仮眠から目覚め、周りを見渡す。ボンヤリとした小さな光の中に、たった一人で黙々と作業を続けているパチュリーが目に入ったが、話しかけるのは止めておいた。あんな眼を見てしまえば、そんな無粋なことをしようとは思えない。わたしが寝るときには掛かっていなかった布団を手に取り、机に腕枕で突っ伏して眠っている阿求さんに掛けておく。そして、音を立てないように大図書館から出て行った。…まぁ、大図書館から退室したことは、パチュリーが使っている机の上の球で伝わってしまうのだが、今の彼女はそんなもの目に入らないだろう。
碌な光もない廊下を一人で歩き、そのまま庭に出る。いつの間にか雲が広がり、月明かりも星明りも通さない黒い空を見上げる。…耳鳴りがするほど静かだ。これから異変を起こそうっていうのに、ここまで静かだと違和感すら覚えてしまう。嵐の前の静けさとは少し違うような、薄気味悪い静寂。
フワリと浮かび上がりながら、空に手を伸ばす。何かを掴むわけでもなく、何かをするでもなく、ただ手を伸ばした。伸ばして伸ばして、失ったような気がする、そもそもなかった気もする、そんな何かに触れたかった。そんな何かを掴みたかった。けど、そんなものは手の内に収まるはずもなく、握られた手を開いても、その中には何もない。そんなこと分かり切っていたはずなのに、その空っぽの手がやけに寂しかった。
そんな寂寥感を覚えながら、紅魔館の屋根の上に座る。ほんの少し空が近付いたけれど、それでも果てしなく遠い。見上げても見通しても、その果ては決して見えない。あぁ、この曇り空が晴らせればいいのに。そうすれば、わたしの心も晴れる気がしたから。
そのまま空が明るくなるまでここにいようか、なんて考えていると、一人の妖精がこっちに近付いてくるのが見えた。いつの日か見たような気がする、ここの妖精メイドさんだと思われる子。きっと、こんな時間から定期的にか不定期的にか通っている子なのだろう。
「こんばんは」
「こんばんはぁ。あのねぇ、面白いもの見ちゃったのぁ、私ぃ」
「へぇ、何ですか?」
「きっと驚くよぉ?お嬢様とメイド長が門番さんに担がれててさぁ。それでねぇ、行ったのよぉ、寂れた神社にぃ」
寂れた神社?…あぁ、博麗神社かな。レミリアさんのプライドが助けを求めることを拒むか、それともそのプライドを押し退けてでも助けを求めるか。どっちに転んでもよかったのだけど、後者に転んだのか。それか、美鈴さんの独断によるものかもしれない。
「ふぅん、そっか。手間が省けたかな」
「手間ぁ?」
「そ。今の紅魔館については、この中にいる妖精メイドさんの誰かに聞いたほうがいいですよ。大分状況が違いますから」
「そっかぁ、分かったぁ。それじゃあねぇ」
「ええ、それでは」
何処か間延びした口調で話す妖精は、わたしに別れを告げるとすぐにゆっくりと降りていった。そして、しばらくするとまた静寂が訪れる。しかし、見上げた空には雲の切れ目から僅かに月が覗いていた。
◆
口を開くと、苦痛に歪んだ声しか出て来なかった。そんな無様な姿を見せたくなくて、私は口を固く閉ざし続けた。斬り飛ばされた四肢はまだ治らないが、既に血は止まった。銀の刃によって斬られたその傷の治りは極端に遅い。さらに言えば、その傷口は焼けるような痛みが治り切るまで続く。しかし、今では短めの言葉なら口に出せる程度には余裕が出来た。
私の近くの布団に安静にされている咲夜は、未だに目が覚める様子はない。ただ、そのまま目覚めないという
「…ほら、食べなさい。この分はいつか返しなさいよね」
「こんな時間にすみません…。ですが、今の私達にとってはここが最も適していると思いまして…」
そう言いながら何度も霊夢に頭を下げるであろう美鈴の声が隣の部屋から聞こえてくると、こんなことになってしまった原因に憤りを覚えるが、それ以上に敗北した私自身に腹が立つ。
そんな幻香が、私の紅魔館を占領して何をするつもりなのか。これまで、会話をした数はそれなりにある。あの時見た運命が覆されたことが少し不安材料ではあるし、この運命が鮮明に視えない場合もある。しかし、そんな霧がかった極一瞬でいいから、何か欲しかった。
「…え」
無数の屍の山。その頂上には全身返り血に濡れた私…ではなく、幻香が背中を向け一人立っていた。
その屍の山には何処の誰とも知らない人間に加え、氷の妖精が太陽の妖精が月の妖精が星の妖精が大妖精が闇の妖怪が虫の妖怪が夜雀の妖怪が妖怪兎が鈴仙が永琳が輝夜が慧音が萃香が八雲藍が八雲紫がアリスが妖夢が幽々子が魔理沙が美鈴がパチェが咲夜がフランが私が一緒くたになって積み上げられていた。
私の視線にでも気付いたかのように幻香はグギリ、と首を不自然に曲げた。その表情は何処までも狂気的で、吊り上がる頬は今にも引き千切れそうで、見開いた眼は今にも零れ落ちそうであった。それこそフランのそれが優しい笑顔に思えてくるほどに醜く歪み切っていた。
そんな幻香の手には髪の毛が絡みついており、その下には当然のように一つの頭がぶら下がっていた。そして、その顔は血の気が完全に失せていたが、確かに見覚えがあった。
「…ッ!ぅ…ッ!」
見ていられなくて。視ていたくなくて。認めたくなくて。私はその像から目を離してしまった。死屍累々。屍山血河。口元を押さえようとして、今は右手がないことを今更のように思い出した。
しかし、もう目を逸らしてはいけない。あの像のどこかに、その終焉を覆すために必要な何かを掴めるかもしれない。そう考え、再び幻香の運命を視た。
「…え?」
落ちている。何処までも落ちている。周囲は空色で塗り潰され、無限にも思える彼方へ落ち続けている。その上には何もなく、その下に大地は見えない。果てなき空間を、ただただひたすら落ちていた。
そんな中にいる幻香は、まるでそれを望んでいるかのように微笑みを浮かべながら目を瞑っていた。その表情は、まるで幸せな夢でも見ているかのように安らかで、それは死に際の顔にも見えた。
それでも、幻香は止まることなく落ち続けている。いつまでも落ちている。止まらない。終わらない。止まれない。終われない。
その像から目を離し、そして困惑した。全く違う。何だこれは。今までにも違う運命が視えることだってあった。しかし、これはあまりにも違い過ぎている。
「…ま、さか」
嫌な予感に促されるままに三度目の運命を視る。そして、その予感は的中してしまった。
視えた像は、磔にされた幻香であった。見知らぬ子供に石を投げ付けられ、そして大人には罵詈雑言を吐き捨てられている。小生意気そうな一人の子供が悪戯でもするように幻香の足元に近付き、小さな刃物で小指を斬り落とす。
しかし、それでも幻香は嗤っていた。その程度しか出来ないのか、とでも馬鹿にするように鼻で嗤っていた。
それからも運命を次々と視ていった。釣りをする像、フランと一緒に遊ぶ像、魔術研究をする像、霊夢とスペルカード戦をする像、道化のような壊れた笑顔を浮かべる像、萃香が出した酒を断る像、妖精達と戯れる像、次々と何かを創り続ける像…。視ているとキリがない。終わりがない。一度目を離せば、また視るときには全く違う像が映る。
「どう、いうことよ…」
運命とは、例えるならば道である。決められた道筋があり、分かれ道がある。遠い未来であればあるほど分割された道は多くなり、今の対象がその時進むであろう道が分かっても、将来その選択を変えることだってある。対象を全く知らなければ、道は霧がかかり視通せなくなる。対象が私の運命を裏切れば、道なき道を突き進む。予想もしない獣道を歩む。
しかし、幻香の運命は違った。その瞬間の運命を視ようとせず、少し離れて運命全体を俯瞰するように視ると、その全容は明らかに歪であった。蜘蛛の巣よりも細かく分かれ、最早道が道を呈していないほどに無数の道が広がっていた。その姿は、道と言うよりは広場。選択肢が多過ぎる。どこにでも行ける。どうにでもなれる。言い換えるならば、可能性の塊。
そう考えれば、幻香がこれまで私の運命を悉く覆してきたことが思い出される。まだ目覚めないと視れば、その場で目覚める。わたしの放った右腕を首を曲げて回避すると視れば、瞬間的に着地する。左手で攻撃すると視れば、私の右腕を銀製の細剣が切り裂く。幻香がかかわったことも加えれば、さらに多くなる。魔理沙は生還し、フランは狂気を操作される。他にも考えるのが面倒になるほどに湧き出てくる。
「…はぁ」
思わずため息が漏れる。幻香の目的について、全く分からないことが分かった。というより、幻香の運命そのものを視る意味がない。次の瞬間ですら、私が視る運命とは違うことをすることが出来る。というより、私自身がその無数に広がる運命から正しいものを視分けられない。
こんな現象は初めてだ。なぜそうなるかも分からないし、理解出来ない。ただ、ドッペルゲンガーという種族がそうさせているのかもしれないな、という根拠のない思い込みをして無理矢理納得させることしか私には出来なかった。