怨霊がわたしの中に潜り込み、少しずつだが確実にこの体を変質させていく。三つの怨霊の声が聞こえてくるが、まだ何を言っているのかよく分からない。だが、怨霊達はわたしの意識を押し退けて侵食していく。
怨霊から滲み出る強い感情。それは未練。あのときにこうすれば。このときにああすれば。死ぬ前に何をしたかった。そんな死んでもなお遺り続ける腐敗したものに当てられ、酷く苛立ってくる。そして、その怨霊を操った彼女を見上げ、強く睨み付ける。
「ひっ!」
「あぁ?何恐れてるんだよ、貴女がやったことでしょうに…!」
左頬が別の何かによって自由に動かすことが出来ず、そんな言葉を発することも難しい。その左頬に宿る何かは、少しずつ下へ浸食を続け、もう少しすれば首に毛が生えてきそうだ。背中から生える黒い片翼によって、重心が左後ろに傾く。右手の黒い異形の薬指は、隣の中指と小指を侵食していく。
『コオォオオォオオオォォ…』
うるさい。怨霊達をどうにかするのと、今目の前にいる彼女をどうにかする。片方だけじゃ駄目だ。怨霊達を放っておけば、この体の主導権は奪われてしまう。目の前にいる彼女を放っておけば、再び怨霊を使ってくる。だから、両方終わらせないといけない。もう逃げていられない。
『儂を殺した彼奴をォおお…!必ずこの手でェええ…!』
「ラアッ!」
「がっ…は…ッ!?」
そんな何百年も昔の人間なんてとっくに死んでるよ。階段を駆け上がり、動かない彼女の脇腹に左脚を全力で薙ぎ払う。ああ、背中が重い。右手の指が変にキコキコ動いて気味悪いし。壁に叩き付けられた彼女へ追撃しようとしたが、背中の片翼が引っ張られて前へ踏み出せない。それに付随し、左腕も動かし辛くなってくる。
『私を嗤った人間共を裂いて裂いて裂いて裂い裂い裂い裂裂裂裂裂裂…!』
「く…のぉおっ!これでも喰らえッ!」
「だあもうッ!うるさいって言ってんでしょうがあッ!」
嗤われた程度で自死した己の弱さを恨んでろ。迫る火球へ右腕を肩で振るい、右手で引き裂く。代わりにこれでも裂いてろ。右手が炎に触れるたびに熱いが、そんなことはどうでもいい。彼女を撃破することはどうにかなりそうだ。問題は、この三つの怨霊。これを外に排出しなきゃいけない。この体が怨霊から
『ロオオオォォオォオオォ…』
「何が何だかよく分からないけど、もう一度行け!怨霊達!」
「既に定員超過なんだよ!」
だからうるさい。再びわたしに迫り来る怨霊から逃げるため、下に目を遣る。空間把握。この下に何かは存在するか?踊り場の向こう側まで抜け、その先の空間を妖力が薄く染み渡る。…よし、ない。『紅』発動。右足を振り下ろし、踊り場にある『目』へ衝撃を伝える。上手く『目』が潰れ、踊り場が一気に崩れ去る。右腕を振り上げて妖力を一瞬噴出し、急加速。大きな音を立てて着地し、そのまま一階へ。
『四肢をもぎ取りィいい…!腸をぶちまけェええ…!』
「待てっ!逃がすかあっ!」
「ッ!…駄目だ、縋りついてて出て来やしない…!」
四肢も内臓も土に還ってるから諦めろって。一階をどうにか走りつつ、この体に妖力を流して怨霊の位置を把握する。そして、この体を変質している場所に近しい位置にいることが分かる。なので、霊夢さんの精神の複製を
『裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂裂…!』
「シャアッ!」
「喰らうかッ!」
最早まともな言葉も発せないほどに壊れている。背後から迫る彼女の炎を纏った爪撃を旋回して躱し、隙だらけの背中を蹴飛ばす。彼女自身の勢いも相まって、床に顔を擦り付けたままかなり長い距離を滑っていく。よし、今の内にこの怨霊をどうにかする。居場所は分かる。ある程度動かせる。事実、肘の辺りまで侵食した黒い異形の怨霊は、さっきの排出行為で右手まで押し退けられた。
月にあった技術の一つに、半透膜というものがある。ある一定の大きさのものを通さず、それより小さなもののみを通す膜だ。そして、それは最終的にある一つの物質のみ通すことが出来るまで改良された。そんな、月の民にとっては過去の技術。これ参考にさせてもらおう。
願え、望め、希え。精神の中を巡り、異物を絡め取り、わたしの精神と怨霊を分ける。そんな都合のいいものを!
『スウウウゥゥゥ…』
『眼を抉りィいい…!鼻を…』
『裂裂裂裂裂裂裂裂裂…』
「ヴッ!…おえぇええ…っ!」
出来た。確かに出来た。…だけど、意識をまた別の異物が駆け巡る、どうしようもないほどに気持ち悪い感覚。意識が潰されるのではなく、突き抜けていく。内臓を掻き混ぜられたとは違う、ただただ気持ち悪い。怨霊が移動するたびに変質する部位が動く。本当にわたしの中に膜があるわけではないのは分かっている。それでも、簡単に耐えられるものではない。
「は、はは…。凄いことになってるなぁ…」
右手首、右足首、左足首。この三ヶ所に膜がある、ような感じ。怨霊がその先へ進もうとしているが、そこで防ぐことが出来ているのが分かる。押し退けようとしているが、わたしだって抵抗するさ。押し退けられないように、わたし自身も押し返していく。…ああ、やっぱり出来るんだなぁ。彼女達と、同じことが。
右手は黒く染まり、異形の爪が伸びている。右足は茶色の毛むくじゃらとなっている。左足は鳥と思わせるような前に三本、後ろに一本伸びた細い指と鋭い爪。その三つの全てを左手で捻り千切る。そして『紅』によって元の右手、右足、左足が生えてくる。
「その体、貴方達にあげますよ。…ま、動かせるかどうかは知らないけど」
そう呟きながら床に転がっている三つのものを見ていると、その中から怨霊が飛び出して何処かへ飛んでいく。残されたものはそのまま変わらずに転がっており、この体から離れたらもう戻らないのか、と思う。
「はぁ、はぁ…。て、手強い…!けど、絶対にさとり様の手を煩わせない」
「知るかよ。怨霊の対処法も出来たし、逃げるのももう面倒だ」
追いかけっこを再開し、三階を駆け巡ってもいい。けれど、もういいや。印象最悪だろうと、わたしは勝ち取ってみせる。たとえ、道を踏み外そうと、掟を破ろうと、禁忌を犯そうと、そんなことはもうどうでもいい。
そう決意したとき、背後に誰かがいる音が聞こえてきた。…冗談でしょう?この距離になるまで、全く気付かなかった…。
「待ってよ、お燐」
「こ、こいし様…?」
こ、いし…?石ころみたいな名前だ。目の前にいるお燐と呼ばれた猫妖怪は、わたしの後ろを見て言っている。後ろにいるこいし様と呼ばれた少女が、わたしの前に歩いて出てきた。普通に歩いているのに、どうしてか気にならない。目の前にいるはずなのに、まるでいないような、そんな空虚な感じ。
「やっと来た、わたしの友達なんだから」
友、達…?もしかして、わたしが?え?ちょっとよく分からない。そんな頓珍漢なことを言った少女が振り向き、わたしと顔を合わせ――、
『およよ?何これ?うわぁ!わたしそっくり!』
『って、動いた!…あれ、生きてるの?そっかぁ、驚いた驚いた』
『え?名前ないの?んー…、簡単に決められないよねー』
『じゃあ、鏡宮!鏡みたいだし、ちょうどいいよね!名前は、また今度ね!』
『…ドッペルゲンガー?ふぅん、貴女ってドッペルゲンガーなんだ!』
『ゲンガー…、げんがぁ…、げん、かぁ…、現、厳、玄、弦…、火、花、佳、華…』
『幻、香…。うん!幻に香る、って書いて
『え?わたし?あー、忘れてた!わたし、こいし!古明地こいし、って言うの!』
『ものを増やせるの?…凄いじゃん!』
『んー、本当に似てるね。まるで複製みたい』
『じゃーん!お姉ちゃん秘蔵の鬼殺し!ささ、呑も呑も!』
『え?あれ?ちょっと幻香?大丈――』
『ここに来るの、何度目だろ?もう、何年もここで遊んでるね』
『え?わたし達、もう友達でしょ?地上の初めての友達!』
『あはは!そっかぁ、幻香も初めてかぁ!わたし、嬉しいなぁ!』
『あ、そうだ!今度、わたしの家に遊びに来てよ!』
『え?場所?…あ、そっか。言ってなかったね』
『ここの下にあるの。じゃ、わたしは待ってるからね!』
…ああ。どうして忘れていたんだろう?どうして思い出せなかったんだろう?彼女との思い出が、記憶が、一度に浮かび上がる。わたしの、起源の記憶。
「久し振り、幻香!こいしだよ!」
「久し振りですね、こいし。幻香です」
あの頃の笑顔そのままの彼女が、わたしにそう言った。