もう何枚目かも分からない魔法陣を書き連ねていると、視界の端に光が五回瞬いた。すぐに出入り口の扉に目を遣ると、頭を押さえて疲労の色を見せる幻香とそれを心配そうに見上げるフラン、その後ろには呆れたように肩を竦める妹紅と萃香、二人の間に連行されているように小さく縮こまっている紫色の髪の少女――慧音が言っていた編纂家の稗田阿求だろうか?――が扉を開けて入ってきたのが見えた。
僅かにふらついている足取りのままの幻香が長椅子に座ろうとして、自分自身が血塗れであることを今更思い出したことを笑いながら留まる。すると、躊躇いもなく今着ている服を消し飛ばし、残された時が経ち固まった血が床に落ちて儚く砕けた。そして、呪文もなしに頭上から水を落とし、髪や肌に付着した血を洗い流し始めた。ある程度綺麗になったところで濡れている体を拭くための布でも手渡そうと思って布を片手に洗い終えるのを待っていたのだが、水の流れが止まって少し経ったら既に乾いていた。水溜まりが出来てもおかしくないような量を流していたにもかかわらず、床に残されているのは体から流し落とされた血のみ。…この布はまたいつか使うかもしれないから、近くに置いておこうかしら。
大きく伸びをしてから確認するように周りを見回してから私に目を合わせると、気付いたら幻香は私と同じ服を着ていた。…複製だと分かっていても不思議な光景だと思う。
異変が一段落着いたからか、気が緩んでいる幻香は長椅子に倒れ込んだ。そして、その体にある空気を全て吐き出したのではないかと思うほど長く息を吐いた。ダラリとぶら下げている左手に穴が開いているのだけど、出血は既にないように見える。…どうしてそんな傷がありながら気付いていないのかしら?
「…あー…。疲れたぁ…」
「らしくないもの演じるからだろ?」
「そうそう。おねーさんったら、いつもと雰囲気全然違ったから驚いちゃった」
「あはは…。彼女達を道端に転がった石ころでも見ているような気分でいる、っていうのはなかなか難しかったんですよ?」
「気分だけかよ」
「気分だけです」
それを伝えるべきかどうか考えていたが、自然と笑い合う四人を見ていると伝えることが憚れる。そうやって躊躇していると、その中に大妖精が割って入っていき、幻香の額に手を置いた。その手が黄緑色に淡く光る。とても優しい光。
「ごめんなさい、こういうのはあまり得意ではないんです…。けれど、少しくらいは楽になるはずです」
「そう言われれば疲れが抜けていく感じがするような…?」
「へぇ、妖精も多種多様だな」
妹紅は感心しているようだけど、私は少し驚いた。ここで働く妖精メイド達の能力は弱々しいが数は多い。熱気を、冷気を、微風を、水気を、電気を、生長を、光を、影を、音を、気配を。他にも様々な能力を見た。しかし、この大妖精は座標移動に加えて癒しまで行う。そんな妖精はこの子以外は見たことがない。
「あの、他の皆は?」
「わたしがここに入るときは見ませんでしたね」
「…さっさと入ったからな。私は見てない」
「私も見てないな」
「ずっと部屋で待ってて暇だったから窓から顔出して周りを見てたけど、それっぽいのは見えなかったなぁ」
「そうですか…。ちょっと遅くないですか?」
「そうでもないですよ。かなり遠くで待ってもらいましたし」
出来るだけ具体的な場所を説明しようと、その場所がどのようなところであるか続けているが、私は分からない。しかし、大妖精は理解出来たようで、それは遠いですね、と呟いた。
「…あ、あの」
「何だよ」
さっきまで後ろで一人ポツンと立ち尽くしていた少女が震える声で彼女達に声をかけた。その声にいち早く対応した妹紅はかなり冷たい声色で、何かあったのだろうな、と簡単に推測出来る。
一歩ずつゆっくりと近付き、長椅子で横になっている幻香を見下ろした。その表情は、不条理を嘆くような辛く悲しいもの。その表情を見上げた幻香は、自分が求めたこととはいえ少しばかり同情するような表情だった。
「わ、『禍』」
「…あー、はい。そういえば自己紹介してませんでしたね。わたしが『禍』ですよ、稗田阿求さん。ご存知かと思いますが、人間の里では災厄の権化とか言われてますね。…で、そんなわたしに何か訊きたいことでも?」
「何故、私をここに拉致したのですか?」
「うわぁお、ど真ん中を突き進む誤魔化しなしで直接的な問いですね」
そう言ってから大妖精に一言かけてから額に乗る手を離してもらい、幻香は体を起こした。そして、両手で稗田阿求の頬を挟み、額に額を押し付けた。一瞬逃れようと下がろうとしたが、幻香は仮にも妖怪。その程度で振り払えるほどやわじゃない。
そのまま無言で額を合わせ続けること数十秒。ようやく離したと思ったら、また幻香は長椅子に倒れてしまった。その顔には汗が二粒ほど流れており、さっきまでと比べて明らかに疲れ切っている。
「…ま、理由はいくつかありますよ。まず、貴女がわたしが起こす異変に必要だから。次に、貴女が編纂家だから。そして、貴女が有名だから。あと、貴女がひ弱だから。最後に、面白そうだから。…満足しましたか?」
疲労を隠そうともしない、詳細な説明を省いた簡潔な答え。
「おぉーい。確かに編纂家でひ弱だったけどさぁ、最後のは何だよ、最後のは」
「最後?面白そうがそんなに不満ですか?」
「わざわざ攫って、その理由が面白そうとか最高じゃん」
「でしょう?」
お互いにケラケラと笑い合い、軽く拳を打ち付けた。その仕草に不満を抱いたらしい稗田阿求の表情が歪む。
「そんなふざけた理由で私を攫ったのですか?」
「はい。あぁ、貴女が仕事を出来るように、萃香には道具を一通り持ってくるように言ったはずですから」
長椅子から跳ね上がり、縦に横にクルクルと回りながら着地。そして、私が今使っている机の脚が短くなった、卓袱台くらいの高さの机を創り出した。萃香の手にある風呂敷を指差し、次に机を指差す。少し考える仕草をした萃香だったが、すぐに理解出来たようだ。苦笑いを浮かべながら、風呂敷の中から道具を取り出し、机に並べていく。
「…この私がこんなことに使われるの初めてかも」
「初めての経験っていいですよねぇ。大切にしてください。…さて、こうして並べたわけですし、お好きなように編纂をしてくれてもいいんですよ?」
「わざわざこんなところに連れ去っても仕事をさせてくれるなんて感謝の極みです」
直球な皮肉を言っているのだろうが、幻香は髪を撫でる風のように聞き流し、フランの肩に手を乗せた。
「あ、言い忘れてました。フラン、貴女はこの紅魔館の新しい主ですから」
「へー、そうなんだ。…え?そうなの?何時の間に?」
「だってレミリアさん外に叩き出しましたし」
「あんなこと言っておきながら事後承諾かよ」
ペシペシと幻香の頭を軽く叩く妹紅の頬は引きつっていた。そんなことは一度も聞いていないのだから、私も驚いた。しかし、一番驚いているのは勝手に主にされたフランだろう。
「ま、特に何か変わるってこともないですから。頭がないと体は動けないものですし、必要なものですよ」
「むぅ…。分かったけど、お姉様みたいなこと出来ないよ?」
「する必要ないですよ。だって、紅魔館の主はフラン、貴女なんですから」
そう言ってフランの頭を撫で、机に座った稗田阿求を一瞥してから私と目が合った。
「準備は出来ました?」
「先に使うほうはもう大丈夫。けど、もう片方はまだまだね」
「ならよし。けど、仕事一つ増やしていいですか?」
「…内容によるわね」
まだ炎の形が納得のいくものになっていない。それらしいと思えるくらいにはなったが、まだ足りないと思っている。それを完成させる時間がなくなるような役目は断るつもりでいる。
そんな私の願いを受け、幻香は目を瞑り腕を組んで考えている。ブツブツと何かを呟いているけれど、私には内容を聞くことが出来なかった。
「よし。一度発動したら簡単には解除出来ないような、非常に強力な結界を張ることが出来る魔法陣ってありますか?」
「あるわよ。で、どの程度の結界がいいのかしら?」
「魔理沙さんのマスタースパークで壊れないくらい。欲を言えば、レミリアさんのグングニルで貫かれないくらい」
「…素材と魔力量によるわね」
「わたしの血液でもいいですから」
「それを使えば簡単に出来るでしょうけれど、出来るだけ頼りたくないのよ」
「そうですか…。頼んでばかりなので少しくらい役立ちたかったんですが…」
「そんな課題を出してくれるだけで十分よ」
無理難題ではないが、非常に難しい注文。だからこそやりがいがある。これを出来れば、私は魔法使いとしてさらに先へ進める。そう思える。
「何に使うかは知らないけれど、何時までに?」
「出来るだけ早く。具体的には、異変解決者が来るまでに」
「意外と余裕あるわね。任せなさい」
残された二つの役目、成し遂げてみせましょう。