こいしが起きるまでの間、体を一ヶ所ずつ伸ばしていく。音は立てないように、ゆっくりと、少しずつ、確実に。そんなことをしていたら、突然ガチャリと部屋の扉が開いた。
「…さとりさん?」
「幻香さん。少し、話があります。一緒に来てくれますか?」
「はあ、いいですけど」
また思い出せなくなってしまうのか、と考えてしまったけれど、こればっかりはしょうがない。わたしは飽くまで彼女の好意でここにいることを許されているのだから。
けどまあ、少し試しておこう。今はこいしの微かな寝息が聞こえているから、わたしはこいしを認識することが出来ている。きっと、この部屋を出ればその寝息は聞こえなくなり、認識出来なくなって、こいしを思い出せなくなる。少しばかり妖力がもったいないけれど、数分で終わらせればいいかな。
空間把握。妖力を糸のように伸ばし、こいしに触れてその形を把握する。僅かに上下する胸が、呼吸していることを教えてくれる。
「さ、行きましょうか」
「…!え、ええ。そうですね」
何故か頭を押さえているさとりさんを促し、一緒に部屋を出る。こいしのことを思い出せるか、思い出せないか。さて、どうなることやら。
しかし、どうして頭を押さえてるんだろう?…頭痛かな?睡眠不足は頭痛くなるけど。
「しっかりと寝ましたよ」
「あ、そう。ならよかった」
ま、わたしにどうにか出来るようなことではないし、放っておきましょうか。
さて、わたしは寝る前にこいしの部屋に行ってから何をしていた?賭け丁半をしてお互いに語り合った。…うん、まだ覚えてる。
「…貴女は、それが普通なのですか?」
「それ?」
「今、貴女の心を読むとこいしの姿形がハッキリと読めるんです」
「そりゃ、そうしてますから」
そういう風に妖力を使っているんだ。そうなってくれないと困る。
「その情報量が頭を占領していて、どうして普通でいられるんですか?」
「わたしからすれば、人間共の悪意を覗いて普通でいられたほうが凄いですよ」
「…普通でいられたなら、私はここにいませんよ」
「ふぅん、そっか」
さとりさんも地底に逃げた、ということなのだろう。まあ、わたしもそんな感じだから責めることは出来ないね。逃走を恥ずべきことと考えるのは、愚者だけで十分だ。逃げを知らずに死ぬよりも、わたしは逃げて生き延びるほうがいい。生きていれば、次があるのだから。
「ま、その話はいいや。それで、話というのは?」
「まずは、貴女の部屋のことです」
「何処ですか?」
「今、そこへ向かってますよ」
三階の空いている部屋、と言ってくれたのはわたしの頭を過ぎったちょっとした希望を拾ってくれたのだろう。こいしの近くがいいなぁ、なんて思ったことを思い出した。…うん、まだ覚えてる。
さとりさん付いていくと、とある扉の前で止まった。ここかな?
「ええ。何か不備があれば教えてください」
「部屋があれば文句は言うつもりないですけどね」
そう言いながら、部屋の扉を開ける。これはこいしの部屋と同じ大きさかな。置かれているものは机と椅子とベッドと衣装棚だけ。こいしの部屋にあった本棚や箪笥は、こいしが自分で入れた、ということだろう。本棚については書斎があったし、今後に役立ちそうな本があったときに一緒に貰えばいいか。箪笥については、取っておきたいものが増えてきたら何処かから貰おうかな。
「うん、特にないですよ。増やすのは必要になったらでいいですから」
「…そうですか。勝手に別の部屋から持っていかないでくださいね」
「持っていくわけないじゃないですか」
手をヒラヒラと振るうが、何故か疑いの目で見られる。…ま、信用はこれから少しずつ得ることにしよう。
「それで、次の話は?」
「貴女と旧都のことです」
「旧都、ね。出来ることなら、そこにある程度自由に行ければいいんですが」
「それはまだ難しいでしょう」
そりゃそうだよね。何せわたしは地上の妖怪。簡単に受け入れられるとは思っていない。
「今は私のペットが旧都にお触れを広げています。具体的には、貴女を地霊殿で保護することにしたことと、貴女の存在を今後侵入してくる可能性のある地上の者に語ることを禁ずることです」
「貴女は地上から誰か来ると思っているんですね」
「萃香さんは地上へ飛び出してしまいましたし、こいしも地上を何度も出入りしていたようですから。それに、何より貴女が地上から降りてきた。一度あれば、二度目三度目を考えますよ」
「ですよね」
それにしても、わたしの存在を明かしてはならない、か。わたしのとって非常に都合がいいことだけど、これは例外を隠そうということなのかな。規則の例外は、規則を一気に脆くしてしまうから。一度あれば二度目三度目を考える、というやつだ。
「このお触れが旧都全体に浸透するのには時間が掛かるでしょう。どの程度掛かるかは私には分かりませんが、当分旧都へ出ることは推奨しません」
「推奨、ね。勝手に出て行く場合は自己責任、ってことでいいですか?」
「まあ、そういうことです。…そのときは、十分に注意してくださいね」
「はは、そのくらいはしますよ」
今は旧都に用はないから、出て行く予定はないけど。
あ、そうだ。さとりさんに少し訊いておこう。
「緋々色金はありません。残念ですが、そのような希少なものは私の手に渡ったことは一度もありませんから」
「あ、そうですか…。じゃあ代わりに――」
「…それらなら、大半がありますよ。地底の開拓の際にボロボロ産出したものをいただきましたから」
「そっか。それならよかった」
少し効率は落ちるかもしれないけれど、別に構わない。
…さて、こいしのことはまだ覚えている。空間把握でも、こいしを認識出来ているからだろう。これから空間把握の糸を切る。これで思い出せなくなるなら、確定だ。そして、その後で覚えていたならば、空間把握をしてこいしを認識したら思い出すか調べたいところだけど…。
「はぁ…。貴女のその実験に付き合いますよ」
「え、いいんですか?」
「貴女に伝えたいことはもう終わりましたから。それに、貴女がこいしのことを忘れたくない、と思っているのはよく伝わってきましたので」
「そりゃ友達ですから。好きで忘れたい、なぁんて思うわけないでしょう?」
けれど、これは知っておきたい。空間把握一つでその場凌ぎが出来るなら、少しだけ気分が楽になるんだけどなぁ…。そう思いながら、わたしは空間把握の糸を切った。
「…ん?」
今、何かが欠落したような…。思い出せ。何が抜けた?こいしさんの部屋で目が覚めてからすぐに着替えて、『幻』と『紅』の訓練をして、霊夢さん対策をしないといけないと思い返して、秘術の解読をしようと考えて、体をゆっくりと伸ばして、さとりさんに呼ばれて、空間把握をしながら部屋を出て、自分の部屋の場所を教えてもらって、旧都にお触れが出ていることを聞いて、緋々色金の代わりがあることを教えてもらって、空間把握の糸を切った。…うん、覚えている。けど、やっぱりどこか抜けているような…。
「貴女の言う空間把握、というものでこいしの姿形をずっと把握していました。こいしの姿形を認識している間は、こいしのことを覚えていましたよ。ですが、それを止めた途端にご覧の有様ですね」
「…そっか。あーあ、思い出せなくなっちゃったかぁ…」
あと、空間把握の対象ってこいしさんだったんだ。何て言うか、今ここで言われなかったら、そのまま曖昧にぼやけて薄れて忘れてしまいそうな気がした。
「そして、空間把握をしてこいしを今から把握して思い出すか調べるのではないですか?」
「え?…あぁ、そういえばそんなことも考えていたような」
曖昧にぼやけている記憶だ。これも言われなかったら思い出せなかったかもしれない。そうとなれば、空間把握してみましょうか。けど、こいしさんって何処にいるんだろう?地霊殿の何処かにいると思うんだけど、地霊殿全域に妖力を流すと枯渇してしまう。
「おそらく、こいしはまだ寝ています。ですから、こいしの部屋にいますよ」
「そうですか?それじゃ、試してみましょうか」
妖力を糸のように伸ばしていき、こいしさんの部屋に入り込む。そして、そこから妖力を部屋に薄く広げていく。…ふむ、部屋の間取りは記憶の通りかな。そして、ベッドで横になっている人型が一つ。これがこいしさんだろうか?…駄目だ、何も思い出せない。
「ま、そんなに甘くないよねぇ。…って、さとりさん?」
「…あ、いえ、気にしないでください…」
再び頭を押さえている。…確か、さっきも空間把握中のわたしの心を読んで頭を押さえていたよね。こいしさんを把握していたらしいけど。情報量が多いそうだけど、このくらいなら普通じゃないか?これは表面だけで原子全てを把握しているわけじゃないし、幻想郷全域と比べればあまりにも小さいし。
「…これで小さいのですか」
「このくらいなら、部屋を見たときと対して変わらないでしょう?」
「部屋の間取りをいつまでも保持していることは普通ありませんよ…。そのとき心にあるものは、その一部だけですから」
そういうものなのか?…そう言われると、部屋を見渡すときは一つ一つに目を遣っていて、その全ては意識し続けていないような気がする。こんな風に全てを一度に叩き込まれることは情報過多だったんだね。…まあ、きっと形そのものを頭に叩き込むことに慣れていないのだろう。わたしは何度もやってきたからね。
ま、とりあえず空間把握で認識したら、覚え続けることは出来ても思い出すことは出来ない、と。これはやっぱり秘術の解読が必要だなぁ。多分、この秘術の解読の目的は、こいしさんのことを覚えるためだろうから。