重く硬い拳を避ける。日傘の薙ぎ払いを避ける。鋭い肘打ちを避ける。日傘の刺突を避ける。隙間なく詰められた弾幕を打ち消して避ける。避ける。避ける。避ける。避ける避ける避ける避ける避ける…。
さっきからわたしは、回避しかしていない。もう残されていない。けれど、それは終焉までの無駄な時間稼ぎ。そんなことは分かり切っている。けど、それしか出来ることがないのだからしょうがない。
わたしと風見幽香。どちらが先に疲労で力尽きるかなんて、考えるまでもなくすぐに分かる。わたしだ。現にわたしの呼吸は相当荒くなっているが、風見幽香は何ら変化した様子はない。動けなくなったところを一撃喰らって終了。あと一、二分で限界が来る。けれど、この状況下でよくもまあこれだけ耐えることが出来たと自分自身を誉めてあげたいところだ。…ま、結局褒めたところで得られるのは死。
死、かぁ…。死にかけたことなら何度もあるけれど、自らそうなるようにしたことだってあるけれど、実際に死んでしまうのはこれが初めてかもしれない。ま、死んだらお終いなんだから、初めてが普通なんだけど。何度も死ぬことが許されているのは妹紅くらいだろう。けれど、死んでしまうことだって悪くないように思える。醜くても惨たらしくても泥を啜ってでも生き続けるとは強く思っているけれど、やっぱりそれと同じくらい死んでしまうのも構わないと思っている。どうしてだろう?あまりにも死にかけ過ぎて、死ぬこと自体に躊躇いがなくなったのかな?…違うよねぇ。不思議な話だ。けれど、わたしにとってはそれが普通だと思える。…ま、そんなことはもうどうでもいいか。
覚悟を決める時間が、もうすぐそこまで来ている。迫る拳を避ける体が徐々に重くなってきている。回避に余裕がなくなってきている。
「ねぇ」
「ハァ、ハァ…。何でしょう…?」
「『禍』なんて呼ばれて」
横から迫る日傘を体勢を低くし、避ける。
「里の新たな恐怖の対象になって」
振り下ろされる拳をそのまま転がるようにし、避ける。
「八十六の有象無象を蹴散らした」
放たれた無慈悲な弾幕を必要最低限だけ打ち消し、避ける。
「そんな貴女はその程度なのかしら?」
そうです。そうなんです。わたしはこの程度なんです。あのときの人間共はただ馬鹿で単純で愚鈍で軽率だっただけなんです。使いもしない武器に使われた素人だったんです。妖力無効化の杭程度で勝利出来ると高を括った老害だったんです。それだけなんです。
「…わたしはっ、そんな、過大評価っ、される、やつじゃない…っ!」
「そう」
返事はあまりにも淡白だった。しかし、わたしの言葉によってか、ただこの決闘に飽きたからか、今までとは比にならないほどの威圧感と重圧感を噴き出した。体が一瞬竦む。気を張って無理に動かしていた体が崩れていく。腕は動かない。脚は動かない。呼吸は乱れる。それでも、頭が働いていることは幸か不幸か。
「なら死ね」
視界に真っ赤な花が咲いた。わたしの胴体に風見幽香の右腕が潜り込んでいる。鉄っぽい味がする。あれ、わたしはどうなってるの?この腕は、どうしてわたしの体に入り込んでいるの?…あぁ、わたしの体を貫いているからか。じゃあ、どこを貫いているの?胴体の中心。僅かに左側。
「…カフッ」
…あー、心臓かぁ。終わったな、わたし。やっぱり、あれだけ死にたくないとか思ってたくせに、こうなるとどうでも――いや待て。
「…あら、いい眼ね」
残された力で首を持ち上げ、風見幽香を睨み付ける。
どうしてそこで諦める?まだわたしは死んでいない。いつものように、死にかけているだけじゃないか。策が全部通用しない?どうせちょっと強いくらいまでしか通用しないことは分かっていたんだ。通用しない相手がいつか現れることくらい、分かっていただろう?そうだ。まだ折れるには、早いんじゃあないか?
頭が急速に回り出す。世界が変わる。時間が無限大まで引き伸ばされているような錯覚。その中でわたしは結論へ至った。
そっか。そもそもの前提が間違っていたんだ。死なずに敗北なんて、虫のいい話でしょう?
生き残るために、一度死のう。
「アハァ。…捕まえたァ」
「…何のつもりかしら?」
左手でわたしの心臓を貫く風見幽香の腕を掴み取る。握り潰さんばかりの力を込めて、絶対に逃がさないように。
そして、わたしはそのまま突進した。体の内部に異物が通り抜けていく何とも言い難い気味の悪い感触を味わいながらも、決して迷いなく。右腕を引き絞り、最後の一撃を加えるために。
「…!フッ!」
ほんの僅かだが目を見開いた風見幽香によって振り上げられた日傘。喪失する感覚。慣れた感覚。わざわざ見る必要もない。わたしの右腕は無慈悲に無残に肩から肉片と骨片をばら撒きながら弾け飛んでしまった。
「ラァッ!」
「ッ…!」
しかし、それでもわたしは、そのまま指三本を真っ直ぐと揃えた右手を風見幽香の左眼に突き刺した。弾ける血の混じった液体。弾ける感触は全くしないが、肩の継ぎ目に僅かな抵抗を感じる。
握り込んでいた左手から力が抜け、無抵抗にズブズブと右腕が引っこ抜かれた。再び舞い散る血液も気にせず、左眼を押さえながら狂気と歓喜に満ちた歪んだ笑みを見せる風見幽香を見遣る。
「アハ」
「フフ」
追撃はしない。というか、出来ない。もう、わたしはまともに体を動かせない。ここに立っているのが限界だ。
「アハハ」
「フフフ」
それでもわたしは風見幽香から目を離すことなく、お互いに見つめ合っている。今にも瞼がずり落ちそうにもかかわらず。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
「フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフッ!」
自然と笑いが込み上げてくる。不思議と頬が吊り上がっていく。さっきまで決闘していたのに、お互いに異常な笑顔で笑い合っている。
「どうですか風見幽香ァ!死にぞこないの一撃はァ!」
「こんな傷を付けられたのは本当に久し振りよ?」
どうだったかな、貴女の右腕による最後の一撃は?アハハ、最初で最後の手傷が眼球なんて、洒落てると思わない?
「けど、これでお終いね。残念だけど」
「…そうですねぇ。流石にこのままじゃこの世とさよならだ」
「そうね。化けて出たらまた殺してあげる」
「それはそれは魅力的ですねぇ…。それでは、またいつかとか」
地に膝が付き、そのまま倒れていく。もう、立っていることさえ出来ない。そんなわたしを、風見幽香はほんの僅かの間だが名残惜しそうに見下ろした気がした。
足音が離れていく。その音すらも、振動すらも、わたしは感じなくなっていく。体が冷えていく。視界が暗くなっていく。五感が薄れていく。心臓を失ったんだ。そりゃ当然か。
だったらどうする?答えは単純。心臓を創ればいい。
血液と共に流れ出ていく妖力を補うために緋々色金の複製を一つ回収し、その場で空間把握。失われた視覚の代わりに、この場の形が明確に浮かぶ。そして、わたしは離れていく風見幽香を見つけ出した。彼女はわたしが生きるために必要なんだ。
風見幽香の体の内側へ潜り込み、心臓の形を把握する。平均よりかなり早めの心拍を正確に刻むそれを感じながら、わたしは空っぽの穴に複製した。
「…グッ…!ガアッ!」
自分の血管と風見幽香の心臓の複製を繋ぎ合わせる。今まで腕の損失でも普通に繋げていたんだ。心臓だって、大して変わらない。それでも、体の内側を弄られているのは気分のいいものではない。それでも、何とか必要な分の血管を繋ぎ終えた。そして、一分間に六十回という規則正しい心拍をするように、普段『幻』に与えるように単純な指示を与えてみる。出来ないようなら、自ら意識的にやろうと思っていたのだけど、問題なく心臓は動き始めた。
しかし、このまま心臓を外から丸見えのまま放置しているわけにもいかない。なので、妖力を使って無理矢理治癒を試みる。切り傷や刺し傷のようなちょっとした出血や、手のひらを赤くする程度の軽い火傷くらいならどうにか治すことが出来たけれど、これはどうだろう?
「うぐぅ…。な、何とかなった…かなぁ?」
結果としては、考えていた以上に大量の妖力を消費することで見た目だけは整えることが出来た。真新しい皮膚の中身は、血管がチョコチョコと治った程度で、それ以外は無理矢理止血された。…大丈夫だろうか、本当に。
スッカスカの妖力を埋めるべく、さらに緋々色金を二つ回収した。五感が蘇り、体から熱が生まれ始める。しかし、失った血液は元には戻らない。どのくらい失ったかは分からないけれど、相当量失ったことは分かる。
右腕を動かし、まともに動かない残りの体をゆっくりと持ち上げていく。ようやく立ち上がって自分の倒れていた場所を見ると、目を逸らしたくなるほどに赤黒くなっていた。
「さぁて、逃げましょうか」
わたしは風見幽香の歩いて行った方向から離れるように、ふらつく脚で一歩を踏み出した。