『…ムぅ』
「不満そうですね」
『そリャそウだよ。こンナ右腕だケじャ満足ニ壊せなイもン』
「右腕ねぇ…」
『ソの右腕ヲわザワざ壁に留メちャッて。うゥーン…』
「だからって想像力働かせないでくださいよ。吐き気がしますから」
『ショうがナいジゃん。現実デ出来ないナラ、想像すルしカなイでしョ?』
「いちいち人が壊れる像を見せられる身になってくださいよ」
『いイじャン』
「…よくないですよ」
◆
「これでよし、と」
寺子屋の入り口に張り紙をし、あの出入口へと戻っていく。一月は少し長かったかもしれないか、と考えたが、かなり前に似たようなことがあったときは三週間程度生徒がほとんど来なかったからちょうどいいか、と思い返した。
人垣がさっきより騒がしいな。何かあったのか?そう考えながら近付いて行くと、私に気付いた彼が、私のところまで駆け足で近付いてきた。
「先生!」
「どうした?何かあったのか?」
「比較的軽傷だった人の意識が戻ったんです!」
「そうか。それはよかった」
と、口では言うものの、そこまでよかったとは思えない。その意識を取り戻した男が何を口走ったか。その内容によって、里の状況は大きく変化するだろう。そして、それをあの鴉天狗がどう記事にするのかによって、幻想郷の状況ももしかしたら変わるかもしれない。…文々。新聞があまり信用されていないことに、少しだけ安堵した。
彼を押し退け、人垣の間を縫うように進む。これだけ多いと、間を抜けるのも一苦労だ。何とか切り抜けると、若い医者に介抱されている男がいた。その男は、大粒の涙をとめどなく零しながら腕を振り回していた。
「あざはいが、はざわいが…ッ!」
「もう止めてください!安静にしてください!」
その男は、何かを喋っているようだった。だが、その言葉はとても誰かに伝えられるようなものではなく、砕けた顎がさらに悪化していくしかないと思えた。それが分かっているだろう医者が必死に止めようと試みているが、そんな医者の努力も自らの砕けた顎も意に介することなく口を動かして続けていた。
「…こりゃあ不発ですねぇ」
「せめて口に出すな」
「これは手厳しい」
運がいいのか悪いのか、隣にいた文から漏れ出た言葉を窘めたが、私自身も少しだけ落胆している。意識を取り戻した男から、何か情報が得られるものがあるかもしれないと思ったのだが…。残念ながら、この男からは何も得られなさそうだ。…ただ禍が禍がと繰り返しているだけでは、何も意味がない。そんなことは既に分かっている。
上手く隙を見つけて幻香を探しに行こうか、という考えが浮ぶ。幻香は今、一体何処にいるだろうか。…そういえば、向かってくる過激派を潰したら紅魔館へ行くようなことを言いかけていたな。それなら、既に幻香は紅魔館へ行ったのだろうか?…どうだろうか。もしかしたら、考えが変わったかもしれん。何らかの痕跡があそこに残っていればいいのだが…。
そこまで考えたところで、後ろから軽く服が引っ張られる感覚がした。この感じは、幾度となく経験した力加減。寺子屋でいつもされている行為。
「…先生」
「君か。どうした?」
後ろを振り向くと、服を掴んで俯いている生徒がいた。昨日、私に親の不審を伝えた生徒だ。その子はまた私の問いに答えることなく、私の服を掴んだまま引っ張っていく。
「お、おい。危ないぞ」
「あやや。お達者でー」
その子は小さい体を生かし、人垣をスルスルと抜けていく。だが、未だに後ろの服を手放すことなく引っ張られていくので、後ろ歩きで人垣を抜けていくことになってしまう。それに、私はこの子とは違って大人なのだ。かなり多くの人に迷惑をかけてしまいながら何とか人垣を抜けたが、それでも手を離すことなく、そのまま出入口から出て行く。
出てすぐに曲がり、影となる場所でようやく手を離した。そして、ようやく顔を上げて私と目が合った。
「今度は何だね?」
「…父ちゃんさ、大怪我したんだ」
「そうだな」
この子の父は、全体で見れば重い方に振り分けられそうな怪我をした。両腕と右膝を砕かれ、さらに顔を潰されていた。特に鼻の骨が粉砕し、まるで鼻がないかのようになっていたのがとても痛々しかった覚えがある。
「これってさ、禍がやったんでしょ?」
「…だろうな」
「先生の友達でしょ?どうしてこんな悪いことしたのかな?」
「悪いが、私はあいつじゃないんだ。想像は出来ても、事実は分からんよ」
そう言うと、また俯いてしまった。しかし、言葉は止まることなく続いていく。
「先生。僕、先生の友達が許せないよ」
「そうか。それは残念だ」
しかし、その声は幻香を心の底から憎んでいるとは思えない声色だった。まるで、隣の席の子から軽く邪魔されたときに軽く悪態をついたときのように軽い。
「…先生。僕、よく分かんないんだ。父ちゃんが悪いのか、禍が悪いのか」
これはとても難しい質問だ。
「お前は、禍が許せないんじゃなかったのか?」
「…うん。だけど、父ちゃんがこんなことしなければこんな怪我しなかったんでしょ?里の外は危ないから出るな、って父ちゃんは言ってたんだ。けど、それを父ちゃんは破ったんだ。だから、こうなったんでしょ?」
「…そうかもしれんな」
「ねえ、どっちが悪かったのかな?先生なら、分かるでしょ?」
「さあな」
多分、この子はこんな答えを求めてはいないんだろう。本当は、この子の父は悪くないんだよ、と言ってほしかったのだろう。君の父にも非はあっただろうけれど、私の友達が悪かったんだよ、と言ってほしかったのだろう。それでも、それが分かっていても、私は言った。
呆けた顔で私を見上げる子を敢えて気にせず続ける。
「里の立場から言えば、禍が悪いんだろうよ。最近は里に来ることさえなかったが、それでもまたいつ来るかという恐怖に押し潰されそうになって、ならば安心を得るために殺してしまおうと考える。ああ、分かるよ。そう言う考え方があることだって、私は知っている」
少し違うかもしれないが、幻香もそういった考えで過激派を迎え討ったのだ。
「じゃあ、禍から見たらどうだ?急に襲い掛かってくる者達を迷惑と思わなかっただろうか?さぞかし迷惑だっただろうな」
「え、せ、先生…?」
「私個人から見れば、あの者達が悪いと思っている。君から見れば、どっちも悪いと思うのだろう。立場で意見は変わるものだし、意見なんて人それぞれで十人十色。覚えておけ。これが見解の相違というやつだ」
この子の俯いたままの頭に右手を乗せ、軽く擦る。短めの髪がクシャクシャになるのを見下ろし、その手を離した。そして肩に置き直し、しゃがんで膝を地に付けて視線を合わせて言った。
「君のその質問の解答は、君がするべきだ。君のその責任を、私に押し付けるな」
「先生、けど…っ」
「これは授業で習う国語でも算数でも理科でも社会でもない。だから、正解なんてない。君が納得するまで考えろ。いいか?」
肩を軽く押すと、よろめいてそのまま尻餅をついた。その場所は、ちょうど里の中。
「里の外は危険だと言われたのだろう?なら、もう戻りなさい」
「…じゃあ、先生は、何処行くの?寺子屋は?」
「寺子屋は一ヶ月休講だ。その間、私は外でやりたいことをするさ。それではな」
振り向くことなく里から遠ざかっていく。見ているかどうかは分からなかったが、右手を軽く振っておいた。
さて、現場へ行こう。何か幻香の行方が分かる痕跡があればいいのだが。もしなければ、紅魔館へ行けばいいだろう。どうせ一ヶ月休講なのだから、数日くらい様子を見ても構わないだろう。