東方幻影人   作:藍薔薇

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第268話

そう、楽しかったはずなんだ。…何が?わたしは体術をしていて、それで…、何をしていた?頭の中をひたすら漁り続けていくと、何故か旧都で誰かと一緒になって歩いていることが頭を過ぎる。そこから微かに身に覚えのない記憶が垣間見える。すかさず掴み取れそうな記憶の粒子に手を伸ばすが、すり抜けてそのまま奥底へと消えていく。…もう何もない。何が?何がないんだ?分からない。では、わたしは何が楽しかったんだろうか。分からない。…あれ、楽しかった、のか?わたしは何が楽しかったんだ?…駄目だ、思い出せない。分からない。分からない。分からない。

記憶の穴が激しく自己主張してくる。このままこの穴を意識することがなければ、きっとそれを再び気にすることもなくなるのだろう。それはまるで泡沫の夢のように。

 

「…はぁ」

 

腹の中に何かがあるのを感じる。最近これといって何かを口にした記憶はないのにだ。きっと、わたしはこの穴の開いた記憶の中で何かを食べたのだろう。ほんの僅かに満たされている感じ。空腹なんてずっと感じていないのだけれども、まあ悪くない気分だ。

窓から見える庭を眺め、その先にある旧都まで視線を伸ばす。一瞬だけ何かが引っ掛かるような気がしたけれど、何故だろう。

まあ、いいや。こうして記憶に穴が開いているなら、こいしさんが関わっていることだろうし、嘆いても思い出せないことは分かっている。割り切りたくないけれど、割り切ろう。

 

「…書斎行こ」

 

割り切っても、思い出せなくても、その虚無感をなかったことには出来ない。少し沈む気持ちのまま書斎へと足を伸ばす。途中で誰かとすれ違った気がするけれど、特に呼び止められなかったため、今のわたしにはどうでもいいこととして処理される。

二階の廊下を進み、その一つの扉を開ける。圧迫感すら感じるほどに本棚が立ち並び、ギッチリと本が詰め込まれている部屋に入り、背表紙を流し見る。気になった本を一冊引き抜いて開いてみたら、表紙と中身の時代差を感じた。きっと、後から表紙を装丁したのだろう。

それでも中身はどうにか読めるものだったため、最初から読み始めることにした。意味があるかどうかなんて知らない。いつ使うかなんて知ったことではない。ただ、今はこうして現実から切り離された世界へと没入したかった。そうすれば、この沈む気持ちが薄れる気がしたから。

そんなことをしても何も変わらないことが分かっていても、それでもそうしたかった。

 

 

 

 

 

 

「…最近、幻香さんを見ませんね」

 

仕事の報告を一通り終え、これでとりあえずあたいの仕事が一段落した、と安堵していると、さとり様が小さく呟いた。

 

「まあ、そうですね。かなり前にすれ違って以来、あたいも見かけた覚えがないです」

 

すれ違ったときの表情は、まるで能面のように何も感情を映していなかったのを覚えている。改めて思い返してみると、もう十回以上は寝て起きたというのに、それっきりその姿を見ていない。

 

「お燐。地霊殿だけでいいから幻香さんを探してちょうだい」

「!…分かりました。でも、何故でしょう?」

「一緒に食事でも、と思っただけよ。調理は別の子に頼むつもりだけれど、貴女が調理をしたいと言うのなら私が代わりに探しますが…」

「探すのはあたいに任せて、さとり様は少しでも休んでください」

「そう?…それじゃあ、頼んだわね」

 

頼まれた仕事を熟すために、素早く部屋を出る。とは言っても、何処にいるのかは見当もつかない。匂いを辿ればもしかしたら分かるかもしれないけれど、幻香の匂いはどうしてか少し時間が経つと消えてしまうほどに希薄だ。あの時は、主に焦げた布と血の香りを追ったのだ。

さとり様に休んでほしい、と言ったのは本心だ。さとり様が地上の妖怪を保護した、というお触れは、それはもうすぐさま広がっていた。…ただし、主に悪い方向に。これまで地上から誰か来る、ということはなかった。だが、突然やって来た地上の妖怪が特別扱いとも取れる待遇を受けているという事実に、不満はところどころから湧き出てくる。そして、その対応は今もなお続いている。

聞いた話では、こいし様と一緒に旧都を出歩いていたそうな。こいし様がいる手前、幻香に手出ししなかったそうだけれども、もしも一人で出歩いていたならばどうなっていたことやら。しかし、その心配も必要ないのだろうな、と思った。

その理由は、幻香が持つあまりにも特異な能力。ものを創り出す力。壁だって創れる。板だって創れる。鉄柱だって創れる。ヤマメは炎を噴き出した、と言っていたから、きっと炎だって創れるのだろう。勇儀さんは拳が増えた、と言っていたから、体の一部だって創れるのだろう。

何でもありだ、と思った。そんな能力がありながら、どうして地底に下りてきたのかと思った。ここに来なくても、地上でどうにでも出来ただろうに、と。しかし、そんなものは真正面から否定された。せいぜい選択肢が増える程度だ、と。

けれど、それは持たない者から見ればズレた考えだと思わされる。そんな能力を持っていることが、心底羨ましい。それほどの力があれば、あたいはもっとさとり様の役に立てるのに。

 

「…っと。いけないいけない。嫉妬はパルスィの十八番なのに、あたいがしたら世話ないよ」

 

とりあえず幻香の部屋へ向かい、その扉を開けてみたが誰もいなかった。ざっと見渡してみるけれど、碌に使われた形跡がない。

次にこいし様の部屋へ向かい、扉を軽く叩く。

 

「こいし様」

 

…返事がない。部屋にいないのか、それとも今は眠っていらっしゃるのか。

 

「…開けますよ」

 

一度忠告し、数秒待ってから扉をゆっくりと開ける。ベッドでぐっすりと眠っているこいし様がいて、少し申し訳ない気持ちになる。部屋を見渡しても幻香はいなかったので、ゆっくりと扉を閉めた。

それからは、何となくいそうな部屋をひたすら開けては閉めてを繰り返した。三階は探し終え、二階に下りてからも部屋を回る。さとり様のペットたちは今日も元気そうでよかったけれど、肝心の幻香が見つからない。

 

「うわっ」

 

書斎の扉を開けると、一つの本棚の半分ほどがゴッソリと抜かれていた。埃っぽい臭いが鼻につき、思わず顔をしかめてしまう。それよりも、そこにあるはずの本は何処に…?

部屋に足を踏み入れると、その答えはすぐそばにあった。扉の前からはちょうど死角になっている場所に、本の山が出来ていたのだから。そして、その本の山からは真っ赤な頭が覗いている。

 

「そこにいたのかい」

「…ああ、お燐さんですか。何か用ですか?」

 

パタリと本を閉じてあたいを見上げる幻香は、淡々とした口調でそう言った。

 

「さとり様が一緒に食事をしたいっておっしゃったから、わざわざ呼びに来たのさ」

「食事、ですか?…別に構いませんが、何処でするんでしょう?」

「一階に食堂があるから、本を片付けたら行ってよね」

「分かりました。…いい加減現実を見なきゃいけない時間ですよねぇ」

 

奇妙なことを言いながら立ち上がり、大きく伸びをした幻香は、本の山を片付けていく。ふと、その右手首に紐が巻き付いているのが目に付いた。前に見たときは身に付けていなかった覚えがある。装飾にしては飾り気がなく、意図が全く掴めない。

 

「ところで、こんなに本を読んで何か探してたのかい?」

「…まあ、探し物といえば探し物かな。何でもいいから切っ掛けを」

「切っ掛け?」

「まあ、幾つか浮かんでもすぐに違う、って分かっちゃったけど」

 

寂しそうにそう言うと、既に本の山は本棚に全て戻されていた。一瞬、勝手に本を片付けるものを創れば、なんて考えたけれど、止めた。こうして自分で片付けているのなら、創れないのだろう。確かに万能ではないらしい。

 

「それじゃあ、わたしは食堂に行ってきますね」

 

そんなことを考えていると、幻香は部屋から出て行った。

 

「…ふぅ」

 

幻香が出て行ってから数秒経ち、息を吐く。…どうにか嫉妬紛いの言葉を吐かずに済んだ。そう思いながら幻香が片付けた本棚を見ると、それはもう綺麗に敷き詰められていた。それは見覚えがある気がする並び方をしていて、おそらく山にする前と同じ並びに戻したんだろう、と思う。

そういう小さなところでも持っている者と持っていない者の差が垣間見え、また少しだけ嫉妬してしまう。

 


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