月の都にも、一応昼と夜はある。けれど、わたしにはそれを把握することは困難だった。基本的にこの部屋でずっと籠っていたからしょうがないのだけど。たまに食材をちょっとちょろまかしたり情報収集をするために、月の兎に成り済まして近辺をうろついたのだけど、一日中明かりが点いているからよく分からなくなる。
それに加え、気温がずっと変わらない。暑くもなく、寒くもない。乾いてもなく、湿ってもない。まあ、外に出れば多少は変わるのだけど、それでも大した差ではない。わたしがここに来たときは冬だったはずだけど、そのときは寒いと感じることはなかったし、いくら日を跨ごうと暖かくなった感じもしない。
つまり、わたしはどのくらいここに潜入していたのかよく分からないのだ。眠くなったら寝る、なんてことを繰り返していたのだが、滅多に聞かないとはいえ、足音が少しでも響けばすぐ目覚めるくらいには警戒していた。まあ、扉を開けて中に入って来たのは、彼女が初めてなんだけどね。
その彼女は、わたしの言葉に困惑しているご様子。ま、そりゃそうか。いきなり交渉しようなんて言われて平然と対応出来るとは思っていない。だから言った。平静な状態でいるより、こうして乱れた状態でいたほうが、口車に乗せやすい。
「実はですね、潜入したはいいもののわたしは帰る手段が今はないんですよねー」
レミリアさん達と一緒に搭乗させてもらったロケット。あれは神経を滅茶苦茶すり減らした。そもそも、わたしは乗る予定なんてなかった。けど、乗らざるを得なかった。咲夜さんに頼まれたから。ただし、黒色の妖精メイドとして。
最初はフランを地下から出すために黒色の妖精メイドに成り済ました。わたしじゃ駄目なら、紅魔館の者になればいい。急に増えても問題ない妖精メイドになればいい。紅魔館の調理技術を盗み、作法を見て学び、パチュリーに髪の毛を黒く染めるものを作ってもらい、大ちゃんに『知らない振りをしてほしい』と頼んでもらい――この時大ちゃんは追加で『まどかさんのことを助けてあげてください』とも頼んでくれた。本当にありがとう――妖精メイドさん達をこちら側に引き寄せ、ミスティアさんの歌唱技術で声域を二つほど上げ、『紅』で瞳の色を血色にし、メイド服を複製し、そのとき近くにいた妖精メイドさんの羽も複製して取り付けた。こうして、わたしは黒色の妖精メイドとなった。
しかし、これには致命的な弱点がある。レミリアさんのような羽が生えている人、萃香のような角が生えている人、橙ちゃんのような耳や尻尾が生えている人。この人たちから見れば、わたしは一目瞭然だ。何せ、背中から羽が生え、頭から角や耳を生やし、尻には尻尾が生えている。だから、そういった相手の視界に入らないような位置取りを訓練した。時には空間把握を使用してその人の視界を認識し、陰となる位置へ動く訓練を。
こうして黒色の妖精メイドになったわけだけど、ちょっとした誤算はある。フランのいる地下へ行くのはある程度溶け込んでから、と考えていたのだけど、まさか咲夜さんから頼まれるとは思っていなかったのだ。ま、ちょっと早くなっただけで悪くはない。
そのことを加味したのか、咲夜さんにロケットに乗るよう命令されたのは完全に予想外。しかし、一緒に乗ることになった二人の妖精メイドさんには本当に助けられた。どうしてもレミリアさんの視界に入りそうなとき、仕事するためのようにわたしの壁となってくれた。移動する際も、必要なところに行ってくれた。感謝してもし足りない。…まあ、ロケットに使った妖力塊を全て回収することが出来た、という点は喜ばしいことかもしれない。そのために創っておいた過剰妖力が全く入っていない緋々色金を三つ付けてもらったのだから。長い間ここにいて自然回復した分も含めて、既にこの三つは完全に満たされている。
水没したときは『紅』の所為で悶えそうなほどの嫌悪感を覚えたけれど、その場で何とか落ち着きを取り戻し、潜水を続けた。幸い、全部回収したつもりだったのに何故か残った一枚の布切れや服などに空気を溜めて沈むという咄嗟の行動のおかげで、割と長く潜っていられた。そのまま水の中から月の都まで泳いだけれど、濡れた妖精メイドという、非常に目立った格好は潜入によくないと思い、陰からコッソリと覗き見して月の兎の服装を全て複製して着替えさせてもらった。
月の都では堂々としていれば意外とバレないらしく、潜入してからはとても楽だった。そして、空間把握を乱用していかにも情報がありそうな巻物や書籍があるところへ、つまりこの部屋に来たわけだ。
ただ、これだけ長い間籠っていたにもかかわらず、飢餓感は訪れなかった。食べる量もかなり減ってしまったというのに、お腹が空かない。本当に不思議だ。どうしたものかねぇ。
「この布切れでは小さ過ぎるらしくて、道標程度にしか効果はないみたいですし」
「…!月の羽衣!?」
「ええ。月の羽衣です」
情報収集の時に知ったのだけど、このロケット回収の際に何故か残った布切れは月と地上を行き来出来る月の羽衣の一部だったらしい。しかし、こんな大きさではとてもではないが移動出来なかったのだが。
しかし、あそこに安置されていた月の羽衣を奪えば地上へ戻ることは出来る。けれど、わたしはここにあった情報とフランへの小さなお土産で十分だ。そんなものを奪うつもりはない。…今は。
「だから、わたしは貴女に地上へ、幻想郷へ戻らせてほしい」
わたしは見た。霊夢さんとこの人が光に包まれて飛んで行く姿を。そして、数分後に彼女だけが戻って来たのを。これを見れば、誰もが考えるはずだ。彼女は地上へ行く手段がある、と。
さて、このままだとわたしはただ一方的に頼んでいるだけ。まあ、これからやることも、落ち着いて冷静に考えればあちら側に利点はほぼない。零か負かの選択。
「わたし、出来れば争い事はしたくないんですよ。傷付けたくない。壊したくない。奪いたくない。殺したくない。ですから、わたしがこれ以上何かする前に、無条件に帰ると言っている間に、わたしを幻想郷へ帰してください」
さて、どうする?ここであちら側がわたしの要求を飲むなら大団円。何も問題なく幻想郷へ帰れるだろう。しかし、問題は断られた場合。ここでいきなり殴りかかってきたら抗戦せざるを得ない。その際は、邪魔者を蹴散らし、最短で月の羽衣のもとへ行ってそれを奪い、帰還する。
「…っ。…いいだろう。その要求、飲ませてもらう」
「ありがとうございます」
◆
その場で光に包まれたかと思えば、そのまま浮かび上がった。天井がまるでなかったかのようにすり抜けているのは、想像に難くない。
「正直、意外ですね」
「…何がだ」
「アッサリ過ぎるって言うか、もうちょっと抵抗してくるって言うか…」
「貴女のような者を、これ以上月の都にいさせたくなかった。…それだけです」
「ふぅん。あっそう」
そんなにわたしはあそこにいたら悪いのか。まあ、情報とかを奪ったのは悪いとは思っているけど。けれど、それだけで存在ごと否定されるかなぁ…?
「あ、そうだ。これ、返します」
そう言いながら、視線も合わせてくれない彼女に小さな月の羽衣を渡す。わたしが持っていてもしょうがないものだ。もう一度月に行く予定はないし、そもそもこれを使っても月へは行けないのだから。
わたしの手に握られた月の羽衣を腕が霞むほど素早く奪い取り、元の姿勢へ戻った。…うわ、滅茶苦茶早かったんだけど。あの速度で攻撃されたとして、わたしは対応出来ただろうか?…分からない。
それ以上お互いに語ることはなく、耳鳴りがするほど静かな時間。しかし、それは意外と早く終わった。光が徐々に薄れ、木々が生い茂る土地に降ろされた。真上には太陽が昇っているが、暖かな陽気を感じる。…今は春だろうか?
「それでは、二度と会わないことを願う。…二度とだ」
そう言うと、光に包まれて空へ昇って行った。…そんな声で言わないでくださいよ。怖いから。
けどまあ、わたしは戻って来たわけだ。幻想郷に。
「…何これ」
しかし、そんな幻想郷に咲き乱れる花々は今までとは一味も二味も違った。梅、椿、桜、朝顔、牡丹、向日葵、山茶花、枇杷、等々…。どう考えても四季折々の花々。おかしいでしょ?