言われた通り記憶にある本の並びのまま本棚に戻しながら、一体どのくらい時間が経ったのだろうか、と考える。休み休みとはいえこれだけ本を読み続けていたのだから、一週間くらいは時間が経っているのだろう。しかし、地底には昼夜が存在しないから日付の感覚が狂う。もしかしたらもっと短いかもしれないし、もっと長いかもしれない。けど、それを知る術は簡単ではない。
まあ、朝に起床夜に睡眠、という地上の基本的生活からは切り離して考えないと、地底では生き苦しいだろうなぁ。こんなところで月の都での潜入生活が役立つとは思っていなかった。
「それじゃあ、わたしは食堂に行ってきますね」
ストン、と最後の本を仕舞い終えてすぐに返事も聞かずサッサと書斎から出る。
廊下を歩きながら、お燐さんのことを思い返す。何て言ったらいいんだろう。顔色というか、声色というか、目付きというか、雰囲気というか、そんなところから内側に渦巻く嫉妬をまざまざと感じた。嫉妬するのは貴女の勝手でわたしがどうこう言えるものではないし、わたしの何に嫉妬しているのかなんて正直どうでもいいけれど、わたし自身に直接的、もしくは間接的に危害を加えてこないことを願う。
「それにしても、食堂って何処だろう…」
それよりも、一階の何処に食堂があるかだ。…まあ、一階ってそれなりに広いけれど、それだけ分かればどうとでもなるか。
それにしても、さとりさんと一緒に食事ねぇ。理由もなしにそんなことをするとは思えないけれど、何かしたっけ?…ま、それは行ってみれば分かるか。
「お、ここか」
「お待ちしていましたよ、幻香さん」
幾つかの部屋を回り、ようやくそれらしい部屋があったと思ったら、既にさとりさんが座って待っていた。丁寧に磨かれた大理石の机に、いくつもの細部まで装飾が施された椅子が並べられている。
「さ、好きなところに座ってください」
「好きなところ、ですか」
正直、何処でもいい。けれど、遠過ぎるのもどうかと思うからさとりさんの正面に腰を下ろすことにした。そうしている間に、見覚えのない犬妖怪に何か指示を出していた。きっと食事を出すように言っているのだろう。
「わたしをこうして呼んだのは、何か理由がありますか?」
「ええ、もちろんあります」
犬妖怪が部屋を出てから、わたしはここに来るまでに考えていたことを口にした。その答えは、まあ予想通り。
「ですが、先に食事を楽しみましょうか」
そうさとりさんが言うと、部屋に入ってきた二人の獅子妖怪が一升瓶と小さな杯を持ってくる。いそいそと瓶を開け、とくとくと注いでいるさとりさん。僅かに漂う酒独特の香り。わたしの前にも当然のように置かれ、思わず手が止まる。…どうしよう、呑みたくないんだけど。
「…お酒は苦手でしたか?」
「はは、実は…。呑んだことはないんですが、どうにも呑みたくないんですよね」
ただの呑まず嫌いなんだけど。
「無理に呑まなくても構いませんよ。私は呑みますが」
とても美味しそうに飲み干し、僅かに頬を赤くしている。百薬の長とも百毒の長とも言われるお酒。皆して美味しそうに呑んでるけれど、わたしはどうしても、ね。呑んだらどうなるか分からないものを、好き好んで呑もうとは思えない。
封を開けずに横に置いておき、食事が来るまで自分に流れる妖力量を確認して暇を潰す。…んー、七割くらいかな。まだ短いとはいえ、フェムトファイバーを創った分も考えれば妥当な量だ。
「…すみませんが、フェムトファイバー、とはどのようなものでしょう?」
「月の技術ですよ。便利そうだから創れるように努力した紐。繊維の集合体の集合体の集合体の繰り返しで、理論上不変だそうです」
「そのようなものが貴女の右手首にあるんですね」
「こんな長さじゃあ実用性はほぼ皆無ですが」
右手首に巻かれたフェムトファイバーを眺めながら、自嘲気味に呟く。まあ、妖力枯渇対策くらいにはなるかな。
そんなことを話していたら、続々と様々な妖怪達が料理の皿を持って部屋に入ってくる。山のように盛られた玄米が塩や酢などの調味料と共に置かれ、具材の全くない黒っぽい汁物が置かれ、豪快に焼かれたであろう名前も知らない魚が置かれ、野菜と茸のごった煮が置かれ、おそらく兎であろう丸焼きが置かれ、見たことのない果実らしきものが置かれた。
「さ、食べましょう」
「え、あ、いただきます」
…え、こんなに食べるの?本当に?どれもこれも器がやけに大きいし、それに比例して量も多いんだけど。わたしが魔法の森で料理らしきものを食べていた頃を思い出すけれど、一度にこんなに食べたことはない。
「食べますよ。…食べれないのですか?」
「いや…、食べれなくはないですけれど…」
まあ、いいや。今はさとりさんが提案した通り、食事を楽しむとしましょう。
汁物は茸で出汁を取っているらしいけれど、玄米にかけるためのものだろう塩を一撮み加える。魚を口にして何も味付けされていないことに驚き、塩を魚に少し振りかける。野菜と茸のごった煮も同様に何も味付けされていなかったので、塩と酢を少々加えておく。兎だろうと予想した丸焼きの正体は予想通り兎肉だったけれど、やっぱりこれもそのまま焼いたものらしかったので、塩を振りかけることにした。…何だこれ。
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ、大丈夫ですよ。調味料の大切さを実感しているだけですから」
…うん、だいぶよくなった。塩気って偉大。濃いと水分が持ってかれる感じに加えて舌が痛くなるけれど、ほんの少し加えるだけで味は大分変わるものだ。
「それにしても、この兎は何処から得たんですか?」
「これは私のペットからですよ」
「え?」
ペットから?…えぇと、もしかして食用として飼われているのかな?
「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ、彼らの祖先にあたる個体との契約によって、私達は彼らの命を貰っています」
「契約、ですか」
「ええ。種ごとに異なる契約をしています。この兎は、産まれた個体の中の六割から選ばれた命です」
「…つまり、ここの兎は四割しか生き残ることが出来ない、と」
「そうなりますね。ですが、彼らは納得しています。ここで私の元で生きていかずにいたならば、生存率は一分もなかったでしょう。ですが、六割献上すれば四割も生き残れる。…そう判断したのは、彼らです。…幻香さん。貴女は、そう判断した彼らをどう思いますか?」
「知りませんよ、そんなの。個の生存としては生贄として産まれる個体がいて失敗でしょうが、種の生存としては大成功でしょうね。実際、今も百を超える数が生きている」
この個体は、こうして死ぬために生まれたことを、残り四割のために命を投げ出すことを、納得していただろうか?そう思いながら、目の前の兎の丸焼きを口にする。…ま、そんなことはわたしの知ったことではないけれど。彼らが死のうが死ぬまいが、わたしに大きな変化を与えることはないだろうから。
「まあ、稀に個が強い個体が出て来ます。そういった個体は妖怪となって私に従事してくれますよ」
「あの料理を運んできた妖怪達のように?」
「ええ。…まあ、ほとんど放し飼いですが」
「あれだけの数をまとめるのは苦労しますよ、きっと」
咲夜さんは紅魔館で仕事をしている百を超える妖精メイドさん達をまとめることが出来ていなかったし。
そんなことを話していたら、もうほとんど食べ尽くしていた。…うん、お腹いっぱい。やっぱり、飢えないから食べない、っていうのはよくないね。たとえ必要なくても、食は失わないほうがいい。
「…さて、お互いほとんど食べ終わったところですし、先延ばしにした用件を言いましょうか」
「何でしょう?」
「単純に言えば、貴女に頼みたいことがあります」
「へえ、頼み事ですか。…それで、わたしは何をすればいいのでしょう?」
そう言って、さとりさんの次の言葉を残っている果実を口にしながら待つ。
「先日私が言ったことを撤回し、旧都へ行って来てくれますか?」