何も言わずに閻魔様に背を向け、永遠亭へと向かう。そんなわたしに対して、閻魔様は何かしてくることもなく、ただただ黙って見送られた。背中に突き刺さるような視線を感じているが、気にせず足を進めていく。
ドッペルゲンガーという種族に対して、強い感情を持っていた閻魔様。そんな彼女の口から放たれた黒い言葉。身に覚えはない、なんて言えない。一度とはいえ、経験していることだから。その能力はわたしが制御し、支配しようとしている身の余る過ぎた能力だから。
けれど、その言葉はわたしの滞っていた疑問をいとも容易く氷解させた。あの能力は、人の願いを奪う能力だったんだ。そして、その人の代わりに叶える。聞こえはいいが、その人の知らないところで身勝手に終わらせてしまう、ってことになる。確かにそうだ。あれ以来、フランにあった破壊衝動はほとんどない。わたしが破壊衝動を、ものを破壊したいという願いを奪ったから。
そして、わたしは食べた。願いを貪った。四百九十五年分という単純なものではないだろうが、それでも膨大な年月抑え込まれていた願いを消化した。つまり、ドッペルゲンガーが本来食すべきものは、大地の恩恵を受けて実った野菜や穀物でも、命を刈り取って得る肉でもない。人の精神の一部である願いを食すべきだった。ドッペルゲンガーは願いを、人の精神を喰らう人喰い妖怪だったんだ。わたしの食欲が失せているのは、フランの願いが膨大であったからかもしれない。その事実に無意識では気付いていたからかもしれない。わたしの食欲は、前者ならいつか戻るかもしれないけれど、後者なら二度と戻らないだろう。
「…ま、だから何だ、って感じだけどさ」
分からなかったことが分かってよかった、とは思う。けれど、分からないままのほうがよかった、とは思えない。知る幸福と知らない幸福では、わたしは前者のほうがいい。だから、知ったことで得た不幸だって飲み込もう。
ドッペルゲンガーが人喰い妖怪だったとしても、わたしの食欲が二度と戻らなかったとしても、それはしょうがないことだから。わたしという存在自体が、本来の道から大きく外れる原因だから。それがちょっと正しい道へ戻っただけだから。
だから、いちいち気にしても仕方のないことだ。…そう思わないと、やっていられない。
「あぁ…。それにしても、やっちゃったなぁ…」
閻魔様の視線がビシバシと感じても振り返らないのは、閻魔様が怖いわけじゃない。そこに転がっている人間共を見たくなかったから。振り返ったら、視界に収めてしまったら、力なく崩れたままの姿で不気味に起き上がってわたしに襲いかかって来そうな気がしたから。そんなはずないのに。どうしてそう思うんだろう。分からない。分からない。分からない。
けれど、見ようと見なかろうとやってしまったことに変わりはない。後悔はない。けれど、こうしたことで起こるだろう人里の乱れも想像出来る。関係ない、と完全に割り切れるほどわたしは傲慢ではないつもりだ。関係があっても放っておく、くらいなら平然とするけど。
そんなことを考えながら重く鈍い体を無理矢理動かして、人間の里を大きく迂回する。ギリギリ見える門番が誰もいない人里の出入り口を見遣ると、普段より寂れて見えた。そして、その普段がもう二度と訪れない過去と比べていることに気付いて、ちょっとだけ寂しくなった。
歩き続けて数十分、ようやく迷いの竹林に足を踏み入れることが出来た。ここからさらに奥にある永遠亭まで、どのくらいかかるだろう?そもそも、わたしは辿り着くことが出来るだろうか?わたしを診療してくれるだろうか?わたしの心臓を治すことが出来るだろうか?不安は積み重なっていくばかりで、ただでさえ重い足取りがさらに重くなっていく。
「…ま、行くしかないか」
けれど、いくら考えても分からないことに悩んでいても意味はない。そんなことは分かっている。分かっていても、不安なんだよ。いつもなら普通に切り捨てられるようなことなのに、今回に限って出来そうもない。さっきまで悪行を重ねていたから?…それは違う。月の都に潜入して怒りを買ったから?…そうかもしれない。生死に直結するから?…そうかもしれない。
そこで、少し前に考えていたこととはまるで違うことを考えている自分に困惑する。どうやら、気にしないみたいなことを考えているだけで、かなり気にしていたらしい。わたしの思考が負の向きへ進んでいるのが分かる。落ち着いてきて、今まで無理矢理前向きに考えてきた思考の代償を払っている感じだ。
辿り着くはずの道筋も、こうして代わり映えのしない鬱蒼とした竹林が続くと、どうにも不安になってくる。けれど、極僅かな変化や目印を見つけるたびに、僅かにホッとする。わたしは確実に進んでいる、ってことが分かるから。同じところをグルグルと回っているわけじゃない、ってことが分かるから。
ふと、妹紅の家に埋め込ませてもらった複製を感じ、それに合わせてそこにいるだろう二人のことが頭を過ぎる。二人は何をしているんだろう?酒でも呑み合いながら、しばらく振りに会ったわたしのことでも話題にしているのだろうか?それとも、わたしには思い付かないような話題が繰り広げられているのだろうか?その輪の中にちょっとだけ入りたい、と思ったけれど、今は永遠亭に行くほうが優先だ。
「ん?…げ」
そんなことを考えていたら、見覚えのある人影が見えた。既に十二分にやり返したとはいえ、しょうもない理由で死にかけた原因を作り出した悪戯兎。因幡てゐだ。幸い、あちら側は私に気付いていない模様。気付かない振り、何て可能性もあるけど。
出会うことなく進めるならそれでよかったのだけど、わたしの進もうとしている道のど真ん中に立っているため、そういうわけにもいかない。目を凝らさないと分からないほど細い糸を竹に引っ掛け、何か罠を作っているようである。目で見て簡単に分かるような落とし穴もいくつかあり、簡単には気付かないほど巧妙に隠された落とし穴もあるのだろう。
少しだけ考え、わたしは気にせず先へ進むことにした。引っ掛かったなら、そのときはそのときだ。別の道を選んだとしても罠がある可能性があるなら、どう進んでも大して変わらない。それなら、目の前に仕掛けた人がいたほうがいい。仕返し出来るから。…ま、逃げられるだろうけど、そのときはその動きで動けば罠にかからないということになる。それならそれでいい。
「こんにちは、因幡てゐ」
「ん?…ウサ、あんた――って!何だその恰好!?」
「え?恰好?…あー、そう言われれば血塗れでしたね。忘れてましたよ」
別の事ばっかり考えていたから、すっかり忘れてた。わたし自身の血と返り血が入り混じった血痕。右袖は吹き飛んで、心臓部分は大穴が開いている。耐久性が高いみたいなことを言っていたけれど、風見幽香に対抗出来るほどではなかったのだ。
「見て分かる通り、急いで永遠亭に行きたいんですよね。それでは」
「そうかい。なら邪魔せずに――待て!そこは…!」
「ん?」
脚に一瞬の抵抗を感じ、右側から僅かな風切り音が響く。咄嗟に右腕を出し、急所である顔を守る。すると、トストストス、と軽い音と共に右腕に三本の竹矢が刺さった。右腕は既に複製だから全く痛くない。
「いやぁ、危なかったですね。竹矢が右上から顔に向かって飛んできてよかったですよ。他の軌道だったら許せないところでしたから」
「流石に大怪我人を罠に掛けると後で叱られるから勘弁願いたい…」
「へぇ、正直意外ですよ。そんなこと考えるような人とは思ってませんでしたから」
「…試験体にはもうなりたくないウサ」
そう言って一瞬遠い目になった因幡てゐは、ピョンと跳び跳ねてわたしの前に降り立った。
「…案内するから黙っててくれない?」
「いいですよ。終わればこの竹矢もしっかり隠滅しましょう」
糸がキラリと光るのを見るたびに警戒しつつ、因幡てゐの足跡に重ねて動きを真似して進む。短い距離だったが、時間をかけて進むこと数分。罠のある所は終わったようだ。
お互い無言で進み続け、永遠亭がようやく見えてきた。そのことに少し気が抜けたのか、僅かに朦朧とする意識の中、右腕に刺さっていた三本の竹矢を遠くへ投げ捨てる。永遠亭からは離れた方向に投げたから、十分だろう。
「よし、着いたウサ。…って、どうした!?」
「ん?お?…あれ?」
永遠亭の敷地に入ってすぐ、急に脚が異様にふらつき始めた。…おっかしいなぁ。ちょっと前まで普通に動けてたのに。妖力だって十分ある。それなのに、どうしてこんなに足が動かないんだろう?
わたしを見る誰かが慌てて何処かに入っていく。何か言っていた気がするが、その内容すらも分からない。そもそも、どうしてここに来たんだっけ?あれ、足元に何もない。重力がおかしい。壁が横にある。上にも下にも前にも後ろにも遥か彼方まで続く壁。何を考えているのかもよく分からなくなってきた。ただ、薄れていく意識の中で右足首の上の辺りがやけに熱く感じる。そこに目を遣ると、横一線にスッパリと切れていた。どうして切れているんだろう?分からない。
わたしの元に近付き、軽く揺らす誰かが目に映る。近くに寄って口を動かし、何かを語っている。一体、何を言っているんだろう?全然頭に入ってこない。ふと、胸のあたりが軽くなった感じがした。そこには何か大切なものがあったはずなのに。何だっけ?えぇっと、確か……………。
意識が途切れ、視界が黒く染まる。わたしは、意識が途切れるまでになくしたものを思い出すことが出来なかった。