「あ、あ、あー。…ふぅ」
それにしても、ただ美しい声にするのではなく、喉への負担がない発声なんていうのがあったとは知らなかった。ミスティアさん曰く、それが一番大事だそうだ。その時しか歌わないわけではないのだし、喉は普段の生活でも使われるものだ。だから、無茶な発声をして喉を潰してしまうのは一番やってはいけないとのこと。それを聞いて、妹紅と似たようなことを最近話したことを思い出した。
「あえいうえおあお。かけきくけこかこ。させしすせそさそ。…んっ、んっ」
…ちょっとだけ喉が痛い。痛めてはいけない、と言われたのにこの様だ。言い訳に過ぎないが、昨日は普段の何倍も声を出していただろうからしょうがないとは思う。まあ、この程度なら生活に支障は出ないだろうけれど、当分無理はしないようにしよう。言葉数を減らすとか。
霧の湖に辿り着くまでの間、発声練習を続けた。もちろん、喉に無理をさせない程度に。
「おはようございます、まどかさん」
「おはよう、大ちゃん」
霧の湖に着くと、そこには大ちゃんが既に待っていた。近くに他の気配はなく、たった一人で。ただ、その表情が普段より少し硬いように感じたのが気になった。
「大丈夫ですか?」
「…いえ、正直あまり…。まどかさんが何をするのか、ちょっと心配なんです」
「悪いことに使うつもりはないんですが…」
「違います。また何か無茶するんじゃないかって…」
また?…わたし、大ちゃんの前で何か無茶したっけ?…駄目だ、覚えてない。
「…何かしましたっけ?」
「皆を一斉に相手するなんて、無茶だったと思いますし…」
…あれはその場の流れでそうなっちゃっただけだから。
「蛇のヌシのときなんて、かなり無茶してましたし…」
そうかな?行き当たりばったりだったことは認めるけれど、そこまで無茶ではないと思うんだけど。
「けれど、そんなことよりももっと心配なことがあります」
「…何かな?」
「まどかさんが冥界から死んだような姿で現れた、って」
「…何で知ってるんですか?」
「リリーちゃんが教えてくれました。一瞬だけだけど、見えたって」
一瞬…?もしかして、咲夜さんが時間停止を駆使してまで運び出したってこと?
「心配なんです。まどかさんが、そうやって倒れてしまうのが。何て言うか、無茶を無茶と思っていないところも」
「…そうですか」
「はい」
それでも、わたしが倒れてしまうとしても、無茶を無茶と思っていても、そうすることで事態が変わるならわたしはそれをする。そうしなきゃいけない。だって、そうしないと何も変わらないのだから。
しかし、妖力枯渇の対策は既に首に五つもかかっている。よっぽどのことがなければ、もうそのような失態を演じないと思っているのだけど…。
それに、これから紅魔館でやりたいことに、そんな身の危険はほとんどない。
「心配しないでいいですよ。…さ、行きましょ?」
「心配しますよ。けど、はい。行きましょう」
そう言う大ちゃんの表情から硬さがなくなり、普段通りの柔らかな微笑みを見せてくれて、わたしはホッとしながら紅魔館へと向かった。
◆
特に問題なく大図書館に到着した。久しぶりに来たからか、大ちゃんは目を見開きながら周囲を見回している。
そんな大ちゃんの歩く速さに合わせて奥へ進むと、周囲に本の山を作っているパチュリーが座っていた。読んでいる本の表紙には『音速の世界』と書かれている。
「おはようございます、パチュリー」
「お、おはようございます、パチュリーさん」
「…来たのね。頼まれたものはもう作ったわ」
そう言うと、本から目を離すことなく隣の机に置かれている何かを指さした。パチュリーに断ってから手に取って眺めてみるが、とても複雑な紋様が刻まれていることと無数の小さな穴があること以外分からず、いまいち使い方が分からない。パチュリーには悪いのだけど、本当に目的通りに使えるのか少し心配になった。
「…これ、どうやって使うんですか?」
「その前に、彼女を連れてきた理由を教えてくれないかしら」
「わ、私ですか…?」
「そう、貴女よ」
「彼女は保険です。保険というにはあまりにも大きな役目を担ってもらうんですが…」
「ふぅん?…ま、貴女が必要だと思うから連れて来たのね。それならいいわ」
パタン、と本を閉じて机に置くと、パチュリーがわたしのほうを向いて言った。
「その使い方の前に言っておくけれど、その模様は全部魔法陣。多少の傷なら問題ないと思うけれど、一応傷付けないようにして」
「分かりました」
鶏の卵より一回り小さいこれに刻まれた紋様。これの全てが魔法陣…。意味もなくあるとは思っていなかったけれど、まさか魔法陣だったとは。
「それで使い方だけど、ほんの少し赤いところがあるでしょう?」
「え、そんなのありましたっけ?…あ、本当だ」
「そこに魔力、貴女なら妖力をほんの少し流せば、穴から噴出されるわ」
「ふ、噴出ですか…」
「微細な水滴、霧のように噴出されるの」
使い方は分かった。思った以上に工夫されているらしい。きっと、わたしが考えているよりずっと使いやすいようになっているのだろう。
「回数は貴女の場合、そうねぇ…十回くらいかしら?使い方によって多少は変動するけど」
「仮に使い切ったとして、また作れますか?」
「そうなる前に言ってくれれば、翌日までに作っておくわ」
「了解です。至せり尽くせりですね」
「…そんなことないわよ。もうちょっと中身を圧縮したかったのだけど、そうすると破裂しちゃうかもしれないから出来なかったのよ」
これよりもっと良くしようとしていたパチュリーに驚いていると、横から袖を引っ張られた。
「あのー、まどかさん。私は何をすればいいのですか?」
「あー、ちょっと待ってください」
大ちゃんにやってもらいたいことは、まず妖精がいないと意味がない。
「パチュリー。何人か妖精メイドさんを呼んでくれませんか?」
「いいけど、何のために?」
「大ちゃんは妖精に『お願い』が出来るんです。それで、少し口裏を合わせてもらいたいんですよ」
「そう。…そんなことが出来るのね。咲夜が欲しがりそう」
「え?口裏、ですか?」
大ちゃんが首を傾げている間に、パチュリーが机に置かれていたベルを鳴らした。少し待っていると、妖精メイドさんが一人やってきた。
「パチュリー様、ご用は何でしょう?」
「貴女が優秀だと思う妖精メイドを五人くらい連れてきてちょうだい。もちろん、貴女も一緒に」
「分かりました」
二人の会話を聞きながら、わたしは意識の中にある異物を掻き集める。少しずつ形を整え、それは完成した。『紅』発動。
腕を組んでうんうんと唸りながら考えていた大ちゃんが、小さく息を吐いた。
「…分かりません。まどかさん、一体何をするつもりなんですか?」
「フランと外へ出たいんです。地下に閉じ籠っているみたいだから」
「そうですか…。けど、あの時は普通に出てましたよね?」
「それがそうもいかなくなったんですよ。だから、わたしがどうにかすることにした」
そのためにこの二日間出来る限りのことはした。あとは、わたしとフラン次第。
大図書館の扉が開く音が聞こえたと思ったら、六人の妖精メイドさんがやってきた。白、赤、青、黄、緑、紫と一人一人色鮮やかだが、全員同じようなメイド服を着ている。まあ、メイド服は紅魔館から支給されているらしいので、同じなのは当然か。
「連れてきました。それで、何をするのでしょうか?」
「それについては、幻香から聞いてちょうだい」
「違いますよ、パチュリー。わたしからは何もないです。ただ、ここにいる方の『お願い』を聞いてくれるとありがたいです」
「え、ちょっとまどかさん。私は何を言えばいいのかまだ分からないんですけど…」
「あ、そうでしたね。それじゃあ、ちょっと耳を貸してください」
口を大ちゃんの耳に近付け、わたしのお願いを囁いた。それなりに長い内容だったのだけど、一つの文章ごとに小さく相槌を打ってくれたので、とても話しやすかった。
そして、全てを話し終えると、大ちゃんは少し考えてから大きく首を縦に振った。
「…分かりました。けど、聞いてくれるかどうかはあの子達次第ですよ?」
「いいんですよ。わたしは、貴女と彼女達を信じます」
これで、わたしの手段は出揃った。…さて、上手くいくだろうか?いや、きっと上手くいく。…違う、きっとなんていらない。上手くいくんだ。
そのためなら、わたしはわたしを捨ててみせよう。