情を変えず、筆を動かし続けた。そのうち、書き終わったようで、硯で筆に残った墨を落とし、卓上に筆を置いた。
「そうだな」
平然と答える。
「それで……、勝てるの?」
早雲の反応に苛立ちを感じながら問う。いや、問い詰める。
「勝てる見込みは……、ほとんど無い」
それを聞いたとき、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。
「ど……、どうするの!?」
「戦う。戦って……、死ぬ」
「本気で言ってるの?」
「それしかあるまい」
「逃げちゃえばいいじゃない。二人で逃げよう」
「そんなことをしたら俺は末代までの笑いものだ。北条家の先祖の顔に泥を塗ることになる」
「何言ってるの! 命あっての物種でしょ!? 早く逃げよう!」
「駄目だ! 領民を裏切ることは出来ん」
「そんな……」
声が震えた。もう何を言っても、早雲を説得することは出来ないと思った。
「蘭……。すまん……、俺と一緒に、死んでくれ」
泣きたくなった。こういうことは乱世の常とはいえ、自らには起こるはずがないとタカを括っていたのも事実だった。でも、起こってしまった。別に、自分が死ぬのは何ということはない。でも、早雲にだけは、生きて欲しかった。
しばし、考える。どうすれば、早雲は死なずに済むか。彼は絶対に敵前逃亡はしない。それは私が一番よく分かっている。逃げない限り、領地が制圧されたら彼は殺される。その時には、私はもう死んでいるか、彼が死ぬのを見届けてから、自害するだろう。だが、これは最悪のパターン。私はどうなってもいいから、彼だけでも何とか生きていて欲しい。
そう考えた時、ふいに、ある考えが頭に浮かんだ。本来なら思い付いてはいけない、その考え。禁断の策。
「分かった……。私、織田家に嫁ぎます」
「え……?」
あまりのことに、早雲が固まった。普段、何事にも動じることのない、表情すら変えることのないこの男が、固まった。そのことが、はっきりと分かった。
「織田家当主の信長か……、その異国人か……、どちらでもいい。どちらかの、妻になります。そして、北条と織田は永遠に切れることのない同盟を結ぶ」
「そんなの、駄目に決まってるだろ!!」
目の前の男、早雲が、珍しく語気を荒げて大声で言った。(目の前の男、と言ったのは、私がそう感じたからだ。その姿に男を感じたのか、それとも、その時既に彼との距離がそこまで拡がっていたのか)
「私は、早雲の妻ではないから、織田のものになっても、早雲の恥にはなりません」
「ばか!! そんなことじゃない!!」
早雲の声は益々荒くなっていく。反対に、私の声はどんどん冷たく、感情を殺したものになっていく。
これしかない。もう本当にこれしかない、と思った。そのことを、皮肉にも早雲の怒鳴り声、荒い言葉使いが何よりも証明していた。
早雲は苦悩したようだった。苦悩に苦悩を重ねた末に、私を織田家の元に行かせることにした。いや、そうではない。私が自分で行くのを止めなかったのだ。北条早雲の力と知恵をもってしても、北条家を守る方策はそれしかなかったのだ。
婚姻の話は、嘘のように順調に決まった。普通、こういう話を相手は渋るものだ。こういうのは弱い立場の国が提示するものだし、同盟はややこしい。制圧する力があるのなら制圧した方が事は簡単だ。それに、私は北条家の重鎮の血族ではあるが、北条家の人間ではない。人質としての価値は低い。私の命が担保では、同盟はいつ破綻するか分からない。
にも関わらず、この話がこれだけ順調に進んだのは、どうやら織田家の味方をしている異人が、無類の女好きであるという理由かららしい。彼は、名をランスといった。この話を織田家に持って行くときに、私は使者に同行した。驚いたことに、信長は留守で、さらに驚いたことには、このランスという異人が織田家のほぼ全権を任されているようだった。
使者が親書(これは私が自分で書いたものだ。早雲はどうしても書かなかった)を読み上げた後、異人は俯く私の顔を不埒な目で覗き込んだ。彼は私の顔を見た。私は彼の顔を見なかった。見たくなかった。そして、私はどうやら、気に入られたらしかった。
それから、事はとんとん拍子に進んだ。ものすごく早かった。三日後、私は花嫁衣装を着て、織田領、尾張の天守閣にいた。異人が、平伏している私の目の前で、玉座に座る王のようにどっしりと構えていた。いや、この男は実際、織田家に居座る王のようなものなのだろう。
私は角隠しを被り、黒が基調の振袖を着ていた。黒を着ていったのは私のささやかな抵抗のようなものだった。もっとも、この男には何の効果も無いだろうが。
「顔を上げろ」
目の前の異人がそう言った。私は言われたとおりに顔を上げた。でも、私は顔を背けて、彼の顔を見なかった。そんなことをしても、相手は毛ほども痛がらないことは分かっていた。むしろ、喜ばせることになるかもしれない。
「いい女だ。北条早雲という奴、なかなか話が分かる奴かもしれんな」
屈辱的だった。この言葉を早雲が聞いていたら、彼は自殺していただろう。
「こっちを見ろ」
私はきっと異人を睨みつけた。思ったより悪人面では無かったことに驚きと、少しの安堵を感じた。しかし、この男に対する憎しみは変わらなかった。そう、この男さえ来なければ、私はきっと早雲と結婚し、幸せに暮らしていたのである。
「良い目だ。そそられる。脱げ」
私は耳を疑った。このような状況とはいえ、人と人との間には礼儀というものがある。
「まだ、式を挙げておりませぬ」
私はやんわりと断った。これで引き下がるだろうと思った。しかし、それは甘かった。
「いいから脱げ」
異人は立ち上がり、私の頭から角隠しをつまみ上げると、それをぽいと床に放り投げた。そして、私の腰に手を回し、太ももから臀部にかけてをいやらしい手つきでまさぐってきた。私は、身をよじって抵抗したが、男の力には勝てず、組み敷かれてしまった。そして、無理やりに私の服を剥ぐ。
何が起きているのか、分からなかった。自分が自分じゃないような気がした。自分じゃない自分が近くに立っていて、自分を見ているような感じだった。そこに見える私は、どうやら異人に無理やりに裸にされ、躰のあらゆるところを刺激されて、為すすべもなく喘いでいるようだった。もう何も考えられなかった。感覚が無かった。辛いとか悲しいということも無かった。早く終わればいいと思った。
異人は私の中に三発か四発放つと(多分、それぐらいだったと思う。数えてもいないし覚えてもいないから分からない)、楽しそうに部屋を出て行った。私は一人部屋に取り残され、畳に伏せて泣き崩れた(おかしい、泣いている自分が見える)。
その後、異人と私との挙式は、私が泣き止んで着付け直しを終えてから、つつがなく執り行われた。この時もおかしかった。式の中の自分が見えた。抜け殻のような顔をしていた。何の感情も湧いてこなかった。
私が正気を取り戻したのは、翌日の朝のことだった。天守の木窓から日が差して、起きたら、妊娠のことがちょっと気になった。でも、すぐに気にしないことにした。どうせいつかは妊娠するんだし、気にしていても仕方がない。この時、もう自分は見えなかった。自分は自分だった。
もう振袖は着れない。織田家の支配者の妻として相応しい着物を、侍女に着付けてもらう。青に近い紺色の留袖だった。青色が、今の自分の気分に相応しいと思った。
織田家の実質的支配者の妻といっても、特に出来ることは何もない。いかにも権力がありそうに見えるが、何もない。ただ部屋にいて、夫が来たら相手をする。それだけだ。つまらないし、虚しい。でも、早雲が無事ならそれでいい。
そう思った矢先に、ふすまが三度叩かれた。私は驚いて、身構えた。誰が何の目的でふすまを叩くのか分からなかった。あの異人の悪い冗談だと思った。入ってきたら大声で叱りつけてやろうと思った。なんとも情けないことだが、憂さ晴らしの方法がそれぐらいしかない。
しかしながら、ふすまを叩いたのは、あの異人ではなかった。
「あ……、すみません。ノックって分からない……ですよね。あの……、良かったら開けてもらえませんか?」
可愛らしい女性の声が聞こえた。何だろうと思って、もしかしたら暗殺者か何かかもしれないと思いつつ、開けることにした。それならそれで、別に死んでも構わないと思ったし、自分は元名門南条家の当主であり、陰陽師である。そこらの暗殺者には殺されないという自信もあった。
「あ……」
開けてみると、そこには、ピンク色のふわふわの髪の毛が印象的な、可愛らしい異人の少女が立っていた。彼女は、こちらを見ながら、手を胸の前でもじもじさせていた。この仕草も、JAPANでは見たことがない。異人なのだから当たり前か。
「あなたは?」
私は鋭い口調で聞いた。支配者の妻としての威厳を示さなくてはならない。
「初めまして。私はシィル・プラインと申します。あの……、ランス様の、奴隷……というか……」
奴隷という言葉を聞いて、私は無意識に眉間に皺を寄せた。いや、それどころか、汚いものでもみるような表情をしてしまった。そんな自分が少し嫌になったが、よく見てみると、奴隷とは思えないほど良い服を着ているし、身奇麗にしている。容貌も綺麗だ。一瞬、「奴隷がこんなところにいる」と人を呼んで追い払おうとしてしまったが、思い直して留まった。こんな綺麗な女性が本当に奴隷のわけがない。
「それで? 何の用?」
とにかく、事情はよく飲み込めないが、威厳を示さなくてはならない。それが何よりも大事だ、と、この時は思った。
「あの……、昨日は、大丈夫でしたか? 式の時にすごく辛そうにされていたんで、心配になって……。妊娠はしていないんで、安心して下さい! 私が、魔法をかけているんです。避妊の。あの……、ああ見えて悪い人じゃないんです。みんな最初はそうなんですけど、時間が経つごとに仲良くなって……」
この娘が何を言っているのか分からなかった。言わんとする意図が全く掴めなかった。最初は私を笑いに来たのかとも思ったが、そんなことをするような性格が悪い娘にも見えない。
とりあえず、話をしていても埒があかない。話をしていていい身分かどうかも分からない。夫(つまりランス)を呼んでこの娘のことを聞いてみるべきだと判断した。
シィルという娘を連れて、城の中にいるはずのランスを探した。ランスは、評定の間にいた。
「あなた様!」
呼びなれない言葉で、ランスを呼んだ。この男をこう呼ぶのは癪だが、もはや仕方がない。それにしても、人間というのは不思議なもので、一方的に襲ってくる理不尽には意外と耐えることが出来る。長い年月、台風や日照りなどの自然の猛威と戦ってきた人類が身に付けた性質なのだろう。
「あ?」
ランスは気の抜けた返事をした。
今、気付いたが、ランスの近くに、青髪の忍者らしき可愛らしい少女と、12~3歳ぐらいの可愛いが威厳のある少女(子供?)がいて、ランスと仲良さそうに話しているらしかった。
「お。起きたでござるな」
「蘭さん。おはようございます」
忍者の少女と子供が、こちらに向かって挨拶をした。
「お、おはよう」
つられて、こちらも挨拶を返してしまった。
「じゃなくて!」
一度子供の方を向いた体を、ランスの方に向き直して聞く。
「あなた様! この女の方は何なのですか!? 当人は奴隷と申しておりますけれども!」
言い終わるか終わらないかのところで、シィルを指し示した。
「おう、俺の奴隷だ」
ランスは平然とそう答えた。
私は一瞬、激しい目眩と立ちくらみに襲われて、その場で卒倒しそうになった。
「そのような身分の低い者を城に上げないで下さい!!」
次の瞬間、自分でも分からないうちに、ランスに食ってかかっていた。それと、同時に、なぜ自分がこのような発言をしたのかと思った。現実には、奴隷というものはJAPANには存在しない。異国にはあることを知っていたが、従者などより下の身分だと認識していた。そんな身分の人間が、大名代理(つまり、ランス)の妻に気安く話しかけていいわけがない。それはそうなのだが、この考えは正しいのだろうか。
この言葉に、ランスが怒った。
「うるさい! 俺の奴隷にそんなことを言うな!」
全く意味が分からない。
私はランスの妻であり、このピンク髪の女はランスの奴隷だ。奴隷が主人の妻である私に、気安く話しかけていいわけがなく、また、そういうことをすれば叱りつけて当然だ。なのに、なぜ私が叱られるのか。
私は何か言いたかったが、何も言えず、口をパクパクさせていた。そんな私に、ランスの横にいる子供が声をかけてきた。
「あの……、蘭さん。結婚したから、南条さんじゃなくて……。えっと、ランスさんの名字が分かりません」
「スーパーキング」
「スーパーキング蘭さん。いえ、もう名字を付けるのはやめましょう。蘭さん、私は織田家当主、織田信長の妹で、香と申します。まずは織田家への輿入れを歓迎いたします。あ、ランスさんは織田家の人じゃないから、織田家への輿入れではないんですね。では、織田家の仲間に加わって頂いたことを歓迎いたします。それで……」
私は、この子供が織田家当主の妹と聞いて、無意識に平伏していた。
「あ……、あの、お顔を上げて下さい」
彼女は、冷や汗と笑顔を浮かべながらそう言った。と言われても、簡単には顔を上げられない。二度同じことを言われて、やっと顔を上げる。
「そんなにかしこまらないで下さい。気楽に行きましょう」
そう言って、香は両手で私の肩をしっかりと握って、体を起こさせた。
「蘭さん、私たちは仲間です。ランスさんも、シィルさんも、こちらの鈴女さんも、みんな仲間。上下関係なんて無いんです。そうそう、これからは北条家さんとも仲間です。みんなで仲良くやっていきましょう」
香のこの言葉に、衝撃を受けた。ありえない、と思った。異人と、奴隷と、忍者と、大名の妹と、大名代理の妻が、みんな仲間。それどころか、上下関係が無い。いや、これは多分誇張だろう。比喩とでも受け取っておくべきだ。上下関係はある。だが、JAPAN一般で見るような封建的な上下関係ではないということか。
どうやら、織田家は他の大名家と比べて、かなり特殊なようだ。これは、おそらくあの異人が相当に関係しているだろう。そして、この部分が、最近の織田家の向かうところ敵なしの強さの秘密なのかもしれない、と思った。だが、この雰囲気に馴染むのには、かなり時間がかかりそうだ。
半年後……。
信じられないことに、織田家は、北条家、天志教、独眼竜家を除いて、ほとんどのJAPANの領地を制圧した。私は、この織田家の快進撃をただ呆然と見ているしかなかった。今となっては、あの時、織田家(というか、ランス)に嫁いだのは、素晴らしい判断だったと言うしかなかった。こうしなければ、早雲も私も、間違いなく殺されていただろう。
それにしても、織田家の強さは驚くばかりだった。自由な国風とでも言うのだろうか、その中で家臣たちが、いや領民までもが、自主的にやる気をもって働き、才能を存分に発揮する。そして、ランスの周りには、不思議と才能を持った人材が集まるのである。特に女性。これでは、自由や自主性を抑えつける、封建的な他国が、織田家と対峙して、勝てるはずがなかった。
北条家も織田家から学べるところを学び、ますます発展した。私は、この半年間ずっと早雲には会っていないが、早雲はもしかしたら私のことなんて完全に忘れているかもしれない。それぐらいに、領地の発展は著しかったし、領民の生活がどんどん良くなっていく様を見るのは、早雲にとって幸せだっただろう。
私は、その間特に、何をするでもなく、だらだらと日々を送っていた。陰陽の兵を率いて戦争に参加しないかと言われたことがあったが、断った。別にランスのためにそこまでしてやる必要はないかと思った。時々、ランスの夜の相手をしてやるだけで十分だと思った。それに、私よりもっとすごい女の子たちがランスのために一生懸命働いてくれるし。ちょっと嫉妬。それにしても、ランスの女友達たちはみんなすごい。人間離れしている。私もなんか才能限界が上がってきたような気がするけど、知らないふりをする。
そしてついに、その日が来た。
ランスが突然、大陸に帰ると言い始めた。
なんて勝手なヤツ! と思った。同時に、帰るんなら帰れば、とも思った。もしかしたら、これで早雲と一緒になれるかもしれない。でも、早雲は私を受け入れてくれるんだろうか。穢らわしいと思われはしないだろうか。
「それじゃあな」
別れは、唐突だった。
あまりにも、爽やかに。あまりにも、涼やかに、ランス達一行は大陸に帰っていった。
私も、天満橋まで見送りに行った。あの時、駕籠に乗って、緑色の着物を着ていったのを覚えている。私は彼の後姿を見ながら、右手を振っていた。小さくなっていく後姿が見えなくなるまで、右手を振っていた。
ランスはいつも緑で、今でも、私の頭の中では、緑と言えばランスだ。この緑色の着物を見るたびに、ランスのことを思い出す。時々、この着物を抱きしめてみる。この着物を抱いて寝ることもある。そうすると、なぜか涙が出て、翌日すっとする。
ランスはいなくなってしまったけれど、私は織田家の重臣のままだ。政治的権力も、発言力もある。生活は豊かだし、香姫と話をするのは楽しい。でも、ランスがいなくなってから、なんだかつまらない。心にぽっかりと穴が開いた感じ。あれだけ大勢いたランスの女友達(女友達なのだ!)もみんな潮が引いたようにいなくなってしまったし、何だか寂しい。彼女らと話をするのは楽しかった。
そろそろ、早雲と会いたくなってきた……。でも、自分から会いに行くのは怖い。だって私は、もうあの時の私じゃない。
早雲……。会いたいよ。早雲……。
……。……。ランス……。
寝る前に、布団にくるまると、寂しさが一気に噴出する。
……。男は勝手だ。
故郷の、小田原の夢を見た。蝶が飛んでいるなだらかな丘、草原、よく早雲と二人で青空を見た清流の土手、富士山……。その景色の中には、いつも早雲がいた。
もう……、会いに行ってもいいよね……。
翌日、旅装束を着て小さな手荷物を背中に背負い、東海道を東に向けて歩き始めた。別に馬や駕籠に乗って行っても良かったが、なぜか自分の足で歩いて行きたかった。
尾張国、熱田神宮の門前から東海道に入り、東へ東へと進んでいく。途中、三河の国や、遠江の国、武蔵の国、駿河の国、伊豆の国を抜けると、相模の国へ着く。目的地の小田原は、相模の国にある。
浜名湖のあたりまで来ると、富士山が見える。富士山は素晴らしい。小田原は、この富士山の向こう側にある。そして、早雲もそこにいる。
はやる気持ちを落ち着かせながら、長い東海道を一歩一歩先に進む。
なぜ歩くのだろう。そういうことを考えないでもない。湧水を飲み、それで顔を洗い、歩き、また歩く。宿場では旅籠に泊まり、休息をとる。こうしていると、再会への期待が高まってくるが、自らそれを収める。せっかく山頂に着いたと思ったら、崖から飛び降りるがごとき所業である。いや、滑り台に上って、滑り下りるような楽しいことなのだろうか。
会いたいけど、会いたくないのである。会いたい。でも、会うのが怖い。この相反する気持ち。このジレンマ。どうやら、ある程度大人になると、これを楽しむことが出来るようになるらしい。
常に富士山を視界に収めながら、歩くことおよそ十日間。ついに、相模の国についた。相模の国の入口は、箱根宿である。「宿」とあるのは、そこが宿場町だからだ。小田原に行く前に、この箱根で体を清める。温泉に浸かって、この絹のような湯で体を流すと、心身ともに清められていくような気がする。陽光を浴びて輝くお湯が、自分の体を伝って流れていくのを見ながら、よし、私きれい、と自分に言い聞かせる。
本当に妊娠しなくて良かった、と温泉に浸かりながら今更になって考えた。妊娠していたらどうなったか分からない。もしかしたら、ランスは大陸に帰らなかったかもしれない。そう考えると、本当に妊娠しなくて良かったのか分からなくなった。でも、ランスの顔を思い浮かべて、すぐに思い直す。あの男の性格なら、私のお腹が大きくなっていても置いていくに違いない。でも、もしかすると……。
この、「でも、もしかすると……」という気持ちは、人間にとって本当に厄介なものだ。人間とは、結局の所、この一言で全ての説明がつくものなのかもしれない。でも、今はそれを考える必要は無いようだ。何故なら、ランスはもういないから。
夜、箱根の旅籠の客室で、布団の中に入って、明日のことを想像する。私を見たら、早雲はどんな顔をするだろう。抱きしめてくれるだろうか。泣くだろうか。笑うだろうか。そんなことを考えていたら、いよいよ楽しくなってきた。どうやって驚かしてやろうか。いきなり夜、布団の中に潜り込んでみる? そこまで考えて、もしかしたら驚くのは自分かもしれないと思った。早雲がまだ独り身でいるという保証はどこにもない。そのことを考えると、なんだか不安になってきたので、考えるのをやめて寝ることにした。
箱根を抜けると、早雲のいる小田原まではもうすぐだ。全く見覚えのある、夢で見たあの懐かしい光景を走り抜け、石段を駆け上がり、小田原城の門前に着いた。
門番たちがこちらを見て、驚きのあまり目を丸くする。遠くからでもそれがはっきりと分かる。一人の門番を捕まえて言う。
「ちょっと開けて。誰にも言わないでね。早雲をびっくりさせたいから」
門番は黙ってかくかくと頷き、静かに門を開けてくれた。
あとはもう、ひたすら天守に向けて駆けて行く。すれ違う侍女たちが、こっちを見て腰を抜かす。持っていた物を床に落とし、号泣している者までいる。それを見て、うん、私はまだ愛されてる、と再確認が出来た。
そして、ついに、天守閣の最上階、早雲の間の前にたどり着いた。心臓がバクバク言って、動悸が止まらなかった。緊張で手足が震えて、立っているのがやっとだった。
このふすまを開けると、早雲がいる。いるはず。いなかったら、馬鹿みたい。
えいっ! そう言って気合を入れてふすまを開けた。
早雲がいた。畳の上に行儀よく座って、眼鏡をかけていて、あの時と何も変わっていない早雲がいた。それだけのことが嬉しくて、その場で泣き崩れそうになった。泣き崩れはしなかったけど、さすがに泣いた。目が霞んで、前が見えないほど泣いた。鼻水が出ないように頑張ったけど、顔がくしゃくしゃになった。
「お……おい、蘭」
口をぽっかりと開けて唖然としていた早雲だったが、心配してすぐに駆け寄ってきた。
「早雲……。早雲……」
何か言いたいが、もう言葉にならない。早雲は、私のことをしっかりと抱きしめてくれた。
「蘭……、会えて良かった……」
早雲の胸の中でひとしきり泣いて、そして謝った。
「早雲、ごめんね……。ごめんね……」
「なんだ、何を謝ることがあるものか。俺はお前を誇りに思う。俺の命はお前がくれた命だ。俺のやりがいはお前がくれたやりがいだ。領民の暮らしが豊かになった。お前が豊かにしたんだ。俺は、領民がお前への感謝を忘れぬように、それだけを考えて頑張ってきた。お前は俺の全てなんだ。だから、謝らないでくれ。どうか、謝らないでくれ」
二人は会えなかった期間を取り返そうとするかのように、強く、強く抱き合った。
そして、二人は結婚して一生幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。