「…ふぅ」
一人残って続けていた本日の稽古を終え、稽古用の木刀を片付ける。私の他に誰もいないとは思っても、誰もいないことを確認してからしっかりと戸締りをする。そして、薄く流れる汗を拭きつつ廊下を歩く。そのとき頭を過ぎるのは、いつものものだった。
私は月へ攻めて来た者達を返り討ちにし、私自身の謀反の疑いは晴れた。お姉様は数百年前に一度襲撃して来た者を罠にかけて捕縛し、降伏させた。こうしてお師匠様の言う通り、私達の勝利に終わった、…かに思われた。
しかし、結果はどうだ。月に攻めて来た者も、裏から忍び込もうとした者も、どちらも囮。いつの間にやら千年単位の秘蔵の酒を掻っ攫われていた。してやられた。私達は確かに勝ったが、同時に負けたのだ。
だからだろう。兎達にはより多くの稽古を積ませ、私は一人でさらに積み重ねた。いつか来るかもしれない次に、こんな屈辱を味わわないために。…実際は、兎達がサボっているのを見ては叱ることが多いのだが。
「それにしても、幽霊、ね」
サボっている兎を見つけた際に、何をしているのかと問い掛けた。曰く、幽霊の物真似です、と。本来、月の都に幽霊なんて存在しない。つまり、その幽霊が第三の侵入者で、私達に辛酸を舐めさせた者ということになる。それを初めて聞かされ、この答えに至ったときは、敵を見つけておきながら放っておいた分を含めて、普段の罰より何倍も重くしてしまったわけだが。
「…思った以上に引きずっていますね、私は」
あれ以来、毎日同じようなことばかり考えている。もう、何ヶ月も前だというのに。お姉様はいつもと変わらずのほほんとしているが、私はどうにもそんな風に割り切るなんてとてもではないが出来なかった。今もその幽霊を探そうと、視線があちこちに動いてしまう。微かな物音に対し、過剰に反応してしまうことさえある。その幽霊は既にここを去り、今ここにいるはずがないとは理解していても、どうしても前と同じようには出来なかった。
だからだろうか。…いや、これは偶然だったのだろう。ドタバタと私の横と通り抜ける兎達に目を遣り、振り向いた先。その遥か奥から、何かが擦れるような音が聞こえた気がしたのだ。他の雑多な音に紛れ、普通なら聞こえないだろう音。聞き間違いで済まされ、誰も気にも留めることのないだろう音。しかし、今までより強く思い返してしまった私はどうにも気になり、正体を確かめたくなった。聞き間違いならそれでもよかったし、風か何かならそれでも構わなかった。
その音が聞こえたところへ足を運び、扉に手を掛ける。自動化されていない扉の一つなのだが、ここはいわゆる文献保管庫。原始的な巻物や書簡、書籍などが保管しているのだが、今更あんなものを使って調べるものはおらず、よっぽどの物好きですら使おうとは思わない。私自身も、ここに前回入ったのがいつだったか思い出せないくらいには入っていない。しかし、とてもではないが捨てられるようなものではないため、劣化防止の細工を多少施して放置されている。
そんな部屋の中に入り、隅々まで目を凝らして探し出す。そして、それはいた。
「…あ、やっとですか。えーっと、豊姫さん?それとも、依姫さんなのかな?すみませんが、今のわたしは名前しか知らなくてですね、どっちが姉でどっちが妹か分からないんですよ」
部屋の奥のさらに隅。そこには、明かりも点けずに一冊の書籍を開いていた私がいた。…いや、正確には違う。その顔立ちは、まさしく私そのもの。しかし、声は違うし、体型は異なるし、髪の長さは全然違う。何より、髪の毛の色が頭頂部は私と全く同じ薄紫色なのだが、そこから先は闇がそのまま染み込んだと思えるような、全ての色の吸収し取り込んでしまうような不気味な黒。
「それにしても、いい加減遅いですよ。ま、遅くて結構ですけどね。むしろ、もう少し遅くてもよかったのに」
そう呑気な声色で言いながら私を一瞥したのだが、その眼はすぐに開かれた書籍へと注がれた。そして、淡い紫色の光を放つ両手で僅かに読める程度の明かりを点し、耳を凝らさないと聞き逃してしまいそうなほど極微小の音を立てて、次々と紙をめくっていく。そして、最後まで読み切ったであろう書籍を閉じることなく仕舞うこともなく、その場で消してしまった。
「…な」
「けど、こうしてバレちゃったわけですし、非常に残念ではあるけど、わたしももう帰らないといけませんね…」
私の態度は一切意にも介さず床に手を伸ばし、そこに置かれていた兎達が普段から付けていた頭防具をさっきと同じように消してから、大きく伸びをする。そして、襷のように肩に掛けられた非常に長い紐に触れながら、私の元へ歩み寄ってきた。
「けど、おかげで色々知ることが出来ましたよ?原子がどうとか、分子がどうとか。電子陽子中性子に原子核、だっけ?それと、イオン化とかプラズマ化とか核分裂とか核融合とか。他にも色々たくさん。いやー、どれもこれもやたらと難しくて専門用語ばっかりで素人に読ませるつもりあるのか、って言いたくなったんですが、考える時間はいっぱいありましたからね。一応理解はしたつもりですよ?」
そう言いながら、私の目の前に右手を伸ばし、そのピンと伸ばした人差し指の先から何かを零していく。罠かもしれない、と思いながらも咄嗟にその零れていくものを両手を器のようにして受け取ってしまった。触れても何か異変があるわけではなかったのだが、その輝く粒は見た目に反して非常に重く感じた。
「ただの金ですよ。原子量197、電子数79でしたっけ?」
それは、紛れもなく砂金だった。何の疑いようもなく、純粋な金。目を見開いてそれを見下ろしていたのだが、それは夢か幻であったかのように消えてしまった。
「ま、成果発表はこのくらいでいいかな?ごめんね。勝手に情報漁っちゃって。けど、大丈夫。ここにあるものは何も消えてなんかいないから」
そう言うが、今の私は様々な奇怪な現象が一度に起き、まともな思考が欠如していた。私の生き写しと言いたくなるような容姿にも驚いた。言い方からしてかなり前から侵入されていたという事実にも驚いた。その手に触れたものが消えてしまったことにも驚いた。無から金を創り出してしまうことにも驚いた。
しかし、それ以上に、そんなことがちっぽけで些細なことであると思ってしまうようなことがあった。
「…あ、貴女のような者が…」
「ん?どうかしました?」
「貴女のような者がいてたまるかッ!」
何故、浄でありながら不浄でいられる!?穢れを持ちながら清らかでいられる!?決して相容れるはずのない混合。こうして近付かなければ、いや、近付いてもまだ疑ってしまうほど浄で、同時に不浄。そうだと思わなければ不浄と感じない。しかし、そうだと思えば不浄であると感じられる。しかし、それでも同時に浄である。非常に曖昧で、どっちつかずで、矛盾した存在。無色透明の極彩色でも見せつけられた気分だ。
「…それは流石にちょっと失礼じゃないですか?まあ、こんなところに忍び込んでいたことは悪いと思いますよ。けど、いきなりわたしの存在ごと否定されるのはなぁ…。ま、いっか。あっちじゃ『禍』なんて言われてたし、今更だよね」
最初は僅かに不愉快だという雰囲気であったが、それもすぐに薄れていき、最後にはどうでもいいと切り捨てた。そして、ははは、と小さく笑うと、ありとあらゆる感情がスゥーッと抜けていくように無表情へとなっていく。
「さて、長い話はここまでにしましょうか」
今までの軽い印象を覆すような、非常に落ち着いた声色。そして後ろ歩きで私から離れていき、壁に背を付けてから、続きを言い放った。
「交渉を始めましょう」